2020-02-11

死のうかなと思う時に考える

死ぬのに必要なことはなんだろうかと考え続けてきた。世間自殺するなら迷惑をかけないように死んでくれと言ってくるが、実際病院のベッドで死ぬだって看取る家族心理的負担があるし医療機関にも世話にならざるをえない。家でぽっくり死んでも警察の世話になる。自殺だってどれだけ静かに死んだところで最後死体を見つけてもらわなければ死んだことにはならない。(行旅死亡人という文字面にはとても惹かれるものはあるが。)そうなると自殺だろうが病死だろうがもはや誰にも全く迷惑をかけずに死ぬというのは不可能なのではないかと思い至った。故に死ぬのに迷惑をかけずにとか考えるのはよした方がいいということにした。もちろん最小限にまで迷惑をかけないようにするつもりではあるが。

とりあえず上質な睡眠とそれなりに規則正しい食生活を心がけても毎夜毎晩こんなことを考えているし、段々と死ぬために済ませておきたいこと、時期、必要ものが具体的に思い浮かぶようになってきた。昼はニュートラル感情で居られることも多いのに日が落ちてからはずっとこんなことを考えている。この状態になってしまった原因の根本解決されずにずっと毎日同じ精神状態を繰り返すのは少し自転車操業に似ていると思った。

それにしたって本当に困るのは死にぞこなった時のことだ。誤って死にぞこなって病院で目を覚ましたら周りに誰がいるだろうか。居なかったら本当に助かるが、万が一周りにいた人に「気づけなくてごめんね」などと言われたら反吐がでる。別に気づいて欲しかったわけじゃない。おそらく自分が目を覚ました時にそばにいることの出来る人達とはもう相互理解を諦めたのだ。正しく知りもしないことを勝手解釈理解されるのは冗談じゃない。

そしてこんなことを考えていると朝になる。死ねないまま次の日を迎える。ちゃんと生きられるリミットけが迫っている。それさえすれば生きていけそうな手続き努力の類を行おうという気力はもうない。それなのにまだ生きている。

から死ぬのに必要なのはこんなことを考える余裕を吹き飛ばすとても強い衝動なんだろう。

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