はてなキーワード: 野蛮人とは
先日、松戸Vtuberサイドが戸定に粘着し活動を妨害する者達に対し法的措置を取る対応を発表した。
正直、遅すぎるが当然だと感じた。
増田でも統一とVtuberがズブとかいうデマ記事に乗っかって罵声を吐いたり、いつも通りオタクヘイトを繰り返していたブクマカは沢山いたが
この手のネット荒らし否誹謗中傷の犯罪者達が訴訟され社会的に制裁を受ける事を望む。
一方青識とかいう元成り済まし半の論客(笑)が例の者に訴訟され敗訴、徳島新聞に叩き記事を書かれるなど順調にキャンセル・カルチャーされている。
もうネット論客としての彼は終わりだろう。成りすまししてまて構われたがる構っておっさんがどうなるかなんて想像するのも哀れ。
(個人的には極めて攻撃的な例の人や取り巻きのアレがイキってるのは「どの口が言ってんだか、お前もその指止めろ、被害者面すんな」と言いたくなるが)
この一年で、フェミ・リベラル対ネットユーザーの構図はすっかり様変わりした。
自分自身が裁判で争うのは避けたいが、ネットで恨み辛みを買っている鬱陶しい輩に社会的ダメージを与える為には金(カンパ)を惜しまない
理不尽にもフェミやリベラルの「被害」を受けた人間に対し、協力(カンパ)する流れが作られてしまった。
この流れはもう止まらないだろう。
これで成果が得られませんでした!ならばその勢いも無くなろうが、少なくともリーガル・バトルに晒されたオタクヘイターの内
あっつんや要出典程度の迷惑アカウントは活動を停止した。折からの凍結祭りもあって、フェミやオタクアンチ系リベラルの勢いが落ちた事も確かだ。
例の団体も都との関係も女性支援団体というブランドイメージも悪化し、今後の活動に支障をきたしているのは確かだろう。
新橋の自由を守る九段の会(会員数:1)は全面的に戦う姿勢みたいだが、彼を持ち上げ矢面に立たせつつ尻馬に乗りながらヘイトスピーチしてたブクマカは
ぜひ彼に支援をして欲しい。きっと彼も頑張って戦ってくれるでしょう。
青の時代はこうして終わりを告げた。
これからはリーガル・バトルが増えていくだろう。双方の陣営で。
必死に集めた7万の抗議は「見てませんw知りませんw」と半笑いで黙殺され
一方で被害者であるVtuberは公的機関とのコラボという一大チャンスをキャンセルされ
その後の活動もフェミニストや彼女らを支持する悪質クレーマーによってキャンセルされ続け
アンフェのアイコンなるレッテルを貼られ今なお妨害と誹謗中傷を繰り返され、社会的にも身体的にもキャンセル・カルチャー攻撃の被害に遭い続けている。
『議論』など、始めから対話の余地の無い、一方的に社会正義の名の下に攻撃を続ける思想野蛮人達には全く効果が無かったのだ。
今は亡き、青の時代を懐かしむ時がいつかくるかもしれない。
その時まで、せめて法の裁定が一方に偏る事の無い事を祈ろう。
合掌。
ちょっと吐き出させてほしい。
いや、正直に言えば相談に乗ってほしい。
数組のママ友グループで、子供を連れて少し遠出することになった。
その中で、予約が無いと絶対に入れないほど子供に大人気の店に行く予定なのだが、その予約を
「みんなそれぞれで全員(10名)分の予約を取っておいて、一番いい席・いい時間のものを採用して後は一斉キャンセルしよう」
抽選があってそうするならわかる。
でも、シンプルな早い者勝ちの予約システムでそういう手段を使うのって、すごく非常識に思えて仕方ない。
一応、店のほうが公平性確保のためか「予約は○日後まで」とルールを決めているので(ディズニーランドと同じような)、目当ての日が既に埋まっているということは無い。
その上で、目当ての日の予約が可能になる直前に、こんな話が降ってきたのだ。
転売ヤーと何が違うんだろう。
我先にと買い溜めしておいて、私達がド・レ・ニ・シ・ヨ・ウ・カ・ナ♬と言っている間に、「この日はだめだったわ」と、取れる予約を諦めてしまう人がいるのかと思うと、なんて図々しいことをしているんだろうと思う。
でも同時に、最近バズった「タワマンの会議室占領ママグループ」の記事みたいに、そちらが普通なんだろう、自分がおかしいんだろうとも思う。
これからの時代、図々しくて厚かましくて非常識なぐらいじゃないと、生き残れないようになっていく気がする。
良識を搾取される世の中へ子供を送り出す立場としては、なりふり構っている場合ではないのかもしれない。
もっと言えば、こういう考えさえ、「人を責める前にまず自分を疑え」という姿勢から来ているから、改善できそうになくて困っている。
以前「トリーバーチも知らない人たちを初めて見た」って増田が再燃していたけど、あの増田の気持ちが良くわかる。
私は母から「卑しい人間になることは恥ずべきこと」と教えられたし、その母つまり祖母は、旧士族のお嬢様のプライドを待ったまま貧しい戦後を生き抜いた人だった。
だから、実際の貧富に関わらず「心が貧しい」という概念はわかるし、実際驚く。
そういえば、嫁いできたばかりの頃、この地方でのスーパーのマナーが一番の驚きだった。
レジカゴの中身を目の前に捨てる人がとにかく多い。捨てるといっても、未精算の物、私物ではなく商品だ。
「やっぱり買わない」と思ったのなら、普通は元あった場所に戻す。自宅でも、職場でも、そうなのか?だとしたら、それが元々あった場所には今何がいる?などと、一瞬で思考が宇宙まで飛んでいった。
そして宇宙へ飛んでいる間に、義母がショッピングカートを残していなくなっていた。
ショッピングカートを通路に放置し、自分が歩いて商品を取りに行き、カートに放り込んでまた放置する姿は、申し訳ないが「野蛮人」という表現がぴったりだった。
通路を通りかかる人に迷惑だろうと思ってすぐに移動させ注意したが、義母いわく「田舎は人が少ないから大した迷惑にならない、誰も気にしないしみんなする、そんなことより自分が不便だから仕方ない」とのことだった。やっぱり野蛮だ。
地方の同じ県内で、県庁所在地からイオン20km先の市に来ただけでコレだから、トリーバーチ増田はどれほど大きなショックを受けただろう。
そしてその一方で、都内タワマンの会議室やカフェスペースも、同じような高級野蛮ママたちに今日も占領されている。
世の中のママたちはどうやって生き抜いているんだろう。
日本の社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。
これが日本社会の現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分が学校を卒業したころ、自分が最初に就職したころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか。
ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しかし努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力を努力という。
他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分の人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ、馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものがクズに見えるのは仕方がない。クズな人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである。悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。
いつまでも自分がモラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生が猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然と大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず、他人の人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分の身の回りだけではない。自分の身の回りは世界ではない。世界のごく一部である。
どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分がいかに素晴らしく、いかに努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。
「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人事である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しかし他人も人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人は他人の人生を犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分がドラえもんになろうとはしない。
ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているか。あなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全に暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力の奇跡的結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。
努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である。野蛮人だと思っていたか。自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな。依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国のもっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくまで自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。
大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。
社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分の任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ。固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分は正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来の大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。
俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本は王国でも帝国でもない。早々に自分の人生は解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。
もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人だから、そうしたいのだ。
俺は、この文章の意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会がクズなものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。
安倍晋三に続いて岸田文雄が殺されそうになったのは、憂鬱なニュースだった。
日本は自由な民主主義国だ。(職質の警察官を除けば)荷物検査も何もなしに色々なところに行くことができる。飛行機以外の場所で手荷物検査がされることはまずない。そしてそれは政治家の集会も同じだ。政治家は市民に選ばれるために、たとえ元首相であっても街頭に立ち、支持を訴える(菅直人がたったひとりで街頭演説する写真を嘲笑する人を見かけたことがあるが、あれは誇るべき光景だと思うのだ)。市民はそれをスルーしてもいいし、気まぐれに足を止めてもいいし、ペンライトを振って応援してもいい。俺もちょうど地元に来ていた福島瑞穂と握手したことがある。そのときの俺は見るからに不審者ルックだったが、一瞬怪訝そうな顔をしただけで愛想よく握手に応じてくれた。
アメリカ大統領が来たときの警備の物々しさとは対照的だ。アメリカのシークレットサービスは皇居にもズカズカ入り込んでこようとしたのを日本側が必死に止めたらしい。野蛮人め。品位というものを知らんのか。だが彼らにもトラウマがある。昔のアメリカの大統領はもっと市民と近かった。だが、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、そしてJFKが暗殺され、レーガンが殺されかけたことで、アメリカは異様に厳しいセキュリティをVIPに求める国になった(※)。
安倍が殺されたとき、警察が無能だと散々言われた。それは事実かもしれないが、しかし、彼らが無能なのは政治家に対する深刻な攻撃の懸念に晒されていないからだ。警官が平和ボケして無能なのは、ある意味では、わが国で要人に対するテロを懸念する必要性が薄かったことの、つまりわが国の自由と民主主義が問題なく機能していることの証だったのだ。
だが安倍晋三は殺された。俺は去年の夏、今後日本の政治家は気軽に国民の前に立たなくなるかもしれない、と思っていた。政治家がろくな警備もつけずに街角に立ち市民に支持を訴え、市民はそれを日常風景として聞き流すような、そんな光景はもう戻ってこないかもしれない、そのような平和で自由で民主的な日本はもう失われてしまうのかもしれない、と悲観していた。あれから半年が経ち、多くの政治家が従来どおりのドブ板選挙を続けている景色を見て、よかった、杞憂だったのか、と胸を撫で下ろしていたところに、今回のニュースが飛び込んできた。ああ、今度こそ、大物政治家が気軽に街頭に立つ光景は失われるのだ、と思った。
だが、岸田文雄は遊説を続けた。暗殺未遂事件に遭ってなお、市民の前に立ち、訴えかけることをやめなかった。
岸田は、身を張ってテロには屈しないという姿勢を表明してみせた。それは一見すると単に事前のスケジュールを墨守するだけのつまらない行為かもしれないが、この状況では、それは紛れもなく自由と民主主義の側に立つという崇高な意思表示だ。
安倍が頂点にいた頃は、岸田は凡庸な後継候補のひとりに過ぎないと俺は思っていた。ソフトなイメージはあるが、安倍ほどの人を惹き付けるもの(あそこまで右派に崇拝された総理も異様なら、左派からあれほど蛇蝎のごとく嫌われたのも異様だった。正負ともに存在感のあるキャラクタだった、と思う)を持たず、強い信念もなく、自民党の伝統ある派閥を大過なく差配するだけの面白みのない男。それが岸田へのイメージだった。だが、先日のキーウとブチャへの訪問といい、今回の暗殺未遂事件といい、行動によって自由と民主主義と国際秩序を擁護するのだという強い決意を見せていることには、正直驚いた。見誤っていた。
俺は自民党に入れたことはないし、安倍が総理であることには苦々しい思いを常日頃抱いてきたが、岸田に関しては、俺はあいつに入れていないがあいつは俺の総理大臣だ、と言っていいかもしれない。とにかく、今回の事件を受けての岸田の動きは見事だった。よくやった。ありがとう。
※ 海外旅行中、壮麗な建物を見つけて、何気なくカメラで写真を撮ったところ、自動小銃を構えた警備員が飛んできて写真を消せと凄まれたことがある。実はそれはアメリカ大使館だったのだ。そしてその国はかつてアメリカによる介入を受けたことのある国だった。その話を憤慨して隣国の友人に話したところ、そりゃそうだよと呆れられたので二度驚いた。大使館は相手国との友好も目的の一つとしているため、普通の市民から反感を買うような行動はしないものだと素朴に思い込んでいた俺は衝撃を受けた。街中であんな大規模な土地を専有して、たかだかカメラを向けただけの一市民を自動小銃で威圧するのか。そんなことをあちこちでやってりゃ、そりゃ占領統治もままならんわ。俺にとっては旅行中の不愉快なエピソードにすぎないが、仮にその国に生まれ育っていたら熱心な反米活動家になっていただろう、と思った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/yamaguchi-tatsuya.co.jp/
犯罪に問われた人間を裁くのは司法。お前ら庶民じゃない。私刑は憲法で禁止されている。
山口達也は不起訴処分だというのが司法の結論。司法の観点からは決着してる。
当事者間の示談の詳細は噂以上の真相は誰も知らないから決着してるもしてないも知らん。
だが少なくともお前ら外野に対して何か直接謝罪をする必要なんてない。
この件に限らずだが、はてぶ民・Twitter民・ヤフコメ民は自分たちが司法より偉いと勘違いしてる奴が多い。
司法で決着ついたものに対してさらに説明や謝罪を求めたり中傷するという謎の超法規的処置を求めてくる。
法治国家の基礎がわかってない無知なのか、わかった上であえてやってる悪意まみれの犯罪者予備軍たちなのか(私刑も誹謗中傷も犯罪なので)?
せっかく近現代で法治国家になってきて石投げやリンチみたいな野蛮な私刑がなくなったのに、ネットのせいで時代を逆行してまた野蛮人に戻ろうとしてる奴らがいてうんざり。
お前ら勝手にどこかで私刑がOKな国を作ってやってろよ。先進国の邪魔をするな。
そして司法の結論に納得いかないなら自分たちで法律を変えるなり独自捜査をして証拠集めをするなりすればいいだけ。
たとえば大麻解禁論者には「日本なら日本の法律に従え」とか「悪法も法なり」とか言う言葉が出てくる割に、こういう時は司法軽視な意見に支持が集まるのがすごく滑稽。
単に未開の野蛮人だっただけだろ