はてなキーワード: ウルトラマンとは
これが2005年らしいんですよね。
今から20年弱前。
この頃はまだ全然男女差別とか誰も気にしてないし、ウルトラマンや仮面ライダーに女が居ないことなんて誰も問題にしてなかった。
まあ20年って結構長いというか、第二次世界大戦から今日までが80年ぐらいなのでそのうちの1/4だって考えれば社会が変わるには十分な時間ではあるわけで。
でもちょっと驚きがありません?
平成中期の頃はテレビでこうした男女差別思想の刷り込みを子どもたちにしまくっても誰も何も言わなかったんですよ。
むしろ保育士や学校教師が「男なんだからしっかりしなさい!」「女なんだからもっと守りたくなるような態度を取りなさい!!」を刷り込んでいたんですよね。
なんか凄いなあ。
自分たちが若い頃にあった価値観なんてもう全然ゴミになっちゃったんだなって改めて感じるしかない。
これ本当怖いことですよ。
たとえば戦争中に生まれたような爺さん婆さんって今でも「天皇陛下さまさまさまさまが……」みたいな感じで世界を語るじゃないですか。
昭和天皇が崩御したのをテレビ中継したのって団塊世代は笑い話にしてるけど、その親世代は「なんとも痛ましくて寿命を分けてあげたかったですじゃよ……」みたいに言う人もいるわけで。
凄いよマジで。
今どきの天皇感って「いつだって忘れない◯◯◯◯は偉い人。そんなの常識」って感じでしょ?(これもだいぶ古いな。元ネタで◯に入る人名まだ覚えてます?)
日本人全体の世界観、人類全体の世界観自体が変わっていってるんですよねリアルタイムで。
怖くないですか?
そのスピード自体が加速しているのに、自分の体感速度はどんどん衰えていってる。
最近の基準がここ1年からここ5年になり10年になりいつかは30年や40年にさえなってしまう。
そうなったら「最近」の範囲の中でコロコロ世界が切り替わっていくことになるわけでもうついてけないんじゃないかな。
たとえばマニュアル車が全滅してオートマ車ばかりになっていくようなノリで、アクセルとブレーキの左右がある日入れ替わったとしたら、それを忘れて間違って踏み抜いた瞬間に自分と誰かが死ぬわけじゃないですか。
そういったレベルでの抜本的ルール変更に対して、脳が「いやーまだこのルールに慣れてなくて」と言い訳しだしたとして、それを周りの人がちゃんと分かってくれるのか不安でしかない。
セルフレジの前で泣き出したり暴れ出しちゃう老人ってこんな感じなんだろうな。
ショーシャンクスの空にで、アレがコレするじゃないですか、あの2人いる主人公のうちアッチの方が。
あの舞台は刑務所と外の世界でしたけど、外の世界の中でも時間の流れが早い場所と遅い場所があって、早い場所についていけなくて遅い場所にこもるようになったらもうそこから出られなくなるんだろうなと。
老人の生態の秘密がわかってきちゃったんですよ自分自身の未来の姿として。
恐怖しかない。
お外が怖いからって家に引きこもって、何故かスマホの使い方は詳しいけど他のことについては平成の初期ぐらいで置き去りになっちゃってる変なお爺ちゃんとかみたいになっちゃう流れがやっと分かってきた。
怖すぎる。
これは怖いよ。
だからセルフレジの前で暴れるようなノリで価値観の変化の前で「こんな突然変えられてついてけるわけないだろ!」って手をブンブン振り回して暴れちゃう人がいるんだな。
分かるぜその気持ち。
怖いよな。
俺もだ。
どうしたらいんだろうな……。
ゴジラはほぼ見たことなくて近作もシンしかみてないけど唐突に昭和ゴジラへ行った。
採用理由はふらっと見るなら知名度があるヘドラかなと思って選んだ。
(モスラ・キングギドラ・メカゴジラはシリーズもの過ぎる気がして避けた。)
テーマソングの「かえせ! 太陽を」は結構好き。でも汚れちまったときたら悲しみにが脳に割り込み処理されて困った。
同時に流れる海のヘドロもよくできてると思った。
映像と言えば試験管やシャーレのオタマジャクシのCG?はよかったし、チャレンジングなアニメーションも今から見ると昭和実写映像より見所があったし被害地域とシームレスになる演出はええやん!て思った。ミニチュアとかも予想よりはマイナスにならず気にならなかったけど、テレビへの映像のはめ込みはなぜか、かなり気になった。我ながら細かい。
ヘドラの造形もいいよね。目が横型でまぶたが外側になっているのがお気に入り。瞳が赤いのもいいしおたまじゃくしよりかはデメキンっぽいなと思ってた。ただ飛行形態はちょい雑かなって。あと光線の出る場所ももうちょっとこだわって瞳孔から出すか涙腺を意識するかしてほしかった。なんか目の辺りから適当に出してた印象。
対してゴジラは、うーん…クソダサくない?もっとダサいゴジラも居ると思うけど単体で見てもなんかね。首あたりが。やっぱ着ぐるみに首長は合わないよなあとゴジラが苦手な原因を再確認。でもなぜか最終決戦ではそこらへん気にならなくてかっこいいまであった。謎。
飛行シーンは最初見たときそりゃねえだろって気持ちとまあいいかぁ!って心が二つある~。最初飛ぶのはもう昭和人センスだからかと許せたけど、せめてポーズはもうちょっとあっただろといいたかったし、許した後にヘドラを掴んでカムバック飛行したときはそら許せませんわなぁ!となった。掴んで飛ぶことありきで最初の単独飛行もあのポーズになったと理解してやっぱ許せねぇ!ってなるよ。
怪獣映画はまあ怪獣プロレスを期待してるしゴジラの過去シリーズのどこかはそういう傾向になったらしかったことも見たことあったんだけど。それでも(思考が)人っぽいなあと感じることがあった。
ヘドラはゴジラを掴んで飛んでいい感じのくぼみに落としてヘドロ攻めするところとか。余談だけどこのシーン、ヤギコン好きな人にはたまらないだろうなと思う。ドロまみれであがくゴジラ、えっちくない?
ヘドラと鳴き声で意思疎通してる風なシーンがいくつかあったけど意味を推察することはできなかった。後述すると思うけどゴジラの立ち位置もわからなかったし。
一番辛かったのがしつこく繰り返される腕をちょいちょい(こいこい?)動かす場面。変則でちょっと顔を触って腕ちょいちょいもある。
あれまっっっったく意味わからんかった。最初は「帰れ帰れ」かと思ったけど終盤でもしてるし、「俺はやるぜ」的なヤンキーポーズなのかなと捉えたけれど、いやいらんだろ。俗っぽすぎる。人っぽい。人外生物の威嚇でも成立してない気がする。なんだろ、当時流行っていたポーズのオマージュなのかな?とにかくゴジラが独り腕を動かすだけのシーンが出るたびにテンポも死ぬし人っぽいしイライラした。
さらに悪い知性でいうと最後の人類の兵器をゴジラが活用して倒したこと。人類が一度動作させたのを見ていたならわかるけど一度も動かなかった謎の建造物を活用して倒したのは(偶然にしても)最悪だった。しかも一度ならず活用している。最後の執拗な死体損壊からの徹底的な焼却は動物的本能で飲み込んだけど、ゴジラが自分の熱線より強い人類兵器を(熱線を使い)活用して倒したのは賢いゴジラというよりは強者の生物的プライドがないゴジラだなぁと感じた。もう少しシナリオでカバーできた部分だと思う。(ゴジラは他でも賢いしコミカルな・俗な動きもするヤツだといわれればそうだろうけど)
ウルトラマン風ポーズは…一瞬だしサービスシーンとして許すよ。
そんな感じで作品の悪い部分はだいたいゴジラに集中する。そもそもゴジラは水爆実験の放射能汚染で誕生したんだっけ?詳しくないんだけどたしかそんな風だったと思う。で、人類への怒りとか警鐘をテーマとして少しは背負ってたのかな。
そんでヘドラが公害汚染から生まれた怪獣で、ある意味被害者の会の友じゃない?人っぽい動きするなら人っぽく共感が生まれそうだけど。
それをヘドラから人類を守るってのはなんかなぁ。執拗に人類を狙わず海でひっそり暮らせってスタンスならわからんでもない(からゴジラの腕クイクイは最初、余計なことせず帰れ帰れの意味じゃないかと考えた)
過去作で人類との和解があったのか既にヒーロー路線に入っていたのかはわからないけど、そんな人類(地球?)の守護者的なのはガメラさん担当じゃないのん?って。ガメラもしらんけど。今回空飛ぶし。それガメラさんちゃうの?って。後追いの後追い?
なぜゴジラが現れるのかってのはもうこの時代ですでに考えないお約束になっていたのだろうか。(住処の海をヘドロで汚染された怒りが拡散させそうなヘドラにも向いてたのかなぁと考えている)
公害テーマもわりと淡々としていて、ヘドラが出現したことによる人類全体への警鐘・反省感はやや薄い。いえね、本当に100万人集まって公害反対できればよかったねと言いたいわけではないの。あの彼ら以外のメディアとかの人々のヘドラの出現やその原因についての反応が結構淡白で、公害から生まれちゃったかーしゃーねーどうやって倒すべかなって雰囲気。まさに当時の人々そのままで風刺しているとも言えるけどね。環境を綺麗にするとか体内のヘドロを浄化するとかでアンチヘドラするんじゃなくて(ゴジラの初登場含め)焼却してまえ人々は退避してまえとヘドラへの向き合い方は普通のいち怪獣だった。だから公害はあくまで当時取り上げたテーマで、反公害への"強い"メッセージ性はそこまで感じなかった(無いとは言わない)。見る前の印象が「かなり異色中の異色作」だったから、視聴後はギリ普通の作品の範疇かなと印象を落ち着かせた。
ゴジラの最後のひとにらみが警鐘だ、と解説されてもうーん。わからんかったよ。人が作った兵器で倒して人にメンチ切るのはダサいと感じた。ただ「人原因のヘドラを俺に尻拭いさせんなよ」的な怒りは伝わった。悪く外して読むと「兵器ちゃんと使ってお前らで始末つけろや」みたいな(ゴジラさんのプロレスで壊れたんだけど)
不満たらたらな部分を多く書いたけどヘドラの怪獣の出来はいいしテーマもいい。人間部分もそんな悪くない。昭和映画と身構えても全然見れる映像だったし、トータルでいうと悪くない作品。ゴジラがあまりよくないとは逆に言えば別にゴジラ好きじゃない人間には減点になりにくいのかもしれない。
あ、あとゴジラさんなんかリジェネかかってません?目がつぶれっぱなしのヘドラに比べてヘドロが落ちてたりとダメージ描写はあるけどピンピンしててずるいと思いました。
ハッタショ増田は昨日暴れてたじゃん
「萎びた果物や野菜が貼っていいのは見栄じゃなくて半額シールなんだよ」とか
「レムちゃんヘスティアちゃん女神官ちゃんみたいなJKくらいの美少女と付き合いたいとかお前はそいつらと付き合うにあたって、何か功績や技能や才能あんのか?」とか
「性格悪い歳食ったババアが悪役令嬢みたいな真似事して、家柄最高で尽くしてくれる若いイケメン肉オナホ欲しい夢小説みてぇな人生歩みたいなら、海外で滞在費合わせて30万くらい叩いて元特殊部隊とかがインストラクターやってるところで準軍事訓練の稽古つけてもらってからテロリストとして活動するくらいしか方法なくね」
とか言ってた
ってことでいいんじゃないか?
駿が庵野好きなのは風立ちぬ周辺から一般人でもそれとなくわかってると思う。
んで今度はさらに、ちゅうか最後に庵野みたいな作品も作りたくなったんじゃね。
庵野なんかさーエヴァから始まってリブートまで、ゴジラはよかったけどウルトラマンもライダーもすっげー駄作じゃん。
一般人が見たらぽかーんでつまらない作品。でもオタクどもがうぞうぞ集まってアレがコーでコレがアーでオリジナルのあれが~当時のあれが~ってめっちゃ勝手にワイワイしてつまらない自己満足の視聴者にわからせるつもりが無い作品のいいとこ探しをそれこそ一生一所懸命にやってくれんの。そしてそのためにはわかんね~って言う見下せる一般視聴者が必要なのね。
対して駿はわかられすぎ。一般人にわかる作品を出してヒットして徹底的にわかられてやんの。
千と千尋もハウルももののけもみんなエモさを感じてテーマを感じて子供から大人までわかるわかるしてんの。
それこそ振るわなかった過去作品までさかのぼってわかるわかるされてんだよ。駿丸裸。
その成功には鈴木御大の手腕が大なところもあるだろうけど、駿本人はわかられすぎて不満もあったんじゃね。
ミステリアスさとか俗人とかけ離れた理解されないセンスとかさ~。もしかしたら駿は欲しかったのかもしれない。もうちょっとわかられたくなかったのかもしれない。
駿は鈴木とわれわれ凡百な人々によって俗物に引き摺り下ろされたんだよ。一般人にウケる大ヒットメーカー。世界の駿。
世界にウケる監督としての評価はあるけど誰も寄せ付けない天才のさらに天才、誰が彼の作品を100%わかるのか?という軸には行かなかった。
庵野はそっち方面に居て、ここ最近でさらに先鋭化していってる。
庵野が好きな駿もそっちに行こうとしたのでは。娯楽ヒットメーカーに飽きて、遺作だし好きにやろうって部分も大きいだろうけども。
そもそもそういう庵野化の兆しはポニョであった。あったよね?歌のヒットを除けば過去作品ほどわかるわかるされてなかった。一般人にはこれって…?て観想もままあった。
君たちはどう生きるかではついに抑えていたいろいろな何がしかのタガが外れて駿が好きに作った作品になったわけだ。
あとはわかるな?
よくわからない、あまり面白くなかったといった観想を一部のしたり顔「わかるマン」が叩いて回って俺はわかるぞと崇高な考察をあげつらう。一般人はいやでもつまらんし駄作だ。っていって反論はわからないから駄作ってやれやれ…と高みから見下す。いつものアレ。
駿、あんた大成功だよ。今頃大爆笑してるよ。俺は庵野のような作品を作れたんだって。いやいや作ろうとして作れるのはやっぱ天才だよ。駿すごい。
駿の庵野化には作品だけではダメでそれを見た視聴者がちゃんと庵野作品のような反応をしないとダメだった。そしてはてなだけを見てもそれは成功してる。俺が、俺たちが駿の生きたい方向に駿を押し上げられたんだ。
今まで俺たちは駿にとってシンに嬉しい視聴者じゃなかったかもしれない。でも遺作としてこうやって最後にわからない駄作と論じる視聴者になることで駿が喜ぶ視聴者になれたんだ。おめでとう。おめっとさん。
宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。
正直、観る前に想像してたより悪くなかった。
作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。
火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。
田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。
心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである。
敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。
なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているからである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。
でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、
まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。
これは褒めてない。
宮崎駿はもののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。
1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。
つまり、寓話的で哲学的で記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。
ムスカがラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。
「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」
妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。
その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。
本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作の快感である。
ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。
なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。
庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。
そこにはTV版エヴァのような溜めに溜めた便秘大解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコでしかない。
一方、宮崎駿はそれを哲学と記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界だから、やたらとデジャヴがある。
もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。
でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在か説明されてフェードアウトする。
エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズの世界になっても良かったのだ。
そこから進めて、「現代日本を主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。
ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である。
ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿のマイブームである。
そういう「意味」だけで構成されたパートだから、ストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話を職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである。
一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。
人力車の描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。
多分、キャノピーも実在のナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。
っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公の父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。
というのも、この父親はある意味で主人公と後妻という二人の問題の元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまうタイプ、
こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)
そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである。
経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場が意図せずに作り上げた鬱屈が爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。
主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。
しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作の快感を感じたのではないかと思う。
なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、
この父親は勝手にやらかすし勝手に決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、
前半には明らかに狂言回しだったこのキャラだけが、後半に「キャラが勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である。
そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である。
まあ、悪くなかったよ。
A.田舎で他にやることもないしエネルギーが有り余っているんだからとりあえず肉親探すんだろ
Q.あの塔はなんなの?
A.舞台装置に細かいこと考えすぎだろ。トトロの正体が実は祖父の幽霊でしたみたいな話をお前らは求めていたのか?
A.自分たちの王国を守りたかったけど、正しいやり方が分からないなりに頑張ってただけだろ。登場人物が全部完璧じゃなきゃいけないのか?
Q.ヒミはなんで炎が使えたの?その昔1年神隠しにあって帰ってきた娘はヒミでいいの?
A.それって本当に明かさないといけない謎か?湯婆婆は何者で湯屋はどうして産まれたのかを解き明かさなきゃ千尋の物語が完成しなかったのか?
A.神隠しにあうところだった後妻は助けたし、カーチャンにも一応会えたじゃん。あれで駄目なら千と千尋もラピュタもアウトになるのでは?
A.本を読みすぎて頭がおかしくなった人って設定がある時点で普通に考えても仕方ないでしょ。
A.服の柄が同じだったのと気風がどことなく似てたからじゃ駄目なの?
Q.主人公はなんでヒミの正体が分かったの?
A.顔付きでなんとなく分かるんじゃね?親子の絆とかそういう不思議な力もあるのかもね。
Q.ジャム塗り過ぎでは?
A.酒を溢れるほど注ぐのと同じような文化なのでは?それって本当に重要?
こうやって一つずつ考えていけば分かるけど、皆どうでもいい所にひっかかりすぎてるんだよ。
ひっかかるような作りにしてるのが悪いってのはあるかもだけど、それにしたって気にしすぎだろ。
シンウルトラマンに「主人公がヒロインの匂いを嗅ぐのが気持ち悪すぎたので★1です。それ以外は素晴らしかったのに残念」とレビューしてるようなもんじゃろ。
アホくさ。
神経質すぎるんだよ。
ウルトラマンシリーズ最新作、宇ルトラマンブレーザーがついに始まって、早速第一話を視聴したので、感想を書いてみる。
冒頭からこれまでのシリーズとは明らかに違う空気感でスタートし、夜のビル街を舞台にした怪獣と防衛部隊との攻防戦が描かれる。
そしてピンチになった人類の前に、未知の巨人が出現し、怪獣を倒して空に帰っていく。
ここまでのシチュエーション、いわば怪獣映画のクライマックス部分を取り出して、ナレーションなしで叩きつけてくるというのは多分これまでのTVシリーズではやった事がなかった。でも、これはほんの一年くらい前に見た覚えがある。シン・ウルトラマンの最初のパート、ネロンガ戦と同じ構成なんだ。
だからこれは、TV版スタッフから、シン・ウルトラマンに対するアンサーなんじゃないかと思っている。TVシリーズだってやれるぞ、という。
そして、ただの焼き直しにはなってないところがいいところだ。ネロンガ戦でプロット上のアラになってるところを丁寧に潰していってる。
「上」の意向に縛られてあっという間に手詰まりになってしまった禍特対に比べて、命令違反にならない範囲で自分達に有利な状況を作り出そうとするゲント隊長ははるかにプロっぽい。また、唐突に子供を助けに(ヘルメットも被らずに)飛び出していく神永に対して、いろいろな手段をシミュレーションした上で、自分が向かう事が最善と判断して「俺が行く」とやるところなんかもそうだ。