はてなキーワード: 反吐とは
俺は米津玄師が嫌いじゃ~~~~
まぁ俺は米津玄師にあったことないし、どんなヤツなのか知らんけど。
だから正しく言うならば、俺は米津玄師の作る曲が嫌いじゃ~~~~
大っ嫌いなんじゃ~~~~~~~~~~~
。
米津玄師の曲と初めて出会ったのは、まだ米津玄師がハチとして活動していたころなわけよ。
当時ニコ厨だったじゃん?俺。なんでニコニコ動画で「マトリョシカ」に出会っちゃうわけですよ。
ボーカロイドにあんま興味なかったけど、なんとなく動画を再生してみたわけよ。
。
つまんね~~~ツッハァ・・・こんなつまんねぇ曲が人気なのかよ・・・
。
そんな感想を抱いて、二度と再生することはなかったわけですよ。
そんな感想を抱いちゃった俺の予想に反して、ヤツとヤツの曲はメキメキと知名度を伸ばしたわけですよ。
今やその名を日本中にとどろかせちゃってるわけですよ。
俺のお袋ですら名前くらいは知ってんだぜ?やばくね?
。
米津玄師は天才、そんな評価を見るたびに米津玄師の曲を聴いてみたわけですよ。
しかし、やっぱつまんねぇ・・・「マトリョシカ」の頃と比べればバリエーションは豊富になったけども?
どんぐりころころとかと同じような感じに聴こえるわけですよ。
いや、これは言い過ぎたわ。現代風にアレンジしたどんぐりころころみたいな感覚というのが一番近い。
まーまー、でも嫌いってほどでもなかったわけです。はい。好きでも嫌いでもない。この時点では。
。
。
パプリ~カ 花がさい~た~ら~
。
聞いた瞬間、なんというか、はらわたが、煮えくりかって、きたわけですよ!!!!!!!!!
何故かって!?俺もわかんねぇよ。
でも俺はその曲を聴いた瞬間、これは音楽に対する冒涜だ!!とすら思ったわけですよ。
。
YouTubeが結果に出てきたよね。
詞・曲・編 : 米津玄師
これを知った瞬間から、米津玄師の作る曲全てが嫌いになってしまったよね。
つまんねぇとしか思っていなかった「マトリョシカ」も、聞いただけで反吐が出そうになっちまったよね。
。
なんだろうね、なんであんなに不愉快な気持ちになるんだろうね。
ちなみになぜ今書いたかというと、YouTubeのあなたにおすすめで「パプリカ」出てきてくっそムカついた思い出がよみがえったからね。
怒りに任せて書き殴ったね。あ~~~~~すっきりしたんじゃ~~~~~~~~
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ボコボコに叩かれるかと思ってたけど、俺と同じように気に喰わん人も結構いるんだと思ったね。
色々理由考えてくれてサンキュー。でも嫌いな理由はマジでわからん。生理的に嫌いとしか言いようがないね。
たださ、無理やり理由つけるとしたらさ、あの曲からあざとさ感じちゃうからかもしれないね。
いかにも裏の意味がありますよ~みたいな曲というか、思わせぶりっていうの?
そういうの、感じる・・・感じない?
俺は感じちゃうし、しかもそれを子供?に歌わせちゃうのがあざとい!!かわい子ぶっちゃって!!!!ぶりっ子だよコイツ!!!!!!!!
そういうの、なんか腹立つよね。うじうじしないではっきり言ったらどうなんですか?って思うよね。
感情を表現するのに、嘘の感情のせちゃってさ、舐めてんのか?って思うよね。
一曲そうなら全部の曲そういう風に聞こえてくるよね。うん。こじつけたらこんな感じ。
ちなみにさぁ・・・
。
なんならガキの頃「ぼっちゃん一緒に遊びましょ」を「おっさん一緒に遊びましょ」に替え歌して爆笑してたくらいには好き。やっぱそんなに好きじゃねぇな。
。
あとブコメで菅野よう子の5文字を見たんだけど、菅野よう子の作った曲にも嫌いな曲あってさぁ・・・
。
プラチナの歌いだし(わったしぃーのせぇーかいのとこ)めっちゃ嫌いじゃ~~~
大っ嫌いなんじゃ~~~~~~~~~~~~~
。
妹がCCさくら大好きだったから日曜日にCCさくら欠かさず見てたんだけど、OP見るたびサザエさん症候群なってたからね。
なのにCCさくらのOP見たらサザエさん症候群なってたからね。
CCさくらが始まりそうになったら自分の部屋に逃げてたからね、当時の俺。
。
その他で知ってる曲はライオンとカウボーイビバップのOPしか知らねぇ。
ていうか今でも好き。
私は広告業界で10年ほど広告制作の仕事をしていた。最初は総合代理店で、最後の半年はWEB広告代理店で。
そして昨年末をもって退職に至ったので、退職エントリではないが、なんとなくWEB広告の実情について
広告業界の人たちにも話したかったので文章にまとめることにした。
私はそれは、奢りではなく、むしろ戒めだと考えている。
なぜなら広告会社は、そういった矜持を自戒の念を込めて持っていないと、
私は新卒でとある広告代理店に入社し、そこから10年ほど制作を担当することになった。
最大手というわけではないが、時々全国規模のTVCM制作も手がける、そこそこの代理店である。
そこは、今となっては「働き方改革」の標語ひとつで一蹴されてしまうような、徹夜と休日出勤を繰り返す昔ながらの制作現場だった。
私はこれは、他ならない「文化からの転落への恐怖」に起因していると考えている。
タレントは不自然に微笑み、手放しで商品を褒める怪しいコピーで溢れかえり、
だからこそ代理店の制作者は、1ミリでも多く、見る者の目を楽しませる努力をする。
広告の枠を超えて世の中全般を動かせるような言葉を発信できないか苦悶する。
「ゴミ」と「文化」の間に横たわる深い河を、靴一足分だけでも超えられないか、
誰だって、自分は人生をすり減らしてゴミを作ってる、とは思いたくない。
そんなミリ単位のこだわりを爆発させていくうちに、時間外労働は積み上げられ、
(ホントにダラダラやってるだけのヤツもいるんだけど)
私は土日の撮影や徹夜のプレゼン準備が反吐が出るほど嫌いだったが、
そういういい歳こいたおじさん達が、1ミリでも良い物を作るために
わがままを通そうとする姿を見ているのは嫌いではなかった。
情熱大陸とかプロフェッショナルでは、プロ達は綺麗なオフィスでキラキラ仕事している場面ばかりだが、
現実のプロ達は深夜の制作会社の会議室で、ボロボロになりながら臭い鼻息を撒き散らして仕事に食らいついている。
繰り返されるのは、誰かが「もうこの辺で辞めにしませんか?」と言ってしまえば終わってしまうような脆弱な会議である。
しかし「少しでも良いものを作らないと俺たち生きてる意味ないよな」という不文律が全員の頭の中に共通して存在するから、
「もう辞めよう」と口にする人は一人もいない。そして1ミリだけ良くなった企画書を持って徹夜明けでプレゼンに挑む。
その情熱大陸が映さないような種類の、リアルな感じが好きだった。
まぁ、そういうおじさんおばさん達の見えない闘争が積み重なって、
「広告は文化」と心の中で思っていても怒られないくらいの社会風潮は出来たのではないかと思う。
過去の名作広告をまとめて本や番組が作られるくらいなのだから、一応文化と言っても差し支えはないだろう。
その会社で9年働いた後、私は縁あってWEB広告の代理店に転職することになった。
これが同じ「広告代理店」を冠しているが、とても同じ広告を作っているとは思えないような職場だったのである。
ここが広告という文化を殺して食べる、屠殺現場のような場所だった。
それは「数値化」だ。
WEBで広告を作る、ということは、制作物の全てを数字に置き換えることができる、ということなのである。
この広告が何秒見られたのか、どんなクラスターの何%が見たのか、何%が商品を買ったのか、広告のコスト効率はいくらか。
広告の全て数字で語ることができるのがWEB広告の独自性であり、実際私が居た会社はその強みを最大化するような戦い方をしていた。
すると何が起こるか。
たとえば、必ず視聴率やクリック率が高く出るような広告をつくる。
それはどういうヤツかというと、始まってすぐに「お得なキャンペーン」とか「今だけ何%ポイントキャッシュバック」といった数字を画面に大きく出すようなアレである。
誰もがあれに反応するわけではないが、一定層そういう数字に反射的に反応する人種の人たちがいる。だから結果的に数値はわかりやすく上向くのである。
コスト効率を上げる方法は2つしかない。前よりも大きく結果を出すか、制作費を削るか、である。
そういうわけから、WEB広告代理店では撮影や外注を行わない広告制作が奨励されている。
ストックフォトやフリー素材だけで制作すれば、地獄みたいなクオリティになるが原価はゼロに近づく。
そして前述の視聴率アップの手法があるので、不思議とそんなものでも視聴率が高かったりする。数千万かけて作ったTVCMより高かったりする。
その結果、コスト効率は上がり、「クライアントも喜んでいます!」という嘘みたいな報告が営業からは来るのだ。
私にはこれが、数字に裏付けされたゴミを作っているようにしか見えなかった。
始めにこのクオリティの広告を見た時「まともなクライアントがこれにお金を出すはずがない」と思っていた。
しかし実際は違う。喜んで買っている。そりゃそうだ、クライアントの持っているお金は「広告宣伝予算」であって「広告文化への投資予算」ではない。
RADWIMPSが歌うデザインされたTVCMであれ、フリー音源とポイント還元キャンペーンだけで出来たWEB動画であれ、効果が高そうなものにお金を払う。
なんとなく効きそうなだが高価な胃薬と、見た目はチープだが安価で効き目が数字で裏付けされている胃薬だったら、後者を選ぶ人は少なくない。
私が在籍していたのは半年程度だったが、WEB広告会社が大手代理店から仕事を奪ってきた、というようなニュースを度々耳にした。
かくして、広告という文化は、数値に裏付けられたゴミによって貪られ、じわじわと瓦解し始めている。
今なお「広告は文化だ」と思っているのは広告制作者を始めとする一部の広告ギークだけなのだろうか。
もしかしたら多くのクライアントサイドも、今では広告を文化だとは思っていないのかもしれない。
(思っている希少なクライアントもいる。代理店はそういうお客さんを大事にしてください。)
少なくとも、WEB系の広告会社にはそもそも広告を文化と思うような発想はない。
ただ忠実に、広告は言葉通りの「広告」なのだと彼らは思っている。
彼らは非難される立場ではない。だってそっちの方が本来の「広告」の語義には近いのだ。
「経済を回すための1つの因子」みたいな感じに思っているんだろうなぁ、きっと。
文化もろとも倒壊しているのにも気づかず勝ち気になっているのが我慢できなかった。
懐古趣味の「昔は良かったおばさん」みたいな話にはしたくなかったのだけど、
2019年、ついにWEB広告の出稿費がTVCMのそれを超えたという。
この先の広告業界がWEB業界を中心に回るのは日を見るより明らかだし、その時のエースプレイヤーは私が辞めたあの会社かもしれない。
しかし、あの地獄クオリティのWEB広告達を元に大学の授業が行われることはないだろうし、それを論じた本が出るようなこともない。
広告という「文化」は静かに解体され、彼らに食いつぶされ、いつの間にか消滅していることになるだろう。
私はそんな「冷たい熱帯魚」みたいな解体現場で確かに働いていた。
これは救命ボートからタイタニック号に乗り換えるような所業かもしれない。
ただ無邪気に文化を貪り続けるよりはマシだと思っている。
本屋にいくと女のために書かれた本があふれかえっている。
うんざりする。
傷ついていることにようやく気づきました。
バカじゃねえの。
まだ自己が未分化で、無知無力ゆえ暴力に見舞われやすい子どものためならまだいいが、
反吐が出るよ。
いったいいくつまで、自分らしくあることに、肯定され満たされていることに拘泥するつもりか。
自分らしくいられないこと、肯定されず満たされないことを男や社会のせいにするつもりか。
自分らしく生きられず、肯定されず、満たされないとしたら、それは誰のせいでもない。
おまえがブスだからだ。
おまえがブスなのは、塩基配列の結果なのでおまえのせいではないし、
もちろん男や他人のせいではない。
美しくないうえに、うまくいかなさを誰かのせいにして、
おまえは一生ブスのままっていうか経年変化によってますます醜くなり、手の施しようがなくなるじゃないか。
「おまえが満たされないのはおまえのせいだよ」と教えてくれる本は皆無である。
死ぬのに必要なことはなんだろうかと考え続けてきた。世間は自殺するなら迷惑をかけないように死んでくれと言ってくるが、実際病院のベッドで死ぬのだって看取る家族の心理的な負担があるし医療機関にも世話にならざるをえない。家でぽっくり死んでも警察の世話になる。自殺だってどれだけ静かに死んだところで最後に死体を見つけてもらわなければ死んだことにはならない。(行旅死亡人という文字面にはとても惹かれるものはあるが。)そうなると自殺だろうが病死だろうがもはや誰にも全く迷惑をかけずに死ぬというのは不可能なのではないかと思い至った。故に死ぬのに迷惑をかけずにとか考えるのはよした方がいいということにした。もちろん最小限にまで迷惑をかけないようにするつもりではあるが。
とりあえず上質な睡眠とそれなりに規則正しい食生活を心がけても毎夜毎晩こんなことを考えているし、段々と死ぬために済ませておきたいこと、時期、必要なものが具体的に思い浮かぶようになってきた。昼はニュートラルな感情で居られることも多いのに日が落ちてからはずっとこんなことを考えている。この状態になってしまった原因の根本が解決されずにずっと毎日同じ精神状態を繰り返すのは少し自転車操業に似ていると思った。
それにしたって本当に困るのは死にぞこなった時のことだ。誤って死にぞこなって病院で目を覚ましたら周りに誰がいるだろうか。居なかったら本当に助かるが、万が一周りにいた人に「気づけなくてごめんね」などと言われたら反吐がでる。別に気づいて欲しかったわけじゃない。おそらく自分が目を覚ました時にそばにいることの出来る人達とはもう相互理解を諦めたのだ。正しく知りもしないことを勝手な解釈で理解されるのは冗談じゃない。
そしてこんなことを考えていると朝になる。死ねないまま次の日を迎える。ちゃんと生きられるリミットだけが迫っている。それさえすれば生きていけそうな手続きや努力の類を行おうという気力はもうない。それなのにまだ生きている。
旦那と義父とディナーに行ったとき、入り口で「この後、他の客もみんな体調悪くなったら彼女(私)のせいだね」と笑っていて私は聞こえないフリをしたが、こういう冗談を平気で言えるイタリア人の性質が本当に嫌い。
嫌い過ぎて反吐が出る。
https://twitter.com/neghidaku/status/1223012317476147206?s=19
(上のツイートを引用して)「じゃあ、迷惑かけちゃいけないし、私だけここで帰りますね(ニコリ)」とか「そういう人種差別辞めてよ!(キレる)」のが正解のようですが、そうするとイタリア人からしたら「ジョークを流せない面倒なやつ」のレッテルを貼られるので二重で全く笑えない。
https://twitter.com/YurieAdachi/status/1223289747554144256?s=19
表に出てない奴らもいるが
当たり前だ かわいいイラストを当てただけで向こう側にいるのは人間だ
スキャンダルで嫌になったんだろう
二次元で三次元の嫌なところが頭で紐付けされたらそりゃかく気失せる奴が出てくるのも納得できる
まあ後バチャ豚の民度だよな
この絵師がやめた、この絵師が書くライバーを変えただの動画を作って挙げる奴ら 本当に反吐が出る
同じ人間だとは思いたくない
問題なのはその動画を大衆が見てニコ動のランキング入りを果たしている所だ
終わってる ここまでバチャ豚の民度は終わってたのか
絵師に警告 vには関わらないほうがいい
成功すればしたでママ〜とウザいファンがつき、失敗すれば大げさだがその娘の人生は終わり 有りもしない誹謗中傷も受けるだろう
百害あってまあ一利なし
「いまの若手に演技派がいない」
言っちゃ悪いが、大御所のデビュー作よりもよっぽど明らかに上手いのだ。
いや、本当に上手い。昔の声優のデビュー作を見ていると「よくこれでデビューできたなあ」と思うぐらいに棒読みだったりわざとらしかったりする。
その時代の演技のレベルそのものが低かったこともあるんだけれど、棒読みで、声に魅力がなく、今の水準でいえば演技自体ができてない声優がわんさかいた。
昔の、懐かしのアニメ特集とか見てみたらわかるよ。演技自体のレベルが圧倒的にわざとらしいし下手だもん。
だって、下手だもん。昔のアニメを見てると、演技が下手だなあと思う。耳が慣れてくるまでかなり根気が必要になる。
その頃の新人の演技を見てみると、よくこれでデビューしたなあと思う。
正直オーディションがあったのか疑うレベルで、今の水準からみると下手に聞こえる。
むしろ、今の声優業界は演技が高止まりしてるんだよね。演技が上手くてはまり役なのは当たり前って時代。
昔のアニメなんか見てると、違和感ありありで、「え? こんなに下手だった?」といつも驚く。叫び声、ふとしたしぐさにかかる演技、キメのセリフ。いまよりも明らかに下手だ。
こんなレベルの高い時代で、新人は過酷な競争に曝されてるのだが、昔の声優時代はもっと過酷だったかのようにまで言われるのを見ると、「いや、昔はそこまできつくなかったぞ」と思う。
漫画家はいまの新人は絵が自分のころより断然上手い」と素直に認めてるけれど、これはあらゆる業界において言えることだ。
昔は下手な中に上手い人がいたから目立ったが、今は「みんな上手いから、だれも上手さでは評価しない」という時代だ。
「昔は上手かった。いまは演技派がいない」とか半可通がえらそうに言ってるのを見ると反吐が出る。お前はまず今の基準で懐かしのアニメを見てこい。その下手さにひっくり返るぞ。
不本意な禁欲者、という原義では、間違いなく私はインセルだ。性自認は男、恋愛対象は女性。圧倒的マジョリティ。泣き言は許されない。
一昨日くらいに大学4年間でモテない男だってわかった、みたいな増田があったが、あんな邪悪なことはやってない。
ごく普通に、女性の方々に受け入れられなかっただけ。優しくお断りされること多々。
女性の友達は多くはないが居る。飲み会に誘ってくれるような人もいる。ただ、恋愛対象外なようだ。悲しいなぁ。
趣味関連で出会いは一切ない。料理とジム通いだけが趣味だから。
マッチングアプリも試したことはあるが、「(人を)検索」という行為が反吐が出るほど気持ち悪くてすぐ辞めた。しょうがない。
料理、ジム通い、仕事だけに時間を費やしてきた。料理は人から褒められるくらいうまくなったし、ジム通いは運動習慣として最適だろう。仕事も私自身が信頼され始めていると感じており、待遇も悪くない。人生としては悪くないのかもしれない。単純に、私が恋愛向きではなかったのだろう。
自分で料理した美味いもの食って仕事して余暇にジムへ行く。健康的な生活である。金がガンガン貯まるので、ちょっと高い食材にチャレンジしたり、いい靴やいい眼鏡を買ったりする。精神は充実はしてないし満足もしてないが、安定はしている。