はてなキーワード: 平沢進とは
それはまた敵対的生成プログラムがつくれない(評価判断側のAIがつくれない)という別の問題がある。
たとえば一人の音楽家の一生分のCD買い集めてAIに(私的複製+30条4享受しない利用の範囲内で)学習させて合成させて自分で成果物を楽しむ分には合法。
それを公表したりあまつさえ金までとって他人につかわせはじめたら非合法だよねって話。
(で、パクりになるから金とれないとわかってる楽曲AIをだれも電気代ソフト代をかけてつくろうとはおもわないって話でもある)
(個人的には平沢進とエンヤの足して二で割ったやつがきいてみたいな、たぶん最初は雑音になるだろうが)
で、元増田のリンク先の絵師?たちは「AIによみこませること自体も非合法にして」ってお願いしてるけどそれは悪手だよッていう話。
そんなもん私的複製や自炊とおなじでコンピューターがあれば証拠もなしにできるんだもん。なんなら絵師も自分の絵や配布素材を、
AI寸前のむら塗り加工しながら再利用くらいのことは普通にやってるはずだ。
つくってからどう売りさばこうみたいなのは家庭内じゃなくて社会の目に見えるんだから、そこから下流では差し止めでもいくらでもやればいいよって俺は思ってる。
絵師だって絵師になるまでは自宅で家族の肖像権侵害物や名作の侵害である習作を乱発してる、ただ外に恥ずかしくて出せないだけで。
その学習行為を、AIと、下手絵・パクリ絵を世間に出すことに恥をもたないバカがなぞってるだけなんだよ。
AIソフトや学習済みモデルの開発は労働の消滅につながる人類の悲願だから、そうそうとめられるもんでもないし、とめたら日本だけ技術後進国になるだけだね。
Q.
歌詞は以下です。
(ここに歌詞)
1回目
「2D OR NOT 2D」は、平沢進が歌った楽曲です。この楽曲の歌詞は、2Dの世界と3Dの世界を比較しています。歌詞では、2Dの世界を壁画と表現し、3Dの世界をCGと表現しています。また、2Dの世界では、ラブリーというものが存在し、これは座標のバグを意味しているようです。歌詞の中では、2Dの世界と3Dの世界を比較しながら、それぞれの世界の魅力を歌っています。
2回目
平沢進の「2D OR NOT 2D」の歌詞を見る限り、この曲は2Dと3Dのあいまいさについて歌っているようです。2Dと3Dとは、コンピュータグラフィックスの分野で用いられる用語で、2Dは二次元、3Dは三次元を表します。
歌詞では、エデンや天井、サンシャインの形や壁画、さらにはイブとアダムの存在が登場します。これらの要素は、神話や宗教的なイメージを想起させるものであり、2Dと3Dの概念をより抽象的な層面で捉えることができるようです。
また、歌詞では「ラブリーとは座標のバグらしく」というフレーズが登場します。これは、2Dと3Dのあいまいさを具体的な例として挙げているように思われます。座標とは、空間内のある点を表すために用いられる数値です。座標のバグとは、これらの数値が正しくない場合に起こる問題を指します。このようなバグは、2Dと3Dの概念を超えたものであり、そのあいまいさを表していると解釈することができます。
結論として、平沢進の「2D OR NOT 2D」は、2Dと3Dの概念について歌ったものと考えられます。その中で、2Dと3Dの間に存在するあいまいさを示し、その抽象的な意味を探求しているように思われます。
3回目
「2D OR NOT 2D」は、平沢進さんの作品であり、その歌詞は、2Dと3Dの表現方法の違いを探りながら、どちらが自然なものかを問う歌となっています。
歌詞の冒頭では、エデンやカンブリア、ムーンやマーズなど、自然界に見られる現象を通して、2Dと3Dの表現方法の違いを探っています。
例えば、「天井にムーンなお上にはマーズ」という歌詞は、3D表現ならば、実際に天空を見上げるような感覚で、ムーンやマーズがどこにあるかを知ることができます。しかし、2D表現だと、天空が背景として描かれているだけで、ムーンやマーズがどこにあるかは知ることができません。
また、「壁画じゃどんなか?」という歌詞は、壁画で表現されたものは、2D表現の世界に限られることを指しています。壁画で表現されたものは、立体的な世界を再現することはできません。
さらに、「胸はヒエラルキー」「髪はフラクタル」という歌詞は、3D表現の世界を指しています。3D表現では、人物や物体の毛髪や衣服などの細部まで再現することができます。
そして、「CG OR NOT CG」という歌詞は、3Dのコンピュータグラフィックスの表現方法を指しています。3Dのコンピュータグラフィックスでは、実際に存在しない世界を作り出すことができます。
途中で止まらないで😭
anond:20220517213328を見て自分もやりたくなったので今更ですがやらせてください。
キリがないので1アーティスト1曲縛りで。
順位付けしようとしたけど結局好きなアーティスト順にしか並べてないことに気づいて発売順に並べることにしました。
以上、50曲。選曲とコメントで合計6時間ぐらいかかった気がする。でも楽しかった。
平沢進のツイートひとつひとつに、少なくとも50件以上のリプライが必ず付いてるのが不思議でたまらない。その多くがひとつひとつのツイートに相槌を打つだけの、ヒラサワとその人だけの会話をするかのようなリプライだ。挨拶を返しているだけならまだわかる。なんでもない、小噺のような空を掴んだ話になんとか同意を示そうとしてるリプライを見るたび、なんでこの人たちは飽きもせずリプライをし続けるんだろうと思わずにいられない。
そもそもヒラサワのツイートは(説話とも啓示とも言えるような話が増えてきた今にしてみても)Twitter上に溢れる有象無象とコミュニケーションを取ろうとするものではない。俺個人の解釈ではあれは小粋な江戸っ子の小噺か、作詞の練習でしかない。ほぼ毎日21:00〜22:00、もう10年もずっとツイートを続けているのは単にTwitter中毒だからではないはずだ。というよりも90年代にはすでにネットでの活動を始めていたぐらいの人間だし、そもそもずっと前から著名人と言っても良い活動をしている。そんな御方が飽きもせずネットに入り浸るだけのオッサンとは言わせない。あんなに中身の無いリプライを一身に受けながらもリプライに制限をかけないのは、その方法を知らないからではないはずだ。
思うに、ヒラサワはあの有象無象のリプライから何かを検証しているのではないか。特にここ一年は、ヒラサワ自身のものの見方や考え方を公にするツイートが多くなっているように感じている。そのツイートにすら、要領を得てないようなリプライは後を絶たない。でも、中には恐らく、これまで世の中のジョーシキやアタリマエに囚われ自分で自分を苦しめていた人がヒラサワの言葉により世界を再認識するようなリプライもあるのだろう。別にヒラサワは自分を崇めてほしいわけでも同意を求めてるわけでもないだろう。でもきっとそういう事象を含めて、自分に対する反応を伺うためにリプライ制限をかけずにいるのではないか?
俺自身も、ヒラサワのものの見方に影響を受けた一人だ。別にヒラサワの思想そのものに共感しているわけじゃない。あれはあれでどうかと思うところもある。でもそもそもヒラサワはヒラサワの人生を経た結果ヒラサワとして存在しているのであり、俺は俺だ。だから思想の相違が起こり得るのは自然だ。が、それはそれとして、俺はヒラサワの考え方にはかなり影響を受けていると思う。何処がとかそういう話はしない。ヒラサワの考え方を語るのはヒラサワ自身だけで良い。知識も無く解釈を垂れるのは無粋と言う他ない。他人がヒラサワを解釈する行為自体を否定はしないが、少なくとも俺がそれをするのは無粋だと思っている。それだけだ。
ヒラサワはアイドルでも教祖でもなんでもない。ヒラサワはヒラサワ以外の何者でもなく、単なるファンやフォロワーである有象無象とコミュニケーションを取ろうとはしていない。ヒラサワはあなたの人生に対する答えを持っていない。俺が思うに、ヒラサワはただ問いかけているのだ。有象無象が手指に傷を付けて断崖絶壁を登る中、ヒラサワは崖に垂直に立って歩くことが出来る……そんな感じの謎かけを通して、ヒラサワは問いかけている。興味を持つも持たないも、参考にするもしないも、すべてはあなたが為すべき思考だ。
ここまで読んで俺のことをヒラサワの信者と断定するならそれで良い。俺もそれ以上の理解は求めない。それだけだ。
それはそれとして、だ。そろそろヒラサワのツイートに対し、毎日毎日無理やり肯定を示した空虚なリプライを飛ばすのはやめにしないか?
タイトルのとおり、昨日まで3日間フジロックに行ってきました。はてブでも話題になっていますが、私が見るかぎり、現地参戦した方がいなかったので、現地の状況をつらつらとお伝えします。
ちなみに、自分の状況は
です。なお、以下の記述は、あくまで私の観測範囲に限ること、殴り書きのため構成の不備や誤字脱字が多々あるであろうことをあらかじめ伝えておきます。
入場時は、検温と手指消毒、問診アプリの登録画面の提示が必須。これは再入場時も同様。
会場内では飲食時以外のマスク着用が必須とされていて、いわゆる「鼻マスク」の人や、非飲食時にマスクを外している人は徹底的に注意されていた。サージカルマスクはあくまで「推奨」という位置づけだったので、ウレタンマスクの観客も多々いたのが気がかり。「観客の白い息が中継に映っていた」みたいなブコメがあったが、あれはステージのスモークか、ウレタンマスクの人の吐息だと思う。
事前配布があったのは周知のとおり。会場にも抗原検査ブースがあって、検査を受けることができた。ちなみに、当日の検査で陽性の場合は会場には入れないのだが、検査はあくまで希望制なので、ここで入場不可になった人はゼロに等しいと思う。
消毒液は少なくとも入場ゲート・各仮設トイレ・出店に、手洗い場は各仮設トイレに設置してあった。ステージ付近にも設置してほしかった。
オーディエンスによるライブ中のいわゆる「声出し」は全くなかったので感心した。とはいえ、会話自体が禁止されているわけではないので、MC中や出番待ち中に連れと会話するような光景は当たり前のように見られた。もちろん大声ではないけど。
地面におよそ75cm程度(目測なので間違っていたら申し訳ない)の間隔でマーカーがついていて、その上に立つよう、毎度ライブが始まる前にMCからお願いされる。かなり遵守されていた一方、マーカーからズレている人がスタッフから注意される場面は見なかった。ちなみに、平沢進のステージで、観客が別の観客に注意している場面を見た。声出し禁止かつマスク必須なので、正直、客席の密度はあまり本質的な問題でないように思う。
どの出店にも、店員と客を仕切るパーテーションがついていたのと、店先に消毒液が置いてあったのは助かった。消毒液がどこも同じメーカーだったので、運営側の統一指示かも。
会場にはごく一部、飲食可能な座席が設置されている。入口近くの出店前にあったのは間隔をとったただのベンチだったが、奥のステージ近くの座席は、各席に消毒液が設置してあって、これも非常にありがたかった。設置された座席は対面できないようになっているが、芝生に椅子や敷物を置いて、グループで向かい合って食べる人も普通にいた。
ここからはもう私見でしかないけど、現地にいた人間の印象からすると、
という結果になりそう。起こるべくして起こるだろう。まず前者については、グループで来ている人たちは、連れ立って飲み食いするし、ホテルや旅館、テントに一緒に宿泊するので、グループ内感染は当たり前のように発生するはず。一方で、後者については、他観客からの飛沫・空気感染リスクがかなり低減されているので、グループ外への感染はそう起こらないと思う。しいていえば、仮設トイレのドアノブが原因になりそうなぐらい?結局、前者だろうと後者だろうと、起こってしまえば「フジロック感染」でひとくくりになるけど。
じゃあ運営は何をすればよかったのか、というと、参加者全員ワクチン2回接種の義務付けと、会場外も含めてグループ行動を禁止するぐらいの徹底した行動制限なんだろうな。ライブ中の感染対策を頑張っても、会食の機会が発生してはどうしようもない。
あと、ステージでは「補償」が叫ばれたけれども、補償だけでは地域経済が回らない。今後、今の病床ひっ迫が改善されたあとの話として、感染リスクを限りなく減らしたうえで、どうイベントを開催すべきか、模索する段階にあるんじゃないかなーと思った。
(追記)一応読んでいただいているようで嬉しい。ブコメありがとうございます。
ここまで読んでくださってありがとうございます。「声出ししなければ密度は関係ない」とは私は書いていませんし、私も聞いたことがありません。「屋外」で「声出し禁止」かつ「マスク必須」で、一定程度間隔をとった「フジロックの客席程度の密度」では、日常生活で使うスーパーやコンビニ、電車等に比べて明らかに感染リスクが低いので、そこをやり玉にあげてもあまり意味がないということです。