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はてなキーワード: 修行とは

2017-05-28

嫉妬

男性からチヤホヤされて楽しくやってたら、歳上の女性嫉妬された。

嫉妬されるのって気持ちがいい。女として勝利した感ある。

しかし私もメンバーを変えれば、注目は別に行ってしま存在

まだまだ修行が足らんな。

インターネット動画配信サイトがもたらした我が家への影響

父(50代前半、会社員

インターネット上に違法アップロードされている、乃木坂46の出演する番組乃木坂って、どこ?」及び「乃木坂工事中」のアーカイブ(合計約280本×30分)のイッキ見に挑戦中。ここ数日、在宅時間ほとんどを費やしているが、先程「もうしんどい」との発言修行の粋に達している。また、PCのマイビデオには秘蔵AVが保存されている。たまに増えている。

母(40代後半、専業主婦

スマートフォン及びタブレットにてYouTubeを視聴。なんだか怪しい動画を見ている。タイトルに【衝撃!】とかついてる文字読む動画とか。機械に弱く、リテラシーが壊滅的なので、とても危なっかしい。この前はタブレット家族共用だが主に母が使用)の検索履歴に「イケメン動画」と残っていたのを見つけたので、履歴が残らないように変更しておいた。我ながらGJだが、母はおそらく気づいていない。Googleアカウントも未取得。

私(大学四年生喪女

ニコ厨10年くらい。ランキング巡回は欠かさない。いまだにYouTube嫌いが抜けていない。

妹(大学二年生、キョロ充

YouTube流行りのバンドMVとか見てる。ツイ廃なので、情報がやたら速い。中高生に人気みたいな動画とかは、だいたい妹から教わる。ピコ太郎テレビに出る前に妹から教わった。

私と妹がスマホばっかりいじってるのは、随分前からだが、最近家族全員が各々画面を覗き込んでいる。それぞれの趣味嗜好や生活時間の違いが、スマホ文化と上手く合致したのだと思う。それを特に悲観するつもりもないが、食事中の気まずい間を繋ぐBGMマシーンと化している我が家テレビを、たまには家族団らんのツールとして使ってあげたいようにも思う。最近、みんなでテレビ見るなんてこと、めったにないもんな。

2017-05-27

東大生にも上には上がいる

スーパー東大生とか。スーパー東大生2とかスーパー東大生3とか。スーパー東大生4とか。伝説スーパー東大生とか。スーパーサイヤ人ゴッドとか。スーパー東大生ブルーとか。スーパー東大生ロゼとか。東大生限界ぎりぎりまで勉強を重ねて死にかけてからまた潜在能力を発揮させてパワーアップする。だから勉強民族東大生として日々実戦と修行をするべきなんだよ。

そんな東大生こそが地球を救ってくれるし、東大生強敵相手知識玉を作っているときは、みんなメガネを直すポーズちょっとづつ知気を分け与えるべきなんだ。

2017-05-21

今季一番面白いアニメってどれだと思ってる?

id-0カドひなこのーと

俺はアイカツだと思う。

アイカツめっちゃ面白い

歴代でもトップクラス面白い

ホビー物アニメの二周目として完成されてる。

今まで娯楽業界が積み上げてきた伝統がそこら中に溢れててたまらん。

謎に満ちた凄い敵が現れる→戦いの鍵は新しいアイテム→新しいアイテムを手に入れるために相手と同じレベルでの修行

勝てる気がしない相手が出て来てるのにいつかは勝てるんじゃないか確信させてるくれる構成

完璧だね。

さんざん見飽きた展開なのにとても楽しい

ホビーアニメのココが面白いって所を的確に踏襲してくる。

ひたすら王道

王道から安心して見ていられる。

安心して見ていられるから話に集中できる。

OP構成とかもう完璧だよね。

これから何が起こるのかを視聴者最初説明してくれる。

コンプライアンス完璧

王道一直線で良くできてる作品は本当にいい。

王道力不足なら陳腐しか映らない、だからこそ皆ビビって微妙に逸れたがる。

でもそんな逃げをサンライズはしない。

真っ向勝負完封勝利

本当に素晴らしい。

1995年の凄まじさ

オウムに限らず、1995年は何とも怪しい年だった。

当時小学生で、妙な好奇心が強い年頃だったからか異様によく覚えていて、影響もかなり受けている。

しろ年明け早々には阪神淡路大震災3月には地下鉄サリン、夏には映画学校の怪談」、秋には新世紀エヴァンゲリオン放映開始だ。

その中でもやっぱり地下鉄サリン事件オウム真理教は印象的だ。

今では考えられないけど、朝から晩まで妙な新興宗教の変わった修行(水中で息止めるとか、生き埋めになるとか)やら洗脳ソングやら幹部高学歴っぷり(上位大学はほぼ揃ってたはず)が報道されてた。

テレビというのは当時メディア王様で、「テレビで堂々とやってるのなら」って感じで皆普通にオウムの話をしていた。

子供も影響を受けて、音楽の授業を真面目に受けて、放課後洗脳ソングリコーダー練習したりしてた。

しか学校の怪談ブームの真っ只中で、学校でコックリさんやったりオカルト話したり、テレビスプーン曲げやってたり。

オカルトマニアにとっては「あれ、俺たちマニアだけどマジョリティじゃない?」って思えるくらいの時代だったと思う。

から始まったエヴァにはキリスト教モチーフが沢山出てくるし(子供の頃は難しくて分からなかったけど)。

その後の97年の少年A事件、99年のノストラダムスの大予言など、90年代後半はとにかく世紀末というのがぴったりの世相で、今の若い人が惹かれるのも分かる。

僕もあの時代のことは妙に懐かしく、不謹慎ながら魅力的に思い出してしまう(思い出補正がかかってるだろうけど)。

何というか、アニメ世界観が現出しちゃった感じの世の中だった。

この「あっ二次元世界観現実に!」に近い感覚は多分ネット祭りなんだけど、最近は大規模な祭りあんまりないしねぇ。さてどうしたものか。

http://anond.hatelabo.jp/20170520102940

2017-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20170520102940

何度か京都オウム道場に行ったことがあるけど、信徒さんも出家の人も純粋で楽しそうに修行していたのを思い出します。

牧歌的時代だったと言えなくもないけど、今の時代でもそういう生き方が出来ないことも無いと思いますよ。笑

2017-05-19

ジブリに若手スタッフが戻らない理由を教える

アニメ業界の者です。

ジブリが若手スタッフ募集しているが、残念ながら若手スタッフジブリに戻らない。

全盛期であれば、宮﨑駿という神の作品に携われるという事で、ジブリには山ほど人が集まった。

けど、ジブリを一度解散した今、宮﨑駿の信者以外のスタッフは集まらないと私は個人的に思う。

そもそも実力のあるアニメーターはかなり限られており、ジブリスタッフ解散後、様々なところに引っこ抜かれてる。

君の名は」で元ジブリスタッフ採用したように、元ジブリの才能ある人材ほとんど抜かれてる。それも高待遇と高い地位自由度を与えられてる。

ジブリ基本的に宮﨑駿が王であり全てである

そして給料はそこまで良くない。

それは才能ゆえに許されてきたし、ジブリブランドがあったから皆ついていっていたんだけど…

正直、いま実力あるアニメーター待遇自由度仕事先を決める。

縛りが強く、求められるクオリティも高いスタジオジブリに戻りたいというスタッフが何人いるのか。

もう時代が違うんだよ。

大物のもとで修行できる事に魅力を感じる人は少ない。みんな働きやす職場を求めてる。

ジブリ人手不足で悩むに100ペリカ。これは私の個人的な予想であり、あくま匿名駄文なのであしからず

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-05-15

ハイヒール滅びろ

ヒールを履かなきゃならない理由果たしてこの世にあるのか。

脚がきれいに見えるって、誰の為に脚をきれいに見せなきゃならんのだ。

かの悪名高き纏足と何が違う。

もうパンプスハイヒール義務化するのをやめよう。

フラットシューズを履こう。

それの何が問題だ。

マナーから履かなきゃならない?

マナー礼儀大事だ。

でもハイヒールマナーである理由って何だよ。

そもそもマナーって何だ。

敬意の表明を形式化し、人付き合いを円滑にする為の道具だ。

これをやっとき問題ないっていう便利道具。

で、パンプスでなきゃ絶対に表明できないマナーって何だ。

ハイヒールは本当に人付き合いを円滑にしているか

笑顔の裏で営業の人が、ハイヒール殺意の波動を送っている。

外回り職員が、早足の上司を後ろから刺す妄想をしている。

それでもヒール必要か。

フラットシューズで働けたらいいのに。

それができない理由って何だよ。

フラットシューズマナーになれない理由って何だよ。

マナーって何なんだよ。

爪先立ちの不安定な靴を履けるかって話か?

ヒールを履いた女の方がそそるかって話か?

ふざけんな違うだろ。

画一されたドレスコードを守るだけの常識があるかって話だろ。

痛みを耐え忍ぶ事を強制するのがマナーか。

痛みを伴う社会常識は守るに値するのか。

互いを敬うマナーを推奨するなら、爪先立ちの靴から労働者解放する事が筋じゃないのか。

フラットシューズマナーに加えてくれよ。

から笑顔相手と向き合える靴を履かせてくれよ。

これは我儘なのか。

風呂に入るのや毛を剃るのが面倒とかいうのとは話が違う。

風呂剃毛修行せずとも出来るが、ハイヒールはいきなり履けやしない。

革靴は電車ホームの間にも中々落ちないが、ヒールの踵は側溝に挟まる。

世の中皆がperfumeじゃない。

あれはヒールで踊る事を選んだ人達だ。

私に選ぶ権限はなかった。

「履きたくなきゃ履かなきゃいい。

 でも履いていないと、履いている人間と比べて不利になる。

 だから仕方ない。

 皆、履かざるを得ない。

 結局、互いを縛るのは互いに過ぎない」

正論に見えて何の解決にもなっていない。

「どうすべきか」の答えはもう少し先だ。

現状は囚人のジレンマ

AさんとBさんがそれぞれヒールを[履く、履かない]。

履かないBさんの評価相対的に下がって、社会的に不利になる。

ゆえに[履く、履く]という構図が不利益を防ぐ均衡なわけだが、

実際のところは[履かない、履かない]で公益は最大だ。

まり現代社会におけるヒールの着用は効率的ではない。

我慢するぐらいなら履かない方が良いに決まっている。

でもリスクが怖いから[履く、履く]になってしまう。

じゃあ囚人を解き放つにはどうすればいい。

履かなくても不利にならない状況を作るしかない。

からフラットシューズドレスコードに加えよう。

フォーマルフラットシューズを開発しよう。

フラットシューズが正装になれば、ヒールと並んだ時に顔をしかめられる事もなくなる。

ヒールを嫌々履く意味もなくなる。

「履きたくて履いてる人もいる」と別の人は言う。

そりゃそうだ。

履きたきゃ履けばいい。

だが履かなきゃならない理由にはならない。

カレー辛口は訓練すれば食べられるが、誰もが食べなきゃならない道理はこの世にない。

全員がスカーフを巻かなきゃならないわけでも、サングラスをかけなきゃいけないわけでもない。

履きたい人間否定する必要はない。

履くのが苦痛だという人間権利も守れたらwin-winだという話だ。

メガネの形、腕時計の素材、

それらが選べるなら靴の種類だって選ばせてほしい。

サンダルスニーカー許可しろって話じゃない。

フラットシューズで働かせてくれって話である

身だしなみを巡る問題にはそりゃもう色々と感情的な要素が絡んでくる。

自分は守ってきたのにとか、嫌でもやるのが社会人とか。

だが、これらの意地や怒りは良いものか。

これらに従う事は、少しでも何かを良くするか。

最初から無い方が良かったものじゃないのか。

他人の足を引っ張るより、辛い経験を皆で過去に葬った方がいいんじゃないのか。

から叫びたい。

ハイヒールを履かない事の何がそんなに問題だ。

ハイヒール義務をなくしたら核爆発が起こるのか。

ヒールをやめたい」「ヒールでないと正装に見えない」

「なら正装の条件を変えよう」「慣習を逸脱するのは良くない」

堂々巡り議論はもう沢山だ。慣習が変わればすべて片付く話だろ。

最初違和感がある、或いは見苦しく思えても、定着すれば問題にはならない。

からフラットシューズを履こう。

フラットシューズ万歳

フラットシューズを履かせてくれ。もう私の足は限界だ。

2017-05-14

[] 阿闍梨

阿闍梨あじゃり)餅は、京都市満月製造する菓子

  

丹波大納言の粒餡を、さまざまな素材を練り合わせた秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子

しっとりした皮と自家製餡の絶妙なる調和…。

独特の食感を楽しめる逸品。

  

比叡山修行する僧にちなみ命名。形は阿闍梨かぶる網代笠を象った。

http://www.ajyarimochi.com/a_ajarimochi.html

http://www.ajyarimochi.com/a_kasidukuri.html

ネトフリDBZだけど

ナメック星編】

20Gの修行の成果すげー

ベジータナメック星人虐殺してるけど

こんなんでよくブルマ結婚させたな

しかベジータ悟空と同じで「とにかくもっともっと強くなりたい」キャラクターなんだな

クリリンドラゴンボール持ちながらブルマとご飯のところに向かうとき、何で後ろからいかけてくるベジータザーボンに気の気配で気づかないんだ?と思ってたけど

そのあとクリリンが「浮かれてて気づかなかった」って回収してた。

最低でも三交代確保できないとつらい保育になるだろうなぁ

http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/10/unicharm-cm_n_16524060.html

ムーニーのおむつCMに「ワンオペ育児を賛美しないで」批判

ムーニーのCMを見て泣いたと専業主婦の妻から言われて、ふと思った。

自分場合比較的恵まれている職場で、平日でも12時間程度は家に居られたし、その分家事も育児もしているつもりだったけれど、それでも二人ともつらかったというのは何だったんだろうなと。

イクメンもどきだったの?

本当にきついとき夜泣きをガン無視して寝続けたこともあったけれど、比較夜泣き対応もしていたと思う。

3時間ごとの授乳の頃、妻は赤ちゃんの鳴き声で起きられない体質だったので、ちょっとの物音で起きられる自分ミルクをやってた。仕事をしながらのこれは本当に修行だった。

離乳食を食べるようになってからは、1週間分の冷凍離乳食作りを毎週末にやってたし、週末の食事は当日に自分が作って食べさせていた。妻は自分が作った離乳食レンジでチンするだけで与えられるようにしていた。

平日は朝晩の食事洗濯子供沐浴おむつ換え、寝かしつけくらいをしていて、睡眠時間が4から5時間だった。「昔の受験生かよ」と自分自分突っ込みを入れながら眠い日々を過ごしていた。

妻は専業主婦でしょ?

育児労働時間は何時間なのかという疑問がわく。

即応できるように待機しているという状況は労働時間カウントするようで、そうすると育児は1日中になる。

保育園を使えると、即応できる状態である必要は無くなるので、育児労働時間からその分減らせそうな気がする。

妻は何がきつかったと思う?

夫が出かけて帰ってくるまでの昼間は完全にワンオペで、この時間がきつかったのでは無いだろうか。

その時間事故があれば自分のせいになるという心理的プレッシャーはかなり大きいと思う。

初めての育児で、他に教えてくれる人が居ない状態というのは、泣いている理由を探るのも一苦労だったのではないだろうか。

何か提案は?

ワンオペ育児がきついというのに大抵出てくるのは夫の協力を得られるようにするという話なのだが、夫の協力が得られても所詮ワンオペが1.5オペになる程度で、大きく改善はしないと思う。

リフレッシュ目的での保育サービスもっと使えるようになって、使うのがある程度社会的に認められるようになってくるとかなり楽なのではないかと思う。

2017-05-10

嫁がカクヨムデビューしたいらしいので全力で止めて欲しい

メルカリタンスにあった服をあらかた売ってしまったので今度は小説家になりたいらしい。

ただ、俺にはこれが良いものかどうかわからないが、嫁はけっこう大病をして入退院したこ

ともあったので小説家とか、不規則仕事を専業にしなくても、俺がもっとしっかりすりゃ

いいんじゃ無いかと思う。

つきましては増田の目の肥えた皆様に、とくに「この話は○○に似てる」とか、

これで食っていけるなんて修行不足とか言ってもらいたい。

文中出てくる「アルマジロ本」は、どうもITの小説資料として古本屋で買ったらしい。

ISBN:4873111382

すがすがしい一週間がはじまろうとしている、月曜の朝7時。

 

むぎゅっ、むぎゅっと、本の表紙に描かれたアルマジロは、紫の髪の毛を生やしたおばさんのタイトなお尻に、いままさにつぶされようとしていた。

「うおおおうこの本高いんだって! あああぁ」

本の持ち主は、糸井ヨシヒコ。もうすぐ40才、小学生の一男一女がいるパパさんであるしかし平日昼間は、しがないサラリーマンしかも、先月急に異動を命ぜられ、今は会社の一番隅っこの席で本ばかり読まされている。

前はお客様会社に車で直行直帰だったから、こんな満員電車でのバトルはもう何年ぶりのことだった。会社でも肩身が狭いっちゅうのに、ここでも隣のお姉さんに手が触れようものならチカン扱いだ。しかも。

ちょっとアンタ! 何アタシのカラダ狙ってんのぉ!?

と、ぜんっぜんアウトオブ眼中のおばさんにまでニラミをきかされる。思わず手先がふるえるけど、この本はまじで6000円くらいしたもんだから、手放すわけにはいかない。

「いや違うんです! ボクはこの本が……あ、いや、すみませぇん……いやこの本……」 

 

とりあえず糸井のチカン疑惑は晴れ、なんとか始業までに会社--システムビッグ略称SB社)にたどりついたものの。さてこれからが大変だ。糸井は眼鏡にくっついていたまつ毛を2本爪で飛ばして、デスクにあの『アルマジロ本』をバタンと立てる。

SB社とは(決してポテトスナック販売元ではない)、名前はなんだか壮大そうだが、単に社長カタカナ好きだっただけである。もともとは”永島帳票印刷”--といういかにもな社名で、小さな工場商店で使う専用帳票を作ってきた。最近は、大のパソコン好きの社長の息子(いま専務)がはじめた事業パソコンの使い方を教えたりとか、客が出す電子メールがちゃんと届くように『サーバ』を管理することとかの方が売り上げが多い。糸井もこの前、『帳票課』からシステム管理課』へ異動したばかりなのだ。--人手が足りないらしくて。

 

おはようございますぅ(はぁと)」

さっきのおばさんもともかく、庶務の新田ヒカリも、糸井の”どうにかしてほしい人リスト”の筆頭である。たしか年は27か28だったと思うのだが、制服に某ネズミとか某犬のバッジつけまくったり、真っ赤なマニキュアに砂粒乗せたり、それでもってその言葉遣いもそろそろやめてぇな、と思っている。そのうえ、目当ての男にしか丁寧な言葉が向けられない。

「さ・さ・き・さぁ~ん、どうぞ~ん(らぶらぶ)」

ほどよい熱さのコーヒーを、こん切ゆっくり丁重に、その男デスクに置く。すでに朝の作業を始めている佐々木カナメは--「ああどうも」と短く切って、パソコンモニタに流れる文字をじっと見ている。

佐々木は実にクールガイだ(死語?)。必要最低限のコトしかさない。タタタンタタタと、やせた指でコマンドを打ち続けている姿は、まるでピアニストだ。糸井とは同期だった。(佐々木高校を出てすぐSB社に来たので、年は4~5才離れているが。)同じ『帳票課』から異動してきたメンバーの一人ではあったが、入社から機械いじりが好きだったらしく、専務ともよく話が合うらしい。異動してきてからは、ずっとSB社自体メールサーバ管理する仕事をやっている。

それに比べて自分はどうだ? 糸井は”ふせん”のいっぱいはさまった、『アルマジロ本』を見つめた。新田がその様を気持ち悪そうにいちべつして、プイと給湯室に去ってゆく。糸井にお茶挨拶もくれない--いるもんか、あっかんべー。と舌を出したら、ちょうど目の前に課長がいた。

 

「ほほう。糸井、いい度胸だな。朝一番から

「あがっ」

 

「そんなにオレのワキガが気になるか」

「誰もそんなことツッコんでません……」

糸井や佐々木新田所属するシステム管理課の課長、進藤ユウジロウは、頭を9:1に必死で分けていることよりも、ワキガを持病と認定していた。夏場は近寄りたくないが、めちゃくちゃ気にしなくても、と糸井はため息を吐く

「ほら、ほら、臭いんだろ?」

「違いますって!」

ベタン。『アルマジロ本』が、倒れた。

 

システム管理課に異動が決まった時は、係長昇進か?! と焦って特上うな重と松の寿司セットを家族全員でおいしくいただいてしまったが、フタを開けてみれば、”もうすぐ”どこかの会社からサーバ管理する仕事が入るから、それまで勉強しててくれ、わかんないとこは佐々木に聞いてね状態で、まったく後味の悪い出前だったなと糸井は振り返る。

しかしほんまにこのまま、100円寿司にも行けなくなって、子ども誕生日駄菓子すらも買えなくなったらばどうする? めくったページはずしりと重く左手首にのしかかる。この腕時計は--あかん、これは親父の形見から絶対質屋には入れないぞ。

 

たばこを吸いに喫煙室へ、あるいは数回トイレに立ちながらも。ほぼ1日じゅう、糸井は『アルマジロ本』をずっと読み続ける。たぶんこの本とはお友達になれるかもしれないくらい。(表紙のアルマジロはけなげなまなざしをたむけるだけで、糸井のことをどう思っているかなんてわからないが。)そして、わきのパソコンを使って、本に書いている文字--コマンド、を指一本で打ってみたりする。しかし本の通りに文字が出てこないことがたいていだ。その度たびに、糸井は佐々木にそっと手で合図を送り、「これ打ってみたけどアレがコレと同じようにならないんだ」と困ってみる。たいてい佐々木は「デストリビューションが違うんで」とまだ理解できない返答を一言だけつぶやく。デストリだかデスティニーだかよくわからんので、糸井は適当にふむふむと無茶にうなづいて、また椅子を鳴らす。以下、繰り返し。

 

 

15時過ぎには新田が何かしらの手作りおやつ佐々木にふるまい、16時台は眠気と戦い、そして17時になるとまず新田が「おつかれさまでしたぁ~、さ・さ・きさぁ~ん、また明日もよろしくおねがいしますぅ(ウインク)」と去ってゆく。糸井も残業申請できるような仕事をやっていないのでいちおう定時で帰ることはできるが、良心がとがめてもうちょっとだけ『アルマジロ本』にマーカーで線を引く。佐々木ネットワークトラブルが無いことを確認したら18時くらいには席を立つ。

今日は、課長の進藤は客先での打ち合わせが遅くまであるので、ここには帰って来ない。--糸井は頃合いを見計らって、カバンの口を開けた。

 

 

夕方のけん騒がやけに背中にしみる。駅は徐々に帰宅ラッシュ客を迎え入れていた。駅前本屋に寄りたかったが、またアレなおばさまとかにめぐり会うかもという不安トキメキの方が大きくて、急いで定期入れを胸ポケットから取り出す。

ちょうど、東側の窓際の横椅子に座ることができた。向かいから、まんまるな夕日がきれいにきれいに、通り過ぎる電線の上をはねたり転がったりしていた。あああ、きれいな夕日だなぁ、と、鼻の脂がちょっと残ったレンズからあかね色のそれを吸収した。

 

から家までの間に、1本でも、とたばこを取り出したら、あららとはじき落としてしまった。しかもそれは、どこからかたまった水たまりの中にダイブした。--くしゃり、とつづきのたばこはもう箱になく、握りつぶしてから気づいてまたため息をひとつのばした。

 

慣れちゃいけないとは思いつつも、充実感の全く無い日々が、彼の血管をひとめぐり半はしていた。

しか家事の傍らいつ書いたんだろうか。。。

追記 いちおう掲載許可はもらった。

追記の追記 でも、カクヨムまったりマイペースで書いて、楽しんでくれるなら、彼女身体にもよいのかもしれないな。カクヨムって絶対みんなプロになるために登録してるものなの?

2017-05-07

修行としての苦労はしたほうがいいと思うんだけど

するに足るアクチュアルな苦労ってなんだろうということは常々思います

医者として働き始めて不思議なこと

今年から研修医になって実際の医療現場の渦の中にいると不思議に思うことがいくつもある

最初に感じたのが医療行為不思議さだ

自分経験した科が内科からかもしれないが毎日パソコンを弄っているだけで患者が治っていくのである

外来で経過を見ていた患者肺炎を起こし呼吸困難になったので入院した

私は取り敢えず点滴のための静脈路確保のため患者さんに針を刺した

針を刺したら逆血が来たので静脈と針先が繋がったことが確認できたら否や、ナースさんは「あとはやっておきます

といって交代してくれた

その間に私は電子カルテで「オーダー」を出す

呼吸困難なので酸素マスクの指示を入れる。 発熱があるので一応血にばい菌がないか血液培養」を取る。培養を取れたことを確認しだい「抗生剤食塩水に混ぜて点滴に入れて下さい」と指示を入れる。

その後、他の患者さんの作業があって入院患者さんの元を離れたのだが、その数十分後に入院患者さんの病室へ戻ると

もう綺麗に点滴装置が設置されてバッチリ抗生剤が入っていて、バッチリ酸素マスクを吸った患者さんがいる。ナースステーションには培養ボトルバッチリ血液が取れている。

私がやったことは最初に針を刺したのとパソコンで指示しただけである。それなのに患者さんのもとには様々な器具が装着され次の日にはすっかり患者さんは元気になっていた。

実はこの時、私は点滴装置のつなげ方も、抗生剤食塩水に溶かす方法も、食塩水の点滴バッグを点滴装置に繋げる方法も、酸素マスクの付け方も、血液培養方法も知らなかったのである

ここまで酷い研修医は私くらいかもしれないが、実際ナースさんが優秀で救急医療経験がないと、医者のほうが実際の器具扱いを知らないというのはままある現象ではないかと思う。

勿論指示を出したのは自分であるが、自分パソコンの前でカチカチしているだけで患者さんがみるみる治療され元気になっていくのだからなんとも不思議で新鮮な経験だった。

よく「医療ミス」や「患者取り違え」が話題になるが、本当にそういうリスクの高いことをやっているなあと実感する

一度ナースさんがやってくれている朝の採血を代わりにやらせてもらったことがあるが

ナースさんたちは一人で5~10人の患者さんの採血担当するのだ

「その程度でミスするなよ」と思うかもしれないが、現場はそう簡単ではない

血液検査はその項目ごとに採血管の種類があるため、患者さんの病気によっては一人につき7本も8本も採血管に血をいれなければならない状況もままある

効率よく採血しようものなら自分の手元には30~50本もの採血管があり、それらに一本も患者の取り違えミスも無く入れなければならない

私も気づけたから良かったもの、別の患者さんの採血管に別の人の患者さんの血を入れてしまったことがある(幸い外のラベルを張り変えるだけで解決できたが)

採血程度なら良いがこれが抗がん剤なら大変な問題だ。 患者や量を間違えたら命を奪う可能だって十分にある

勿論、医者側も毎日この抗癌剤をこの患者さんに入れます というのをナースと一緒に確認する。するはするが

実際に抗がん剤を点滴バッグにいれ、それを患者さんに入れる部分を目で見て確認しているわけではない(それを患者全員分しているほど暇でもないし)

そう考えるとナースさんの責任というか、日々やってくれていることの難易度凄さを改めて実感する

大変失礼かもしれないがナースさんは治療に関してはそこまで大学勉強していないはずで、抗がん剤の種類や内容(ある意味危険さやおっかなさ)も完全には把握していないだろう

にも関わらず、そんな危険ものの「投与」という超重要で取り違えたら大変なことになる高リスクな部分を確実に遂行してくれていあるのだ。

勿論投与の相手や内容を間違えれば、患者さんの命があぶないし、そんなミスをしでかしたナースドクターも「医療人生が終わる」自体だ。

そんなヤバイことをやってのけてくれている。 それも一人で何人分も。 なんと恐ろしい作業なことか

こんなヤバイことを分担しているのだからさぞかし信頼関係があるのか と言われるとそうでもない

ナースさんたちは医者名前性格を把握して毎日こちらのオーダーもチェックしてくれているように思う

しかし、大変申し訳無いが多分、多くの医者ナースさんの名前を全員分把握してはいない

リーダー格は覚えているが、ナースさんは医者の三倍近く居ることもあり(医者は1日じゅう患者担当をするが、ナース日中、夕、夜間の3交代制のため)中々覚えきれない

そして自分患者がどのナースさんが担当してくれているかも余り把握していない どんな人材が薬の投与などのおっかない作業をやっているか把握しようとすらしない

当然、担当ナース指名したりすることも絶対ない

そんな信頼関係で「患者医療者両者の命がけ」の治療は分担され、成立しているのである

医者同士の信頼関係も誠に不思議である

医者一般的サラリーマンとは異なり、働く場所が固定せず転々とする例が多い

(それは、病院毎に入院患者さんの病気の内容が違ったり、所属医局病院ごとの人員運営だったりといろいろな理由があるのだが)

その為、日々の診療も実は知り合って数日の医者同士で行われたりする

性格プライベートや経歴もお互いよくわからない状態のままでも、分担作業を平然とこなすのである

勿論、誰かが失態を犯せばチーム全員で責任を負わねばならない。にも関わらず 案外ケロッと任せてしまうのだ

そうしないと時間内に治療が回らないとは言え凄い信頼関係(?)だなと思う

病院経営として仕方ないとは言えこれだけ危険作業希薄信頼関係で成立させている現状は私にとって非常に奇異に感じるものであった

また医者人生というのもこれまた奇異なものである

普通サラリーマンならずっとその会社で生きるため、そして年を取り昇進をすれば多少は楽になるから

若いときに苦労をする。上司若い人材がその先会社を支えてくれるように一生懸命指導をする。

しかし、医者帰属精神は思いの外希薄

有名な病院に居る若手医師は「ずっとここで最前線で働きたい」という人はそこまで多くなく

「ここは勉強になるけどキツいか若い内だけでいい、修行だけ積めたら他に居場所を探す」という考えの人も多い

(それは有名病院ほど帝大出身医者じゃないと昇進できなかったりと幾つか理由はあるにはあるのだが)

ずっとそこに居たいわけでもないに彼らは本当に一生懸命に働いている

そして指導者もある程度彼らが一生自分の手足として働いてくれはしないことを知りつつも、一生懸命指導する

病院に居るとお互いのことをよく知らない中で、ものすごくリスクのある連携作業が平然とこなされている

非常に奇妙だがそれを実行させているのはやっぱり医療者個々人の責任なのだろうか?

2017-05-01

ドラゴンボールの何が面白いのかが解らない

ドラゴンボールアニメを定期的に見る。
別に熱狂的なファンなわけではないが、子供の頃から何度も再放送は見ているので何が起こるかは大体解ってる。
引き伸ばしの連続で毎回毎回やってる事はほとんど変わらない。
戦いのシーン⇒それを見ている解説者⇒別の場所バカやってるギャグシーンの繰り返しだ。
とにかく進まない。進まないってもんじゃない。
王様は「ナメック星が壊れるまであと5分!」とか何週間も言う。

戦いでは岩や地面の破壊が多用され、割れるにしろ落ちるにしろやたら時間がかかる。
山はとりあえず噴火するし水は間欠泉の様に吹き上がる。やっぱり時間がかかる。
カメラはとにかく舐めるようにキャラクターを写す。これもとにかく時間がかかる。
ようやく戦いが始まったと思ったら動きが早すぎるという理由で画面に映らなかったりする。
合間合間にとにかくにらみ合う。あるいはカオナシのようにあ…あ…っ!と繰り返す。
観戦者はそれをプルプル震えながらなんて戦いだ…っ!!なんて言う。
かと思えばブルマチチがやかましく喋るギャグシーンが入る。
進むのが遅いので冒頭に入る前回のあらすじを見れば前回を見なくても内容は解るし、
次回予告を見れば次回を見る必要なんて無い。

ストーリーだって要するに、○○より強くなった××よりも強い△△が…の繰り返し。
天津飯ヤムチャはいくら修行しても前座にもならないし、
ピッコロキーパーソンではあるが扱い程役に立つわけでは無く、
ベジータは流石にそこそこ強いので敵を一度は圧倒したりもするが学習しないので結局負けて、
結局のところ悟空悟飯覚醒してなんとかしましたって形にまとまる。

設定なんてあってないようなものだ。矛盾なんて山ほどある。
戦闘はグーで殴って強い方が勝ちで作戦も何もあったものじゃない。
ストーリーご都合主義のもの。行き当たりばったりで困った事はドラゴンボール解決する。
どうせ生き返るのが解ってるから死人が出ても驚かないし悲しくもない。

なのに何度見ても面白い
何がこんなに面白いんだろう?

2017-04-26

日本仏教って仏教じゃなくね?

http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

から思ってたんだけどさあ。

まず仏教には五戒があるんだが。

酒飲まない、不道徳セックスしない、嘘つかない、殺生しない、盗まない。

これは在家仏教徒のための戒律ね。

俗世に生きる人でもこれくらいはまもろうねってゆるめの戒律

日本坊主でこれ守ってるやつ何人いる?

比較的清廉であろう元増田だってどれか破ってるかもしれんよ。

肉食って酒飲んで嘘つく坊さんどこにでもいるだろ。

出家戒律はこんなもんじゃなく厳しく細かいよ。

日本の坊さん一個も守ってないんじゃねーか?

なんで嫁さんいるの?なんで財産持ってるの?なんで金勘定してるの?なんで経済活動してるの?なんで修行してないの?なんで下らない娯楽で心動かしてんの?

本来なら無駄話すら禁じられてるのに。

これらの戒律無意味な苦行なんかではなくて、

修行の前準備として絶対必要もの

俗世のことは全部在家おんぶするかわりに身を清めて

全力で勉強瞑想修行するのが沙門の果報なの。

嘘ついたりだらしないセックスしたり飲酒したりしてたら在家レベル修行もできないし、

商売なんかしてたら出家レベル瞑想なんか絶対進まない。

実利的に戒律があるわけ。

修行というなによりも大事なことに全力で取り組めて出家は嬉しい。

在家もそんな尊い僧に帰依できて嬉しい。

これが仏教社会なわけ。

坊さんであったらもうものすごい人格と智慧持ってないとダメで。

ちょっと話したらこの人すごい!て思われるくらいの能力修行で開発してるのが僧なのよ。

ちょっと身の回り清くてもそれだけじゃダメなのよ。

真剣悟り目指して瞑想してて能力が開発されてないと。

そんな覚悟と自負のある坊さん日本に何人いるのか。

殆どがただの文化財管理人じゃん。学芸員にしたほうが専門家なだけいいよあんなもん。

http://anond.hatelabo.jp/20170426003910

元増田です。

私は妻帯世襲反対派です。

この手の質問に対する妻帯者の言い分は以下のようになります

歴史的経緯のある宗派を除きます

1:日本の現状として仕方がない

2:日本戒律大乗菩薩戒(梵網戒)だから不邪淫戒は不倫をしないということで結婚大丈夫

3:明治5年の太政官布告僧侶の妻帯勝手たるべし」に由来する

まず(1)は寺門興隆の為とか何とかいます(建前)が、それで興隆するのは家門(本音)です。これは「寺=私有財産」と考えられていることに関連している言い訳だと思います

(2)少し専門的ですが確かに梵網戒(ぼんもうかい)は、不邪淫を説くだけで具体的なことは述べていません(梵網戒は日本仏教の中では最も依拠されているもの)。解釈時代によって大きく異なっていますが、現代のように「不倫しない」というのは、「なんで僧侶なのに妻帯しているの?」と聞かれる頻度が増した現代的な解釈だと思いますしかし宗団が依拠する経典を読むと「性交渉」そのもの禁止しているので「不倫しない」は現代的に都合のいい解釈かと思います。「経典解釈」という現状がここで浮かび上がります

(3)仏法よりも世俗法に依拠する時点で話になっていません。

以上のことから、私の意見としては「僧侶として結婚をして子どもを産んで育てて世襲させる根拠はない」です。

余談ですが、必ず引き合いに出されるチベットタイお話です。

彼らと接して話をした上で分かった程度の知識です。

まずタイでは多くの僧は還俗します。

それは短い期間でも出家することが親孝行という一面があるからです。

僧侶になったのに還俗するということは、ある意味棄教とも取れる側面があるので、それはそれで問題かと思います

厳密に戒律を一生守る僧侶日本と同様に極めて少ないと言っていいと思います

また全ての戒を守るわけではなく、多くの戒律の中から自分の守れそうなもの選択して僧侶になります

次にチベットですが、戒律復興運動が起きて「根本摂一切有部」という戒律に則っています

しかし、この戒律復興問題引き起こしまして、チベット仏教が誇る「性ヨーガ」が戒律矛盾する状態に陥りました。

そこで実際の性交渉を避けて「頭の中で性交渉を思い巡らすんだ」という修行法が制定されて、それが現代の主流になっています

問題は「チェリーボーイなのに性交渉なんて思い巡らすことできない」という修行法そのもの不安定になっていることです。

あとチベットは妻帯しないとはいますが、性交渉は行っていましたし、妻帯した仏もいると伝えています

2017-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20170415172249

元増田フリーランスカメラマンです。

こんなにコメントいただけるとは思いませんでした。時間を割いてご意見してくれた皆さまに感謝いたします。

多くのコメントの中から特にこちらの方が気になったので追記します。

【追記あり】

どうも、元ブライダルカメラマンです。

このエントリを見てとても悲しい。

全員そんなカメラマンじゃないって知って欲しくて書きます。


私はブライダルフォトの会社勤めでした。

私とこの増田さんとの違いは社員だったって事です。

私たちブライダル写真屋は土日に仕事が集中する生業なので、大安などには社員だけではカメラマンが足りなくなります

なのでフリーカメランにも委託し、何件もの結婚式をこなします。

私たち毎日結婚式という現場仕事をしているので、本気でブライダルに向き合い、お客さんの笑顔の為に頑張っています

(元増田追記)

概ねおっしゃる通りです。私のような対価に見合った結果を出す(と内心で思ってる)カメラマンだけでなく、対価に関係なく常に全力でお仕事される方もいると思います。立派なことだと思いますが、時間や体力、金銭に限りがある私には真似できません。

「本気」というのがどういう態度なのかは人それぞれかと思いますが、私は対価に見合った本気を出します。それはレタッチにかける時間といった具体的なことだけではなく、撮影へ取り組む気持ち(これが最も重要なのはあなたはお分かりかと思います)に主にあらわれます

また、この「対価」ですが、元の投稿にも少し書いたように、お二人が素敵な方(決して見た目ではない)でしたらそんな二人を撮影するのはとても楽しく、撮影できること自体報酬といってもよいくらい、撮影後は充実感があります。追加の金銭的対価など無くともそんな方のためには頑張れます

フリーカメラマンには、ブライダルだけしている人と、コマーシャルなど他の仕事と並行してこなしてる人がいます

ブライダルだけしている人は、平日はアルバム作りやデスクワーク前撮りなどの撮影もしています。多分この人達も本気でブライダルに向かい合ってる人達です。

本気じゃないと食っていけませんもんね。


(元増田追記)

本気じゃないと食っていけない。少しナイーブですが、これは残酷言葉かなと思いました。食っていけなくて消えてった人たちが本気じゃなかったみたいじゃないですか。運の要素はでかいです。良い師匠出会って高い技術を身につける運、めぐまれた家庭に生まれ金銭バックアップを受けられる運、タイミングの良い時にキャリアアップできる仕事に巡りあう運、などなど言い出せばきりがありません。

私は運が良い方だと思います

そして、この増田さんのように他の仕事と並行している人達です。

コマーシャル仕事をしていて仕事がなくてブライダル委託を受ける人、増田さんのように機材のテストがわりにしてる人は、はっきり言ってブライダルをただの記録写真くらいにしかおもってない人が沢山います


(元増田追記)

私は「ただの記録写真」だとは思っておりません。ちゃんと25,000円分(アルバム20万、、)に見合うだけのブライダル写真を撮ります

「ただの記録写真」とおっしゃいますが、これもブライダルと同じぐらい奥が深いと思いますよ。多くの場合ブライダルのような情感を揺り動かすシーンはないので、その中で「ただの記録写真」になってしまないように見た人に良い写真(or良いイベント)だなあと思ってもらえるように撮り、かつ、あくまでも記録写真範疇を超えない(多くクライアントはそれを望みません)ように抑制して撮るのはなかなか誰にもできるものではありませんよ。

コマーシャルと比べて、ブライダルを誰でもできる下等な仕事…とおもっています

実際、コマーシャルカメラマンから、お前はどうせブライダルだろ…と袖に扱われた事があります。


なぜ、コマーシャルカメラマンブライダルを下等な仕事と扱うのか


ひとつ、実際にブライダル仕事は安いです。

若い2人の財布から出てくるお金です。色々差っ引いてギリギリなんです。

そして、コマーシャルと比べてカメラマンになるハードルが低いです。日本中何件もの結婚式対応するには何人ものカメラマン必要からです。それだけ修行の場も沢山あります

一握りしかなれないコマーシャルカメランと違うんだぜっておもってるカメラマンがいるみたいです。

でも、ブライダルだって簡単技術ではありません。当たり前ですが。

そして、1番大事なことは

毎日コマーシャルだけをやりたかったカメラマンにとって、ブライダルはやりたくない仕事だということです。



(元増田追記)

ブライダルカメラマン業界内地位が低い、これは全くその通りです。キヤノンプロサービスにもブライダルだけじゃ入れません。ニコンもそうだったかな?扱いはプロカメラマン(笑)といった感じですよね。私も人にはブライダルやってること内緒ですし。

なぜ〜以降も概ねその通りです。でも最も重要問題報酬の安さです。

報酬が安い

報酬が安いとブライダルだけで暮らしている人は機材も更新できない(いまだにニコンD300キヤノンの5Dを使ってるなんてざらです。※引用の方へではありません。機材の良し悪しは関係ないと言う人とは分かり合えないです。ごめんなさい)

身なりも満足に整えることができない(なんだかみすぼらしいスーツを着るしか無い)

なんか、、どうなの、あのカメラマン、?

なんか、、なやつはいろんな集まりにも呼ばれない

人脈広がらず仕事は増えない(※人脈なんて関係ないよという方ともr)

余裕が無いので写真研究ができない(いつも同じ写真でどこかでみたようなつまんない写真しか撮れない)

あらゆるモチベーションだだ下がり

「2万でブライダル写真撮りませんか?」

クオリティ低いアルバムの完成

考えて見てください。

やりたくないと思ってる写真が、仕事が、美しいかどうか。

クオリティは高いかどうか。

答えは、最低限のクオリティです。

私はフリーカメランの写真検品する立場でした。

ブライダルバカにしてる人のクオリティはひどかった。

ブレてずに適正露出で過不足なく撮れてるけど、そこにあるのはただの記録写真だった。

ちがうんだよ!

ブライダルってのはドラマなの!ストーリーなの!雰囲気なのー!!

(元増田追記)

これは私の言葉足らずでしたね。フリーランスの方は分かるかと思いますが、文字通り誰もが認める本当に「最低限のクオリティ」(¥25,000分)を納品したら仕事は次来ないんじゃないかなと思います自分の中にある許せるギリギリ最低限のラインはちゃんとそれより余裕とってます

いろんな意味でひどいカメラマンます。ひどいカメラマンとの出会いは大変でしたね。心中お察しします。私も偉そうなこと言ってても裏では言われてるかもしれません。そうならないように、責任持って(対価分は)やらせていただいているつもりです。

腹が立って長文乱文になりましたが、

ブライダル頼む時は、ブライダルだけで食ってる人をえらべば良いと思います

(元増田追記)

これもおっしゃる通り。ブライダルだけで食べている人は先に書いたブライダルカメラマンを取り巻く現状を乗り切ったという意味で、それだけでもすごいです。でも私の知る狭い範囲においては見たことないです。みんな平日は別のことやっています

コマーシャルやってる人でも、本気でブライダルやってる人を見極めてください。

(元増田追記)

「本気でブライダルやっている人」とはすぐ上での意味かと思いますが、残念ながらまだその機会に恵まれておりません。ギャラ安いかカメラマン辞めていく人はいっぱいです、、

祝儀なんかでクオリティ変わってたまる!!!

(元増田追記)

祝儀クオリティ変わります

写真特別と思いたい気持ちは私にもあります。大変失礼ですが、勝手あなた気持ち想像すると、本当に写真ブライダルがお好きなんだろうなと思いました。また、だからこその私の投稿へのお怒りだったのかなとも。

他のコメントにも見ることができますが、「祝儀」という言葉にかなり抵抗を感じておられるのではありませんか?写真神聖さが「ワイロ」で汚されたと。

他の方の中に「祝儀」という言葉を「チップ」と言い換えていた方がいらっしゃいました。チップではどうですか?

少額ではありますが、そんなチップでもいただけると私はとても嬉しいです。頑張って良い写真を撮れるように全力を出します。

そしてそのチップと2,5000円が私の報酬となり、家族はそれで生活していきます

もし祝儀ダメでしたら制作会社や式場が取り分減らしてカメラマンへのギャラをあげるのでも良いんですよ。中にいたなら感覚としてあると思いますが、そんなこと実現しますか?

祝儀チップ呼び方はどちらでもよいですが、これってみんな幸せになりませんか?

お客様比較的少額の投資で良い写真を手に入れる(※可能性が増える)

カメラマン報酬増えてやる気アップ

・式場は今まで通りの取り分。良い写真顧客満足度アップ

制作会社も今まで通りの取り分。良いアルバム顧客満足度アップ

カメラマンの当たり外れは仕方ないかもしれません

ごめんなさい。かなり長くなってしまいました。

このコメントをしてくれた増田さん。ありがとうございます

そういうわけでこれから結婚式あげるみなさん。チップ待ってます

無くても頑張ります

いただけたら、すごーく頑張ります!!

http://anond.hatelabo.jp/20170415172249

【追記あり】

どうも、元ブライダルカメラマンです。

このエントリを見てとても悲しい。

全員そんなカメラマンじゃないって知って欲しくて書きます

私はブライダルフォトの会社勤めでした。

私とこの増田さんとの違いは社員だったって事です。

私たちブライダル写真屋は土日に仕事が集中する生業なので、大安などには社員だけではカメラマンが足りなくなります

なのでフリーカメランにも委託し、何件もの結婚式をこなします。

私たち毎日結婚式という現場仕事をしているので、本気でブライダルに向き合い、お客さんの笑顔の為に頑張っています

フリーカメラマンには、ブライダルだけしている人と、コマーシャルなど他の仕事と並行してこなしてる人がいます

ブライダルだけしている人は、平日はアルバム作りやデスクワーク前撮りなどの撮影もしています。多分この人達も本気でブライダルに向かい合ってる人達です。

本気じゃないと食っていけませんもんね。

そして、この増田さんのように他の仕事と並行している人達です。

コマーシャル仕事をしていて仕事がなくてブライダル委託を受ける人、増田さんのように機材のテストがわりにしてる人は、はっきり言ってブライダルをただの記録写真くらいにしかおもってない人が沢山います

コマーシャルと比べて、ブライダルを誰でもできる下等な仕事…とおもっています

実際、コマーシャルカメラマンから、お前はどうせブライダルだろ…と袖に扱われた事があります

なぜ、コマーシャルカメラマンブライダルを下等な仕事と扱うのか

ひとつ、実際にブライダル仕事は安いです。

若い2人の財布から出てくるお金です。色々差っ引いてギリギリなんです。

そして、コマーシャルと比べてカメラマンになるハードルが低いです。日本中何件もの結婚式対応するには何人ものカメラマン必要からです。それだけ修行の場も沢山あります

一握りしかなれないコマーシャルカメランと違うんだぜっておもってるカメラマンがいるみたいです。

でも、ブライダルだって簡単技術ではありません。当たり前ですが。

そして、1番大事なことは

毎日コマーシャルだけをやりたかったカメラマンにとって、ブライダルはやりたくない仕事だということです。

考えて見てください。

やりたくないと思ってる写真が、仕事が、美しいかどうか。

クオリティは高いかどうか。

答えは、最低限のクオリティです。

私はフリーカメランの写真検品する立場でした。

ブライダルバカにしてる人のクオリティはひどかった。

ブレてずに適正露出で過不足なく撮れてるけど、そこにあるのはただの記録写真だった。

ちがうんだよ!

ブライダルってのはドラマなの!ストーリーなの!雰囲気なのー!!

腹が立って長文乱文になりましたが、

ブライダル頼む時は、ブライダルだけで食ってる人をえらべば良いと思います

コマーシャルやってる人でも、本気でブライダルやってる人を見極めてください。

祝儀なんかでクオリティ変わってたまる!!!

【以下追記】

なんだか、

ブライダル馬鹿にしてて、二人の門出を祝いう気持ちなんてなくて

気持ちのこもってない写真ばっかりとってたカメラマン思い出して

ついカッとなって書いちゃったんだけど。

しかコメントトラバで頂いたように報酬が少ないからやる気が出ない構図は

どの業界でも仕方のないことなんだと思う。

元増田記事を読んで、祝儀渡す人が増えて世のブライダルカメラマン収入があがれば、それもいいなって思います

なんでじゃあ書いたかって、祝儀もらう前から真摯ブライダルと向き合ってる人を選んでもらいたかったんですよ。

そういう人もちゃんと居るから、選べたらいいなって。

クオリティの話って難しいと思うんです。どんな写真が良くて何が悪いかって。

元増田さんは撮影ももちろんだけどレタッチとか撮影した後の処理をたくさんするよって書いてました。

そりゃ、安いお給料じゃそんな時間かけたら赤字ですからね。

でもブライダルクオリティってそこじゃないと思うんです。

例えば結婚式始まる前、新婦親族控室でザワザワしている…

新郎側に居たけど何となくそれに気づいて行ってみたら、おばあちゃんがもう感涙しちゃってる…

それを撮影しておいて後で新婦説明したら大喜び…みたいな。

どんんだけアンテナはってそこで起こってることに気づいて、新郎新婦の代わりに見ておいてあげれるか。

それってほとんど気持ち問題だと思うんです。

元増田さんが気づけないカメラマンだと断言しているわけじゃないです。)

自分時間を削ってサービスするのがクオリティじゃなくて、現場アンテナはって一歩踏み出せるかどうか。

接客業で、同じ給料なのに気の利く人と、気が利かない人がいるみたいな感じです。

なんだかふわっとした話になって申し訳ないです。

気持ち報酬次第と言われればそうなのかもしれません。

悲しい気持ちが消化不良で書きました。

また増田さん、色々勝手思い込みで書いてごめんなさい。

http://anond.hatelabo.jp/20170426074045

こちらのフリーカメランさんが、技術面について的確に書いてくれています

本当にその通りです。

コマーシャルフォトとれるから祝儀渡されて急にブライダルが上手く撮れるもんではないということです。

皆が専門分野に長けてるのです。

ありがとうございます

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