はてなキーワード: 伝統とは
「ぼっち・ざ・ろっく!」、通称「墓石」が、アニメ作品としてヒットすれば、まんがタイムきららは危ない。ヒットしなくても危ない。
当たり前のように使われてるが、どう考えても良い言葉ではない。胸を張って「私は陰キャだ」と言える人なんて居ない。ネット上(に限らないが)で「陰キャ」という言葉が出たとき、その言葉を言われた対象が賞賛の的になっていることは皆無と言っていい。明らかに「陽キャ」こそ上位の存在だと見做している。「陰キャ」であることを短所と見做すしかなくなっている。「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公を見て、名誉ある人物だと思う人はいない。そういう風にこの主人公は作られている。
昔は「リア充」「非リア充」という言葉がよく使われていた。ネット民である「俺」や「お前ら」は、まず「非リア充」の方に位置していた。しかし昔のネット民は「リア充爆発しろ」だのと攻撃的な姿勢でいた。それは冗談でもあり虚勢でもあったが、俺達こそ素晴らしいのだという感覚を得ることができた。「非リア充」であることに誇りをもっていたと言ってよい。またリアルでの充実というのは、恋人の有無に限らないことであって、趣味に熱中することができるならそれもリアルでの充実と言えた。「陽/陰キャ」という言葉の場合、現実が楽しいかという次元の話ではない。ただ人間性について判断しているのであって、いくらネットで面白いことができても、趣味に熱中したところで、「陰キャ」と言われれば「陽キャ」には勝てない。現に「リア充爆発しろ」に相当する言葉をまとに見たことがない。
「陰キャ」という言葉は、かつてインターネッツではほとんど使われていなかった。しかし2015年前後から急速に当たり前の語彙となった。この言葉はインターネッツ発祥の言葉ではないだろう。しかし今、こうして当たり前の言葉となった原因はネット民に、ネット掲示板にある。それはなんでも実況Jが2ちゃんねるの都となってからのことだ。その時期といえば、とある炎上に関わった弁護士が大いに叩かれていた。かつてのネット民の意識であれば、「俺達は弁護士よりも上」だと言っていただろう。しかしいつしか、「弁護士は俺達よりも下」になっていた。
そもそも人間の性質を二つに分けることは乱暴なことだ。世の中に、完全に「陰キャ」でしかない人はほぼ存在しない。完全に「陽キャ」でしかない人もいない。人間には必ず陰と陽とがある。5対5のように、両方のバランスによって成り立っている。そのバランスは時と場合によって3対7や1対9のように変化していく。誰を相手にしているか、どの場所にいるかによっても変わる。本人の気分によっても変わる。学校では無口でも家では饒舌なら、それだって本人の「陽」の側面が強まっていることになる。ネットでは強気になれるなら、それも「陽」と言っていい。ただし、そんな時にも「陰」の面はある。また、自分では「陽キャ」だと思っていても、他人からは「陰キャ」だと思われていることもある。自他の認識によって、人間の性質は変わる。
我々は、「陰キャ」という言葉を見たとき、「陰キャ」と呼ばれる人を見たとき、絶対に自分の中にある「陰キャ」の側面を実感している。全員が共感できるから、「陰キャ」という言葉はここまで当たり前の言葉になっている。「陰キャ」という言葉が捉える範囲があまりに拡がりすぎている。使う人のさじ加減によっても変わってくる。
人が自分や他人を判断する材料が、「陰キャ」か「陽キャ」かしかないとは、短絡的なものだ。我々の人を見る目は蒙昧で貧弱なものになってしまう。
現在まんがタイムきららでは、「陰キャ」という言葉を全面に押し出している作品が三つある(正確にはその一つの連載は終了している)。「ぼっち・ざ・ろっく!」と「ななどなどなど」と「むすんで、つないで。」のことだ。いずれも主人公が「陰キャ」と言われたり自称したりしている。しかしこの主人公三人は、同じ「陰キャ」であるにもかかわらず、共通点がない。「陰キャ」である状態が異なっている。
「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公はまともに人と話すことができない。言葉を発すると緊張の度が過ぎて、たどたどしい滑稽な姿になる。
「ななどなどなど」の主人公は、問題なく人と会話が出来る。ただ、自尊心が強く、気高く、高圧的に人と接してしまうため、人との不和を起こす。そういう人間性から、この彼女は「陰キャ」と呼ばれた。
「むすんで、つないで。」の主人公は、自分のことを「陰キャ」だと思っているが、周囲からは憧れの的となっている。容姿端麗で、成績優秀だとして賞賛されている。間違っても「陰キャ」とは言われていない。このように、自己へ下す認識と、他人から与えられる認識に差異がある
「会話が困難な人」「会話は出来るが人格に問題がある」「会話もできるし人格も整っているが、その人自身は不安を消せないでいる」。これらは完全に別物であり、違った性格を持った人物の集まりだ。それなのにこの三人は、「陰キャ」だと一つにまとめられている。こうした乱暴な処理がなされた結果、「陰キャ」の意味は広く曖昧なものになった。
「まんがタイムきらら」の枠に留まらず、今や日本では、人間は「陰キャ」と「陽キャ」のどちらか二つに分類されるようになった。しかし人間はそこまで簡単に分類できるほど、単純に造られていない。漫画の登場人物ですら、多種多様な性格をもっている。繊細な性格によって表れ出ている人間の姿を、真っ二つに分けることなど、とうてい出来ない。出来るとすれば、相当に乱暴な作業と言うほかない。
ひどく曖昧な意味をもっている言葉を平然と使う。普通の人が日常会話でつい使ってしまうのならまだしも、漫画家という表現者が使うのはいかがなものか。使うのであれば、考えた上でやらなければならない。考えた上で使うことが出来ている作品は、「むすんで、つないで。」しかない。
こういう考えもあるかもしれない。「陰キャ」がもう当たり前の言葉となった以上は仕方がない。その言葉をあえて使うことで、読者の共感を得ることが容易になる。確かに「ぼっち・ざ・ろっく!」は、「陰キャ」という言葉によって、現代の我々の思考を写し取った作品になっている。しかし、それがまんがタイムきららにとって、いかに異質で危険なことか。それを考えなくてはならない。
一時期のまんがタイムきららは、多くの嘲弄を受けてきた。きららからアニメ化される作品は「日常系」と呼ばれ、「中身がない」だの「美少女動物園」だの散々言われていた。
そういった意見に間違いがないわけではないだろう。一つの正解であるとも言える。
しかし面白い作品のあり方はさまざまであってよい。劇的な物語がなければ、作品として成立しないなんてことはない。キャラクターが死ぬのを見れば、それは悲しいシーンとなる。涙を流すこともあるだろう。しかしその涙は、純粋な感動のためではなく、感動という暴力を受けて涙を流しているだけかもしれない。
何気ないことに心を動かされることがある。そのことを追求したのが、過去のまんがタイムきららだった。何気ない瞬間の美しさを、美少女キャラクターに託していたのだ。そのためには、細心の注意を払ってキャラクターをつくらなければならない。例外もあるとはいえ、人の死があるわけでもない、激越なバトルがあるわけでもない、何か大会で勝ち上がっていく過程もない。ただそこにはキャラクターがいる。読者の感性に訴えかけるキャラクターを描かなければならなかった。それがかつてのまんがタイムきららの様式だった。そうしてきららは、いくつもの作品を世に送り出してきて、少なからぬ成功を収めた。
そんなきららが、今では「陰キャ」「陽キャ」という、曖昧かつ極端な言葉にとらわれてキャラクターを作ろうとしている。これは創作の妥協であり、怠慢だ。きららが今まで築いてきたものを否定している。いわゆる「なろう系」や異世界転生もののように、圧倒的な成功を得られるならまだ良い。しかし「ぼっち・ざ・ろっく!」に圧倒的な成功や勝利や名誉の獲得はない。
きらら編集部は、人々の口に上ることの多い「陰キャ」という語を、訳もわからず商機と見做して漫画に取り入れたつもりなのだろう。しかし、この「陰キャ」という言葉は、近年の「インターネッツ」の売り物の一つなのだ。「陰キャ」の隣には「ショウガイジ」があり、「すき家でチーズ牛丼を注文する男性」も陳列されている。周囲を見渡せば大量の炎上コンテンツがある。「ゲイ向けのビデオ」があり、「大物YouTuber」もあり、「ネットに強い弁護士」もある。
きらら編集部がもし「ショウガイジ」を選択していたら、問題視されただろう。しかしさすがに、きらら編集部は「ショウガイジ」がまずい意味をもっていることを知っている。だから「陰キャ」を選んだというのか。特定の人種を差別しているわけではないと判断したためにか。「陰キャ」という語が、「ガイジ」と紙一重の意味合いと動機で使われていることをきらら編集部は知らないのか。知っていてやっているなら邪悪でしかない。知らないからといって、何でも認められるわけではない。「陰キャ」を使っていいのは、人の気も知らず、自分のことも顧みず、悪口でも何でも好き勝手使うネット民だけでよい。
まんがタイムきららの編集長は、「雑誌とは社会の公器であることを認識しなければならない」という教えを守っているのだという。「常に新しいことにチャレンジする」ために、「意識的に尖った作品を多く掲載するようにしている」側面があるのだという。その「尖った作品」の第一として挙げたのが、「ぼっち・ざ・ろっく!」だった。まんがタイムきららは、尖った作品を作るために、社会の公器であるために、ネット民の小競り合い、煽り合いを利用したということだ。
きららアニメは、今までニコニコ動画で散々「ゲイ向けビデオ」のコンテンツと共演させられてきた。きらら作品のキャラクターが「ガイジ」扱いされることも多かった。きららアニメの大元であるきらら編集部は、ついに自ら「インターネッツ」の汚れた部分に浸かることを決めた。しかも「社会の公器」であるから、「ガイジ」のような過激なものは使えず、なるべく穏当な「陰キャ」を手に取って、「インターネッツ」の人々と仲良くすることを選んだ。
編集長のインタビュー記事 https://www.mashiro-writer.com/interview-houbunsha70th
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功すれば、今後も「陰キャ」「陽キャ」という観点でキャラクターが作られるだろう。人間の性質を無理にでも二極化して行くだろう。過去の伝統を振り捨てて。
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功しなければ、新たに売れそうな漫画を作り出さなくてはならない。約五年前のように、一年に三つも四つもきらら出身のアニメが放送される時代は終わっている。過去に人気を博した作品も続々と完結している。現状のまんがタイムきららに見込みがありそうな漫画は数少ないと言ってよい。アニメ化が決定した「星屑テレパス」を含めれば、あと四つほどだろうか。「ぼっち・ざ・ろっく!」はきららの最終兵器とよく呼ばれている。最終兵器とはまるで後がないかのような言い回しだ。
eスポーツを必死に叩く人間と大量に接してきたが、一定の傾向が見えてきた。
最も代表的なのは、オリンピックへのeスポーツ採用を毛嫌いするような、伝統的スポーツの信者だ。
こっちの話はひとまず置いといて、もう一つの人種を挙げると、自尊心がないゲームオタクだ。
https://elken.hatenablog.com/entry/2020/09/30/224330
日本からlolのトッププレイヤーが出るより、どうぶつの森みたいな日本のゆるい空気だからこそ作れるゲームで外貨稼いだ方がよほど国益だ。
彼らの文章には以下の特徴がある。
自分は身体的に弱者で、だからゲームを選んだのに、ゲームの世界にまでスポーツを持ち込むなというわけだ。
自虐的な臭いがプンプンしてる。自尊心を得るのに失敗した男の典型だ。
弱い男にとって、マッチョイズムと体育会系の文化で成り立つeスポーツが怖いわけ。
自分の思う「伝統的なゲーム」観を歪まされて怒ってる人たちがesportsという異文化の進出に危機感を覚えているだけだと思うし、そういう人たちこそ「ゲームをやり続けて得られる然るべき地位」なんていうものの存在を信じていないんじゃないか?
オリンピックにeスポーツが進出するとか、その手のニュースに嫌悪感を抱くタイプ。
この辺はまだ理解できる。異文化の進出に危機感を覚えるのは不思議ではない。
一番理解できない、というか気持ち悪いのは、ゲームが好きな癖にeスポーツを憎む奴だ。
https://elken.hatenablog.com/entry/2020/09/30/224330
この手のゲーマーは「ゲームはくだらない物であるべき」という意味不明な信条を持っている。
ゆえに「ゲーマーの社会的地位の向上を!」というイデオロギーを示すeスポーツに対し、異常な嫌悪感を持つ。
おそらく、この手の輩はゲームで良い思いができなかったのだ。
名だたるプロゲーマーやゲーム実況者は、多くのファンに愛され、社会的地位も得ている。
一方、ただゲームをやり続て然るべき地位を得られなかった奴にとって、eスポーツのきらびやかさが目障りで仕方がないんだろう。
八丁味噌の仕込みに使用する木桶は直径、高さとも約2メートル、重さは約700キロ。桶の中には、約6トンのみそが入れられ、その上に3トンもの重石が円すい形に積み上げられて使用されます。
平均使用は約100年といわれ、創業延元二年(1337年)のまるやには現在、約200本の木桶があり、確認できるものでは元治元年(1864年)製が最古。近年では木桶を製作できる職人も減っているが、木桶の新調を重ね、伝統の道具で、昔ながらの味噌づくりを続け、変わらずおいしい八丁味噌を守り続けています。
明治以降と言っても既に150年くらいの時間は経ているわけで、確かにそれは十分に「伝統」と呼んでもいいだろう。
但し「明治以降の伝統」(仮に「新伝統」と呼ぶことにする)については、特に戦後の風潮と対比して「伝統だから守るべき」「伝統だから復帰すべき」という文脈で
使われる事が多いため、そういう多くのケースでは揶揄されても致し方なかろう。
「新伝統も伝統と見做す」そして「新伝統こそが正しい価値観である」という立場で語るなら、同時に明治期に「新伝統がそれ以前の(ダメな)伝統を駆逐した」
という立脚点に立つ事になる。すなわち「伝統は伝統だから正しい」のではなく「その価値観が正しいから古い価値観を駆逐できたのだ」とするしかない。
明治以降続いている価値観は確かに伝統と呼べると思うが、「新伝統」はあくまで「新」であって、「古い伝統は駆逐されてより良い価値観が取って替わった」
という歴史認識に立たなければ、「新伝統こそが正しい」という立場は成立しない。
すなわち「新伝統」を推すことは、「伝統である事自体には価値がない」という前提と本来表裏一体なのだ。
もちろん「古くから続いているならば、続いているほど良い」という基準ならば、(賛否はあるだろうが)論理的な矛盾はない。
但しその場合に「新伝統の価値観が正しい」とするのはおかしい。「より伝統的であること」が重要な価値であるなら、「新伝統」は戦後的風潮に次いで
2番目にダメな価値観ということになり、殊更に「新伝統」を推す意味はない。
「江戸以前(あるいは平安でも平城でもいいが)に還れ」という主張の方がより正しいことになる。
あるいは継続期間を重視して(あまり本邦では聞かないがバーク的な保守主義の立場ではありえる)「新伝統」の優位を主張する立場なら論理的にありえるが、
もはや戦後-現在が、維新-終戦とほぼ同じ時間が経過した今日、「戦後的価値観は、新伝統が風靡した期間と同じだけの時間の試練に耐えた」わけで、
これも現在では「新伝統」を推す立脚点にはなりえなくなってしまっている。
結局の所「新伝統こそ正しい価値観」とすなら、それは伝統性/持続性ではなく、その価値観の中身そのもので「他の価値観より優れている」と主張しなければ
論理的に成立しないのに、「伝統であること」に寄り掛かった主張をするから、その場合に揶揄されてしまうということなのだ。
まあ実際には「新伝統も伝統と見做す」という立場でなく、「実際にはそれは新伝統でしかない」事を隠して/知らずに、なされている「新伝統」推しが多いとは思うが。
という話はAIとは言えないレベルのプログラムが反応を返した数十年前から、まるで出来の悪いSF小説のようにある人は危機感とともに、またある人は新しい飯の食い扶持として盛んに議論されてきた
ここ数年の進化でにわかに現実味を帯び、さらにここ数ヶ月の画像生成系AIによって実際にイラストレーター界隈で筆を折る人まで出てきてしまった
クリエティブ領域をAIが侵略するのはまだまだ先だと言われていたものの、Microsoftが発表したデザイン系AIによってクリエイティブも焼け野原にされ駆逐されてしまうかもしれない
デザインで生活をしている私にとってもこれは由々しき事態で、かつて紙系のデザイン業界には二度の嵐が襲いかかり、卓越した職人技や伝統的な技法などが失われた
一度目の嵐は、活字を一文字ずつ拾う写植や、烏口やロットリングで手作業だったアナログ製版という分業で成り立っていた印刷業界を「DTP」という方式が統一してしまい、専門的な職人たちはデジタル移行への波に乗れず廃業を余儀なくされた
二度目の嵐は、このまま印刷物のデザインに留まるか、それともweb業界にも進出するかという岐路で、web業界へ漕ぎ出した会社や個人のことごとくは成長の一途をたどり、留まったものたちはまるで蠱毒の壺のような様相を呈している
ここにきて三度目の嵐だ
「過去の作品やデータを参照して機械学習を繰り返すAIに、新しいものは生み出せない」という言葉は虚しく消えかけている
何を隠そう、デザイナーの多くは先人たちが残したデザインをインプットし、そのほかに見て聞いて触った体験を織り交ぜてアウトプットをしている
時折、世間を騒がす盗作騒動も、こういったインプットからアウトプットまでの試行回数の差によるもので、こればかりはいつどのデザイナーが倒錯の謗りを受けるかなんて、神のみぞ知るところだ
もしデザイン系AIが過去のデザインだけを参照する単純なインプットだけを繰り返したのちに、ほかの領域の要素まで取り入れ始めたら勝てる気がしない
デザイナーが何日も頭を悩ませ、作っては消し、並び替えては戻しを繰り返し、出涸らしのような状態になりながらもひり出す工程が「AIなら2分で完了です」となったら、殺されたも同然だ
1970年代のはじめの日本では、婚約指輪を贈る人は結婚する人の50%にすぎず、ダイヤモンドの婚約指輪を贈る人は、そのうちのわずか7%でした。
そこでデビアス社はまず、企業のスローガンである「A diamond is forever」を「ダイヤモンドは永遠の輝き」という日本語のスローガンに訳しました。またダイヤモンドを愛の象徴と位置づけ、「ダイヤモンドは愛の証」というスローガンの婚約キャンペーンを開始しました。
開始から数年後、1つの問題が起こりました。「婚約指輪はいくらのものを買ったらよいのかわからない」という素朴な質問が、宝石店に数多く寄せられたのです。
そこでデビアス社と代理店は、消費者に勧める価格のガイドラインを設定しました。最初は給料1カ月分としましたが、結納の時、新郎から新婦に渡される結納金の全国平均が25歳男性の給料の2~3カ月分だったことに目を付けました。そして「婚約指輪は給料の3カ月分」というガイドラインができたのです。
これまた酷い話で、本来新婦は、婚約時に結納として給料の3か月分をもらえて、それを新生活の準備に充てられるはずだったのに、
パターンA
パターンB
・伝統
パターンC
パターンD
・何年の歴史がある
パターンE
・時代に応じ変遷がある
携わる人や環境の量が他よりも多いと感じそれに価値を感じる層対策
そのおっさんも「伝統」とはなんぞやと語るに足らぬ発想から言ったんじゃないのかしら
なぜに正確性を欠いて軽率に評価を言い含む表現を足したかというのは
「自分がそんな程度の価値しかそこに置いてないぞと、対象の層を比喩に用いて言ってみた」ってことなんじゃないのかな
察するにじゃあ「自分が大事だと思う情報の比喩方法は何か」という語彙がない人なんじゃない?
ということは、もしかしたらそのおっさんから重要な情報が発言されたとしても、だれもそれが重要だとは気付かないとかなるかもしんないね
そんな事はないぞ
1956(昭和31)年の入社から総務一筋、勤続66年のおばあちゃんとかそれに類する人たちとかいっぱい居る
そもそも女が家に入ってロクに仕事せずみたいなのは戦後からの話なので割と新しい伝統だ
(カカア天下の言葉に代表されるように女性の方が稼ぎが高かった地域もそれなりにある)
なのでマジでテキトーなことをしないで真面目に働くか、多少なりとも専門性のある仕事をすればよかっただけ
だけど、どうしようもない怠け者以外に、生まれ持った特性上難しい人がいるのは認識・理解している
なので怠けているわけではなく、生まれ持った特性上、フルタイムで熱心に働くのは難しい・専門性のある仕事をするのは難しい、
そういう視点で語られるべき
というか、元ツイートって「伝統」という言葉をポジティブな意味で使ってないよなぁと思うなど。特に「伝統的」という言い回しをする時はネガティブに使われる率が高い気がする。
増田の意見に関して言えるのは、まあ「伝統ではない」というのは間違いだとしても、単に「そんな伝統に価値は無い」と言われてる場面も多いだろうし、「だからどうした」の域を出ないかなぁ。