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2012-01-12

ファミコン日本を駄目にした」論 について について

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120112/p1

稽古事学習塾放課後休日に通われるものであり、それらが増えるということ=それだけ友達とのスケジュール調整が難しくなるということ であり、一人で遊ばざるを得ない時間が増えることでもある。

稽古事学習塾が、同年代と遊ぶ時間を奪うだけのものであるというのは間違い。

中学受験の塾では、志望校ごとのクラスが作られるので、そこで中学入学前に友達を作っておくことができるし、

高校受験の塾でも同様のことが行われていた。

稽古事学習塾は、別の学校に通っている同級生との出会いを生む場になっている。

 

では友達が居ない人間結婚しない人間が増えたのはなぜか?

友達配偶者が居ないデメリットを金で解決できるようになったからだと思う。

昔は家電が無かったので、日々の家事は重労働だった。

から一人暮らしは成り立たず、誰もが「親の家から出てすぐ結婚」もしくは「親の家から出て下宿を経て結婚」という道を辿っていた。

家事負担家電の登場という「技術進歩」によって軽減した今では、男たちには無理に結婚して他人と同居し、養ってやる必要がない。

女たちにとっても、均等法の施行によって自力で稼ぐチャンスが生まれたので、好きでもない男で妥協してまで結婚する必要がない。

要するに結婚しないデメリットが無くなってしまった。

旧世代の人間にも、今の世に生まれていたら結婚などしていなかったという人間は多いのではないか

熟年離婚の多さがそれを物語っているような気がする。彼らは元々結婚に向いていなかったのに、結婚しないと生活できないから無理に結婚していたのだ。

 

ではなぜ友達が居ない人間が増えたのだろう。

友達が居なくても暇がつぶせるようになったからだろうと思う。

ボードゲームも、ケードロも、草野球も、どんなに面白くても一人では遊べない。けれどもファミコンなら一人でも十分に遊べる

友達が居なくても生きていけるようになった理由も、「技術進歩」だ。

ゲームが無いころヒマでヒマでしょうがなかったのが、ゲームをやって楽しく過ごせるようになった。

自力で解決できない困ったことが起きたら知人に解決策を聞かなければならなかったのが、ネットで調べれば知人より精度の高い答えを得られるようになった。

夜中に急にものが必要になったときそれを持っている知人を頼らなければならなかったのが、深夜営業の店が増えて簡単に入手できるようになった。

ニッチレア製品を手に入れるためにはオタクコミュニティに属して関係構築しなければならなかったのが、

ネット通販オークションで金さえ払えば手に入れられるようになった。

技術進歩」によって、コミュニケーションをしなければ得られないものが減った。

コミュニケーションをとらなくても生きていくことが、欲望をみたすことができるようになった。

 

今あえてコミュニケーションをする人々は、コミュニケーション目的である人だけだ。

コミュニケーションを手段としてしか捉えていなかった人間は、今の世の中ではする必要がなくなった。

それによって少子化による経済停滞や孤独死の増加による巡回コストの増加も進むだろうが、時代を元に戻すことはできないだろう。

 

友達同士の助け合いには金銭が絡まないので税は取れないが、友達がおらず企業によるサービスを利用する人からは税を取れる。

恋人同士や夫婦間のセックスには金銭が絡まないので税は取れないが、キャバクラ風俗では税を取れる。

国の思惑はそうだったのかもしれない。

でも、若者は欲望を減らして最低限しか金を払わない方策に出た。

若者は頭がいいと思う。これからどうなっていくのか楽しみだ。

2011-12-26

もしドラ作者はふもっふ信者だったか

http://blogos.com/article/27749/?axis=b:57

あなたを愛している」と書いてあったとしても、「おまえを殺す」と読むことだってできるのです。

ふもっふ1話じゃねーか



「文面から察するに、これは敵意ある第三者から手紙

 いいか、この手紙・・・

 いつも遠くから見ているぞ この臆病者め♪

 貴様心臓の鼓動を止めて楽にしてやる

 放課後体育館の裏で待っていろ お前を・・・殺す♥

 などといった内容に違いない」

「なんでそうなるのよ。だいたいこれ女の子の字でしょ?」

「これは筆跡鑑定を逃れるための偽装工作だ。相手はプロかもしれん」

「やだなそんなプロ

2011-12-02

http://anond.hatelabo.jp/20111201235919

もしも(歴史にもしもはないけど、敢えて「もしも」の話をすれば)だけど、あなたの親が

一言も「勉強しろ」と言わなかったとしたら、あなたに全く干渉しなかったとしたら、どうだったんだろう?

私の親がそうだった。

欲しいものは与えられたし、好きなことをして高校卒業した。

ボンボンだった。

ポンっと60数万をもらったことがある。

で、私の人生はというと、遊びほうけたというわけでもなく、そこそこ勉強した。

大金をもらった時でさえ、セガサターンソフトを1枚、音楽CDを2枚くらい、ポータブルMDプレーヤーを買ったくらい。

友達を招いたり、友達の家に遊びに行けなかった理由は、

友達の家に行ったら、なにかご馳走されたりしたら(あとでお礼を言わなければならないから)ちゃんと全て報告しなさい」

と言われていたからだった。

母が祖母(姑)に

子供がよそ様のお世話になったら、ちゃんと親がお礼しなさい」

と言われたから、母は私にそう言っていることを私はわかってた。

私が友達の家に遊びに行くことが、親同士の外交問題になり、家同士の外交問題となると思うと、嫌だった。

「うちの子がお世話になりました」

「いえいえ、どうも」

みたいな会話をされることが、私には心底嫌だった。

そんなわけで小学生の頃から友達との関係は学校の中だけで、放課後休日は交わらなかった。

お金の使い方としては、たくさん使った日でも、半日ほどゲームセンターに入り浸って2000円くらい使う程度。

(本当にそのくらいしか使えなかった。一人でプリクラを撮るような性格じゃなかったし、UFOキャッチャーにも興味がなかった私は、100円2ゲームビデオゲームばかりで、1ゲームあたり30分くらいは遊んでいられた)

報告の義務さえなければ、と親を恨んだ。

完全に逆恨みだ。

「どうして私の友人関係に干渉するの?」

と強く出たが、そこは親も折れなかった。当然だ。親が正しい。

むしろ干渉の度合いはめちゃくちゃ少ない方だったろう。

「どうして勉強しろだとか言わないの?私に興味がないの?」

と言ったこともある。

冷静に考えればどう考えたって理想の親だ。

ぶっちゃけた話、私には不満がなかった。

ちょっと違うかな、私は、どう接されても満たされない、心に欠陥をもってる。

勉強しろと干渉されたらやはり文句を言ってたと思う。

友達ができなかったのは、親のせいじゃなく、コミュ障からだ。

そのことに気付いたのはつい最近

20代も終わりに近づいた頃。

あなたには私と同じ匂いを感じる。

私は非行に走るでもなく、そこそこいい大学に入った。

そこそこに、出世コースにも乗ってる。

もう一度言うけど、あなたも、生きろ。

2011-11-29

ブロガー自分意見書いてなんぼ

プロフェッショナルであれば正々堂々と記事を書けばはてブがつくのかもしれないが、

専門知識も新しい情報も持たない一般人である私にとって

自分が書ける範囲ではてブがつきやすい記事というのはこれしかない。

コメントしたい人に遊び場を提供してあげられる記事のことだ。



難しすぎず、かといってよみ飛ばして終わりというのでもなく、

少しだけ頭の体操になったり、その話題について他のやつと話題を共有できることが期待できるような話。

ニュースサイト管理人は、幅広い話題の中からそういう記事を選び、集めてきて読者に提供する。

自分が書くよりも、他の人が書いた良い素材を集めて、それをそのまんま提供するほうが価値が高い。




私は一般人のくせに、ニュース管理人みたいな努力をするのが嫌だ。

から自分適当ネタを考えて、それを提供する。

ゲームラノベネタ健康勉強ネタニュースネタなんかが作りやすい。

そうやって、自分の考えたネタで、はてブの人が遊んでくれているのを見ると嬉しいとか思ってた。

実際はニュースサイトの「恣意性」と、ブロガーの「品質保証責任をとらない」の悪いところどりしてただけなのにね。




今日いきなり飽きた。ふと学校についてのネタを書いてて急に醒めてしまった。

なにやってんだ俺。これ高校時代にやってたことの延長じゃねーか。

あの時も、一生懸命ネタ集めて、誇張して、クラス限定での盛り上がりを演出とか頑張ってた。

朝の授業始まる前とか中途半端な空き時間とか、暇を持て余してる時はそれで相手してもらえたけど、

放課後とかは誰にも相手にしてもらえなかったじゃないか

部活とか友達どうして遊ぶ輪に入れなくて、ぼっちだったじゃん。

俺の努力ってその場で消費されて、全然積み上がらなかったじゃん。

友達がいなくて、クラスで居場所が欲しくて、イジメられたくなくて、

それでヘラヘラしながら必死に話題作ってそれだけ終わったあの頃から何も進歩してねーじゃん。



何も築けてない。何も積み上がってない。相手の役にも立ってない。ただ時間つぶしになっただけだ。

うその必要もないのに、自分時間使って何やってんだ俺。

馬鹿だ。三つ子の魂とかいって、律儀に続けてる場合じゃない。




僕ははてブ狙いすぎて自分を見失っていました

もうやめる。絶対やめるんだ。

自分ために時間使って、はてなじゃなくてリアル側で友達の役に立てるような人間になるんだ。

ちゃんとした自分を積み上げるんだ。

2011-11-17

休みに聞こえて来た話。

高校生の娘がいるアラフィフお局と見た目ギャルアラサー女子社員の会話。

お局「昨日娘の高校に呼び出されてね。アイプチしてたのと、校内で携帯使ってたからって没収されてさ。今時の高校生お化粧ぐらいするよねー。」

女子「えーマジですかー」

お局「携帯だって、持って来ていいけど使っちゃダメなんて、じゃあ最初から持ち込み禁止にしたらいいじゃないの。」

女子「そうですよねー」

お局「校則にも化粧禁止とか書いてあって、高校なのにうるさくない?今時中学生でもお化粧してるのに。それに化粧じゃなくてアイプチなんだから、それくらいいいと思わない?」

女子普通ですよね、そんなの。コンプレックス隠しな訳ですし。」

お局「でしょでしょ。たかがそれくらいで仕事終わった後に中学校まで呼び出されるなんて、本当に腹が立ったわ」

今って親からしてそんな意識なのか。

ジェネレーションギャップってやつか。

つか何で校則にそんな禁止事項あるのか考えたことねーの?

携帯にしたって通学時に何かあった時のこと考えて、持ってた方がいいと言う学校判断はあるだろう。つかそれこそ保護者から授業中はダメでも、行き帰りぐらいはと言われてんじゃないの?

その娘は放課後に使ったと言うが、じゃあ学校出て使えば良かっただけなんじゃないか

とか隣から聞こえてきてるだけで会話に参加してないのに、ついツッコミ入れたくなって困った。

大体聞いてれば、この娘も学校から目を付けられるようなこと常日頃からやってるみたいだし。

夏休み茶髪にして染め直ししたけど、地毛がそもそも茶色なのでそれで先生マークされてるらしいとか、禁止されているアルバイトに行っていて毎週月曜日遅刻だとか。

どっちかってーとこんな親の仕事終わりまで学校で待ってなきゃいけない先生に同情した。ほんと、先生業って大変だなあ。

それにしても高校生学校に化粧して行くのが当たり前でいいのか?

いや、高校生は興味ある年頃だからわかるにしても、親がそれ認めてしまってる方が恐ろしい。

からあれこれいじってたら年寄ったら怖いぞ、と説教するような大人しか周囲にいなかったんで、今の「普通」の考え方が、あの会話の通りだったとしたらぞっとする。

2011-11-15

[]2011年11月14日

サーカスがやってくるらしい。

そして派手なポスターを見ると、この歳になっても、

つい、さらわれるんじゃないかと身構えてしまう。



そして昔を思い出す。

まだ小学生だった頃。

夏休みに同級生のN田くんが突然消えた事を。



N田くんの失踪当時の新聞で神隠しか?などと騒がれ、

川や山など大捜索したが結局は見つからなかった。



俺の地元は、当時はまだ至る所に空き地があったけど、

その中でも工場の跡地だったか、なんだかの大きな空き地サーカスが来ていた。

そして僕と仲の良かったN田くんはこの田舎町にやって来たサーカスという非日常に興奮し、

テント毎日通っていた。



もちろん中には入れないので、僕とN田くんはテントの周りをうろうろしているだけだったけど、

おじさんやおねえさんとそのうち仲良くなり、馬に乗せてもらったりしていた。

子どもも何人かいて、学校はどうしているのかな?と思っていた。



そんなある日、N田くんが突然「僕サーカスに入るわ」といいだした。



予兆はあった。

冗談っぽく、サーカス団長から「うちに来ないか?」「センスあるよ」とN田くんは言われていたのだ

(僕はバランス感覚が皆無で全くダメだった。N田君は簡単にボールの上にのれ、練習用の綱渡りも簡単にやれた)。

そして、彼はまんざらでもなかった。



N田くんは俺に「親は絶対に反対するから」といって、

「絶対に内緒にだよ」っと二人で指を切り秘密にすることを誓いあった。



N田くんの家は医者で裕福な家庭だった。

小学生だったのにピアノチェロも習っていたし、塾にも通っていた。

そんな彼がなんでサーカスに行きたいと言い出したのか俺には今でも分からない。

親もすごく優しい方で、どこに不満があったのだろう。



それから数日後、9月になり学校がはじまった放課後に本当に彼は消えてしまった。

仲が良かった俺はいろいろな大人にN田くんの好きな場所や、

行きそうなところを訪ねられたが、本当の事は決して言わなかった。



から俺はサーカスを見ると思う。

あの小屋の中でN田くんはピエロになってチェロを弾いているのだろうかと。

綱をわたって、ダガーをなげたりしているのかなぁと。

でも俺はさらわれたくはないと、畏怖心が心の底から沸いてくるのだ。

・・・・・

<追伸>

彼に弟がいることを思い出した。

どこで何をやっているのだろうか。ふと懐かしく思った。

2011-10-31

国旗を燃やす

20年前、高校で国旗を燃やすのがはやっていた。



ちなみに、職員室には赤旗があふれ、

放課後には、教師が駅前で赤いビラを配っていたものだ。

 

2011-10-26

とある真剣に働いていた高校教師の実態

http://anond.hatelabo.jp/20111025181753

を書いた元増田です

「何してるのそんなに」って意見もあったんで、少しだけ。

特定が嫌なので、多少始業時間など変えてあります

 

 

平日の場合

8時少し前に学校に着く(以前は7時半には着いていたけれど、最近は校門に立って挨拶とかもしなくなったので、この時間で間に合う)

今日の連絡事項の確認や、保護者からの欠席の連絡への対応今日やる「雑務関係」の確認(授業関係は、忘れようがないから確認しない。雑務は忘れがちなので毎朝確認)。

ここまでは、一般的な会社とそんなに変わらないと思う。

 

 

朝のHR

教室に行って挨拶。連絡事項を伝えて出席つけて生徒観察。

正直、連絡事項を伝えるだけなら誰でも出来る仕事。でも、生徒の変調を見逃さないためには大事だし、本気でやろうと思えば、毎朝何らかの話を用意しておく・生徒一人一人に話をさせるとかもできる。

最近は手を抜いているから、行って口頭で連絡事項伝えておしまい

 

 

授業開始~

授業は、一日に3~4コマ程度です。授業は教師の仕事の中ではわかりやすい仕事の一つだと思うので、説明しません。

強いて言えば、HR総合などもきちんと計画たてて準備してやってますよ、ってくらいですね。

高校の場合、多い日で一日4コマ200分程度空いているわけですが、その間何をしているのか。


 

ここまでで、大体160分くらい使ってますね。

残りの時間は、授業の準備に使ってます

もちろん、この時間だけじゃ授業の準備は終わらないので、詳しくは後ほど。


本当はここで生徒関係の事もやってますが、便宜上分けて後にまとめて記述します。

 

 

休み

生徒が質問に来たりして、ご飯食べてる時間がないので、昼休みは生徒対応で大体終わります

ですので、上に書いた、授業と授業の間の空き時間などでご飯を食べます

教員の休憩時間も、生徒と同じでここに設定されているので、ここで食べないと、午後も授業が詰まってたりすると、最悪放課後まで食事出来ません。

最近は、昼休みに職員室から逃げ出して、生徒に見つからないところで食事しています。これなら生徒が質問に来たりすることもありませんから

 

帰りのHR

朝と同じです

 


放課

部活です毎日活動しているので強制です

夜七時前くらいまで拘束されます部活自体はもう少し早く終わりますが、生徒が完全下校するのを確認したりするので)。

 


部活終了後~

ようやく翌日の授業の準備が出来ます

 

私は、良い授業をするためには、一回の授業に三倍の時間準備をしなさい、と教わりました。

前述したように、一日の授業数は3~4コマ

毎日9~12時間かける必要がありますね。


当然無理です。ここから9時間も授業準備したら、朝4時ですからですので、「良い授業」をするのは早々にあきらめます

一回の授業につき、15~20分程度しか準備しません。

これなら8時には授業準備が終わります


8時から、生徒に直接関わる仕事します。

学級日誌系もそうですが、小テストの採点や、生徒一人一人にコメントをつけたり、回収したノートの確認などです

コメントとかやらなければ、もっと早く終わります最近はここも手を抜いて極力何も書きません。

もちろん、生徒の反応は明らかに変わりますコメントを書いてあげた方が、モチベーションが上がって成績もあがります

ですが、丁寧にきめ細かに見ていくと、終わりがありません。


今では、手を抜きまくって、9時過ぎには学校を出られるようになりました。


授業準備の時間は、最初の半分以下に減っています

生徒に関わる時間も、最初の半分以下に減っています

テストや補講の数が激減しました。

回収物や返却物に、一人一人コメントを書いたり、きちんと目を通したりすることもなくなりました。

宿題なんて、回収してやってあるかだけチェックして、答え配って各自で答え合わせさせてます


授業準備はともかくとして、これらを全部きちんとやったら、0時過ぎても帰れません。


ブクマ米へまとめて返信

現状、お役所的事務作業さえきっちりやっておけば、「良い教師」と認定されます

授業の内容がどんなにグダグダでも、担当教科の生徒の学力が下がっていても、明確な判断基準がないので、よっぽどの事がなければそれでクビになったりはしません。

極端な話、少しでも早く帰りたかったら、必須とされる事務作業だけやって、生徒の話も聞かず、授業も全て教科書を読むだけにして、後は各自で自習させて、部活も活動拒否すれば、毎日定時で帰れます

 

それが生徒のためになるかどうかは知りませんが。

 

民間経験があったのは良かったと思います

そのまま教員になった人は、やはり少しおかしい。

現状に問題意識は持っていても、業務効率化という概念はない。


給料は減ってもいい。別にそんなに金欲しくない。

けど、まともな就業時間で、まともに生徒と向き合える仕事にしてくれ。

定期考査前に生徒が職員室に質問に来たり、何か生徒に問題が起きると、最初は「俺の出番だ。がんばろう」と思ってたけど、最近は「面倒くせぇこと持ち込むなよカスが」とすら思う。

 

効率な業務の一例で言えば、起案とったりとかですかね。

例えばみんなが目にした事のある物で言えば、学級通信とか。

あれを配ろうと思ったら、東京都場合、まずPC上で起案して、起案番号なる物を取得して、関係分掌の担当教員などに判子をもらって回らないといけない。

学級津心に限らず、外部に配布する物は全てこれが必要。

要するに、個人情報保護とかそういう問題で。お題目としては「外部に配布する物は、教員個人個人が勝手に作れないようにして、きちんと各部署でチェックしましょうねー」ってこと。


一事が万事こんな感じ。

問題起きた時に「我々(上層部)はきちんとルールを作って、やらせてました」と言うためだけの作業が非常に多い。


三年生担任にもなると、前の会社の一つの部署で作ってた書類より遙かに多い量の書類を、一人の教員が作ってる。そんじょそこらITベンチャー一年間で書く書類の量より多いと思う。

で、そのほとんどが、有名無実。


ブ米で、「三年目には転職前よりマシな生活手に入れた」とか書いてる人いますが、殺意覚えるんでやめてください。

生徒と関わるのが仕事なのに、生徒と関わる時間減らして労働時間削って、何が「マシな生活」ですか。

本音を言えば、今だって毎回一人一人の小テストコメント書いて返したいし、一人一人と毎日ちゃんと挨拶して、話しかけてくる生徒全てにきちんと受け答えしたいんですよ。

でも、それをやったら日付変わる前に帰れないし、毎日それを続けていたら死ぬと思ったから、やめたんです

就業時間は確かに減りましたよ。

でも、それって本当に「マシな生活」ですかね。

2011-09-20

運が悪いだけです

サラ金の両親のもとに生まれました。ネット界隈では在日認定されています

転勤族ですから、幼馴染も親友もいません。みな空気です。どうせ引っ越すからと、薄い付き合いを心がけました。電話帳にはもう何年も連絡のない人ばかりが溜まっています。僕はその程度に薄い人間です

高校の入試は出来が良かったし面接就活よりうまく行ってたのに、落ちました。翌年、その高校は不当に他学区の学生合格にしていないと指導されました。偏差値高い公立なのにやることえげつないですね。

そうして偏差値の低い私立高校に通うようになり、部活も続けました。でも、中学の頃より内容、上下関係時間などに厳しく、先輩は全国出場の過去の威光を輝かせ、地方大会の僕は見向きもされませんでした。事実、ピークはその先輩がいた時期で下り坂となり、今は私が通った中学と同程度の弱小校となりました。

こうやって貴重な放課後を結果的にスポイルされ、勉強はそこそこできてもやる気が起きないのでそのままエスカレーター進学することにしました。今思えば適当にやってる部活ほど素晴らしいものはないなと思います

大学生活はもう廃人同然で、何に対しても好奇が湧かず、適当ネット見てヘラヘラしたり、たまに本気出して教授に褒められたりしての生活を繰り返しました。遅刻常習なので成績は下の上ですが。

さて、就活です。当然何も話すことはなく、1を100にしてよいとは言うものの0ばかりの私の人生は私から見ても無味乾燥でした。当然面接で躓き無い内定になりました。

これが気にならないようで結構堪え、精神を患ったかどうかはわかりませんが気落ちして三日三晩水だけ飲んで横になるような生活を送り、気がつけば退学していました。

今も何もしていません。何もする気は起きませんし、しても邪魔なだけでしょう。無価値人間はなにもしない方が良いのです。生きることさえ。

運が悪いだけです

2011-09-02

「構ってちゃんw」という嘲笑

 「構ってちゃんかよw」という嘲笑はネット上においてあまた見受けられるが、思うにこのような嘲笑を行う人間は、恐らく幼少時に自分承認欲求をことごとく満たすことに成功したのだろう

 愛情溢れる父母、悩みを聞いてくれる先生放課後お喋りに興じられるような友達、そういう関係を過去に持つことができて初めて、「構ってちゃんw」という嘲笑は成立するのだと思う

 愛された経験を持つがゆえの不寛容に、私はありし日のことを思い返す

2011-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20110818101330

ああまあ

学校部活動で芸事を身につけようと思ったら

入学前によほど選ばないとね。

放課後美術部行ってるよりは美大予備校行ったほうがいいし。

受験するつもりがない人間ですらね。

2011-08-16

絶望格差

S市は大きな都市で、周辺から人口を収奪しながら今も大きくなっています。その中心部が私の生まれ故郷で、小学3年生の秋に、私の一家は郊外のH町に移りました。私の父は、そこそこ社会的成功した人で、広い庭が欲しかったらしく、彼の希望に合致する約600坪というまとまった土地たまたまH町で購入できたので、私もH町を第二の故郷にすることになりました。

H町は旧炭鉱地で、私たちが越した頃から急速にベッドタウンとしての開発が進みましたが、私がH町民になった頃はまだ開発が本格化する直前で、住民は貧しい人がたくさんいました。私が大学生になって、東京に出ていく頃には、町の人口は私が来た時の3倍になっていて、今ではH町の一部の地域は高級住宅地として知られています

引っ越した頃、私は「お高くとまっている」と言われて軽いいじめをうけました。でもそこで、正面からぶつかっていったのでかえって仲良くなって、みんなに溶け込むことが出来ました。私は他の人たちを見下していたわけではないのですが、H町の同級生の目に「お高くとまっている」ように見えたとしても無理はなかっただろうと思います男子女子ジャージを着ているような土地で、かわいらしいフリルのついた服で登校していればそれは異質感がきわだちます。私はS市では当たり前だったことをそのまま当たり前に続けていただけだったのですが、それらがすべてH町民への批判になってしまっていたのでした。

とは言っても、私もそうですし、うちの家族は基本的にだらしないというか、ずぼらな人たちなので、すぐにH町に染まってしまいました。「お屋敷みたいな家に住んでいて、どんな人たちかと思っていたら、気さくな人たちで良かったわ」とはよく言われたものです

私は学校勉強は出来たのですが、H町の子供たちの学力はS市に比べればずっとずっと劣っていました。そして意外かもしれませんが、子供たちはそれを自覚していました。なんとか頑張ろうとしている子もたくさんいて、でも、出来ない子が多すぎるので授業の進みは遅いし、家に帰っても勉強を教えてくれる人もいないし、塾とかもまだH町にはありませんでしたし、あったとしても、経済的には行けなかったりで、私が勉強を教えてあげると、「増田さんっていい人なのね」ということになって、私はすぐにクラスのまとめ役みたいになりました。

放課後には一緒に原っぱをジャージで走り回って、楽しい子供時代を過ごすことが出来ました。

でも、その頃から、町のあちこちで住宅開発が本格化して、それが本格化する直前にH町民になった私は、「原住民」の立場から町の歴史の移り変わりを眺めることになりました。ある日突然、遊び場だった山や原っぱが立ち入り禁止になって、重機が入って、造成していくのです。しばらくして瀟洒な家が立ち並ぶようになって、こぎれいな格好をした人たちが大量に「入植」してきました。

遊び場を奪われて、自分たちとかけ離れた生活をする新住民とその子供たちに、原住民子供たちが素直に好意を抱けるでしょうか?

中学の頃にはずっと新住民と原住民子供の冷たい対立がありました。大量に入ってきた新住民の子供たちは町に溶け込むこともなく、自分たちの色に塗り替えてしまいました。私はそれを原住民の立場から、でも、社会的な立場としてはむしろ新住民に近い人間として、対立や調停に巻き込まれることになりました。どちらから自分たちの側の人間だと思われて、なおかつどちらからも疎外されるような、そういう難しい立場に立たざるを得ませんでした。私の苦悩はむしろ先生たちと共有できていたと思います

新住民と原住民では利害が完全に異なるので、新住民は「出来ない子は切り捨ててどんどん授業を進めてください」と言うし、原住民教育学校に丸投げしてそのくせ自分たちの子にあわせろと主張します。先生は間に入ってかなり大変だったろうと思います

けれども年を経るごとに新住民は数的に圧倒的になって、原住民やその子供たちは自分たちのホームタウンにいながら、次第次第に切り捨てられるようになりました。高校生の頃にはもうこの種の問題は私の日常生活では見えなくなっていました。というのは、そもそも私が通っていた高校は地域ではわりあいレベルが高かったので、そもそも原住民子供ほとんどいなかったかです

小学校の頃から原住民であった同級生の多くは、今はおさだまりの底辺生活者になっていますフリーターだったり、肉体労働者だったり、18歳で子供を産んだりして、私が勉強を教えた子たちもほとんどは結局、貧困連鎖から抜け出すことは出来ませんでした。


ロンドン暴動を見ていて、なんとなく感じることがあります。あの生活費の高い都市で、高度に都市化された生活がかいまみられる状況で、決してそれには手が届かないことを知っている子供たちがどんな風に感じているのだろうと。

「頑張れば抜け出せる」

それは確かにそうなのでしょうし、そのためのアシストもあるのでしょうが日本の、一億総中流幻想があった頃でさえ、実体験から言えばやっぱり貧乏人の子の多くは貧乏人になったのでした。それがどれだけ難しいことなのか「新住民」の人たちは分かっていないと思います母親でさえ四大卒の家庭で育てられた人に、九九も満足に言えないような親に育てられることがどういうことなのか、わからないと思います

頑張らない、頑張らないことをむしろ奨励するのが貧困なのです。親や周囲を敵に回して、そういう中で子供ががんばるのは無理です

2011-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20110723000542

初体験は13歳、中二の頃。誘われて放課後教室で。

それから中学高校と女には困らなかった。

自分から誘ったり告白した事はないけど勝手に女が寄ってくる。

同級生、後輩、先輩。

学校理科準備室とかで休憩時間にやったりもした。

そんな事してたら二十歳くらいでセックスは割とどうでもよくなってしまった。

今は三十路。二十代半ばに結婚して嫁一筋。

嫁は性格と頭の良さで選んだ。嫁の外見は客観的に見てイマイチだが中身が良いので愛している。

今若い美人に誘われても浮気する気は起きないだろう。

そういうのはもう十代でやり尽くしたからな。

外見や若さ処女性に拘る事がどんだけつまらない事かは充分知ってる。



遊び足りないと感じるのは遅咲きのせいじゃないか

俺みたいに早咲きでとっとと枯れちまう人生は羨ましいと思う?

2011-07-17

セックスが嫌いなんじゃなくてセックスにまつわる大人の事情がヤなの

http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52477519.htmlv

言うまでもないとは思うけどセックスが嫌いな男なんて居ません(女性は嫌いな人がいても別に不思議だとは思いません)

ただ、私は基本的にクレクレ厨なので、他人のために何かやるのが嫌なんです

セックス自体はすごく気持ちいいし好きです

高校時代はすきだからやるだけだったから何も考えなしに楽しめました。

放課後ちょっとあって、すぐに部屋行ってセックスとかだったじゃん。

でも大学入ってからはいちいちセックスするためにデートしたりするのが必要になりすごいめんどくさくなりました。

思うんだけど、大学生女の子のほうが、高校のときよりずっと少女漫画みたいな恋愛を求めてるよね。

私が田舎者なだけかもしれまえんが、高校の時って基本的に好きだったらとりあえずセックスしとくかだったのに、

なんでこんなめんどくさいことするんだろう、と全く理解できません。

最近妊娠がどうとか結婚がどうとかそしたら仕事どうすんだとか年収がどうとか、

そういう話にもなってきて、いろいろ考えすぎてそもそも勃たないことすら出てきました。





大人ってつまんないよね。

2011-05-02

http://anond.hatelabo.jp/20110502215147

それは、おそらく



中学校が終わって」を



中学校卒業して

中学校の授業が終わったあとの放課後




という考えを取り違えている。

2011-04-23

牛頭さんの中学時代

中学1年の7月のことだった。私が朝学校に行くと、仲良しだった子が近づいてきて唐突にこう言った。「もう、ごずっちと口きけないんだ」 意味が分からなかった。転校でもするのかと尋ねても違うと首を振る。「もう決まったことだから。じゃあ頑張って」 そう言って彼女は去っていった。

彼女言葉は少なくて詳しい事情はまるで分からなかったが、悪い予感のようなものがあった。これはもしかしてあれじゃないか。どうしようどうしよう。背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。教室へ向かう階段を登りながら、もうこのままずっと教室に着かないでしいと思った。知るのが怖かったのだ。

教室のドアの前に立った私は蒼白だったと思う。頭の中に色んな想像が駆け巡り、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。ひざも少し震えていた。私は意を決して教室のドアを開ける。いつもと変わらない教室。でも私が入った瞬間、少しだけ空気が変わるのが分かった。スタート悪魔がせせら笑った気がした

はいつも通り「おはよー」と声をかける。だが挨拶は返ってこない。私の存在を無視してみんなはおしゃべりを続ける。目さえ合わせようとしない。女子男子も私がいないかのように振る舞っている。私は深く息を吐いた。泣いて騒ぎ出しそうな気持ちを必死で鎮めようとしたのだ。

昨日まで楽しかった学校拷問のように感じられた。誰からも話しかけられない。こちらから話かけても無視されてしまう。なぜ私なのだろう。何遍も考えてみたけど思い当たる節はなかった。実際のところ大した理由もないのだろう。何となく選ばれ何となく無視されているのだ。

私はこの状況をできるだけ軽い感じで受け入れようとした。これは思春期少年少女ありがちな他愛のないお遊びなんだ。こういうときは慌てず騒がず嵐が過ぎるのを待てばいい。恐らく長くても半年がせいぜいだろう。2年になればクラス替えもある。ちょろいちょろい。当時の私はそんな風に考えていた。

無視は1年生の間ずっと続いた。正直少し長いなと感じていたが、無視はあくまでクラス内だけの話で、他のクラスの子や部活内では普通に話をしていたので、思ったより辛くはなかった。学校勉強をする場所だと割り切ればどうということもなく、そんな自分の強さに少し驚いてもいた。

2年生になる際にクラス替えがあった。掲示されたクラス割を見ると、1年の時同じクラスだった子は4人だった。それも大人しそうな子ばかり。私はほっと胸をなでおろした。慣れてきたとは言え、無視されるのはやはり心地良いものはない。私は解放感を胸に新しい教室へと向かった。

私は教室に入った瞬間、既視感を覚えた。空気の流れや重さが変わる感じ。暗黙の了解に支配された教室。それは9ヶ月前と同じだった。私は自分の席に着いて隣の子に話しかけた。「おはよー。私ごずって言います。よろしくね」 隣の子は目を逸らした。私は四方に話かけたが全員同じ反応だった。

血の気が一気に引くのが分かった。寒くもないのに体が震えていた。何なのこれ。怖い。怖いよ。早く教室から逃げ出したい。家に帰ってベッドに入って布団を頭からかぶって、世界から情報を一切遮断したい。そんな気分だった。でも私は動けなかった。覚悟?諦め?違うよ。怖くて悲しかったんだ。

無視は一体いつまで続くのだろうか。2年生は修学旅行をはじめ色んな行事がある。中学生活を謳歌し思い出を作るにはうってつけの学年だ。それなのに初日から無視の洗礼だ。私は肩を落としながら部室へと向かった。部活けが私のオアシスだ。もし部活が無ければ私は登校拒否を選んでいたかもしれない。

オアシスは見るも無残に踏み荒らされていた。3年生を除いた1-2年生部員が私を無視し始めたのだ。このとき絶望は筆舌に尽くしがたい。もう学校に私の居場所はなくなってしまった。その日を境に私は部活に行かなくなった。

家に帰ってから枕に顔をうずめオンオン泣いた。枕カバーが涙とよだれと鼻水でべちょべちょになっても泣き続けた。夕食のとき目を真っ赤に腫らしていたら、お母さんが心配して「目どうした?泣いたの?学校で何かあった?」と聞いてきた。実は1年生の頃から無視されているんだなんてとても言えない。

「泣く練習してたんだ。演劇部に転部しようと思って」と私は苦し紛れの嘘をついた。お母さんは「そう…何かあったら相談しなよ」と言ってそれ以上何も聞かなかった。これは私の問題だ。お母さんを巻き込むわけにはいかない。登校拒否だって絶対するもんか。私はそう固く決意した

私は1日も休まず学校に通った。行事があるたびに孤立していたので、担任から牛頭さん、クラスのみんなと仲良くやってる?」と探りを入れられたが、「大丈夫です」と突っぱねた。一方で私は毎日誰かしらに話しかけるようにしていた。どこかに突破口のきっかけがあるはずだと信じていたのだ。

突破口などなかった。私とクラスメイトの間にはマジックミラーがあるのではと思うほど無視は徹底していた。正直頭がおかしくなりそうだった。何度登校拒否を考えた。転校も考えた。でも私は何も悪いことはしていない。逃げるような真似はしたくない。無視する連中に人生を左右されたくないと思った。

恐らく3年生になってクラス替えがあっても無視は続くのだろう。そう確信した私は中学を見限り、進学する高校を考えることにした。担任に頼んでうちの中学からの進学者が少ない高校をリストアップしてもらった。どこも私の学力では難しい学校ばかりだったが、毎日目標ができて私は嬉しかった。

それからというもの、勉強を聞くために職員室に足を運ぶことが多くなった。どの教科の先生も私の質問に快く応じてくれた。時たま内緒だぞと言ってお菓子をくれる先生もいた。考えてみればそれはごく普通ことなのだけど、 1年半以上も普通の反応をもらえない私にはそれがとても新鮮に思えた。

3年生になってクラス替えがあった。半ば覚悟していたが予想どおり無視されたときは思わず笑ってしまった。ひとり笑う私をクラスメイト不思議そうな目で眺めている。だから私は大声で叫んでやった。「無視生活3年目!落ち込んだりもしたけれど私は元気です!」 最高に気持ち良かった。

3年生になると周りが受験モードに移るので、以前ほど孤立は気にならなくなった。休み時間勉強したり、図書室で勉強したりする人の姿も増えてきた。その頃、私は職員室の常連になっていて、放課後先生達とコーヒーを飲むことさえあった。先生はみんな私に優しかった。

年が明け受験シーズンに入った。滑り止めの私立高校は受かっていたが、そこはうちの中学からの進学者がそこそこ多い。絶対に行きたくはなかった。本命の公立高校は共学でレベルがやや高い。先生からは「ボーダーからランクを下げた方がいい」と言われていたが、私が受験校を変えることはなかった。

合格発表はお母さんと見に行った。高校は受験生報道陣で混み合っていた。私は人波の隙間から自分の番号を探した。するとお母さんが先に見つけて「あった!あったよ!」と騒ぎ始めた。私は「もー!自分で見つけたかったのにー」と言いながらも、お母さんに抱きついて一緒に喜びを分かち合った。

私もお母さんも笑顔で車に乗り込んだ。でも運転席のお母さんが「お祝いに何か食べて帰ろうか」と言った瞬間、私は感情が抑えきれなくなり、声を上げて泣き出してしまった。助手席で嗚咽を漏らす私の背中をお母さんが優しくさすってくれた。そこで私の感情ダムは決壊した

気づくと私は今までのことを洗いざらいお母さんに話し始めていた。話すにつれ、お母さんの顔は驚きから困惑に変わり、さらに悲哀を帯び、最後は私と同じ泣き顔になった。お母さんは何度も私にごめんねと侘び、私も同じようにお母さんにごめんねと言い続けた。お母さんは痛いくらい抱きしめてくれた。

その後、私は学校に行き担任に合格を伝えた。あと一番気になっていたことを聞いた。「私以外の合格者は何人ですか?」「男子が4人で女子牛頭も含めて3人だな」 念のため名前も聞いたが、同じクラスになったことがない人ばかりだった。もう大丈夫だ。これでもうお母さんを泣かせなくてすむ。

卒業式は何の感慨もわかなかった。私の卒業式合格発表の日、あの車内で終わっていたからだ。式が終わって教室に戻ると、クラスメイトアルバムに寄せ書きをした写真を撮り始めた。その様子を尻目に私はさっさと教室を後にした。私に声をかける人はいなかった。

下駄箱で靴を履いていると「牛頭さん」と声をかけられた。1年生のとき私に「もう、ごずっちと口きけないんだ」 と言った子だった。この期に及んで私に一体何の用だろうかと思っていると、彼女は「あのね…ごめんね」と言った。なぜかその言葉で、私とお母さんが流した涙が汚されたような気がした

「ごめんねってそれあんたの自己満足でしょ!自分が後腐れなく卒業したいからって今更ごめんねは無いでしょ!こっちはようやく解放されたのに最後最後味噌つけないでよ!」 私は思い切り啖呵を切って、走るようにその場を後にした

帰り際、校庭脇の焼却炉に卒業アルバムを投げ込んで、私の中学校生活は幕を閉じた。…なお、高校に入学してから10ヶ月近く経つが、無視されることもなく、バカな友達に囲まれ毎日楽しく過ごしている。おしまい

2011-04-10

嫌いになって別れたわけじゃない。

お互いのステップアップのために離れようとした

今でも大好きだし、会おうと思えば毎日会えるし、信頼関係は変わらない。

なのに最近、やっぱりもっと近くにいたいなーと感じてしまう。

休み時間に目で追ったり、放課後の誰もいない教室をのぞいたりする毎日

まったく未練がましいったらありゃしない!

初めての子は忘れられないって本当なんだな。

一番大切にしなきゃいけないのは今の相手だってわかってるのに。

幸せになってね。いっぱい食べて、いっぱい遊んで、賢くなってね。

君達が笑っていれば、せんせいはうれしい

2011-01-25

中学3年15歳。自分語りする。

おれの親父は高校を出てから20東京にいた。これは11歳のときに聞いた話だけどバツイチしい九州に転勤するにあたってオカンお見合い結婚地元郊外に家を建てた。ただ、同じ九州といっても通勤できる距離ではなく、ほぼ単身赴任のような状況で、親父は週末しか家にいなかった。そんな状況で二つ年上の姉が生まれ、おれが生まれ、三つ年下の妹が生まれた。

家にはオカン子供3人。何があったのかは知らないけど、オカンは何度も子育てが嫌になって、精神的におかしい時期があったらしい。そんな状況でもオカンは3人を育ててくれた。その点、オカンには本当に感謝してる。んで、親父はたまに家に帰ってくると、主に姉をかまって、オカンはといえば、末っ子の妹の面倒につきっきりだった。おれの遊び相手は、4歳のときに親父が家に持ち帰ってきたパソコンだった。

おれは、パソコンのことだけ考えながら小学校に進んだ。小6のときに胸倉掴まれて、「そんなんだから友達もできないんだよ!!」と親父に言われたけど、おれ自身は友達がいると自分で思ってた。パソコンじゃなく生身の人間の友達がいると。今思えば、あんなのは友達じゃなくて、本当の友達はパソコンだったんだろうな。認めたくない事実だけど。

県立高校の附属中学に入った。無勉で試験合格した最初の実力テストも上位2割に入れた。でもおれにはやる気なんて1ミリもなく、家に帰ったらネット上のコミュニティに入り浸ってた。

違和感小学校高学年の頃からすでにあった。学校生活でうまくいかない。でもおれは勉強はできるし、これからの時代に必要なパソコンも人並み以上に触れる。だから大丈夫だ。中学に入れば、おれを本当にわかってくれるやつがたくさんいるはずだ。と思っていた。しか現実は違った。周りが敵にしか見えなかった。なんで初対面のやつらに笑われなきゃいけないんだ。そう思っておれは入学二日目に、地元中学に転校しますと言って学校を休んだ。親父が単身赴任から飛んできた。「なんで転校するんだ」「学校いけばなんとかなる」伯母さんにも説教された。「アンタねえもうちょっと子供らしくしたらどうなの」

まあ、それから、けっこう回り道をしたと思う。なんだかんだで転校はしなかったけど、休む癖がついて、パソコンを夜遅くまで触って学校に行ったり行かなかったりを繰り返した。中2の学園祭映像制作したのがきっかけで、周りの見る目も変わってきた。しか違和感が残る。

中3になった。相変わらずパソコンが拠り所な、おれ。卒業記念のDVDをおれが作ることになっていたから、おれはそれしかすることがないって思ってた。んで、夜パソコンして、朝寝て、昼から学校。みたいライフスタイル学校で許容されてきたような気がしてた。でもなんか、かわいそうなものを見る目というか、なんというか。

だんだん、それについて思うようになった。生きた心地がしなかった。蓋をあけてみると、おれはチビなのにおっさんくさいしパソコンばっかりやってて、勉強もろくにできないクソ野郎。そして気づいてしまった。自分が今までやってきたことは、しょうもないことだったと。自分は今までパソコンに支配されてきたと。そう思ったのが正月だった。

規則正しい生活をしよう。高校から運動系部活をしようと思う。勉強もやろう。生身の友達をたくさんつくろう。人に評価される人間になろう。高校から第二の人生スタートだ。今までおれを馬鹿にしてきたやつらを見返してやる。志望は東大文一。弁護士にでもなろうか。

そう思いつつ、今日も昼に起きた。学校行きたくないけど、卒業DVD作らなきゃいけないから、放課後に登校。女子disられた。そりゃそうだけどさ。どうせみんな、夜遅くまでネトゲやってたと思ってんだろうな。昨日、24時に寝たのに。どうしたら朝学校に起きられるんだろう。やっぱりまだパソコンに頼りっきりなのかな。パソコンとかを一切絶って、学校生活に全力を注ごうか。

おれはこの中学3年間を通して教育の必要性を痛感した。おれが子供をつくったら人間らしく育ててやりたいと思う。

まあ自分語りはここらへんにしとこう。

2011-01-08

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110106とhttp://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080203を読んで思った。

自分とこのブログに書くと容易に身元バレするんでこっちに書く。



僕はろくでもない中学校にいた。県下で有名な、警察もうちの中学名前を出すとしかめ面するような学校

そして、僕はそこの現実をとても興味深いと思い、世の中をわたるすべも覚えた。

定期試験最中に後ろの席のヤンキーに答えを見せるのくらいは当たり前。

放課後教室セクースしていたヤンキーアベック学級委員として見過ごさせていただくとか。

ヤンキー男に絡まれてたかられたらその男と肉体関係のあるヤンキー女子に頼み込んで許してもらうとか。

そういうのをたくさん覚えた。ついでにそのヤンキー女子筆おろしをしてもらったのは秘密だ。

美形でおっぱいの形もよかった。




でも僕はそういうのが嫌で、ちょっと離れた私立男子校に入学した

入学したはいいものの、中学校勉強しない癖、馴れ合う癖を覚えていた僕には、

受験少年院と言われていたその男子校の生活になじむのに1年くらいかかって、

もちろんその間の成績は最底辺だった。

今思えば東大10人も入れないごくごく中堅レベル進学校だったんだけどね。

最終的にはその高校を首席で卒業して、たぶんちきりんさんの通った大学に後輩として入学した




そこからが大きな違いだと思うんだけど、僕はその大学での生活をとても楽しんだ。

本来僕がいるべきなのはこういう人間集団なんだと思った。

“選ばれた人達だけで構成される集団の嘘くささ”はひしひしと感じたものの、

その嘘くささそのものを、僕はずっと追っかけて勉強してきたんだと素直に思えた。

その嘘くささが楽しかった。

中学や高校では得られない知的な刺激が多い友人たちとの会話に、自分がこれまで知らなかった世界を見た気がした




アルバイトもたくさんした。もちろん時給3000円の家庭教師した

お父さんもお母さんも僕に頭を下げたけど、当たり前だと思った。何しろ僕は頭がいいんだ。

からKDDオペレーターセブンイレブン居酒屋で働こうなんて思わなかった。

効率よく家庭教師をやり、ついで家庭教師派遣業みたい会社の立ち上げに関与し、

ちょっとしたお金を儲けた。

儲けたお金はぜーんぶ青短のFカップ立教Cカップ処女)と上智Aカップ処女)と昭和女子ビッチ東京海上一般職OLJALスチュワーデスに使っちゃったけどね。




就職活動は、法学部だったから、当然のように国家公務員試験を受けた。

だって、うちの大学にきて、国家公務員試験でないと意味いでしょ。

官庁訪問でも意気統合した人が何人かいて、内定をいただいた。

試験にも運よく合格した。平凡な成績だったけどね。

民間の就職活動したよ。都銀が人気だったか都銀内定ももらった。

就職活動を本格的に始める前にはBCGからもお手紙もらったよ。

僕はそれが何か知っていたので遊び半分で試験を受けに行って、準備万端のICU女子上智の小賢しそうな男に負けて面接落選した

しかたか上智Aカップを呼び出して中出しした




そしてそれから10年くらい経って、今はたんなる平凡な・・・だ。特筆すべきことは僕の人生に何もなかった。




みんなが好きで、みんなが目指す道を歩いてきたのに。




やはり人生は、迷った時にはマイノリティに身を委ねるべきだ。もちろん、それにふさわしい能力を身につけていることが前提だけど。

2010-12-25

小学生時代のこと。

授業か何かで演劇たいなのをやる機会があり、その練習のために放課後、誰かの家に集まることとなった。

地理的な関係で自分の家に劇のメンバーである男子女子が数名集まったのだが、入るなりみんな「わーっ!!」と家中(1F〜2F)をドタバタしまくり(なんだろう、絵に描いたようなわんぱく小学生というか…)

クラス内の授業のグループだったから、日頃お互いの家に行きあって遊ぶ友人関係とは違うのだが、そのあまりの違いに面食らった。

自分が「ちょ、ちょっと止めてよう!」と言っても当然聞く訳がない。

後で母親が「なんなのよもう!」と嘆いたので知ったのだが、どうやら冷蔵庫パカパカ開けて遊んだやつもいたらしい。初めて入った人の家でやるかなあ?(自分的には親しい友人の家でもやらない行為だと思うのだが

別に自分や普段遊ぶ友人がすんばらしい躾の行き届いた家庭育ちというわけではないと思うが

あれはちょっとひどかったよなあ…と、約20年たった今、ふと思い出した

2010-12-04

エロゲのような人生を送ってきました

幼い頃はよく笑い、男の子とも女の子ともよく遊んでいました

誰に対しても分け隔てなく接していました

悪口は言わず誰に対してもにこやかに笑って「遊ぼうよ」という子だったそうです

女の子とも遊んでいましたスカートめくりといったイタズラとは無縁にすごしていました

とても感受性豊かでいろんな事に感動するのか、すぐ泣く泣き虫でした


小学校に入ったらすぐにいじめられました

どうやらクラスリーダー格の子に気に入られなかったんでしょう。

靴は隠されました

放課後oo公園集合な」と言われていくとそこには誰もいませんでした

2時間くらい待っていたら遠くから遊ぶはずだった友達が見ていました

いじめ、というものを経験するとぼくの何かが変わったようでした


親がいじめ気づき、すぐに転校しました

転校先ではうまく馴染めました

少年サッカーチームにも入りました

地元でやってるピアノ教室にも通い始めました

このころもまだ、男の子とも女の子とも分け隔てなく遊んでいました

近所の小さい子とも遊んだりしていました


小学校高学年になったときまた転校しました

その先ではあまり友達ができませんでした

もうすでにグループができている学校で「転校生いじめ」を受けました

無視、教科書がなくなる、机に落書き等、典型的なものは受けました

だから家でピアノを弾き、一人でリフティングをし、趣味としてギターをはじめました

ぼくの何かが消えてしまったようでした


勉強は小さいころからできました

それもいじめの対象になったのかもしれません。

でも、新しい知識を吸収するのが好きでした

特に歴史日本史)が大好きで、ずっと資料集を読んでいました

修学旅行はとてもつまらなかったのを覚えています。


中学生になって部活が始まりました

身体を動かしたかったのでバスケ部に入りました

身長は高くなかったのですがなぜか運動神経はよかったようでした

バスケが楽しくて庭にゴールも買ってもらいました

毎日練習したら上手くなりました

勉強も始めてやる英語が楽しくてずっと勉強していました

このころ、男の子とも女の子とも話さなくなっていました


ある日、同じクラス女の子アドレスを聞かれました

当時、携帯電話を持っているのはクラスに3,4人でした

ぼくはたまたま持っていてその子もたまたま持っていただけでした

その日から彼女メル友になりました


「好き」ってなんだろう。そう考えるようになりました

その子はぼくのことを「好き」だとメールで伝えてきたのです

ぼくもその時は思春期で、AVエロ本を読んでいてそこで間違った知識を得ていました

その本には『「好き」な人としかエッチはしない』と書いてあったのです

だからぼくは「好き」=「エッチしたい」と考えたのでした

今思えばなんて馬鹿げていたのでしょうか。

ぼくはその子の顔が好きなわけでも性格が好きなわけでもなかったのです

ただ、その子の中1にしてはちょっと成長した身体を好きになっていたんだと思います。

付き合うことにしました


付き合って半年がたつころにはじめてエッチしました

コンドームを先輩にもらい家にその子を呼びなんなく童貞を捨てました

これがよくなかったのでしょう。ぼくはエッチにハマってしまったのです

その子に特別な感情が湧くことはなく、思春期のそのエネルギーをただただその子にぶつけていただけでした

キスしましたキスが特別なものであるという感覚もありませんでした

ただ、目をつぶってしまえば同じ。そう考えていたのだと思います。


その子と別れたのは中3の夏です

その頃はもう親公認の仲になっていましたがふとしたことで喧嘩しました

喧嘩というか一方的にキレられた記憶しかありません。

ただ、「本当にわたしのこと「好き」なの?」と言われたので「今はどっちでもいい」

そうこたえました。それは本心した

正直な話、もうその子に「エッチしたい」と積極的には思わなくなっていたのです

エッチオナニーと違って、相手も楽しませなければいけないものです

それがおっくうになっていたんだと思います。

自分本位エッチしたかったんだと思います。

だからもう積極的に「きみが「好き」だよ」とは言えなかったのです

その子は泣いていました


その子とわかれたあと、一人の子がぼくに告白してきました

センパイのことが「好き」です」と。

ぼくはこの子と付き合うことにしましたぽっちゃりしている中2の子でした

あとはもうみなさんのご想像の通りです


ぼくに変化があったのは高校生になってからでした

中学生とき髪型やまゆ毛をいじる程度でごまかしてました

高校生になると髪も染めれるようになりました。でもそれより大きかったのは

顔がちょっとかっこよくなったことです。「イケメン」と言われるようになりました

そして高校では「好き」だと思った子に積極的に告白することにしました


それには理由がありました。ぼくは高校を受験するとき

どうしても二番目にいた小学校のあったところの高校に行きたいと親に頼みました

そこまでは越境なので転校が必要でした

親の仕事で今の場所に住んでいたので結果は

一人暮らしをする

ということになったかです


1年生の時に4人に告白しました。そのうち3人がOKしてくれました

その3人ともとエッチしました。そして3人とも別れた後も関係が続きました

2年生の時に学年で一番可愛い子に告白したら何とOKもらいました

それでその子とは長く続きましたが、さすがに1年付き合うと「好き」じゃなくなってきました

その時に当時はまだ単なる出会い系だったモバゲーを使ってみました

そこである子と出会いました。それは幼稚園ときに一緒によく遊んでいた子でした

その子とメールをして10年ぶりくらいに会うととても可愛くなっていました

この時すでにその子を「好き」になっていました。家においでよと誘うとついてきました

このときぼくは初めて、その日のうちに女の子エッチしました

3年生になり受験勉強一生懸命やりました。学年で1番可愛い子とも付き合ったままで

一緒の塾にかよって、帰りにぼくの家で復習をするという毎日でした

けっか、ぼくは第二志望の私立大学に、彼女は第一志望の国立大学にいくことになりました

もう「好き」ではなくなっていてちょうどいい機会なのでわかれました

大学生になり新歓でなんと風俗に連れていかました

ぼくはその名前は知っていましたが具体的にどんなことをするとことろなのか知りませんでした

そこで驚愕しましたお金を払えば「エッチができる」つまり「好きになる」のでした

ぼくは困り果てました。今までの「好き」の概念がぶっこわれてしまったのです

ぼくはこのときまで「好き」は「エッチしたい」と同じだと思っていました

でも、世間のみんなは「好き」を違う意味で考えていたようでした

だから、食事がのどを通らないほど「好き」、とか、「好き」すぎて胸が苦しいとか

意味がまったく分からなかったのです

「好き」なくせに告白しないなんて頭腐ってるんじゃねぇの、とか思っていたのです

「好き」って何なんだろうと考えるようになりましたがこたえはでませんでした

女の人をみて「エッチしたいな」と思う人はいてもそれ以外の意味で惹かれる人はいませんでした

どの子も頭が弱く中身はからっぽで「エッチしたい」とは思ってもそれ以外の目的では会話もしたくありませんでした

「愛している」とか「好き」とかの言葉は道具として使っていました

そうぼくがいえば女の子は安心したりよろこんだり「エッチさせて」くれたりするということを知っていたかです

サークルに入ったら逆に、お持ち帰りしたことを誇っている頭悪そうな男ばっかりでした

経験人数の多さがステータスとか童貞喪失年齢が低ければいいとかエッチした回数がステータスとか。

残念ながら、ぼくより早く童貞を捨てた男もエッチした回数が多い男もいませんでした


「ねぇ、「好き」って何かな?」そうぼくは友達に聞いてみました


だれも正解を教えてくれませんでした

したらこんな記事を見ました

http://anond.hatelabo.jp/20101122004732

なんだーみんな「カノジョエッチする相手」って考えているんだって納得はしました

でも、ぼくが求めている「好き」はここにはないようでした


愛は親の愛情などでまだわかります

しか

ぼくは「恋」がなんだかわからないのです

思春期燃え上がるようにあった性欲のことを「恋」だと思っていました

だから「「恋」しちゃったんだー多分ー気づいてなーいでしょー」という歌の意味もわかりませんでした

純愛もわかりません。

「恋」や「好き」が目に見えるものなら良かったのに。

多分ぼくは幼いころにいじめにあって、この部分の気持ちをなくしてしまったんでしょう。

何が正しいのかなんて分かりません。

「好き」ってなんなんでしょうか。「恋」ってなんなんでしょうか。

そしてそれらは性欲と切り離して考えることができるものなのでしょうか。

2010-11-22

Jesus Christ

ぐう…

何故か分からんが、急に思い出してしまった…




----




…それは、中学3年生の頃の話である。



放課後、僕は図書室の端っこで『はだしのゲン』を読んでいた。

図書室に並べられたテーブルの席には、同級生の女子達がキャアキャア話し込んでいる。



僕は、何故か、勃起してしまった。



20分後…まだ勃起は収まらず、パンパンに膨れた股間に痛みが走る。

大丈夫かよと思い、位置を直そうとパンツを脱いだのだ。



――!?



図書室のオバチャンに見られた。

バッチリ目が合った。

そもそも俺は何でパンツ脱いだんだ?

神様のいたずら?



早速個室へ呼び出され、オバチャンとのタイマンである。



オ「もーねえー?何であそこでオチン○チン出してたの!?」

僕「いや、あ、あう」

オ「もう、何も言わないから!誰にも言わないし!これからはあんな…あんなことは止めるのよ(///)!」

僕「ん、う、あ…い…」



だめだ、人間らしい声が、出ない。



「人前でパンツ脱いでも全然平気っすけどw」みたいな立ち振る舞いなぞ出来るはずがなかった。

全身から、止め処なく汗が吹き出る。



そして何故か、僕が女子達を眺めながら自慰行為をしていたと思われている。



そう!

この話の問題点は、僕が冤罪を被せられたということなのだ。

戦前戦後を通じてこんな屈辱を味わったのは初めてである。

でも喋れなくて言い訳できない。



深い悲しみに包まれた俺は、すぐさま家に帰った。

即日、黒歴史として僕の胸に刻まれたのだ。




----




これは現代社会へのメッセージである。

行動は、ちゃんと確証を得てから起こすべきなのだ。

たとえ目を疑うような出来事があろうとも、真実存在する。

今の日本人には、信じる心が必要なのだと思う。




(了)

2010-11-16

けいおん!がくれた、失われたはずの三年間

ルーズソックスを履いている女子高生だった。

今から十年前のことだ。

あの頃は、今よりずっと人付き合いが苦手で、でも一人でいるのも恥ずかしく、必死で友達を作ろうとしていた。

 

 

いじめと呼べるほどのものではない。ただ昨日までは机を突き合わせて一緒にお昼を食べていたのに、今日になると突然私の机だけがはじかれているとか、聞こえるギリギリくらいの声で悪口を言われるとか、そういった地味な仲間外れが度々起こった。一大決心で他のグループに入れてもらっても、仲良くなるとそこでは売春万引きが当たり前だということが判明。自分に合う友達はなかなかできなかった。

 

 

卒業間近にはようやくあるグループの中になんとか入ることができたけれど、「高校生活、うまくいかなかった」という感情が残ってしまった。そして最終的に仲良くなった子たちとも、卒業後何年かしてちょっとひどいことが起こって、付き合わなくなった。

 

 

卒業アルバムは捨てた。学生時代のものは、もうほとんど何も残っていない。

死にたい」って言葉ばかり並んだ、あの頃のノートだけは捨てられずにいる。

 

 

そんな私が、流行にのって「けいおん!」を見た。

毎日お茶したり、お昼を食べたり、放課後には当たり前のように集まってじゃれ合っている。

憧れの日々。

1期と2期を通して見ていたら、一緒に高校生活を楽しんでいるような気分になった。

 

 

そしてふと思った。ムギって、ちょっと浮いてるよね。

なんだかんだ言って幼馴染って特別な絆なんだ。律は澪で、唯は和ちゃん。あずにゃんは後輩だからまぁいいとして。あの「みんな仲良しだけど特別仲良しはいなくてちょっと浮いてる感」が、うまくいってる時の私とちょっとダブった。ただし逆のベクトルで。ムギ場合は一人だけお嬢様だけど、私は一人だけ貧乏な家の子だった。みんなは大事に育てられてる子たちで、私はその逆。

 

 

決めた。

私は高校時代を、この桜が丘高校軽音部で過ごした。

毎日みんなと一緒にお茶して、いっぱい笑って。

中でもムギと特に仲良しだった。

 

 

ういうことにした。

 

 

だからもう苦しむ必要はないんだ。

職場での世間話の途中で学生時代の話になったり、テレビ高校生が映ったりする度に落ち込んだりしなくていいし、彼氏が友達の話をする度に自分たちを「うちら」と呼ぶことにいちいち傷つかなくたっていいんだ。唯が「卒業アルバムは一生残るんだよ」って言ってたけど、私の卒業アルバムは大嫌いな人たちが載っている捨てたアルバムじゃなく、みんなに髪を整えてもらって撮った桜が丘のアルバムなんだ。

 

 

多くの人にとってはただの萌えアニメかもしれないけいおん!だけど、私にとっては青春だ。

けいおん!ありがとう。

大好きを、ありがとう。

ずっとずっと苦しかった三年間の思い出を、書き換えてくれてありがとう。

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