2023-05-07

あなた人生がうまくいかないのは私のせいかもしれない

日本社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。

これが日本社会現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分学校卒業たころ、自分最初就職たころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか

ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しか努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力努力という。

他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものクズに見えるのは仕方がない。クズ人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。

いつまでも自分モラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず他人人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分身の回りだけではない。自分身の回り世界ではない。世界のごく一部である

どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分いかに素晴らしく、いか努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。

「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しか他人人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人他人人生犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分ドラえもんになろうとはしない。

ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているかあなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力奇跡結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。

努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である野蛮人だと思っていたか自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国もっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくま自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。

大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。

社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。

俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本王国でも帝国でもない。早々に自分人生解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。

もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人から、そうしたいのだ。

俺は、この文章意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会クズものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん