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はてなキーワード: 津波とは

2024-04-18

anond:20240418072428

これはネタ抜きにそういう生き方したいけど、尋常じゃなく運動うんちかつ、そういうのの知識いから無理なのよね

机に座ってりゃ給与出るリーマンと違って、自然相手自営業は大変だろうけど、大地共に生きるはマジで憧れる

 

あと、都会のもやしには、山道青年会で整えたり、孫がいる年齢の人なのにその組織の中で一番若手故に介護に回らないといけない婦人会

そういう濃い環境の中で上手いことやっていく自信もないわね

いろいろあったかエピソードある土地かにも憧れるけど、他人へ手助けするということは他人干渉するということだから

助かる干渉もあればごめん被りたい干渉もあるわけで、人間関係でいいところ取りだけは出来ないので、やっぱり自信ない

 

 

まぁ、理想だけ言えば、津波土砂災害考慮しつつも、海とか山の近くでずっと過ごしつつ、

のんびり自然を楽しめるワーキングスペースのカフェ運営しながら、自分仕事と遊びでPC叩いて、畑仕事して、

必要になったら都心部に出る生活を送りたい。宝くじ当たって欲しいわ

2024-04-17

anond:20240417232054

震度7津波火事もあった能登でさえ数日で忘れられてたし

原発爆発くらいないと厳しい

2024-04-08

台湾地震、死者20人くらいかな…思ったよりショボいな

津波火事もないとこんなもん?

2024-04-05

テレビで流れて「え?これ映画じゃなくてリアルなの?」と思った瞬間3選

アメリカ同時多発テロ事件

NHKリアルタイムで流れてた映像に静かに建物飛行機が突っ込んでいく様は現実感がなかった

東日本大震災

信号待ちしてる車もいる日常風景津波が飲み込んでいく光景は、こんな呆気なく現実って変わるんだなと思った

2024-04-04

台湾地震

千人単位で死者いるかと思ったら、1日たっても死者10行方不明も数十人らしくて

もしかしてしたことない?

火事とか津波がなかったらこんなものなのかな

2024-04-03

地震って見えたからなんなん?と思ってX開いたら台湾大地震津波まで来てんのか・・・

中国やりやがったな・・・

NHKがなんか津波っぽいものを映してるけど

ずっとおなじとこでブクブクしてるだけで草

津波が来ています!!

逃げてください!!!

命をまもる!!!

にげて!!!

また!!!!あああ!!!また新たな津波があ!!!!!!!!!

またまた!!!

あああああああああ!!!

もう終わりだああ!!!!!!!!!!!!!!!







30センチ

沖縄津波がきてるってよ

沖縄民は増田ばっかやってないで逃げろよ。

2024-03-21

世界一周して帰ってきたら実家津波でなかった

家族は無事だしきてもらってもできることはない。家は無事だよ!ってうそついて

旅行楽しんでもらいたかったそうで。

栃木埼玉で5弱 津波心配なし

海なし県で、どこから津波が来るんだよ?

利根川か?

猪苗代湖か?

2024-03-18

不謹慎に目くじら立てる「いい子」はネットから消えろ

不謹慎を楽しめないお前らに居場所不要

お前らみたいなのが空気を白けさせる

地震津波、核、戦争障害者貧困格差…それらを馬鹿にして笑いを提供してんのに、嫌がるとかお前ら何様だよ

人の気持もわからないのか、だって?わかるわけねえだろ、当事者じゃねえし

2024-03-17

anond:20240317174400

集団自決すべき業の深い人たちは津波が洗い流してくれたからしなくて大丈夫だよ

我欲まみれだったかしょうがいね

2024-03-13

計画停電てどんなだったの?

2011年3月九州に住んでいたので「東北で大きな地震津波があって、たくさんの人が亡くなっているらしい。原発も爆発してやばいらしい」ということくらいしか認識していなかった。

1年後に進学のために上京したけど、周りには東北出身の人も多くいたので「震災ときどうだったの?」なんて話題を振るわけにもいかず、メディアから受動的に受け取る情報しか震災のことを知らないまま今日まで過ごしてきてしまった。

先日ツイッターをみていると「計画停電」がトレンドに上がっていた。言葉として聞いたことはあるけど、具体的にどんなものなのかよく分かっていなかった。

妻は震災当時千葉県に住んでいたらしく、「計画停電のせいで、飼ってたペットほとんど死んだ」と言っているのを一度聞いたことがある。気の毒なのでその時のことは深く聞けないままでいる。

この折に計画停電のことが気になって少し調べてみたけど、当時の人々がどんな空気感でその環境に身を置いて、どんな風に過ごしていたのかまではよく分からなかった。

誰か、当時の経験や覚えていることがあったら教えてほしいな。よろしくお願いします。

anond:20240313071201

「こんな笑顔は久しぶりに見た」。

2月下旬イカキングの前ではしゃぐ娘たちの姿を、母親は目を細めて眺めていた。

地震の前にも見に来たことがあるといい、母親は「地震津波があっても生き残っていて強い」と喜ぶ。

4歳の娘も「壊れなくて良かった」とはにかんだ。

anond:20240313070649

実際にあの津波でも無傷で残ったんだから奇跡やん。

anond:20220323004826

2007年福島第一原発の非常用電源が海岸近くの低地にあり、津波により全電源喪失するリスクがあると国会で指摘されたことに対し、「危険性はない」とスルーした第一安倍政権の罪は重い。

2024-03-11

じしんのひ

私は生きている。

それを胸抱えて日々を過ごせば過ごすほど、あれは一体何だったのだろう空を仰ぐばかりだ。

何年経とうがあの日自分はずっとまだ昨日にいる。

家も消え、土地も消え、人も消え、思い出になる前の記憶さえ消えた。

自分けがまだ、3月11日に取り残されている。

死体が浮く街を歩いた。水が引いたら、何キロも先にある同級生卒業証書自分の家に流れ着いていた。やれることをやるしかないと笑えば、時折鳴る着信から友人や恩師の訃報が届く。

偶然誰かに会えたなら、そこでようやく互いに安心できた気がした。会えたら生きてる、会えないなら死んでいる。そんな日々が続いて、誰かに会うのも嫌になりかけた。

仮設安置所に踏み入れば、眼下に真新しい棺桶が広がる。途方もなく、隅から隅まで、ボーリング場だったらしいその場所に、四角い木の箱ばかりが広がっていた。そうして、端から端まで歩いた。知っている名前が無ければいいのになんて考える前に、知ってる名前ばかりが並んでいた。私に楽しさを教えてくれた人も、私にいじわるした人も、私が優しく出来なかった人も、ちゃん名前が書かれていた。この光景は、何だったんだろう。何を恨めばよかったんだろう。それを自分に問うてしまったら、その答えは「そのうち会える」と機会を先延ばしにしていた自分を恨むしか他にないのに。これは一体、何なのか。誰かに答えてほしかった。

私は生きている。私はその選択肢を選び取った。そのせいで、私が座るはずだった場所に座った誰かが死んでしまった。私は怖かった。初めて行動の取捨選択で見知らぬ誰かと命のやり取りを終えてしまたから。私はそれがすごく怖かった。こうして文字にできるまで今日までかかってしまった。手など合わせられない。自分が死んでいたら、死なないはずの子がいたはずなのだ。私は怖かった。これは何なんだろうと。親にも友人にも、この恐怖だけは一生言えないままだと気づいたときにはもう、何も出来なかった。私は今でも地震の揺れや津波よりも、それがとても怖い。きっとだれも私を責めてくれないのだから

3月10日のことを想う。読んでいた小説も、私の名を呼ぶ祖父の声も、適当に送り出してしまった父の背中も、履いていた靴も、カサついた母の手の温かさも全部全部全部鮮やかだ。

3月11日のことを想う。年上のお姉さんがくれたアーモンドチョコの美味しさも、避難所の床の冷たさも、満点の星空すらも、全部全部鮮やかだ。

私はこれを、死ぬまで思い出にすることは出来ないのだろう。

そうして私は生きていく。

〇〇さん来たから帰るね〜と、お昼休憩中のパートさんが席を立った。

帰ってもなにもすることないんだけどね休んでちゃダメだねと笑いながら帰り支度をするパートさんを、

全然良いですよ、無理せず休みましょう、と見送った。

そういえば13年前の今日、父は熱を出していて、昼ごはんを食べに家に帰ったらしい。

普段なら職場で食べているが、その日は母にうどんを作ってもらって、体調を心配されつつ職場に戻った。

そして津波に飲まれて亡くなった。

もしも自分が、ありえないけど、

これから起こることは知らないままで、あのときあの家にいたら、母とともに父の体調を心配しただろう。

会話もする。休んでも全然良いよ、ね、休もうよ。

実際あの日私は学校にいて、父の死に関して出来ることはなかった。

13年前と日付が一緒の今日

お昼に帰ったのはパートさんで、会話したのは私だった。

あの日言えなかった言葉が、遠くの私の口から出た。

パートさんは何事もなく家に帰って、明日も私と職場で顔を合わせるだろう。

3.11

13年らしい。当時小4だった俺もいつの間にか会社員になってしまった 

自分東海地方に住んでいたのでこれといって何かあったわけでもないが、忘れないうちに当時どうしてたか、忘れられないことを雑に書き留めておこうと思う。

発生時

3月11日といえば当然年度末も年度末であって、通常授業は終わっていた。 

当時は確かもう5限授業になっていたはずで、普段教室ワックスがけをやる日だった。授業は半分自習で、普段使わない教室がある旧校舎で行っていた。 

今ではすっかりデブ陰キャだが自分は当時まだまだ体力があったので、5限目の間ワックスがけを手伝うメンバーに加わっていた。 

で、地震が来たのはワックスがけも終わり道具を片付けに歩いている間だったはず。遠かったのもあって揺れはわからなかった(近くにいた上級生が机の下に飛び込んでいたのはよく覚えている) 

発生後(学校

デカ地震関東東北地方でありました(要旨)」という校内放送が数分後にあった気がする。自習普通に続行だった。 

自分は揺れが分からなかったので「まだ揺れてたりしないだろうか」と教室の壁にかかっていた防犯ブザーを眺めていて、自習は全く進まなかった覚え。(時間的10分も授業残り時間がなかったんじゃないかな) 

そのまま普通に授業は終わり、帰宅。 

発生後(放課後

当時集団下校ではなかったはずなので、帰路は一人で帰ったはず?帰宅は逆算する限りちょうど15時20分ぐらいだと思う

帰宅するや否や祖母に「凄いことになってるよ」と言われTVの前に座らされて、漁港津波が届く様子を食いつくように眺めていた。あの映像は一生忘れないと思う 

(余談だけどこの映像、毎年のように探しているが未だに見つかっていない。漁港から生中継だったはずで、地上に津波が登り始めてから海岸ぐらいに止めている車が流れだすまで。流される大量の青いカゴと複数台の軽バンが真横のアングルから映っていたはず) 

その日そのあと何をしたかはもう覚えていない。もっと早く書き留めておけば思い出したかもしれん 

その後

翌日給食時間黙とうしたのだけは覚えている。 

ポポポポーンよりこだまでしょうかの方が怖くて印象深かった思い出。 

 

以上。雑書き終わり

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