はてなキーワード: 棲み分けとは
の2つです。
原則2に反します。この発想だと、永久にルールは進歩しません。
原則1に反します。ゆっくり行きたい人、急ぎたい人がそれぞれの希望を叶えられるべきです。
横をすり抜けられると危険な人は、エスカレーターの真ん中に立ち、進路を防げばいいのです。
追い越しが嫌な人は、追い越されない権利があっていい。
追い越されても問題のない人と追い越したい人が、最適な棲み分けにいちゃもんをつけられるのがおかしい、という議論です。
原則1に反します。目指しているのは「ライフハックが最強」な社会ではありません。「俺はタイムマネジメントできるから、歩かなくてもいいんだぜ」と自慢したかったんでしょうか。
チョンマゲ(略)
原則1に反します。多様なニーズを満たすには工夫が必要であり、それが進歩を生みます
たぶんそうです。
増田です。
市之倉さかづき美術館に行ってまいりましたわ。
市之倉は盃が特産品なのですわ。
多数展示されていますの。
重輔銘のアサガオを連想させる形と色合いの盃は注ぐ液体のpHで
色が変わりそうな気がしました。
有田焼のエビ柄の盃は、イカ娘さんにプレゼントしたいでゲソわ。
特別な区画で紹介されている加藤五輔さまの(本名:五助)の説明文に
わたくし言葉がありませんでしたわ。
江戸時代生まれの方ですし、たんなる表記のぶれではありませんの?
加藤五輔(本名:五助)さまの経歴が、銅賞や三等ばかり取られていて、
書かれているのは最高でも二等であることも印象的でした。
切ないですわ。
イランの酒器が多いのは、イラン陶器の復元を研究されていた加藤卓男さまの縁でしょうね。
中国戦国時代の鳥尊という酒器の表面にはびっしり文様が描かれていて、
よくみると「雷文」も確認できました。紀元前三世紀にはすでに雷文があったのですわね。
あと「可盃」は、はてなのみなさんに顰蹙を買いそうですわ。
これは器に最初から穴があいていて、指で穴を押さえてお酒を注いでもらい、
そのままでは机に置けないので必ず飲み干さなければいけないという
代物ですの。
それはともかく、小さな焼き物ですからこそ、職人が技術の粋をこらした
姿に感心することができましたの。
二次創作の多くが本ではなく、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)で、わざわざタグ付けだの棲み分けだのをうるさく自主規制しているのは「そのソシエティ」にいる「同好の士」だけにあてたラブレターという使い方だから。だれもベストセラーになりたい金儲けがしたいとおもって二次創作なんかしてないんだよ。同好の士が増えてくれたらいいとはおもってるけど。
そういう使い方を黙認してただけのピクシブだから、一ツ橋大学と同様にうちには責任ありません、原告にもなりませんというのが一番簡単な対処法ではあるね。
被害者泣き寝入り。ただし、引用ネタハンティングの場になったらマストドンに大量移住するだけ。
大体法的にはそういう流れとされてるんだろうけど。
法律には金目当て・名声目当てとコミュニケーション目当ての区別がつかないから
いちいち著作権が読めないやつにこうやって説得してまわらなければならない。
出版社やピクシブが司法に渡り合う力を持っていなければならない。
ピクシブがんばれ。法律を誤読した引用万能論者なんぞにまけるな。
さもなくば1編ずつ自分の作品を人質として提出しなければいけないマストドンとか非常に面倒な秘密結社をつくらなければ「非公表」コミュニケーションが成り立たなくなる。
なんだこりゃ。禁酒法か。
Twitterはあまりにも人が増えすぎて交わってはいけない人間同士が衝突して事故を起こすような事例があまりにも多くなってしまっているから
そろそろみんなマストドンのインスタンスに散らばって引きこもった方がお互いにとって良いのかもしれないと思ったけれど
そういう風に棲み分けたところで意図的に衝突事故を起こして楽しむようなアジテーターが火種を投げ込んでくるんだろうし
もうだめなのかも
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
目次 [非表示]
1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
オチが悪くて「本当にあれを女性に使わせる気なの?」というマジレスが殺到してしまった訳で、作者と編集部のギルティーは明白なわけだけどさぁ。
正式採用したっぽく演出したのが悪い訳ではなく、セクシャルハラスメントだから悪いんだが何かずれてないか。政治家の言い訳みたい。
男子トイレにATMマーク、じゃ半分も再現できてないな。トイレに行くたび「お前たちは性欲の対象としての存在価値しかない」と意識させるようなマークを "誰も傷つけてない" とみる人に、ひどさをどう伝えたものか。
セクハラって何だよ。当事者って何だよ。結局あれは一時的なネタマークで、実際にあの女子トイレを使わされた女性がいたわけじゃなかったんだからそれでいいだろう。
あのなぁ、アホな男が女子トイレをムフフとした気持ちで妄想したこと自体を咎めるなよ。あの表現は人を傷つけたのだから取り下げてしかるべきみたいに言うなよ。それは無敵すぎるだろうが。
あれを気持ち悪いとか侮辱的だと感じる人が出てくるのは仕方がないんだけど、申し訳ないがそういう人は回れ右してお帰り下さい。ごめんね、少年ジャンプ+ってそういう場所だから。君らに向けて書いた作品じゃないんだ。
こういうことをmastodonでtootせずに増田で書くというのもmastodonに対する距離感が出てるようで何なのだけど。
mastodonがそのまんまTwitterに取って代わる未来というのは「ちょっとないなあ」と思う。
その一方で、これが3年後に「あれ、なんだったんだろ?」みたいに消えてしまう未来も考えにくい。
じゃあどうなるのか。上記2つも含めて複数の予想。
A. Twitterの没落で、その後をmastodonが占める。
技術系とエロ系の人々がmastodonに流れる。両方兼ねてるひと?
C. 発展的解消。
「え、まだmastodon?」みたいに。
ブラウザの変遷とか、そんな感じかな。システムとアプリではだいぶ違うけど。
この場合、GNU socialのプロトコルが生き残るのかな。
Cに似てるけど、既存のSNSを超えてもっと完全にちがったコミュニケーションツールが現れる。そのベース技術となって、mastodonそのものは消滅。
E. 一時の流行
セカンドライフみたいに一気に盛り上がって、そのまましぼむ。
ま、そういう例は少なくないので。
さて、どうなるんだろ。
現実は、常に予想を超えるんだけど。
うまく説明できないけど。
前者の言う本は知識を得るためのツールで、それは仕事で使う参考書や自己啓発本の類。あるいは、読んでいることがステータスになる本。
本とは情報をインプットするためのもので、入手が簡単でアーカイブ性が高い方が使い勝手がいいから電子書籍を好む。
後者の言う本はアート体験。映画好きが映画館のポップコーンの匂いをひっくるめて映画を楽しむように、書店で本を選ぶ手間暇と装丁や紙の手触りをひっくるめて本だと思っている。
私は「紙の本」原理主義者で、だからはてブに上がってくる電子書籍万歳エントリーにいまいちピンとこないし、
電子書籍至上主義者も紙の本の「良さ」を熱弁されたところで頭に?が浮かぶだけだろう。
結局、何が言いたいのか自分でもよくわからないのだけれど、電子書籍の普及で紙の本が衰退することはあっても完全に代替されることはなくて棲み分けが進むだけかなみたいな、ふわっとした話。
少し思うところがあって書く。
不快にさせたらごめんなさい。
何もかも自分に置き換えて考えてしまう性質があるから、ファンもアンチも同人も怖いと思う部分がある。
もし自分が作家だったとして、自分のキャラクターが本来でない同異性愛者にされていたり、全く考えもしていなかった設定にされていたり、貶されていたり、過剰に妄信されていたり、まるで別人のように描かれていたりしたら、かなり嫌だし、CPの解釈違いによるファン同士の罵り合いなんてとてもじゃないけど見ていられない(だってそもそも誰も同性愛者でない場合が殆どだ)。みんな好きには色々あるし、自分にも理解出来ない解釈やCPはあるけど、そもそもその作品は作者のもので我々のものではないし、つまり何と言うかもっとキャラクターと作品を大切にして欲しいと思う。愛故にとか、言い分は色々あるだろうけど、キャラクターはその作品を支える大切な存在で、読者の玩具ではないのだ。
あと思うのが、最近見かける同人作家さんはなぜそんな堂々としているのかということ。同人活動してるアカウントが公式のツイートをRTするなんて信じられない。棲み分けが出来てないどころか、公式にも自分たちにも配慮が出来てない。自分のことしか考えていないんだろうなと思う。
どうしても吐き出したくて書きました。自分も二次は好きだし生産はしませんが見ることもあります。ただその作品やキャラクターをまるで自分のもののように扱う人たちを見ていてモヤっとするのです。
近頃、一部の夢小説界隈がざわついている。
ことの発端は「腐女子こそ夢小説を書くべき論」という投稿なので、読んだことがない人はご一読をお勧めする。端々に攻撃的な言い方がされているが意図的だろう。
この記事への反応は「わかる」から「わからない」まで様々だが、筆者が気になった反応のひとつに「腐向けと夢界隈は結局相入れないんだから棲み分けるのが大切だよね!」というものがあった。
腐向けと夢界隈は棲みわけられるのだろうか?最初に結論を言うと、不可能である。
腐向けの夢小説作品は男(またはオスなど)主人公が男(またはオスなど)キャラが恋愛関係にあるものを指し、これはBLDと呼ばれている。Boys Love Dreamの略だ。
BLDサーチなども複数存在することから、需要供給は相当数あることが推察できる。
腐向け作品と夢作品の棲みわけ推進派は、そもそもどうやって棲みわけをしようというのだろうか?
発表の場がpixivなどの作品投稿サイトならわかる。それぞれ腐向けタグをつけるなり、夢小説タグをつけるなりすれば作品単位での棲みわけはある程度可能だろう。
しかし個人サイトになるとどうだろうか。個人の作ったコンテンツがまるごとその個人サイトには載っている。ヘテロ恋愛のみを書く者、同性愛のみを書く者は問題ないが、いわゆる雑食者はヘテロ恋愛も同性愛も家族愛も同じページに載せる。
それについてとやかく言うことがナンセンスであることは火を見るよりも明らかだ。
参加するランキングやサーチには、先述したようにBLD専門のサーチがあったりと様々だがそこからサイトに飛べば異性愛を好む者が同性愛作品を目にすることもあるし、その逆もありえる。
夢小説を求めたサイトにBL小説(原作に登場するキャラのみのCP)も置いてあるということも珍しくない。
個人サイトで棲みわけをしたいということ自体が、自分の目的でない作品が目に映るのを許せないとする傲慢ではないだろうか。
話はややズレるが、「夢小説」というジャンルについて、少々誤解しているオタクを散見する。
この定義は間違ってはいない。間違いではないが、果てしなく狭義であると言える。
夢小説はそのまま「夢」という単語を取っても意味が通用するぐらい、幅の広いものだ。
間違ってはいないが、限りなく狭義であることがお分かりいただけるだろう。
日常を描いたものや友情を描いたもの、冒険譚から離婚待った無しのドロドロ不倫ものも存在する。
主人公も思春期の女性に限定することもない。男主人公も動物主人公も、スライムが夢主人公の話もある。
夢小説とは可能性だ、と筆者は感じている。いるかもしれない人物、あるかもしれない展開。その無数のifか夢小説という名前によってまとめられていると。
夢小説には興味がない、原作キャラ同士のCPだけで満足だ。という者も勿論いるだろう。
その上で夢小説を誹る者には少し想像してほしい。ゲーム画面の向こうにいるキャラクターが、「君もおいでよ!」とプレイヤーを誘ったり。遊園地のアトラクションで「今日初めて参加する君たちに、このツアーの主旨を説明するね!」とまるで来園者がその世界の住人であるかのように語りかける。ポケパルレでポケモンがかわいい仕草でハートを飛ばしてくれる。
人の趣味を笑うことはとても恥ずかしいことで、間違っても「#夢小説あるある」タグで夢作品を好きな者を笑ったり、夢小説を誤解したままにしないでいただきたい。自分がどれだけみっともないことをしているのか、少しは自覚したほうが良い。
かつて夢小説を好きで、今は「卒業」したという人。昔以上に夢小説の多様性は広がっているので、男夢主や人外夢主をないことにはしないように(そもそも男・人外が主人公の夢小説は少なくとも10年以上前には存在していたので、見ていた範囲がかなり狭かったことが予測されるか)。