はてなキーワード: いかすとは
まとめサイト経由でなんJ?から怪文書が伝わってきたが、個人的に納得できない部分があってのでつっこみを入れて行こうとおもう。なお、なろう専用ルールではなく俺が好みのフィクション全般としてのルールを意識した。
なろう作者が読者に読んでもらえるように気を付けてる事がこれ
・序盤はテンポよく進めろ
・主人公は惚れる側ではなく惚れられる側
・方向性を決めて読者にその魅力をアピールしろ(読者を惑わすのはNG)
・現実の固有名詞を使うのは極力避け、実際の事件や事故をネタにしてはならない
・独自の固有名詞や用語を連発するな(ファルシのルシがコクーンでパージ等)
・パロネタをやるな
・導入は出来る限り短くしてさっさとキャラを動かせ
評価〇△
いや最初期はなくていい、開始5分?10分?15分?以内に主人公は「仮の」目的と、「大まかな」設定をみつけろ。ミステリー・サスペンス・スリラーならアクション作品より曖昧でいいが、でも方向性は提示しろ。そしてストーリーが進むと共により鮮明になる形になるのがいい。逆にこの作品はどうしたいんだ?どこに向かってんだ?みたいなのはちょっと嫌
□序盤はテンポよく進めろ
評価△
物語の序盤の流れは重要だ。するする進むストーリーも快感だが、2,3話かけて徐々に話を盛り上げてくるメイドインアビスみたいな話作りもありだ。
でも主人公に設定を語らせるな。昔の下手くそなチュートリアルみたいに設定を長々語らせたり、
評価 ◎
スーターウォーズー程度の設定文章詰め込みは我慢してやるけど、全部をまとめて流し込もうとするな。分割しろ。提示方法を考えろ。
最近のゲームのチュートリアルで考えろ。30分間手をマウス/パッドから手を放した状態で設定垂れ流しを'受講'したいか?JRPG始めて、最初の戦闘まで30分かかりたいか?
評価△
そりゃ読者は主人公の活躍を求めている。ただし活躍の定義=常に大成功や努力無き大勝利、つまり楽勝ではなく積極的に動く事。活動性、積極性。失敗してもいい。間違えをしてもいい。途中まで地に服していい。
活動的な失敗の方が動きがない事よりいい。と思ったけど状況にもよるか。昔の漫画の馬鹿主人公の漫画のあまりに何も考えていない猪突猛進ぶりもそれはそれできついか。
「危機的状況だぞ。どうするんだ?」
「どうにかする」
「考えはあるのか?」
「その場その場で考える」
「・・・・」
みたいなね
□主人公は惚れる側ではなく惚れられる側
評価✘
いや惚れる側がいい。惚れるが最初は感情が届かなく一方的、時間をかけて徐々に勝ち取るのがいい。
そもそも量産型なろうアニメは恋愛要素ない奴の方が多い事から、やっぱりこの一二箇条は根拠ないでっち上げじゃないのか。
評価◎
能動的な主人公の方が見ていて楽しい。でも受動的な主人公を相方がサポートするとか、もしくは受動的な主人公が激動の人生を流されているが、途中から自分で歩み出すのもいいか。
□現実の固有名詞を使うのは極力避け、実際の事件や事故をネタにしてはならない
評価✘
いや別にいいよ。ただ、歴史上の英傑オールスターズが一同に会してアリーナでトーナメントは無制限の厨二病すぎて個人的に無理。例えば終末のワルキューレやFateや文豪ストレイドッグス。
厨二病濃度を加減し、調整し、洗練させて欲しい。スプリガン、屍者の帝国、啄木鳥探偵處とかならあり
というか、現実の事件うんぬんするなは完全に噓だな。だって織田のっぶーやジャンヌダルク、サスケ、ヒットラー、ホームズ・森アティ等、パロでぃ孔明、銀河英雄曹操伝などの歴史上の人物をベースにファンタジー要素や創作でふくらませて話作りまくってるし。
え、もしかして「別世界に現世の言葉を持ち込むなってリアリティライン/フィクションとしての統合性の話?」それは説明の仕方がずれすぎてない?
□独自の固有名詞や用語を連発するな(ファルシのルシがコクーンでパージ等)
評価✘
程ほどにオリジナリティある用語は入れて欲しい。あと、なろうやラノベのキャラの名前はつまらん。厨二病のナス先生や虚淵みたいな方が面白い名前を考える。ただし上で述べたように、徐々に覚えるようにしてほしい。1話で別世界ジャーゴンを20個とか垂れ流しされたくない
□パロネタをやるな
評価✘△
使い方次第。センス次第。ぽんのみちのパロは寒かったが、ごちゅうもんは鰻ですかは許容範囲だった。つまらんけど。あと作品性とリアリティラインは意識して個々に調整して欲しい。
□導入は出来る限り短くしてさっさとキャラを動かせ
評価✘
なろうの超ダイジェスト構成は下品で大嫌い。ただ早くすればいいというものじゃない。5分で死んでチートスキル貰って、復活するとか味気なくて酷すぎる。キャラのバックグラウンドは大切にするべきだし、その設定は後々まで何度でも展開や設定に積極的に絡ませていかすべき。
メイドインアビスや無職転生、すかすか、ガルパン、僕だけがいない街、カバネリ、ナウシカとかは良い塩梅だった気がする。
□読者は複雑な設定や重厚なストーリーより魅力的なキャラクターを求めている
評価✘✘
キャラを魅力的にすれば簡単に作品の見栄えがよくなるけど、それは他の事をおざなりにしている言い訳のように感じる。
もっと複雑な設定や重厚なストーリーに力を入れて欲しい。ただし、それをマシンガンみたいに口の中に叩きこむのではなく、【程よく】、【程よく】切り分け咀嚼し、食べれるサイズや柔らかさにする必要があるし、12話でできる事できない事、魅せる事魅せれない事は意識して欲しい。
田舎が糞になったのは都会人のせい
田舎が糞になったのは都会人のせいだ。私は田舎に先祖代々にわたり1000年住み続けた田舎人だ。はっきり言わせてもらう。田舎が糞になったのは都会人のせいだ。さらに言うなら東京人のせいだ。まずお前ら東京人は日本の制度を自由に使う割りにアベノミクスぐらいまでろくに田舎に還元しようとしてこなかった、毎年田舎で生まれた優秀な人間は大学に行き、帰ってこようとするものもいるがそもそも仕事がなく、田舎に戻ろうとすると医師か公務員ぐらいしかまともな仕事がなくなっている。割りのいい仕事を独占するお前ら東京在住の財閥系、国家系企業が田舎にポジションを用意しないためだ。この傾向は小泉辺りからひどくなった。そのひどい状況を三十年続けるとどうなるか?まともな層は東京に出ていき、田舎は人への攻撃とオナニーぐらいしか趣味のないかすが残る。これがお前がみた田舎だ。お前が糞な目にあったのはお前らが原因なのだ。つまり因果応報。お前は自分達のしてきた業を背負っていなかで果ててくれ。
「女性スペース守れ」有志デモに罵声(新宿)ってニュースを見た。トランスジェンダーの人が戸籍上の性別変更をするのに性転換手術が必要とされている現行の法制度が適切か、最高裁でいま検討されいているという話もあったが、これらの件で面倒なのは、両者が「人権」「ジェンダーフリー」そして「社会的弱者」というよく似た基盤をもちながら、対立の構図を生み出している点だ。
デモは杉並区を拠点に活動する「女性と子どもの権利を考えまちづくりにいかす杉並の会」が主催した。
(中略)参加した約20人の女性らはプラカードを手に、「男女以外の性別はない」「女性スペースに身体男性は入るな」「女らしさ、男らしさから自由になろう」と訴えながら、新宿駅周辺の車道を練り歩いた。
だが、こうした参加者の訴えをかき消すような怒声も飛び交った。
参加者を上回る数の抗議者らが、レインボカラーの旗や「トランスジェンダーの権利は〝人権〟」「ヘイトスピーチ、許さない」と書いた紙やフラッグを掲げ、歩道からデモの参加者の顔を撮影したり、「トランス差別をやめろ」と声を張り上げたりした。(同ニュースより。魚拓ははじかれたのでリンクナシすまん)
コレたぶん、多くの人(特に男性)の印象は「どっちにも加担したくないなあ」だろうと思う。それは、彼らの価値観に親和的でないからではなく、むしろ親和性が高いほど問題で、それは両者にとっても社会全体にとっても一番マズい結果にしかならんと思う。
たとえば信頼してる気の合う知人が2人いたとして、どんないい人らであっても、彼らが喧嘩はじめたら両者から距離を置くくらしか現実的には対処できなさそう、みたいな感じ。リベラル寄りの政治・社会運動が失速するのって大体コレで、逆に言えばリベラル寄りの運動を失速させたいときの定番は、そういう「分裂の楔」を見つけて提供することなんだよね。で、現状この対立はまさに「人権」「ジェンダーフリー」「社会的弱者」立場の運動における「分裂の楔」になってる。そして、その「楔」にたくさんの人が踊らされている。
立場を同じくするなら、本来「手を取り合って解決する」道はあるはずなんだよ。たとえば、トイレの種類を増やす、風呂についてはもう全員水着着用を必須とする、とか。そう、一部の人でなく社会全体が薄く広くダメージを被る形での解決を目指すのが本道なんだが、それをするためには社会全体の納得が必要で、現状それが追い付いていない。この問題がいかに厄介か、少数の人がいかに苦しんでいるか、それを目指すことが社会全体にとっても結局はどのくらい価値があるか。多くの人がピンとはきてないんじゃないか。
たとえば障碍のある人への社会的な対応は、この数十年で相当進歩したけれど、それは問題に直接かかわっていない多くの人々への粘り強い社会的教育とセットになっていて、そして、それら抜きでは実現しなかった。点字舗道、音声信号、駅などのエレベータ、スロープの設置……今では当たり前なそれらの風景は、この数十年でまさに「社会全体の合意を得た上で広く浅くコストを負う形で」実現したものだ。だがもし、当事者たちが「分断の楔」に足を取られていがみ合っていたら、絶対に実現しなかっただろう。
だから、
抗議者「(デモに)参加した女性の顔写真をさらす」「トランス差別をやめろ」=攻撃とレッテル貼り
デモ側「男女以外の性別はない」「ヘイトスピーチと批判される意味が分からない」=言うこと言っておいて知らん振り
……なんていう、無自覚でも意図的でもお互いに対する攻撃は何も生まなくて、落ち着いて話し合いと協力を目指すのが唯一正解への道だと思うし、その際には、いかにして多数の人に訴えを届けるかについて方策を練った方がよいと思う。
たとえば(くだらないたとえ話だが)、「風呂場に『身体男性』の人がいることで受ける恐怖」を理解させるためには、「風呂場に『身体女性』の人がいて情欲を感じないと断言できるか」と考えさせてみるのもいいかもしれない。それに対する答えはもちろん多様でありうるだろう(「すでにゲイの男性が入っていることは避けられない」「自分は情欲を感じない」から「むしろ自分が気恥ずかしい(のでやめてほしい)」に至るまで)が、そういう議論が男性の間で起こっていない時点で、この問題はまだ社会全体で共有できていないということなのだ。ぶっちゃけ男性同士がこの問題を上記のような観点で議論しているのを見たことがない。
……と言うと、「その程度の想像力がないのか!これだから男性は…」とか毎度毎度のように絶望しはじめる人もいるかもしれないが、当事者でない限り人間にそうそう便利な「想像力」が発揮できるわけない、ということすら毎度毎度想像できないならそんなこと言わない方がいいと思う(つまり、馬鹿に馬鹿と言っても無駄だと気付けないのは十分馬鹿だ、ということ)。そうやって味方同士刺しあうより、手を取り合う方法を検討した方がよい、というのがこの書き込みの趣旨だ。上で見たように、わずか一つの「楔」が運動全体を崩壊させるのならば、逆にそれを打ち消す「絆」を実現するのも、意外とちょっとしたアイデアや行動であったりするかもしれない。それはそんなに難しいことじゃないかもしれないのだ。
シャー芯とシャーペン、鉄砲弾と拳銃、フィルムとカメラ。「本体」は前者で、「消耗品/付属品」は後者に見える。
シャー芯は言わずもがな、単体でもつまめば文字は書ける。弾だって筒に入れてトンカチで叩けば撃てる(らしい?)。フィルムだって最悪専用のカメラがなくても映像を焼き付ける事は出来る。
逆に「本体」だけあっても目的は全く果たされず、ただの文鎮と化す。「本体」だと思われがちなものは、むしろ最終的な目的に向けた補助器具でしかなかったりもする。
シャーペンがなくてもシャー芯で文字は書ける。(専用の)銃がなくたって銃弾は飛ぶ。
だったら肝心要なというか、最終的な機能に作用する部分を「本体」と呼んだって良いんじゃないかすら思う。
でもそれらは使い捨てであったり操作する手元から離れた所にあったりで、どこか軽んじられてる節があるかもしれない。身体の拡張が云々とか、そういう話をしてる哲学で既に言及されてたりするんだろうか。
得てして補助器具に過ぎない「本体」の方に心血が注がれる事も少なくない。
高いカメラを買い漁る人は珍しくもないけれど、本体もそこそこにフィルムの性能に対して徹底的なこだわりを見せるという人はお目にかかったことがない。
このボールペンは良いですよ。書き心地が実に素晴らしい。
なんて高価な文具のセールストークがあったとして、おれは少し違和感を抱く。
確かに操作性、握り心地というのは無視出来ない。無視できないが、ペン先の引っかかりやインクのノリいった筆記具としての重大要素は消耗品である軸が担っている。
軸は消耗品、ある意味独立した存在であって、本体の魅力の説明に含むのには少々違和感がある。汎用の軸でどのボールペンにも適合するというのなら尚更だ。
こういうのってなんか不思議というか、面白いなって思う。別にあってもなくてもいいようなブルシットジョブの方が実入りは良くて、いわゆるエッセンシャルワークの方が無きものにされがちみたいな話とちょっと似てるかもしれないなって思う。なくても困らないにしたって、あった方が心は豊かになるかもしれんしね。ならないかもしれんけど。
高校2年生は鬱病が酷く、引き取られた祖父母の家で1日中寝ている生活
担任の教師のお情けで3年制に進級はでき、なんとか登校できるまで回復したが、もとから落ちこぼれ気味だったのもあり、勉強は全くついていけず
療養&浪人で3年間浪費し、21で大学入学するも、その年に中退
鬱病の症状が改善しないので、主治医から電気けいれん療法(全身麻酔をして、脳に電極刺して電気を流す治療)を勧められ、受けるものの記憶力、思考力が落ちるだけで鬱病の改善はせず
なんとか就労するものの、1社目は仕事ができなさすぎて1年ちょっとでクビ(遠回しに退職しないかと打診された)になる
今も辛うじて2社目で会社勤めをしているものの、仕事ができない無能の自覚はある
薬を変えたり、朝日を浴びたり、運動をしてみたり、電気けいれん療法を試してみたりと色々改善できないか試したが、全く実らず
人生の半分以上を鬱病の症状に苦しみながら生きてきたが、まったく良くなる気配が感じられない
元々突発的な希死念慮はあったが、今は「この先良くならないなら今死んでしまったほうが楽ではないか」という考えに取り憑かれている
自分が異常である自覚はあるものの、異常であるという自覚がある故に自分の判断に自信も持てなくなってしまった
昔は「普通の幸せな家庭を築く」という憧れがあったような気はするが、今は叶わないことも理解している
今後、どうしたいか・どうなりたいかすら思い浮かばないが、何らかの救いを求めてここに書きなぐっている
この文章を読んで「こんな奴もいるんだな、こいつよりはマシだな」と誰かの救いになることを願っている
いつからか人目が怖くて 外に出るととにかく不安で 車が突っ込んでくるのでは 自分の顔 メイク 服装 持ち物が変ではないかすごく気になって 徒歩3分のコンビニに行くのすら諦めるレベルだった
多分自分は発達障害なのか 忘れ物がものすごく多く(親も発達に難あり系なので用意もしてくれなかった) その度に色んな教科の先生にコテンパンに叱られ 人間が怖くなる
中学時代は他人の気持ちが読めず 神経を逆撫でし 人に嫌われまくり友達が激減する
高校時代 制服を着て歩いているだけなのに男性に卑猥な声掛けをされる
最寄り駅は繁華街なので一日に一回は必ず 朝早くても夕方でも時間関係なく さらに人間が怖くなり高校を中退する
そこからは 調子のいい時働いてすぐ辞めてを繰り返して今まで生きてきた
ステイホームだから 引きこもってた すると人目が怖いのが再発
ネットで通院できる病院でカウンセリング受け 今の症状を伝える
社交不安ですねと 薬を郵送で受け取り 毎日1錠 祈るように飲み続けている
1番酷い時だと徒歩3分のスーパーへ行くのに ドアの前で飛び出しそうなぐらい暴れる心臓が落ち着くのを待ち 手の震えをごまかして 逃げるように買い物をしていた
昔 車の接触事故を起こし 相手から怒鳴られたのがトラウマなのか 運転しようとすると 手汗 手の震え 心臓のドキドキ 過集中(会話が聞こえなくなる?成り立たなくなる)が出てしまい運転を控えていたのですが
現在投薬半年 今日 運転をしてスーパーへ買い物へ行くという 普通の主婦なら当たり前の事だけど
この社交不安に悩んで17年 17年前の自分に精神科へ行くように助言してあげたかった
もっとたくさん外に出られる生活で過剰に不安を感じないようになっていたら 高校も中退しなくて済んだかもしれない