はてなキーワード: 謙遜とは
自分でも意味が分からないくらい自己肯定感が高い。ネットでよく見る自己肯定感が低くて悩んでる人の気持ちに全然興味が持てない。大変だね、とは思うけど。
SHELLYのインタビュー記事を読んだら「日本の文化として自分のことを謙遜するのはよいと思うが、親が子のことまで卑下するのは子供の自尊感情を損なうのでやめた方が良いと思う」的なことを述べていた。有料記事だから途中までしか読んでないけど。
母は私が小さい頃から他人が私のことを褒めると「そうなんですよ〜」とか言って喜ぶだけで全く謙遜しなくて、寧ろ幼い私が「お母さん!ああいう時はそんな事ないです〜とか言うんだよ!恥ずかしいよ」とか言ってたらしい。母が笑い話として語っていたのでそうらしい。
幼い頃は母に常識がないと思っていたけれど、母が正しかったのかなと今更思う。
私も今は子供がいて、特に赤子時代は街で知らない人に可愛いとかなんとか話しかけられるんだけど、なんて返したら良いのか分からなくて困った。
ありがとう、と言うには自分が褒められてる訳でもないし。でも謙遜するのも自分が言われてる訳でもないし。そもそも世間話が苦手だから曖昧に笑って誤魔化していたような気がする。
世間的には子供が褒められると、子の他の欠点を持ち出して謙遜するのが一般的な気がするけど、それはやらないなぁ、今その話関係ないしな。「でも好き嫌いが多くて」とか「家では暴れん坊で大変で」とか。書いてみるとそのくらいは普通の世間話だな。でも子のことで困ってる事が今は特に無い。
こっちの方が、ってより破綻した一文が省かれてるのに笑ったよw
・充分に推敲をしてベストを尽くしてから投稿するのは当然で、それがなされていれば謝罪は不要、
↓
・従って軽々にエクスキューズを入れるのはその努力不足の証であり、その自覚がないのは認識が甘いからだ。
↓
・つまり、推敲不足の認識が甘いというのは下手だという自覚が足らないからで、本心で下手とは思っていない。
みてーな感じ?
この補足は循環論法っぽい部分があるんだが、他の段落から考えて >つまり に繋げるにはこれしかない気がした。まぁ俺の読み方だけどw
言ってみりゃ文章ってより論理の破綻なんだが、それ以外にも他が指摘してる独り善がりや読み手の問題ってのがあって、マッチョイズムを感じる人がいたのは推測の結論として導いた「下手でゴメンって書くくらいならそれが要らないと思うまで推敲しろ!」みたいな部分じゃね? って思う。改変者が問題の部分を消去したのは意味が通らなくなるからで、勝手に補足しない辺りは良心的だよなぁ、とも思ったけどね。
それとはまったく別に謙遜の問題があるんだが、『蛇足ですが~』であったり『私ブスだからツラみ…』みたいな自撮りもこの書き手の論法からは全否定し得る。
もっと言えば、世に出ている表現は基本的に本人が自覚する限りで全力を以て表現された瑕疵のないものでなければならず、ある意味で書き手の表現に対する理想の高さと真面目さを窺う事もできる。
なんつーか、書は人を表すもので書き損じや間違いを清書して送り付けるのは武士の名折れ、相手への侮辱であり斯くなる上は切腹してお詫びを――、みてーな匂いすらある。武士じゃなくても軍人とか一部のマジメな官僚とか未だにそんなんかもしんねーけどな。あ、後は芸能とかもそうか。舞台は一度きり、みてーな?
なんでそこまで書くかっつーとまぁ俺もそう思ってた時期があったんだ(超煽りw)けどさ、割と嘘なんだよそれ。
つか息苦しいんだよね。
俺みてーなゴミは金貰って表現者斯くあるべしとかじゃなくて、通信料を払って無意味に無償で書き散らしてるワケで。
んで、プロのロジックで気楽な匿名日記だとかコミュニケーションを攻撃すんのもなんか違くね? ってのがあってさ。まぁ見苦しいのも程度モンだけど。
もうね? 政治家センセーの発言とか追ってごらんなさいよ。無理なんッスわ、そもそも世に意見を問うのに何十年も矛盾なく一貫した主張をするってこと自体が。
誰もそんなの統計取ってなきゃ積み重ねて検証すらしないし、社会を動かすはずの発言者ですらそうなのにカールが販売休止になったとかきのこたけのこ戦争とかで盛り上がってるwebにナニオマエ期待しちゃってんの? って言う。ぶっちゃけオマエが血判付きで全力で書いた名文とかだってあっという間にパクられて消費されてアーカイブすらされずに数週間で忘れられてゴミじゃん?
いやゴミってよりどっかのキャッシュにでも残ってなきゃオマエが消したらゴミにすらならないワケでさ。
そういう中でステマして金だけ払ってバズれば大儲けみたいな構図もあって、そういう連中はパクるに留まらずに「元ネタは自分」とか公言し始めてPVにモノ言わせて既成事実化とかすんのよ。ww プロだってエグいぜぇー? 平気で盗む、断りなく編集する、改変してミスをなかった事にする、etc etc そういう連中が俺達玄人様は素人とは違って命懸けなのであーる、ってね。もう死んどけよ? って話だよ。
どーすんの? 文士サマww ってなもんよ、もう。
……ナニ書いてたんだっけ?
もうよく分かんねーけどまぁいいじゃねーか。気楽にイケよ。
「自分の実力を過大に評価されたことに謙遜、あるいは重責に思うこと」というのは役不足の誤用、というのは前提。
その上で役不足の誤用をどんな他の言葉で言い換えてもピンとこないしこれはもう必要とされて転じた言葉なんじゃないかと思う。役不足を正しい意味で使う機会はめっきりなくなっているし例文の不自然さと言ったらない。もともとあまり使わなくて別の意味で使われるようになったのに本来の正しい意味で使いましょうなどと無駄に守る意味があるのか。誤用を見つけて反射的に指摘して回ってるやつは感性が退化するばかりだろう。辞書にも転じた意味で乗せるべきなのにこの役不足だけなぜか認められてないのは異常事態だ。
個人的にはこの誤用の使い方が好きだし流川の「てめーだけじゃ役不足だ」というセリフも好きだ。的を得るは名誉を回復したのに役不足だけは不当な誤用認定されたままなのは納得いかない。
「手抜き」発言でオタクが阿鼻叫喚の反応を示す意味がわからない。
「誰も見てないから手抜きしよう」←まちがい
「誰も見てないのに手抜きを模索するような創意工夫を凝らして何の意味があるのか?」←せいかい
「手抜きを模索する」と「手抜きを模索しない」とでは「手抜きを模索する」の方が優れている。
「一切手を抜かない」と言うのは逆に「全部に手を抜く」と同義。
クリエイターの仲間みたいな顔をしているくせに、その辺の機微が伝わらないのか?
初見で伝わらないのみならず、どうやら説明されても理解できない様子だが。
(根本的なことを言えばアイデンティティを金で買おうという発想に無理があるのだ)
「手抜き」がそんなに悪いと言うのなら「手抜きのないお手本」とやらを自作して提示してみればいい。
実際に作業してみれば「比率配分」つまりは「手抜き」の重要性を思い知ることとなるだろう。
二次創作のこと「他人のふんどしで相撲を取ってる」「自分で一から設定を考える能力がない」とかけなす連中いるけど、一次二次両方やってる身としては素人の考えるオリジナル世界観&キャラなんてそんな褒められるほどのもんでもない。だいたい好きな作品の影響受けて無意識の二次創作みたいになってるし。
二次専門でやってる人は「一次は世界観とか設定とか全部自分で考えててすごい」って言うけど(謙遜か?)正直自分の趣味でやってることでそこまでかっちり考えてるわけでもないし、楽しくてやってるのなんで大変だとかすごいとか思ったことはないです。設定まとめを後から振り返ってよくこんなに考えたな自分wと思ったりする程度。
実際最初に書いたみたいに二次disる人って、拗らせた一次創作者というより二次創作嫌いで単に二次創作叩きたいだけって人の方が多いんじゃないかと思ってるけど。
今は一次創作でもTwitterで「○○の漫画を描きました」形式連ツイでバズるとか宣伝方法増えたし大手出版社がやるウェブ漫画投稿サイトも充実してきた。小説もなろうやカクヨムで投稿の敷居が下がったし閲覧側も作品が探しやすくなってるだろうし。
これは自戒も込めて言うんだけど、どうせ見て貰えないのに売り上げとか閲覧数とか目的にしないでひたすら好きなことだけやってる自分がかっこいい!みたいな夢を見ていられる時代は終わったよね。
大好きな同人小説作家さんがよくそう言ってるのがとてもつらい。
ご本人にとってはきっと謙遜のつもりなのだろうけど、その人は支部でもいっぱいブクマいいねを貰っていて、私の描く絵と比べたら文字通り桁違いなのに、そんな風に考えてられるのかと思うととてもつらい。
その人の好きな絵師さんの作品は私も素敵だと思うけど、私にとっては絵師さんの作品もその小説書きさんの作品もどっちも比べられないくらい素敵なのだ。
その人は昔イベントで絵描きさんのお友達と合同誌を出された時に「小説なんかいらない」と心ない言葉をぶつけられたという話を何度もされているので、そのこともあって気にしてるんだろうと思う。
正直そんなことないですよ~だって私の絵よりあなたの小説の方が絶対勝ってますし~はい論破~ってって言いたい。マシュマロで投げたい。
その人に直接は言えないけど、これを見た小説書きさんはどうかそんなことを考えないで欲しい。絵と文章だけじゃなく、同じジャンルでも他のジャンルでも、好きで作っている作品に勝ち負けなんかないんだし、あなたの小説を好きな人はきっといるから。それがもしかしたら私かもしれないから。
いやいやご謙遜を
淋しくないのですか。
そしてあなたの勘違いの嫌悪感が、相手の気遣いや、マナーから来ていてもあなたには憎しみにしかならないのでしょう。
親が人前で、子どもや身内を「下げて、謙遜した表現する」のは、日本では美しいとされていますが、
あなたは親御さんが当たり前にその表現をしていたことが理解できず、
本音は自慢したいような存在である、あなたは愛されていたこと、わかっておられなくて。
親に嫌味を言われていたなど不思議なことを何度も定期的に書いておられましたね。
可愛い、賢そうなど、本人を知らなくても適当に言える言葉をなぜか喜び、
社交辞令に謙遜でゆる否定するという、お天気の話レベルの「日常よくある会話」に、
親御さんへの不満を募らせて、恨んでいたでしょう。
親に貶されていたのではなかったのではないですか❓
そんなのよくある話ですよ❓
あなたは常識を知らないまま、親の愛を、疑い。老いるのですね。
さらに誰彼なく嫌って、自分から自分を病ませているようにしか見えないです。
増田でのやり取りは
あなたの「(本当は謙遜でしかない言葉に)傷ついた❗️酷い❗️」
身近な存在である親御さんに対する不満さえ、「愛されていなかった。傷付けられた」
どうして人前で褒めてくれないの❓と聞けない。僕は不出来なの❓って親と二人の時にきかないの❓
きけば一瞬で不安も怒りもコンプレックスも霧散するというのに。
まるで「いじめられたい」と言いたげな振る舞い。
親御さんも人なので、しかも幼少のお子がいらっしゃるような頃はお若いでしょうから
不機嫌な事もあるでしょうし、あなた自身、親のしつけを聞いてないし守ってなさそうなのに
「躾が厳しかったと言っていいのは、その躾を守ってきた人だけでしょう❓」
出来ていないのに、不満だけ言うのは怠惰で、不誠実です。
不安や悲しみを自分で解決したいという気持ちがかけらもなくて、
あるいは日常の疑問を教師などの年長者に質問も、できなかったのでしょうか。
私19で教育実習行きましたが、生徒に個人的な悩みも打ち明けられて相談乗ったりありましたよ。
ひと月足らずの研修なのに。ローティーンの悩みはいじめと恋心でした。
恋はわからなかったけど、いじめてくる人の話は、少し相談にも乗りましたし、
担任にも伝えて、注意して欲しい事いいました。
自分で疑問を持たず、感情論で片づけて恨みを持つ人は、単純すぎます。
ひねくれた感情。常識の欠如が招く怒りのしんどさ。なぜ身内なのに自分で確認しないの❓
過剰に喜ぶのも、卑屈になるのもおかしいですよ。
こんにちは、代りに、可愛いですね。が言える人だっておられるでしょう。
接客の方々などは息をするように相手をみないでも褒める事できるスキルをおもちですし。
もちろん、心から褒めてくださる方々もありますよ。でも表向きの反応は同じです。
だから。増田さんは親御さんの謙遜をわざわざ怒るのもおかしい。
親御さんの立場になって、フォローした私にまで「憎しみ」を感じました。
これは。心の闇。頑なに自分の主張を曲げない柔軟性なさ。
よりよい解釈が、今さらでも、そこにあるから喜んで安心してもらいたい一心で、
あなたは、いつまでも「親を嫌いでいたい」事が判明しただけでした。
正直謙遜する親なんて、私自身2歳くらいで構造が判りましたよ。
(親もホントは子供を褒められたら嬉しいけど、取りあえず否定してること。)
パターンがある会話なので、それが判ればまったく気にする必要のない部分、それはお天気の話レベルなこと。
あなたのような賢過ぎる方が、こんな単純なことに悩み続けて「親を逆恨みしている図式」は滑稽でしかなかったです。
それに、もっと気にしなきゃいけない、本筋の部分があるでしょう。
つまらない部分にばかり腹を立てていて被害者のようにふるまっていて、常識人の親御さんが、お気の毒です。
判っていたでしょう。
可哀想な人。そんなつまんないことばかり気にしてると
さぞ疲れるでしょう。
本当は、優しく、繊細で、美意識にあふれているのに、
お商売で、リップサービスを言ってくるような人の言葉にまでストレート解釈して、
本当にあなたに寄り添って、長い月日を歩んでゆく血肉を分けた親御さんにはきつい真逆の解釈。
人間関係。他人にも心があることを、あなたは意識できていないのでは。
言葉に、傷つき、苦しいこともわかりませんか。
あなたに考えて話しかけているひとにも、本質が全く見えていない。
オープンマインドでできれば付き合うほうが良いのは、身近な人たち。
古い友達、一生付き合う親せきや親。
それらに対して、あなたは手を抜いて「牙をむいている」だけのよう。
「自分はこう思った」だけしかありません。「わかってくれ」しかないんです。
相手の振る舞いの意味を「悪意としか解釈できない」なら毎日が闇の中です。
親御さんやご兄弟、仕事の仲間や上司の言葉などは、そんなに批判的に解釈するものなのかな❓
職場の人たちは他人でも、同じように業績を上げ成果を期待されている仲間でしょう。
同じ課の人は、同じ船に乗って目的地に向かう同志のようなものではないでしょうか。
好意的に解釈して、その人の言葉の意味を考えてみてはどうでしょう。
ライバルで競うべき存在なら話は別ですが、直の上司や連携するべきチームの仲間なら、仲良く出来ないと、きついのでは。
疑問はつきませんでした。
周囲は、あなたの心が開かない限りは、話し合うこともできず、
「反対意見」や「命令」に解釈してきついようなイメージがあります。
疲れました。
私は二次創作で小説を書いている。ジャンルは人気だが、好きなカプは多分マイナーの部類に入ると思う。
投稿サイトはpixivだ。数年前、同ジャンルの別カプで書き、少しの間書くのをやめて(一次創作をしていた)読み手として二次を楽しんでいた。もちろん公式の供給にも一人盛り上がり、楽しいオタク生活を過ごしていた。
そして好きなカプが出来、また書いてみたいなと思って書き手に戻った。
pixivでの評価は、前カプで二桁、今のカプで三桁行けば良い方。はっきり言って人気はないし、陽も当たらない。でも、前カプのほうがメジャーカプなのに今の作品ほうが評価してもらえるのは嬉しかった。文字数が増えたし、あと自分で言うことではないけど書くのがほんの少しだけ上達したからだと思う。
前は「書きたいとこだけ書ければ良いや」みたいな考えで殴り書きに近かった。後から読み返して「よくこれで投稿したな……」と情けなくなったし、そんな作品でも読んでくれて評価までしてくれた人がいたのがありがたかった。
それも踏まえて今度は「せっかく書くならもっとちゃんと考えて書こう」と思った。それであわよくば評価してもらいたい。承認欲求を二次創作で満たすのはどうかと思うのだが、創作は創作なのでやはりそういう下心もわいてしまった。
"ちゃんと考えて書こう"という心がけは、一応成果を出した。前の作品で三桁の評価のものはないし、感想までもらえたのだ。スタンプも嬉しかったが、文章での感想は段違いに嬉しかった。
感想をもらう前はTwitterなどで「感想がなくて筆を折った」や「感想は創作者を救う」という呟きを見ても別世界の話で全く実感がなかったのだが、自分が実際にもらってようやく理解した。確かに読んでくれた人の感想は救いだ。これは誇張ではない。本当に本当に、救われたのだ。
一人であーでもないこーでもないと悩み、一文一文もっと他に良い表現はないかと迷って完成させた小説。好きでやっているとはいえ、暗闇に石を投げてるような感覚だった。
前カプの時も、暗闇に石を投げてる感覚は同じだった。他所では人気の字書きがワイワイやっていて、他の字書きや絵描き、創作はしなくても同じカプが好きな人達と交流している。
あまり認めずにいたが、私は彼らが羨ましかった。向こうはとても明るくて楽しそうだ。
良いなぁと羨みながら、まあ私にはああいう交流は無理だなと思っていた。なぜなら、私は彼らのように自分から輪に加わろうとしていないからだ。小説が面白い面白くない以前の問題だ。
人気字書きは小説の面白さもだが、そもそも社交性があるのだ。Twitterも面白い。人付き合いが苦手そうな字書きでも、誠実に小説に取り組んでいるんだなと分かる人はいて、やはりそういう人のもとにもファンや同好の士は集まる。
しかし、私はコミュ障だ。Twitterも何も面白くない。ネタにしたいことを呟けば人に取られるのではと不安で呟けない。盗まれるような大それたものではないのに、被害妄想ばかり膨らんで何もできない。
もらった感想に対しても、ちゃんと感謝を伝えたいのにどれだけ頭を絞っても無味乾燥な文章になる。時間をかけて返信文を考えてもそれは相手には伝わらない。ただ"返信が遅かった"という事実しかない。しかも本当に嬉しいのか分からない文章だ。それでも何か返信しないよりはしたほうがマシだと思って返信する。
これは二次創作に関係なく、人から好意を向けられることに慣れてないのも原因なのだろう。自己肯定感が低い。好意に対する耐性がない。
だから好意を向けられてもどうすれば良いのか分からない。相手にしてみれば、ただなんとなく気まぐれで送った感想なのかもしれなくても私からすると初めて見る光のようなもので、救いなのに耐性がないからただただ戸惑うしかないのだ。
心の底ではあれだけ欲しいと思っていたのに、与えられたらこれだ。もっとそつなく対応できないのかと自分が嫌になる。
世の人気同人作家は私とは比べ物にならないほどの感想や好意を向けられていると思うと、彼らが別の生物に見えてくる。私より良くできた、なんか違う生物。
人気字書きと比べると憂鬱だ。比べるものじゃなくても比べてしまう。
二次創作は文章力より萌えるのが大事だとよく聞く。それは本当だとも思うが、萌えを伝えるにはまず文章力が必要だし、第一面白い二次小説は文章に長けている。
心理描写、情景描写、キャラクターのバックグラウンドを伝え、キャラ同士の関係性の変化やシチュエーションで読者を熱くさせる。これは並大抵ではできない。
しかも、pixivはどちらかというと絵を中心に据えたサイトだ。だから余計に、小説で評価されているのを見ると凄いと思う。
前もそう思っていたが、今はもっと強く思う。だって前より良いものを書こうと頑張っているのだ。読み手を意識するようになってから、見返りが欲しいと思うようになった。
当然、自分のために書いている。自分が好きなシチュエーションで、自分が好きなカプで。だが、書くなら上手に書きたい。自分も他人も良いと思える、納得できる文章が書きたいのだ。
承認欲求がどんどん大きくなっていく。それでも、まだ私は楽観視していた。書くためのエネルギーになるし、節度さえ守っていれば腹で何を考えていても問題はない。それに、何はともあれ小説を完成させなければならない。これが一番大事なことだ。そう言い聞かせてまた書いた。
Twitterで面白いSSをツイートする字書きがいた。仮にAとする。軽い気持ちでフォローし、SSを楽しみにしていた。
Aはpixivにシリーズ物の長編を投稿しており、これもまた軽い気持ちで読んでみた。
まだシリーズは完結していない。評価はブクマも良いねも多く、感想や続きを待つタグもあった。
TwitterでもAはフォロー数より遥かにフォロワーが多かった。人気も人気、ファンがたくさんいる。
Aの小説は人を選ぶ作風だった。オリジナルキャラクターが中心にいるのだ。内容も殺伐としている。読んでいてつらいが、それでも面白いのだ。表現力も構成も卓越している。
私は人気字書きに対して、別の生物だと思うことで精神の安寧を図ってきた。コミュ障の自分にみんなでワイワイ楽しくは無理だと諦めていた。万が一輪に入れても人間関係で消耗する。せっかくくれた感想に満足な返信一つ書けず疲弊するのだ。自分と彼らは違う。だから羨望は抱いても嫉妬まではいかなかった。
しかし、私はAに凄まじく嫉妬した。オリキャラで、シリーズ物。内容も暗い。なのに人気だ。コメント欄は感想で溢れている。多すぎるからか返信もしていない。面白いからそれが許される。
初めは自分ももっと小説が上手くなろうと意気込んだ。だが、私がまだ序盤すら書けていない時にAは新作短編を投稿する。それもすぐさま評価された。
Aはよく、「自分は書くのが遅い」と言っていた。SSをやりながら数万文字の小説を書いてそれを短編だと言って投稿するAが。
Aの物差しではそうなのだろう。Aが言うことに私自身の物差しを当てはめてはいけない。他人には他人の物差しがある。
Aはよく謙遜した。「誰得か分かりませんが」「ほんと自分しか読んでて楽しくないんじゃないかな」「◯◯×△△が好きな人から怒られそう」と。こうして投稿された小説も、すぐに評価される。私も読んだ。面白かった。
Aはよく質問箱で来る質問に答えていた。「どんな本を読みますか?」「執筆スタイルを教えてください」こんな質問が多い。Aは決まって「本はあまり読まないんです」「執筆スタイルと言えるほどのものはありません」と答える。
…………
嫌悪感を覚えた。この嫌悪感については上手く説明できない。嫉妬が源なのは確実なのだが、別の感情も含まれていると思う。
自分とは何もかもが違う。Aは多くの人から必要とされている。長編をコンスタントに投稿し、完成度も高い。そして文章やストーリーを長文で褒められ、謙遜してもすぐに否定してくれるファンがいる。
なんというか、皆に見守られている感があるのだ。見守られながら崇拝されている。
他にも、Aは作中に性描写を入れずにこれほど評価されているのだ。私は性描写のある小説を書いていて、性描写のない小説も投稿したがこれは全然評価されない。読んでももらえなかった。
もう一つ、Aが私の嫉妬や劣等感を煽る理由がある。それは、Aは一次創作でも人気を得るだろうなという確信だった。Aは一次創作をしていない。だからこれは私の想像というより妄想だ。Aは筆力がある。ストーリーに漂う空気感や思想も一貫しており、本人に確固たるテーマがあると伝わるのだ。
原作という確固たる軸をもとに、自己解釈を入れて物語を作るのが二次創作だ。対して一次創作は当然、作者が軸から作らなくてはならない。軸はストーリーを形作る上で作者の一貫した思想やテーマが必要なのだ。それが脆弱だとどこか掴み所のない、微妙な作品ができあがる。「文章は上手いけど……」とか「題材は良いんだけど……」とか言われるような作品。胸に訴えて来るものがない。
はじめに書いたが、私は一次創作もしている。一次は二次より苦しみながら書いている。「きっとAは、そんな苦しみもなく、あったとしても見返りのある小説を書けるのだろうな……」こんな感情がわいたのだ。
Aが書いてもない小説で劣等感を勝手に抱き、被害妄想を膨らませて勝手に苦しんでいる。滑稽この上ない。しかし理性より感情が勝った。次第に私はAに嫉妬や嫌悪感を通り越して憎悪すら感じ始めた。
Aのツイートを見る度に胸がざわつく。「書くの一生やめないかな」「消えないかな」などと考えるようになった。アカウントをミュートにしては気になって解除し、フォローも外そう外したほうが良いと思ってもできなかった。この時点で、私はまだAの小説が好きだったのだ。新作は読まなくなったが、シリーズ物の続きだけが気になっていた。新作を上げる度に、早く続きを書けよとイライラしていた。
こんな滑稽な人間いるだろうか。憎悪すら抱いているのに、その発端となった小説の続きが読みたいだなんて。我ながら馬鹿で笑える。
Aはマシュマロを始めて、またたくさんの人に褒められている。マシュマロには丁寧な返信をしている。謙遜して、自分の作品を"拙作"などと言って。心温まる返信だ。無味乾燥な返信文しか書けない私とは違う。
私は今日もpixivを覗いて、自分の小説の評価を気にしている。カプ名で検索しても、もう他の人が書いた小説に流されていくつもページを越えないと私の小説には行き着かない。新作を上げたいが、まだまだ書き終わらない。誰も褒めてくれない。一次も二次も。
書くのがつらい。やめれば良いのに、やめたら自分は価値がなくなる気がして怖いのだ。他人と交われない私にとって、小説を書いて評価されるのは唯一と言ってもいいくらい自分を満たす慰めだった。私が書いた小説を、誰かが肯定してくれる。これは私自身を肯定されたも同然なのだ。本当は違うと分かっていても、ほんの少し救われた。
このカプ、良いですよね。このシチュ、萌えませんか。この小説どうですか。私の小説、好きですか。
所詮趣味なのに、こんな思いを込めて書いて読む人に過度な期待を寄せてしまう。だから評価されないと無視どころか否定された気になる。私が駄目な原因だと思う。もっと軽く楽しめたら良かったのに。
読み手を意識して、感想をもらう喜びを知ったから脱け出せないだろう。何より、小説を書くのが好きなのだ。書いている最中ずっとつらいのに、書き終えるとまた書かなきゃとなる。
ただ、なんとかAへの憎悪を消したかった。どうでも良いと思えるようになりたかった。その方法が分からない。私が人気になれば良いのか。それも根本的な解決にはならない気がする。Aが私の小説を褒めてくれたら良いのか。私のことなど眼中になく、そもそも全く知らないA。多少承認欲求が満たされるかもしれないが、こういうのは満たされてもすぐになくなる。
他の人は、承認欲求が満たされたら本当にそれで満足できるのだろうか。欲求というコップがあったとして、まっとうな人は褒められるとコップに水が注がれてどんどん満ちていくのだろう。私の場合、多分コップの底に穴がある。自己肯定感のなさが穴の正体だと思う。はじめは穴がなかったのか、それとももともと空いてたのか、褒められて水が注がれてもどんどん落ちていく。全然満たされない。
結局のところ、Aがどうのとか評価がどうのではないのだろう。原因は自分にあり、自分でなんとかしなくてはならない。
自分が納得できる文章を書けるようにしたい。自分が納得できれば、評価は二の次になると信じたい。幸い、納得の基準はまだ自分の中にある。こんな文章でこんな小説を書きたいと理想や目標がある。これがある分にはまだ頑張れそうな気がする。そこから自己肯定感をつけていけば良いかもしれない。すでに評価に依存しているが、まだなんとかなるかもしれない。
理不尽を理不尽だと理解できているうちに、自分の小説をちゃんと書けるようになりたい。これで書くのをやめて憎悪に飲まれたら人として何か終わる気がする。荒らしなど惨めなことはしたくない。
私は小説を書いていたい。一次でも二次でも納得のいくものが書きたい。他の字書きへの嫉妬や憎悪が原動力では嫌だ。
嫉妬も劣等感もあり、とてもつらいが少しでも気が楽になれるよう、自分の面倒な諸々と折り合いをつけたい。
これはその一歩として誰にも吐き出せないためここに書いた。読みづらい文章だったと思う。でも、読んでもらえたらほんの少し救われる。小説が好きで、どんな文章でも大事だと再確認できた。それが嬉しかった。自分の小説にちゃんと向き合えそうだ。
読んでくれて本当にありがとうございました。