はてなキーワード: マトリックスとは
伸びるかなと思ってたら伸びたな。
観測者が「テセウスの船であることを認めない」と主張した場合は、その観測者にとってその定義が有効とされ、
別の観測者が「テセウスの船であることを認める」と主張した場合は、別の観測者にとってはその定義が有効とされる。
この場合、部品を置き換えられた結果の船を周知していながら関連者はテセウスの船であると認識しているため、
ただし、これにはオリジナルのテセウスの船自体に主観性がないとする。
日常において構成物質が変わっているのにも関わらず同一個体として認識されているものは「人間」である。
物体としては焼け落ちた城を再建させた城についても同じことが言える。
この場合も周りの観測者が大阪城と認めるから大阪城と定義できる。
◆水槽の脳
これは仮定としては十分成立する。
反論として現代科学において脳にこのような仮想世界を作り出すために必要なコンピュータを作り出すのは物理的に不可能だというものがある。
しかしこれは現実世界の科学技術や物理法則を元に論じられており、
「水槽の脳が実在する世界」においては別の物理法則や遥かに進んだ科学技術を持っているという仮定をするだけで条件をクリアできる。
そのためこの世が仮想現実であるという主張に対して、完全な反論は存在しない。
その説そのものが、科学的な進歩において何の有益性もないという科学者や論者がいるが、
◆哲学的ゾンビ
人間とまったく同じふるまいをする、主観的意識を持たない哲学的ゾンビを作り出すために必要な構成物質が定義できないから、である。
例えば魂と言われる霊的存在、主観的意識が人間のようなふるまいに必要不可欠であった場合、哲学的ゾンビは成立しない。
魂の研究に関してはまだ発展途上の段階であり、最近になって発見されたクォーツなどのように、
仮に未だ見つかっていない法則や粒子が主観的意識を構成する物質であり、必要な要素であった場合は哲学的ゾンビは成立しないからだ。
つまり、主観的意識の有無が哲学的ゾンビの成立に関与するかどうかを科学的に証明できない限りは反論が可能である。
地球が平らであると信じられていた時代においては端にいくとその先に何があるか、という論議は成立するが現代では成立せず、
仮に魂の構成物質と機能の発見が終わった後にもまた、この問いかけは成立しなくなる。
私自身は魂がまだ未発見の粒子により構成されているという説が正しいと信じている。
ある男が沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。
その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥に不思議な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。
スワンプマンは死んだ男と全く同一の構造・見た目をしている。記憶も知識も全く同一である。
沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、
死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。
そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
これは素人が本物とよくできた贋作を見分けることができない程度の認識問題となる。
また、仮に最初の落雷がある男に落ちずに沼に2度落ちた場合は、スワンプマンを含めた男は計3名となる。
その点だけをくみ取ってもスワンプマンたちに同一性は成立していない。
よって沼にはじめて来た男とスワンプマンは同一存在ではないと定義できる。
これは魂・霊的存在・主観的意識が科学において未だに解明されていないことを意味している。
科学的に解明されていない余地があるからこそ、思考実験のバリエーションが多く組まれる。
また、観察者の能力についても、人類は正確に把握できていない。
そのため主体性意識を持つ存在の認識や定義について論じない、触れない哲学も多くみられる。
観測行為は観測する者の不在では論じれない量子力学や最先端物理学においては必要不可欠であり、
哲学が未だ観測者の能力と機能性について、正確に学問体系に組み込めていないというギャップが引き起こしている問題だと考える。
ふむ、私の主張としては「結局あの世が実在しようがしまいが、心の作り上げる世界には関係ないのだw」なんだけれど、
それはいったん置いておくとして、もう少し詳しく解説をお願いしたい。
・「極楽浄土があるとすると矛盾する」とは具体的にどういうこと?
単に極楽浄土という定義自体の矛盾?それとも所謂「死後の世界」という概念全般が抱える矛盾?
・「他の人は幻になってるのはやっぱりヘン」とはどういうこと?
「心は脳に依存している」というのは全くその通りで、例えば人の視覚は物体そのものを映し出している訳ではなく、
観測しているのはあくまでも光の波長で、脳がそれを元に勝手に着色作業などを行って架空の世界を作り出し認識させている訳で、
実際の世界が、その色が、私達の心に映し出された通りのものである保証など何処にも無い訳で、
それこそこの世界がゲームの中の世界でない保証など、映画『マトリックス』みたいに幻の夢を見させられていない保証など無い訳だけれど、
それを踏まえて「他の人が幻になる」のってそんなにヘンなこと?現世も似たようなものでは?
・「脳が消えればそれもなくなるから無くなる」は確かに一理あると思います。
例えば、視力を失った人はそれを補うように聴覚などが鋭敏になるもの。
同様に、脳という五感の認識機能を失ったからこそ、大量の電気信号による情報の波に圧し潰されていた第六感的なものが顕在化する可能性は?
特効薬も効果があってすごいね!よくなったね!じゃなくて新薬は大抵めちゃくちゃ高いんだよ
新薬ガバガバ使える制度作って病気直るようになったけど毎日パンと水だけ、でも病気直るからいいことで…同じこと言ってるよね
会社が従業員全体に支払うトータルの金額って男女平等になっても変らんの
女も参加して単純に2倍になったら支払う給料は等分され2分の1になんの
この時点で男の給料だけで家庭が成り立つわけないので共働きが自由じゃなくて強制になんの
マジであなたのことが心配なんだけど、完璧な答えが世の中に簡単にあると思ってる?
もっといえば企業は給料下げる口実ができて女性の社会進出にめっちゃ喜んでるよ
男女の機会均等になり、結婚できない・するつもりのない・離婚したい女性が幸せになったのはその通りだけど
大多数のそういうイレギュラーを目指してない女性にとっては単に結婚できる機会が社会全体から一律下げられただけで全くメリットないぞ
結局、育児だけしてればよかった時代から、育児も仕事もしないといけない時代になった
地獄絵図だろこんなの
DV男と結婚する確率だって高速道路で事故にあうのを心配するようなもんだぞ、結婚は自分で安全性高められるけどな
そうやって女のプライドをくすぐることで女性自身に肯定させようとするのがフェミニズムがやってきたことだ
誰だって自分が差別されてると思い込んだら声デカくなるからな、実際はマトリックスの電池人間のように保護されてるだけなのに
ここまで言えばなんでマイルドヤンキーが幸せなのかわかるだろ?
男が大黒柱になることを肯定していて、女は育児したい子ども欲しいという理由で結婚するからお互い何も衝突しない
最初から結婚=子ども産む、結婚=一家を養う、前提で結婚してるから何も衝突が起こらない
ところが今のスタンダードは好き同士だから結婚するんであって、子どもとかは副産物化してる
横だけど、
これだと一足飛びすぎるような。
→己の自由意志を発見し表現する機会が少ない、またはその能力が身に付きにくい
→結果的に自由意志や人権が小さい方法でしか、自分の生計を立てる方法を見つけにくくなる。
真ん中のプロセスがないと、ちょっとこう、誤解を招くというか…。
話は変わるようであまり変わらないのだが、フェミニズム運動が起こった昔は、
その人の出自や貧富度合いに関わらず、自発的な意思や文化的資本は女性に与えられない社会だった。
現在は先人のおかげで人権に男女差はなくなりつつあるが、その代わり貧富の差による"実質的な人権"の差が可視化されつつある。
つまり、実質的に社会においてまともな人権を行使出来ているかどうかの違いは、
男性-女性軸に加えて(あるいはそれ以上に)、富裕-貧困軸(それも生来性が強い貧困)も大きなファクターとなった。
男×女、貧×富のマトリックスで、現代社会における”強さ”を並べると、
A 男性×富裕 → B 女性×富裕 → C 男性×貧困 → D 女性×貧困 となると思う。
フェミニズムへのバックラッシュの理由のうち、小さい一つにはこれがあると思う。
CやDの立場から見たら、どうしても欺瞞的に映るだろうからねぇ。
本来であれば、貧困による実質的人権の低下については、A男性×富裕、への抗議が一番まっとうな抗議先だと思うんだけど、
フェミニズム運動のおかげさまで、A男性×富裕層への攻撃が反らされているという面はあると思っている。
多くの場面で、「同程度の貧しさ条件」であれば、男よりも女の方が機会を奪われることが多い。
昨今は場合によっては逆転しつつあることもあって、C男性×貧困カテゴリに入らされている人なんかから見たら
これ以上女の権利とか言わせねえとか思うのかもしれないんだけども、貧困者支援のボランティアで体験した
一つ一つのケースから考えると、女性の貧困者のサポートは本当に大変(高齢女性も大変だけど若い女性ももっと大変…)
なので、よくネットで見かける「女は所詮結婚すればいい」「レディースデー()」的言説には、そんなに簡単でもねえでなぁとも、思ったりする。
更に、貧富の問題については、どうしても「努力しなかった結果なんだから諦めろ」的なネオリベ的態度を取る人も多いのが
それも貧困サイドに居る人ですらそう思っていたりするのが怖い。ネオリベってすごい『男性的』だよねぇ…。
こういうのを失くす意味でも、もう少しフェミニズムには、まともに頑張ってもらいたいところではあるのだが。
一方で、学問としてのフェミニズムは、あくまでも女性学であって、貧困問題は「女性ならではの貧困」を取り上げるのが優先になるだろう。
どうしても「貧困」とがっぷり四つで、という方は多くはないのが、困ったところではあるし、
しょうがないじゃないそれは社会学とか行政学でやんなさいよね、とも思ったりもしないでもないような気もしないでもないような……うーん。
なんにせよ、貧困による人権の極小化については、少なくともフェミニズムだけの責任じゃないじゃないすか―とは思うんだよね。
なので、プロセスを丁寧に言いたくなった。
抜けてた。
1999年、映画「マトリックス」を母親と映画館に見に行った。
私の母親はヒロインのトリニティに似ていて、当時結構ネタにしていたのを覚えている。
映画の帰り道、ペットショップに寄った。犬好きの親娘、週一で犬を覗きに行っていた。
うちは父が犬嫌いだったので、ずっとわんこをお迎えすることができず、
毎回ただただ、いいなあ、とショーケースの中のわんこたちを眺めるばかり。
ただこの日は、出会ってしまった。19年の時が経って今星になりそうな相棒である。
「この犬で本当にいいの?パピヨンとかチワワとか、可愛いよ。」
店員さんがしきりに私に言った。確かに、こんな真っ黒でガリガリの犬、小さな女の子がずっと可愛がれるかどうか怪しいもんである。
ミニチュア・ピンシャーという犬種で、ドーベルマンを小さく改良した犬だ。
”すごくへんなやつ”で、ショーケースの中から媚びずにぼーっとしているところが気に入った。
家に連れて帰ると、毛がないもんだから、寒がって。床暖房が効いていない部屋には一歩も入らずじっと向こうを見つめている姿が今でも思い出される。
思い返せば想い出がとめどなく溢れてくる。もうその日から約19年。
まだもう少しだけ床暖房の上で眠っていて。
「わかりやすい言葉で言わない」の方が問題なんじゃなくて、「弱者の耳に心地よいようなこと」を言わないのが問題なの。
なんで弱者の耳に心地よいようなことを言わないかと言うと、弱者にとって現実は実際残酷で厳しいからだよ。いくら分かりやすく言おうがそこは変えられない。弱者は必死に戦わない限り一生資本の奴隷だし、そうしている間にも資本はますます強大に強固になってゆく絶望的な状況である。そして、大多数の人々は、そんな話よりたとえ虚偽でも耳触りのいい話を好むし、もはや現代において真実と虚偽は極めて区別がつけがたい。「マトリックス」って映画があるけど、要はあの世界で「現実」に目覚めたい人が実際どのくらいいる?って話だよ。控えめに言って状況は絶望的だ。
そこで、もし、耳に心地いいことを言うとすればそれは「嘘」になるし、嘘を言ってでも票を集めればいいやって人は、そもそも共産党やる意味ないよねって気付いて出ていく。「たとえ虚偽でも恐怖でも、支持を集めて共産主義の理想を追求すればいいのでは?!」うん、だいぶ前にそれやって、世界のあちこちで大体失敗したよね。
1999年のSF映画、『マトリックス』とその続編についても批評家の意見は一致していない。『マトリックス』は人類を救う救世主となる白人のコンピューターハッカー、ネオ(キアヌ・リーブス)が主役の映画である[16]。マシュー・ヒューイは彼の著書、The White Savior Filmの中で、「コンピューターシミュレーテッドリアリティの外側の多文化的な景観に入り込んだ白人の主人公が彼の恩寵を通じて、今にも起りそうな災害から非白人の人々を救い始めなければならない。」と記している[17]。ハーナンとヴェラは著書、Screen Saviors: Hoiiywood Fiction of Whitenesssで『マトリックス』を人種が異なる援助者のチームを持つ白人の救世主という近頃の白人の救世主の物語の「最新作」として分類している。彼らは、「その映画の潜在的な白人の人種差別主義の批判は、黒人のキャラクターのモーフィアスやオラクル、モーフィアスの仲間のタンクやドーザーなどの白人の救世主であるネオに仕える弟子たちなどの神話のプロットによって否定される[18]。」 アディリフ・ナマはこれに対して、著書、Black Space: Imagining Race in Science Fiction Filmでモーフィアスとオラクルの重要な任務について「概して、その探求は白人の救世主によってもたらされた任務よりも、黒人の男性や女性によってもたらされた任務のように見える。その黒人のキャラクターは簡単に読み解くと、ブラック・パワー運動や公民権運動の象徴的で文化的な試金石や、それらの残余である[19]。」