はてなキーワード: 教会とは
左翼リベラル派としては「冷戦時代は良かった」と思ってるかも知れない
しかし本当にそうだろうか?
確かに、現在のような中国韓国への悪しざまなヘイトや排外主義は、少なくとも戦後、1980年代までは目立たなかった
が、その手の言説が庶民大衆にまで熱烈に支持されてるかというと少し微妙
在特会や主権回復はすでに「右派のプロ市民化」して現状以上に幅広く人が増える気配は感じられない
(本物の庶民大衆てのは、活字のヘイト本なんか読まず、昨日の野球の試合や今日の夕食、人気タレントの出てるドラマ、学校や職場の愚痴、身近な男女の誰それがくっついた別れたといった話をしてる奴のことだ)
排外主義政党の日本のこころ(旧・次世代の党)はちっとも議席が伸びず消滅した
自民党支持派の中でもコアな連中は極端な復古主義・排外主義だろうが、大多数は経済政策を支持してるだけで、深く考えてない
ひょっとして21世紀に入って以降の右傾化って、単に論壇インテリ業界の枠内で右派が目立つようになっただけじゃね? という気がしている
***
冷戦時代の1980年代まで(つまり昭和の時代)、世の庶民には、男尊女卑、セクハラ、体罰、運動部は水飲んじゃいけない、年功序列、社員は会社に滅私奉公、嫁は姑に逆らっちゃいけない等々の、家父長的体育会系的価値観が蔓延して、みんなそれを当たり前だと思ってた
が、現在ではそれらを露骨に前面に出せばひんしゅくを買う、論壇インテリ業界内の話でなく、なんの変哲もない庶民の多数が、そういうのを嫌う価値観になった
これって、伝統的保守的価値観の否定なんだから「左傾化」じゃねえのw
無論、これらは小難しい社会主義や共産主義イデオロギーと何の関係もない
しかしそもそも、右翼左翼という概念は、フランス大革命のあと議会で伝統保守派(王政と教会の価値観を踏襲)が右側、改革派が左側に座ったことに由来する
つまり右派つうのは「昔ながらの価値観」を大事にする人たちのことだ
「『昔ながらの価値観』なんてキツいからヤダ」という思想こそが左翼なのだとすれば、8時間労働制やら週休二日やら近代以降の世の中はもうずっと左翼化してる
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ある意味では、一部のリベラル派インテリ(言い換えればインドア派のオタク)だけでなく、世の庶民の多数が、男尊女卑、セクハラ、体罰、運動部は水飲んじゃいけない、年功序列、社員は会社に滅私奉公、嫁は姑に逆らっちゃいけない等々の、家父長的体育会系的価値観を平然と嫌がるようになった現在の方が、昭和期より世の中が良くなったという気がする
***
「パンティー」を売りにして
「パンティー」でたくさん出して
「パンティー」を集める
■物語を膨らませる
「パンティーに目覚めた少年」が「スカートの中を覗く」という物語
最初に全体を
1:パンティーに目覚める
3:スカートを乗り越える
4:パンティーを見る
に分ける。
その各要素をまた膨らませていく。
2なら
2-C:ブクマカに襲われていたはてな村の教会のシスターが正義感に燃えて
また、「3:スカートを乗り越える」から「3-1:風もないので無理難題」と細分化した先からも
例えばパンティーヒロインがいたとして「主人公に対してどんな人物か」から始めていくといい。
「おせっかいなパンティーの委員長」なのか「暴走気味な主人公のパンティー」なのか
「昔からのパンティーで、ブルマしがちな主人公をいつも奮い立たせてくれる」とか
「何でも教えてくれる、優しく主人公の知恵袋的なパンティー」とか。
それに必要な設定を載せていくと、あとはパンティーが勝手にしゃべり始めたら怖い。
「ああ、そんな雑なパンティーはこいつらしくないな」なんて言うレベルに仕上がってくれば上出来。
重版出来が決まったので記念に。
「元気な男の子が」「宝物を探して」「大海賊になる」(ワンピース)
「天涯孤独な女の子が」「妖怪の嫁になれと言われるが」「得意の料理スキルできりぬける」(かくりよの宿屋)
「博士の遺志を継いだ青年が」「小さくなる体で」「悪と戦う」(アントマン)
「異世界とつながった居酒屋が」「いろいろなお客様と」「料理を通じた日常を送る」(異世界居酒屋のぶ)
これによって
「おいしそうな料理」をたくさん出せばいいのか
■物語を膨らませる
最初に全体を
1:勇者に目覚める
2:仲間と出会う
3:苦難を乗り越える
4:魔王を倒す
に分けたとする。
その各要素をまた膨らませていく。
たとえば2なら
2-C:モンスターに襲われていた村の教会のシスターが正義感に燃えて
2-D:モンスター集落から追い出された、モンスターに育てられた人間を助けて
みたいな感じ。ボツになりそうなものも最初は書いておくと、あとから使えるときがくるかも。
また、「3:苦難を乗り越える」から「3-1:偉い人からの無理難題」と細分化した先からも
それを最初にバランスよく並べて、物語の緩急を決めておくと筆が進みやすい(あくまで個人的に)
例えば女性ヒロインがいたとして「主人公に対してどんな人物か」から始めていくといい。
「おせっかいなクラスの委員長」なのか「暴走気味な主人公のストッパー」なのか
「昔からの親友で、ウジウジしがちな主人公をいつも奮い立たせてくれる」とか
「何でも教えてくれる、優しく主人公の知恵袋的なばっちゃん」とか。
それに必要な設定を載せていくと、あとはキャラが勝手にしゃべり始める。
「ああ、そんな雑なセリフはこいつらしくないな」なんて言うレベルに仕上がってくれば上出来。
自分の場合、3割程度は意図的に作って、あとはどこかで見聞きしたキャラのセリフをかぶせていけば
この3つを、自分は担当さんとしゃべる時のプロットって言ってる。
この設計図の大元ができたら、あとは自分の好きな文体で書くだけ。
ここを読んでる人は、それなりに活字を読むのが苦痛ではない人種だと思う。
何よりも、僕がそれを楽しみにしている。
そんな中、元いたオケの関係者から、信じがたい発言が飛び込んできた。
「うちのオケは弦のレベルが低いから、仕方なく合わせてやってんだ」
と言い放ったそうな。
だって、晴れ舞台のタンホイザーでバテて伸ばしの音が転んでた奴らが何言ってんだ?
ブラ1終楽章のコラール、超美味しいはずなのに「ずーっと休みで、出番だと思ったら変な旋律吹かされるんだよー」とか、もし冗談であっても耳を疑う返答するセンスしか持ち合わせていないクセに。
元増田でも書いたけど、オケは元々弦の縄張りなわけで、そこに来てトロンボーンなんてレギュラーメンバーですらない。
音楽的に言ったら、低音の補強でベートーヴェンに見出されたから、その後オケでそこそこ使ってもらっている程度の立場なのに、身の程知らずも大概にしろよ。
大体、アマオケのトロンボーンは音が汚いんだよ。ダイナミクスはON/OFFしかないし、音が割れる勢いでバリバリ吹いてるのに満足しちゃって、音が全然飛んでないことに気づいてないし。
隣で吹いてるチューバや、音域がカブるせいでその汚い響きにかき消されるチェロが可哀想だわ。
そんな楽器吹いてるやつがオケを仕切るようになったら、どのみちそのアマオケはおしまいだ。
まあね、出番が少ない割に、アマオケだと月の会費は平等に取られるので、そこは美味しくないと思うよ。
でもさ、こっちに合わせないとして、やりたい曲は何?とか言ったら画家マチスとかプロコフィエフの5番だとさ。バカじゃねーの。
そんなもんできるわけねーだろ。
挙句「トロンボーンは神の楽器」だと?3人1組で教会の信号ラッパもどきの扱いだった史実を脚色しすぎてて全然笑えねー。
と、ここまで大嫌いなトロンボーンに喧嘩売ったついでに、高みの見物決め込んでいるであろう木管とホルンにも一言言っておくわ。
フィクションだとしたらあれを持ち上げたくなる気持ちがわからない。
でもフィクションであってほしいと思うのは、普通に胸糞だからだ。
昔嘲笑してた人を本人が見てないだろうブログの中で書いてさも「私は罪人です」って酔ってる文章。書いたあとさぞ教会の懺悔室で懺悔したような気分になったろうなーと想像してしまう。
そもそもずっと罪悪感あったわけでもなくポッと昔のことを思い出しただけなのが、やった方感満載で腹が立つ。しかもブログのネタでしかない。
私は昔やられる側だった、
「あの時はゴメンね(スッキリ!もう終わりな!)」って言われるのも腹が立つけど、「ブログに書いて懺悔~当時は子供だったから仕方ない~」も相当悪質だよ。
この核家族化が進む世の中にあって、いまだに「家を継ぐ」という概念が存在する、そんなおうちの長男に私は生まれました。
江戸時代、徳川御三家の威光を受けて参勤交代だの江戸詰めだのでそれなりの栄華を極めましたが、明治維新によってすっかり没落してしまった武家がうちの本家であり、私の実家はその分家にあたります。
一時は地域一帯を治めていたこともあり、今では誰も使っていない土地もわずかではありますが残っています。
そしてそんな一族の歴史とは別に私の家にはもうひとつ別の顔、家業があります。それが宗教です。
キリスト教の教会や仏教の寺にあたるものが実家の家業なのです。
小さな頃から両親をはじめ、周囲からも後継者、跡取りとして期待され、私も幼いながら「大きくなったら家を継ぐのだろう」となんとなく感じて育ってきました。
しかし、今この歳になり、それでいいのだろうかと感じるようになりました。
周りは就職活動を始め、自分の人生を自分の足で歩いています。社会と関わり、社会の真ん中へ飛び込んでいく。しかし私は、学業を終えれば家を継ぐための準備に入ります。
いわゆる神職ですから、それを継ぐためのさまざまな勉強や修行に身を投じるわけです。社会との関わりはほとんどありません。信じがたいことですが、俗世とかけはなれた世界というのはこの平成の世にも存在するのです。
そして今、それを「なんだか嫌だ」と思うようになったのです。私もみんなと同じように社会に出て、普通の生活がしたい、と。
しかしこの気持ちを周りに伝えることはできません。今まで「この子が跡取りだ」と育ててくれ、多大なる期待をかけて見守ってくれた人を裏切るということが、やはり自分にはできないのです。そして、今でこそ嫌だと感じていてもそれまでの自分は「跡を継ぐんだ」と思って生きてきたのです。だからこそ、継ぐことを否定することは今までの自分の人生を裏切り、否定することにもつながるのです。
普通の家に生まれていればこんな風に悩まなかったのだろうかと何度も思いました。もっと自由に自分の将来について思いを巡らすことができたのだろうか、と。
もし「継ぎたくない」と言えば父や母はどんな顔をするのか、悲しむだろうか怒るだろうか。そう考えると話を切り出すこともできません。
将来や人生に対して展望が抱くことができず、長く暗いトンネルの中を彷徨っているような毎日を過ごしています。一体これから先、どのような気持ちで人生に取り組めばいいのでしょうか...
答えは未だ出ないままです。
ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲を教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。
朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会の尖塔、それこそがコミュニティの象徴だった。
かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。
そして何よりも思想の中心であった。
人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。
神の御心にさえ沿っていれば、理不尽な要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である。
現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。
しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音で存在を知らせる、教会の尖塔のように。
これは欧米人の全てがキリスト教の教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在と対峙しなければならないのだ。
Christian=キリスト者としてキリスト教の教義に沿って生きるか、他の宗教を信仰するか、無神論あるいは他の思想信条を信仰するか、あるいは無視するか。
おのれの精神的立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分の選択した思想に沿って生きて行く。
さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰と教育が分離されて久しい現代の日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。
むしろ明言できる人はおかしな思想を押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。
中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装が必要な類である。
では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級の軽蔑を受ける。
さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。
もうおわかりだろう。
「みんなと同じ」
である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである。
みんながキックバックを受け取っているから自分もキックバックを受け取る。
……
そしてもう一つ。
「怒られたくない」
である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神の背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。
※ 元増田の人ではなく、文章を提案した人です。元増田さんの作品とは関係ありません。
***
轟音とともに、目の前が真っ暗になった。思わず足が止まる。見ると、ゆうに三メートルはあろうかという石の壁が、私の行く手をふさいでいた。一本道、まさに袋小路だった。
荒くなった息を必死に殺しながら、壁を背にする。大通りから差し込む光が、いつ奴の体で遮られるともしれない。両側の建物には窓はなく、身を隠せそうな場所といえば、右側の建物に設置されている、エアコンの室外機のみ。
どうする———。路地の幅は約一・五メートル。足をかけるような突起はないが、両足を広げて突っ張り、石の壁に手をついて登っていけば、あるいは……。
***
「こちら石原。容疑者は奄美大路をまっすぐ北に逃走中。仲間は見られず、武器も所持していないと思われる。追って連絡する。」
突然のことだったため、足による追跡となったが、容疑者は見た所十代の少女。女性ものの小さなハンドバッグ以外に持ち物はなく、サンダルを履いた足での逃走。確保は容易。
C-1地区警戒本部から名瀬神社に向かう大通りを直進していた容疑者は、その中程にあるベトナム料理店と学習塾の間の路地に姿を消した。
ポケットから本部より支給のスマートフォンを取り出し、C-1地区の地図を呼び出す。ビンゴ。うろ覚えで自信はなかったが、あの路地には、かつての大戦の際、市街戦の準備として設置された可動式のバリケードがある。地図上のバリケードのアイコンをタップ、『起動』。
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迷ってはいられなかった。サンダルを脱いで、バッグにしまった。これを捨てて行くわけにはいかない。デニムのショートスカートで両脚を広げることになったが、気にしてはいられない。どうせ、捕まったら恥も外聞も無いのだ。
冷たい石に両手をついて、塗装された壁面を両足で必死につかんだ。右足を少し持ち上げる。腰を持ち上げる。次に左足。指先が壁のてっぺんに届くまで、あと一メートルと20センチほどあるように思われた。逃げてきた距離の短さを考えれば、間に合うようには思えなかったが、他に方法も思いつかなかった。
***
逃げ道は塞いだはずだが、万が一があってはいけない。五十メートル先の路地に足を急がせた。手錠を取り出し、ベトナム料理店を左に見て、暗い路地に駆け込む。
気配がない。まさか、逃げられたか。スマートフォンのサーチライトを起動して、路地の中をくまなく照らす。バリケードは正しく起動しており、窓のない壁に阻まれた路地。逃げ道はないはず。隠れているとすれば、室外機の後ろか。嫌な予感を覚えながら、ゆっくりと路地の奥へと進み、室外機を確認する。平成46年式、コクミン社製。奄美大路からみてその反対側を照らすと、容疑者が持っていたものと思われる、桃色のハンドバッグが落ちていた。
逃げられた。でも、どうやって。
***
この壁さえなければ———。必死に体を持ち上げようとする両足と、上半身を支える両腕は、疲れと恐怖で力が抜けてしまいそうだった。
この路地に逃げ込んだのは、ここが教会への抜け道になっているからだ。教会に逃げ込んでしまえば、奴らも好きに捕まえることはできない。まさかこんな壁が設置されているとは、思いもよらなかった。
その時、上半身を支えていた腕が、下方向にずらされた。
え?
私の身体は大きくバランスを崩し、上半身は壁とともに地面に落ちて行った。壁が引っ込んだのだ。
痛い。肘を地面に打ち付け、足も挫いたようだ。じんじんする。
次の瞬間、再びあの轟音が聞こえたかと思うと、壁が持ち上がり始めた。
何が起きたかはわからない。でも、何をすべきかは明らかだった。
***
「嫌な顔されながらおパンツ見せてもらいたい」の最新話のことなんだけどさ。
見せてくれんのは、牧師がいる教会のシスターとかこれもうカトリックかプロテスタントかわかんねえな。
まあ教会風の店か何かってことにしとこう。クールジャパン()的発想な。
てかシスターは十字架じゃなく謎のペンダントを首に掛けてたし。
でも靴はボクシングとかで見かけるような、やたらゴツい編み上げブーツ、これ。中途半端にお約束なんだよなあ。
ちなみにシスターに見せてくれるよう懇願する今回のシチュエーションも凄いけど、個人的には前回のアイドルがヤバかった。
ミニ丈の衣装の下に見せパン穿いてるの前提で「本当のパンツ見せてくれ」ってお願いするのが天才的に狂ってて、そして…この先は是非その目で本編を見てくれ。
って言いたいところだったが配信期間修了か。まあ買って見てください。
されどパンツだな。
野党アカウントのフォロワーが大幅に減るのではないかと盛り上がっていた人々がいたらしいが、結果は野党も与党もそれほど減らなかったらしい。
https://rocketnews24.com/2018/07/13/1090447/←これね。
それで、この結果を受けてどんな反応があるのか見ていたら、もちろんごくごくごく一部だが、「判定基準に問題がある」とか「あれが取り締まれないなら失敗」とか、そういうことを書いている人がいる。
元々は、「水増しするための怪しいアカウントがフォロワー内にあるのではないか」という話だったはずなのに、いつの間にかそれはこの人々の中で確定事項になっているらしい。
この、見つからない証拠はまだ見つかっていないだけ、という理屈は宗教みたいだ。
元サイエントロジー信者たちの話を聞くドキュメンタリー・シリーズ(Huluで観れる→https://www.happyon.jp/leah-remini-scientology-and-the-aftermath)に、教会に歯向かう人間の「犯しているはずの罪」の証拠を見つかるまで探す話が出てきたのを思い出した。