はてなキーワード: 愚か者とは
旧来のジャンプ的少年漫画の王道文法と呼ばれる要素の一つに、社会性のない獣のような主人公が成長して(ある程度は)人間的になっていくというものがある。
無いです。
スラダンや幽白は単なる不良漫画の系譜であって悟空なんかとは明らかにキャラが違います。
キン肉マンも北斗の拳もキャプ翼も聖闘士星矢もジョジョもるろ剣もハンタもONE PIECEもBLEACHもNARUTOもそんな話ではありません。
まあドラゴンボールとチェンソーマンだけ見て思いついたことを補強するために我田引水した感じですね。
ところで、鬼滅関連の記事かTwitter投稿か何かで見たのだが、今の小学生はジャンプを読まないそうである。何を読んでいるのかというと、コロコロとかだそうだ。ジャンプは中学生のお兄さんやお姉さんが読む雑誌らしい。
土肥: 『コロコロ』の読者ターゲットは、小学4~6年生の男子なんですよね。この層は150万人ほどいるのに対し、雑誌の発行部数は80万部。
160万部の12.8%なんで20万部ぶんくらいは小学生が読んでいる計算です。
小学生向けに特化して80万部と、全年齢を見据えたうちの20万部。
どういう捉え方をするかはともかく、そうした具体的な規模感は把握しておくべきです。
そのくらいの手間も惜しんで出元の曖昧な伝聞情報を信じ込んでいるのがおまえの馬鹿さ加減を表しています。
社会適応能力はあるのに今いる環境(職場、学校、家庭など)が悪いせいで心身を病んで本来の能力が発揮できていないタイプ。
こういう人は悪い環境から脱することができればリハビリ期間のようなものを経て徐々にまともな社会生活を歩むようになる。
本人が根っからの社会不適合気質で、せっかく良い環境に恵まれてもそれを活用できず無駄にしてしまうタイプ。
社会不適合な言動を繰り返す内に周囲に「こいつは何をやってあげてもダメだ」「こいつには関わらない方が良い」と愛想を尽かされ、後述のパターン3に移行するケースがある。
本人が根っからの社会不適合気質で、しかも今いる環境が最悪なタイプ。
周囲の態度は冷たく、誰からも助けを得られない。
状況によっては運良くパターン2に浮上するがこともあるがまたすぐパターン3に戻ってしまう。
パターン2や3の人が社会不適合になっている最大の原因は本人の生来の能力の低さだ。
そこから抜け出すのは容易ではなく、大抵以下のようなことになる。
本人にそもそもそうした能力が無いし周囲のサポートも無い(orたとえサポートがあってもそれを本人が生かせない)からだ。
彼らは自身の問題に根本的に立ち向かう努力を避けて都合の良い空想を始める。
「自分が社会不適合者であることには何か特別な意味があるんじゃないか。」
「自分には何か秘められた才能があるのでは?」
「自分は人とは違う崇高な存在だからこそ俗世と折り合いがつかないのでは?」
そうやって考える内に彼らはこの結論に行きつく。
「自分は他者から羨望されるような特別な存在であるべきだ/あるはずだ」
そこで実際に彼らに何かしらの芸術的才能や目標に向かって努力できる素質があればいいが、そうではないケースがほとんどだ。
するとどうなるか。
自分が才能を発揮できないのは生い立ちのせいだと過去を悲観し続ける。
優れた才能を持ち成功している他者を妬んだり「運が良いだけ」と馬鹿にしたりする。あるいは逆に過剰に崇拝してゴマをする。
事あるごとに他人と自分を比較して優劣をつける。彼らの世界には常に自分より上の立場の人間か下の立場の人間しかおらず、誰かと対等な関係を築けない。
そして彼らがこのままでは何も手に入らないことに気づくと、当初あった「自分が社会不適合者であるのは自分が特別な存在だからだ」という考えが「自分が特別な存在でいるには社会不適合者のままであらねば」という考えにすり替わる。
彼らにとって自身が社会不適合者であることは唯一手にしている「人とは違う部分」だ。
「特別な存在になりたい」という願望を手持ちのコマだけでどうにかしようとするのだ。たとえそのコマが本来であれば自慢できるようなものではなくても。
こうなるともう末期だ。
彼らは自分の社会不適合っぷりを勲章のように振りかざし始める。
それらしい診断名をネットで見つけてはそれを自称してステータスかのようにプロフィールに羅列する。
人の人生は苦しみが大きいほど価値があると信じ、幸せそうな他者を見ては自分の大げさな苦労話を持ち出して水を差す。
他者に被害を与えてそれを批判されると、自分は攻撃されたと感じ自分が一番の被害者のように振る舞う。
こうなってしまった人に対して他者がしてやれることはほとんど無い。
誰かの誠意ある諭しも励ましも彼らは求めていない。
愚か者🤘(👁👄👁)🤘ウィーーーーー
コンシューマとPCのゲームは、きちんと境界線を作ったほうがいい。
というのも、昨今はコンシューマで発売されたゲームがPC版で発売されないだけでいちゃもんを付ける餓鬼大人が増えた。
それもこれもPC版も売ろうというメーカーに問題がある。コンシューマはコンシューマでのみ、マルチプラットで販売すればいい。
PC版にすれば、グラフィックの向上などはするかもしれないが、それはそれで問題になる。
なぜかというと、いちいちコンシューマと比べる阿呆(スペックキチガイ)が現れるし、それによって必要のないコンシューマへの蔑み意見が生まれる。
コンシューマ向けに生まれたゲームはコンシューマのみ。PCで生まれたゲームはPCでのみでいい。そのへんの区別化はしたほうがスペックキチガイは静かにならない。
それでさえ、ハードのスペック比較でバカみたいな諍いをしている愚か者がいるのだ。それぞれの仕様が違うのにいちいち比べないと気がすまない頭のおかしい輩が中傷行為を繰り返す。
多少なりとも比較を減らすためにコンシューマとPCのソフトは分けるべきだろう。
そもそもゲームは子供が遊ぶためのものだったし、昨今は大人も楽しめるものが増えてはいるが、やはり子供が本来のターゲット層だ。
それを大人がゲームハードのスペックで喚き散らしてるのを見ると、身体だけしか大人になれなかった哀れなやつとしか思えない。もはや発達障害と言ってもいいだろう。
1.嘘が嘘と見抜けない人。若い世代。メルカリでも文一つで売り物の内容が変わる事を理解できない層。
空箱を送られて詐欺と叫ぶ前にまず日本語の読解力をつけよ。amazonを使うのならそれから。
2.良い評価しか見ない人。悪い評価だけのレビュアーを鵜呑みにするのは問題外だが、良い評価でコロッと騙されるのは同じくらい問題外。
悪い評価の方が信頼感があるって奴がたまにいるが、そうやって自分で良品を見逃した挙げ句に買い物に失敗する奴も同類。
言いがかりレベルのレビューに騙されるのはゴシップに簡単に騙されるくらい大間抜けである。
3.どう考えても日本人じゃないだろって分かる内容すら理解できない子。名前が日本名だったら信じちゃうのかよー。
4.ググれない人。amazonの商品説明でおかしいなと思ったらググれ。ググって楽天でその商品がいくつも同じ文言で出品されていたら疑え。
楽天も併用すると怪しいのはよくわかる。
5.商品説明がどう考えても中華なのに値段で自滅する奴。安い商品ほしいよな、分かる。だがハズレ前提で買わないと自爆にしかならない。
どうしても買うならPrimeで買えるタイプにしておけ。返品も交換もできる。
6.中華商品を購入後にそのショップから評価してくれたら500円あげますって言われてホイホイついていく奴
その程度で簡単についていっちゃうのどうかと思うよ。年配の振り込め詐欺を馬鹿にできないレベルで愚か者。
7.商品の価値を他人の意見でしか見いだせない奴。参考なら分かるが盲信している奴は問題外。
おれはある地方政令指定都市で生まれた。コンビニも電車も走ってるし本屋も図書館も徒歩圏にある恵まれた土地だ。おれの両親は両方とも同じ国立大出身だし父親の方は首席だった。それにも関わらずおれはとんでもない阿呆として生まれた。
おれがどれくらい阿呆であるかというと、知性以前に人として当たり前のことができない。例えばコミュニケーションだ。コミュニケーションというものは大まかな枠組みとして通信の確立、通信本文、通信終了の三つに分けることができ、それぞれで発信者が発信した後に受信者が返信を行なうことでその部分が終わることになる。このプロトコルは不足ないように簡潔にまとめたものであるため、三つすべてを含まないコミュニケーションというものもある。(例:広告。広告は"広告を打つ"という段階で通信が確立していることは前提と扱われるし通信終了は広告枠の制限で示されるのでそこについても返信は必要ない。)こうしたことは人間として生まれたならだれでもできることだ。人の話は人の目を見て聞く(通信の確立)、話を聞いているなら相槌を打つ(通信本文を受信していることの確認)。けれどもおれはそれができないままずっと育ってきたしこれからもできないであろう。
あるいは他に、おれはマルチタスクができない。よく「女性はマルチタスクができるが男性はシングルタスク向きだ」などという与太を吐くやつがいるがあれは嘘っぱちだ。水を飲むときのことを考えてほしい。口に含んだ水を飲むためにはまず鼻への侵入を防ぐために口蓋帆を上げて鼻への通り道をふさぐ必要があり、それと同時に喉頭蓋を裏返らせて気道を塞ぎかつ呼吸自体も水が通り抜けるまで止めなければならない。都合3種類ものタスクをこなさなければ水を飲むという行動はできず、おれはしょっちゅう一つ抜かしてえらい目に合っている。しかしよほどのバカか力の衰えた老人でもない限り水を飲むということはむずかしいことではないだろう。
そんなわけでおれはどうしようもない愚か者でありおそらく軽度の知的障害を患っているのだが、しかし両親はそんなことを疑わなかった。これはおれが一人っ子であったが故の不幸である。そしておれは適切なケアを受けることなく地元の公立小学校に通い、当然のように勉強についていけず落ちこぼれていた。テストで満点を取ったことなど小学校でさえ一度もなかった。どうやらクラスメートにもいじめられていたらしく、このままでは地元の公立中学校に通わせると深刻なダメージを負うと判断した両親は何を勘違いしたかおれを地元の学習塾に入塾させた。もっとも小学校の授業にさえついていけなかったおれであるから当然箸にも棒にもかからなかったのだが、入学試験ができなかったにもかかわらず県下二番目の中高一貫校に入学することとなった。確認はしてないがおそらく裏口入学という奴だろう。
中学校に入ったおれはますます授業についていけなくなり、ノートをとる習慣さえ失った。受けるテストはすべて赤点スレスレであったが中学校は義務教育であるからたとえどんな阿呆でもエスカレーター式に高校に進学した。今までの人生が万事こんな調子であるからそのころのおれはたいそう人生をナメており、高校一発目の進路指導で「両親の母校の医学部へ行きたい」などと大言壮語し担任に切々と諭されたのであった。当然である。2ケタのかけ算さえ間違え英単語の綴りさえ危ういような奴が高校(しかも進学校)へ進学しているのが間違いであろう。もっともおれ自身は阿呆であるから本一冊まともに通読できないままのほほんと高校へ通い、教師陣のお情けによって卒業した。両親の母校の医学部は最高でもC判定のまま受験をし、お話にならない点数で不合格と相成った。(センター試験は9割を下回っていた。)
どうにもならなかったので予備校へ入学した。予備校は商機を見つけるのがうまいので「医系への進学を目指すボンクラどもを自習室に縛り付け無理やりにでも勉強させるコース」というおれにうってつけのコースが存在し、わけがわからぬまま通学を続けた。2ケタのかけ算もままならぬままなぜか成績は上がっていたが、今から思えばあんなものはあてになるまい。というのも予備校としては「ボンクラが惜しいところまで伸びてもう1年通う」というシナリオが一番稼げるであろうから、ボンクラであるおれの成績が粉飾されていることは間違いなかろう。予備校の誤算としてはおれの志望校は両親の出身大学であることだった。ボンクラがボンクラなまま入試の日を迎え、愚にもつかぬ答案を根拠なき自信に満ち溢れたまま提出し、なぜか合格してしまった。すくなくとも自己採点では0点だった。(センター試験は結局歴史も数学も理科も満点を取れずじまいであった。)おそらく裏口入学というものだろう。
猫のほうがなんぼか賢かろうという馬鹿が大学に入ったが当然授業にはついて行けなかった。勉強する習慣さえないのだから当たり前である。教養課程は何らかの圧力ですり抜けたが専門科目は全くどうにもならず、2年生と3年生を2回繰り返している。そもそもこの学部に来たのだって父方の親戚がみな医師か医学者で母方の親戚はごたごたして面識がないのだから医師しか職業を知らぬせいであった。モチベーションなどあるはずもなく、解剖は2度やってかろうじて覚えたがそれ以外はどうにもならず教授に土下座してお情けで可をもらった始末である。現在は大学のカリキュラムの都合で研究室に遊びに行って研究ごっこをして遊んでいるが、自分が何をしているか微塵も把握していない。ただ聞こえてくる単語が授業で聞いた覚えのあるものだからわかったようにうなずいているのだが、先方もおれの阿呆具合など百も承知だから深くは追及されない。おれの阿呆を何とかしようと息巻いているのは父親だけで、母など最初からあきらめて「せめて清潔感を身に着けてヒモにでもなっていなさい」と言う次第だ。大学も3年生まで進級したもののここから先どうにかできるとは思えない、ましてどこかの病院で勤務するなど不可能としか言いようがない。かといって阿呆が研究者になれるほど世の中甘くない。おれの前に道はない。おれは何一つできないままここまで来てしまった。どうすればいいんだろう。
人の怒りというものは往々にして誰かに利用されることにしかならない。誠実な戦争というものが存在しないのと同じで、この世界には誠実な怒りというものは存在しない。それは通貨に似ている。うらぶれた通貨だ。誰かが、誰かの何かが、へばりついた通貨だ。そういうものと一緒なんだな。
とにかく、俺は怒りというものがあんまり得意じゃない。大体において、怒りというものには何の価値も無いし、いわばそれは何かに対するアレルギー反応と一緒なんだな。
それをエネルギーに換えている人もいるって? 人糞から電力を作り出す装置を作った人間の方がずっと優れてるよそんなの。怒りというものが何なのか全然分かってねえなお前らは。
何でお前らはそんなにも馬鹿なんだ?
いいかい、感情においては多くの場合同一律とか矛盾律とか排中律というものは通用しないんだ。感情の世界において怒りは怒りじゃないし、悲しみは悲しみではない。時に好意は好意ではない。執着は執着ではない。何でそんな簡単な理屈がお前らには分からないんだ? お前らは何を考えて普段生きてるんだ? 何も考えていないんだろうな。分かるよ。
これは怒りじゃない、侮蔑だ。
侮蔑は侮蔑じゃない。感情の世界においては、同一律が機能することはない。だから俺はお前らを侮蔑しているけれど、これは侮蔑じゃないんだ。
世の中の本当の感情はそれほど多くなくて、それは愛情と憎しみなんだよ。
分かるかな。
分かんねえだろうな。分かるよ。
三段活用だよ。お前らに対しては俺は年中こう思ってるんだよ。「分かるかな。分かんねえだろうな。分かるよ」って。分かるよ。俺はずっと色んなことを考えてるからな。だから分かっちゃうんだよ。お前らが分かってねえってことが。そして、お前らが何も考えてねえってことが。なあ。分かっちゃうんだよなあ。
ドストエフスキーはお前らみたいな人間を愛していたよ。ドストエフスキーの書いた小説を読んだかい?
『悪霊』を読んだかい? 『悪霊』に登場する人物には一人として理知的な人間は存在しない。ヴェルホーヴェンスキーも、スタヴローギンも、ステファン先生も、皆々馬鹿ばっかりだ。何も見えてねえ。メクラだよ。盲。でもなあああああああああ、ドストエフスキーの愛が伝わってくるんだよあの物語からはなあ。お前ら分かるか? 分かんねえだろうな。分かるよ。
大小説家の共通点はなあ、一つだよ。その資質は一つだよ。それはね、取るに足りないものを愛するということなんだよ。
分かるかな?
わかんねえだろうなあ。分かるよ。でもね、ドストエフスキーは多分お前らみたいなやつのことを愛していたと思うよ。いいかい。これは『悪霊』を読まないとお前らには絶対分からないと思うし、あるいは読んだとしても全然分からないかもしれないんだけど(その可能性の方が高い)。とにかく、ドストエフスキーはお前らみたいなカス野郎達のことを愛していたと思うよ。何故かって?
『悪霊』には二十名程の登場人物が出てくるんだけど、そのどの人物を取っても皆愚か者しかいないんだよ。面白いだろ? そして、そのどの人物に対しても緻密な描写が施されている。人間性の掘り起こしがかなりの深度まで及んでいる。
とにかく、『悪霊』。これは面白い。何故って、あんな愚か者しかいない小説を1200ページくらいぶっ続けで書けるモチベーションがどこから湧いてくるか余人には想像もつかないからなんだよ。そしてそれはね、ドストエフスキーが愚か者のことを、取るに足りない者達のことを、愛しているからなんだよ。
ドストエフスキーは貧困街の医者の息子として生まれて、貧困故にありとあらゆる不幸によって苛まれる人々と幼い頃から接してきた。特に、強姦された少女との交流の話は有名だな。
幼い内から、ドストエフスキーは、この世界にいる人々の多くは愚か者で、取るに足りない存在で、そしてそれ故に愛おしく美しく描くに足る存在であることを直観してたに違いない。馬鹿野郎どもが。つまりそれはお前らのことを愛していたってことなんだな。分かるか? わかんねえだろうなあ。
俺が読んだことのあるドストエフスキーの小説はそんなに多くなくて、罪と罰と、カラマーゾフの兄弟と、悪霊と、それから何だったかな。死の家の記録と、賭博者。多分これくらいだと思う。
まあとにかく、ああ、怒りが尽きてきてしまった。でも、本当は誰にも怒ってないんだ。これは同一律の存在しない世界なんだよ。感情の世界には、同一律は存在しないんだ。
怒りは怒りじゃないんだ。悲しみは悲しみじゃないんだ。
でも、唯一、いや唯二つ存在しているものがあって、それは憎しみと愛情なんだよ。でも、憎しみって結構簡単に消えちゃう気がするなあ。俺は忘れっぽいのかしらん。分からん。いや、あるいは気付かないだけで憎しみは存在し続けているのかもしれない。分からない。まあいいや、愛情もかなり長く存在し続ける。あるいは消えるかもしれないけれど、その消えた後に残った穴ぼこみたいなものもまた、愛情なんだな。
リーダビリティと同様の概念として、メモラビリティーという概念を導入したい。人の頭の中には、記憶しやすい情報と記憶しにくい情報がある。忘れやすい情報と忘れにくい情報がある。そして、そのような情報の中から、記憶しやすい情報と、忘れにくい情報を選り分けていく。すると大体二つのものが残る。それは、愛情と憎しみなんだね。それが人間のアーキタイプなんだ。多分皆こういうことは考えないんだろうなあ。ねえ、「覚えやすさ」っていうものとか「忘れにくさ」っていうものは、多分人間の構造というものと一直線に繋がっている。人間の、多分原型といっていい枠組みと、ダイレクトに繋がっている。何故って、人間の心を作っているものはたった二つだからだよ。それは、覚えやすいものと、忘れにくいものだよ。ねえ。考えてみたことはあるかな? それ以外のもので人間の心は作られていないということについて。
分かるよ。
分かる。
だから答えなくていい。お前らはそんなことを考えたことはないだろうからね。分かる。
まあ人間が人間たりうるには色んなことが必要で、そして、その色んなことの内で我々がもっとも普段から必要としているのは、「考えているフリをすること」なんだ。
考える。でも考えていない。怒る。でも怒っていない。好む。でも好んでいない。嫌う。でも嫌っていない。楽しむ。でも楽しんでいない。悲しむ。でも悲しんでいない。
それがないと人間の生活は成り立たない。例え怒っていなくても人間は怒ったフリをしないと生きていけない。じゃないと生活は成り立たないからね。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
実のところ、全ての人間は「スカッとジャパン的なるもの」が好きなのだよ。
これは「愚か者が嫌い」というヒトの本能と表裏一体であるからだ。
そういった愚か者を“スカッとジャパン的なるもの”で撃退したり、或いは玩具にして壊れるまで楽しむ。
そうすることで環境を操作して精神の安寧を図る、いわば防衛機制の一つなのだよ。
君が、ここ匿名ダイアリーで過去に書いた日記、言及記事を思い返してみるといい。
自分がなぜそのような言動をしたか、どういった欲求のもと成されたか。
なんならブクマしている記事の傾向だけでも、“スカッとジャパン的なるもの”を求めている自分が見えてくるだろう。
では、なぜ「スカッとジャパン」に不快感を示す者がいるかというと、その見せ方が露骨だったためだ。
露骨なものは社会通念上「下品」、「低俗」と受け取られやすい。
矛盾しているようだが、我々は理性的であろうとする生き物でもあるからな。
そういった人間は自身を律しようとするあまり、「そうあるべき」とも考えがちだ。
しかし「そうあるべき」という衝動を律することができないと本末転倒となる。
結果、「そうでない」対象に向かって発散してしまい、自分も“スカッとジャパン的なるもの”に踊らされる。
略してスカモン(商標登録済み)。
なので、君の友達にも「スカッとジャパン的なるもの」の欲求は確かに存在しているのだ。
パンチラでも「ちょっと……」って人の場合は、ボトムスなどでもいいだろう。
ボトムスはパンティーそのものではないが、パンティーの可能性を内包しているからな。
面と向かって「パンティーが好きだ!」なんて言うのは気恥ずかしいし、君だってわざわざ言われても困るだろう?
今回、学ぶべき教訓は「我々は“スカッとジャパン的なるもの”から逃れられない」ということだ。
せいぜい何を履くか、露出度をどれだけ気にするか、それが精一杯だろう。