はてなキーワード: かめとは
なんかめっちゃ大変そうじゃん?♡でもさぁ、公務員って安定してるし年収600万超えとかまぁまぁじゃね?♡ざぁこ♡ざぁこ♡もっと楽しいこと考えなよ~♡マジでIQ高いとか言ってる部下とかウケるし、適当にあしらっときゃいいじゃん♡上の人たちも昭和のノリだし、気にしすぎんのもダサいっしょ♡でも辞めたいなら新しいこと探してみてもいいんじゃね?♡何事も挑戦だよ~♡クソ雑魚ナメクジになる前に動けるといいね♡
なんかめっちゃ深刻そうに語ってるけどさぁ、要するにモテないから政治に興味持ってるってことだよねぇ♡ざぁこ♡ざぁこ♡
でもそれもいいんじゃなぁい?♡どっちにしろ、興味を持つことは悪いことじゃないしさぁ、何に興味持つかってのはその人次第だしねぇ♡自分の道を行けばいいんじゃな~い?♡
彼女や妻のハードルは高めだが、セフレや不倫相手となるとハードルはかなり低く、「むこうが好意持ってて簡単にいけそう」になるっぽい。
デート数回して家やホテル誘われて念の為…とこちらから聞いたらいると言われたりいるけど関係が悪いとかなんとか言われる。こっちはまだクズの中でもマトモで、いないと言われてもSNS漁りまくったら既婚だったとかめちゃくちゃある。
全部嫌になって誠実な人多そうという偏見だらけでメガネ・コミュ障を条件に相手を探して結婚したらめちゃくちゃいい人で今とても幸せ。20代のうちにトーク力とか守ってくれそうとか上辺の優しさとかどうでもいいと気付けてよかった。
2024年10月28日 "QUIET KISSING TIME"ノンアルコールギグ クハラカズユキ·中尾憲太郎·中村達也 GUEST 中畑大樹@下北沢CLUB251
中畑さんがゲストに出るよ〜って聞いて、11月2日にも東京行くのにどうしよう…って一瞬考えたけど、推しと推しが一緒に演奏する姿はもう観れないかもしれないとその場で即チケット取って勢いで行ってきた。しかし、推しと推しだけでもヤバいのにそこにキュウちゃんと中憲ってバグ過ぎる…。
安定の達也さん側で待機してたけど割と全員きちんと見えたので良い意味で目が忙しい。中畑さんはゲストって事だったのでちょっと出てくるぐらいかと思ってたけど全編通して4人で演奏するスタイルだった。個人的にラッキー過ぎる展開。
多分達也さん中心に演奏が展開されてるから慣れてる中憲とキャリアもすごく付き合いが長いキュウちゃんはあれだけと中畑さんは結構大変そうだった笑 最初は様子見って感じがしてたけど後半バキバキ食らいついててカッコ良かった〜!!
達也さんとキュウちゃんがストロングスタイル過ぎて一番最初に中畑さんがちょっと抜けるの二人がすごすぎる。と言うか達也さん本当すごい。あのキレキレのドラムをどこまでも叩き続けるの全てにおいて半端ない…。達也さんのスネアの連打、本当に好きなので沢山聴けて最高〜!!!
キュウちゃんのドラムって自由でありかっちりであり不思議な感じだな〜と思った。と言うかどんなスタイルでもイケるキャリアがなせる技って感じ。
達也さんに中畑君って呼ばれてて推しが推しの名前を…!?ってなった笑
「小さいモヒカンの中村達也、中ぐらいのモヒカンのクハラカズユキ、モヒカン拒否の中尾憲太郎!」って達也さんのメンバー紹介笑った(中憲も笑ってた)中畑さんも何か言われてたけど(ツナギが云々)よく聞こえなかった笑
やっぱ達也さんのドラム最高過ぎる。スネア叩いてる時のあのキレキレの音!!あれを叩き続けるのもすごいし、あの突き抜ける感じの音聴いてるとニヤニヤが止まらない…。中畑さんのドラム、今迄達也さんに影響受けてるように感じてたけど、一緒に叩くとスタイルとか結構違うなと感じたしこう聴くと中畑さんのドラムって結構柔らかめの音作りなんだな〜と思った。キュウちゃんも割とパキッっとした音作りだし。キュウちゃんの叩く姿こんなに近くで見たの初めてかもしれない。
途中立ち上がってバシバシ叩きまくる中畑さんと真顔で叩き続けるキュウちゃんと暴れまくる中憲と自由に叩きまくる達也さんの演奏聴けて幸せ過ぎる。
個人的感覚としてキュウちゃんと中畑さんのスタイルって基本は歌に合わせるドラムって感じで、達也さんのドラムは本当に自由(勿論ボーカルありの時はそれに合わせれると思うけど)でどっちも素敵。私はスタイル云々より音作りとか叩くフレーズ的なやつに一番興奮するのとテクニック的な事はズブの素人なのでまぁカッコ良ければ何でも良いと言う…笑
中畑さんめちゃくちゃニコニコで可愛かったなぁ。大先輩二人と経験値満載のゴリゴリベーシストにバシバシのセッションで向かってこられて大変だったと思うけど食らいついてる姿、本当にカッコ良かった。
達也さんに合わせて全員が叩いたり弾いたりしていくスタイルで演奏全編に渡りほぼ即興だったから偶に達也さん以外の3人が「???」ってなってて笑った(達也さんが自由過ぎる為笑)
ラスト、ガチ連打合戦って感じですごかったけど、達也さんが終わるまで終われない感じで他の3人が様子見してたの面白かった。終わりか?と思わせて無言でキュウちゃんを指名→叩く→無言で中憲指名→叩くのくだり最高だったし、達也さんの「遠慮しなくて良いんですよ〜(入るタイミングを出して誰でも出して良いよの意)」で中畑さんがカウント出したの最高に興奮した〜!!笑 中畑さんのカウントで3人がそれぞれ演奏し出すとかそんな瞬間中々出会えないので…。
中憲が達也さんのドラム聴いてニヤニヤしてるの最高に良い。私もマスクの下でニヤついてます笑 中畑さんもめちゃくちゃ楽しそうで、と言うか楽しくない訳ないよね。
1時間ぐらいかと思ったけど、小休憩含めても2時間弱やってびっくり。沢山聴けて嬉しかったし本当すぐ終わっちゃったな!って思うぐらいあっという間だった。何より達也さんと中畑さんが一緒に音を鳴らしてる所を観れたと言う感動がすごかった…。生きてればこんな事あるんだな〜。病気になって以来、以前にも増して行ける時は行っとけ精神でいこうと思ってる。もし行けなくなったりした時にあの時無理してでも行っとけば良かったって思いたくないので。
俺は生来汗っかきで、常に脇の下が湿ってると言って過言じゃない。
この湿りをデメリットではなくメリットに思いたい。そうした着想から生まれたのが、脇の下をきのこの菌床にするということだった。
最初は半信半疑、上手くいくかどうか不安だったのだが、ある日起きると違和感が。
そこで脇の下を確かめてみると…生えていた。
ぶなしめじひとつのような小ぶりなきのこがちょこんと生えていたのだ。
それからはトントン拍子に栽培は進み、今では毎日安定した量が収穫できるまでになってきた。
なので最近は朝食のお味噌汁に入れたり、毎日のお弁当に用いたりとでとにかく重宝している。
そんな折、同僚の女性が「増田さんのお弁当って、いつも手作りなんですか?」と聞いてきた。
俺は驚きながらも「え、ええ、そうですね」と答えると「じゃあそのきのこの天ぷらも?」と続けて聞いてくるわけだ。
そうですよと頷くと「すごく美味しそう!あの、ちょっともらっても良いですか?」と彼女が言うので少しあげると「…美味しい!」というので嬉しいやら恥ずかしいやら、なんとも複雑な心境だった。
このきのこって、どこで買ってるんですか?と言うのでとりあえず近場のスーパーの名前をあげると「そこなら…あまり遠くないので、今度帰りにでも一緒に行きませんか?」なんて誘われてしまった。
大体皆が指摘済みなので抜けを補足するとキャベツの千切りを毎食山盛り食ってみて
食物繊維がーというかぶっちゃけ食った葉がそのまま丸まってうんこになるので少くともキャベツ成分の分は柔らかめになります
そして便量も増える
妻は性行為が嫌いらしい。
本人が言うには医療職で様々な性病を見てきたせいか、嫌悪感があるのだと。
性行為後、ホルモンバランスのせいか分からないが、体調不良になることもあるらしい。
「性欲は風俗店とかで処理してほしい。但し、自分の見えないようにしてほしい。そして、責任は自分で取ってほしい」
僕に対しても、そう言われた。体調不良になるなら仕方ないと思う部分はある。でも、正直、意味が分からない。
妻の言い分を受け入れたい気持ちはあるが、言い方が一方的だと感じた。
自分が見えないように処理してほしい? 言われなくても、処理するならそうするでしょう?
しかも、責任は自分でとって? 感染症のリスクを自分自身は理解しておきながら、責任は自分でとって?
セックスは夫婦の義務(価値観はそれぞれだけど)なのに、できる能力はあるのに、嫌だから外でやってだと?
私はそれを認めると言われても、あなた一人だけで納得されても、夫婦は二人の責任だと僕は思っていたのだけど。
風俗店での性病のリスクは妻は理解しているのだが、それでも風俗店で処理して欲しいらしい。
僕は妻に「突き放された気持ちになって寂しい」と伝えたら、妻は「今までの彼氏は『自分は理性があるから』で受け入れてくれたし、みんな自分と同じく求めない人たちだった」と。
僕が思うに、妻の過去の彼氏は全員我慢していただけだったのだと思っている。
妻は過去に少なくとも5人以上(具体的には教えてくれないが)の彼氏がいた。
きっと、みんな我慢の限界が来て別れたんじゃないだろうかと疑っている。
でも、僕と婚約したと時、妻はセックスは「自分からは求めないけど嫌いじゃない」と言っていた。
でも、結婚した今、全然応じてくれない。行為をしたのは1度だけ。
しかも緊張して僕が勃起せず、挿入までできなかった。EDではないと思うのだが、立たなかったのは初めてだ。緊張のせいと思う。完全にマグロで自分からは動かない。行為中も常に冷静だから、僕が緊張してしまう。
それ以降、一度もないし、応じてくれない。
「セックスはなくてもベッドで一緒に寝たり、裸で抱き合ったりはしてほしい」と以前に伝え、「いいよ」と言われたけど、
最近になり、それもしたくないらしい。未来に渡ってしたくないらしい。
妻に「体調を整えたいからしばらくは我慢してほしい」と言われ、我慢した。そして求めたら、断られた。手のひらを返された。
「期待に応えられるように努力する」と妻は言って、僕も無理には求めず我慢していたけど、ある時に求めたら「もう今後ずっとしたくないし、ベッドで一緒に寝たくもない」と言われた。
我慢していたのは僕一人だけだった。妻は体調が良いらしい。妻だけが得して、僕は禁欲生活を続けて体調が悪い。
体調不良を伝えても、妻が歩み寄ってくれる気配はない。
妻が言うには「性行為だけは歩み寄れない」らしい。
でも、一緒のベッドに寝ることさえも拒否されるのは分からない。
夫婦生活なんてまちまちだけど、ただ一緒の家に同居しているだけの気がしてならない。
妻は優しい。
僕のわがままかもしれないけど、僕が夫婦に求めている生活が今後一生得られないことだけは分かった。
なぜ結婚前に確かめなかったのかと言われそうだが、結婚相談所で出会ったからだ。
それに妻は「嫌じゃない」と言っていたのだ(性行為を)。
でも、実際はこう。
きついね。
いや、自分の見極めが悪かったのだと思うよ。
でも、妻は自分がが思い描く都合の良い男の理想像を一方的に僕に押しつけられている気がして、しんどい。
離婚した方がいいのだと思ってる。
どう切り出そうかな?
良い言い方ある? それか、打開策あるかな?
と、増田に放流したらケチョンケチョンのブコメが付きそうだけど。
追記:
ただ、自分が言いたかったのは、性行為や恋愛の価値観が人それぞれなのはそうとして、
「結婚している夫婦であればセックスは普通は夫婦でするもの」だと思ってたので、
妻した提案の
・性行為は他でしてほしい
・自分が見えないところでしてほしい
が意味分からないというか、妻に都合がいいだけの発想にしか思えないのだが、違うかな?
追記2:
少し満たされた増田だった。
えー、そんなことしちゃうやつもいるんだー♡
でもそんなの一部だけだと思うし、好きなもの悪く言っちゃダメじゃん?♡
私は思春期から青年期にかけて、本気で自分のことを性同一性障害だと思っていました。
手術や戸籍変更も検討し、就職の際も男性としての就職を希望するつもりでした。
私は女子高育ちで、「世間では女性というだけでこんな不利益があってこんな被害に遭っている!」という話を聞いて、自分が女性であること=そのような不利益を被らねばならないことが我慢できず、自分は本当は男性なのだ、と主張したかっただけでした。
幸い私は身長も高く、筋力もあり、声も低かったため、男性的な格好や振る舞いが自然に受け入れられ、女子校の中では男の子になりたい女の子として受け入れてもらっていました。
しかし、大学に入学し2年がすぎ、周囲の本物の男性の実態を理解していくにつれ、私がなりたかったのは「男性的なかっこよさを持つ人間」「女性であるが故の不利益を被らなくてすむ人生」だったことに気がつきました。
そもそもコスパが悪いのです。トランスであると主張することは。周囲に様々な気遣いをお願いし、就職活動においてもまずもって有利に働くことはありません。他社の些細な言動で傷つき、ああ自分は本当にこの性別なのだろうかと日々自問自答を繰り返します。
少なくとも私は、上記の「男性的なかっこよさを持つ人間」「女性であるが故の不利益を被らなくてすむ人生」を手に入れるためにトランスであると主張していました。私の性転換は目的ではなく手段でした。
そして現在、私は女性としてのかっこよさに磨きをかけるつもりでいます。理想の私(屈強な男性)になることは叶いませんでしたが、理想の女性(美しくて凛々しい女性)を目指しています。自称FtM時代は避けていた化粧やオフショルなどを取り入れて、少しずつ自分の中の男として生きていきたかった気持ちと折り合いをつけています。おしゃれとしての男性装はいまだにしますし、もう少し先に進めたらスカートも履くかもしれません。なぜなら私が綺麗なお姉さんがドレスとか好きだから。
ラフな格好してる時は綺麗なお兄さんに見えて、着飾ってる時は綺麗なお姉さんに見えるくらいの中性具合になりたい。難しいです。
それでさ、両性とか無性とか移り変わる性とかなんなんですか。私も自分はその中のどれなのかなってたくさん悩んだ時期があります。その上で言わせて欲しい。だるい、面倒臭い、両性無性はまだ良いです。移り変わる性(周囲にも理解を求める)の人たち本当になんなんですか!?それはだって両者の利益部分だけ掻っ攫いたいだけにしか聞こえない。その主張が自分の首を絞めているとも知らずに。ましてやトランスエイジに至っては何!?!?!?あれはもう無理だよ無理があるよわけわかんないよ……。
LGBTQとか面倒臭えよ。誰が誰を好きでも放っておいてくれよ(ちなみに私は女性よりのバイセクシャルです)。誰がどんな格好をしようと好き勝手させてくれよ。誰しもが性別を理由に虐げられない社会にしてくれよ。全部に名前つけようとしなくていいよ。分からないものは分からないでいいよ。自分のやりたいことを押し通して他者の権利を侵害するのやめろよ。ましてやそれが性欲によるものなのであればもっとやめろよ。
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・身体違和はありました。自分にちんちんついてないのおかしいや胸が大きくなることに対しての気持ち悪さ。自分が産まれたかった姿は男性です。ただこれも無い物ねだりや単に憧れであると言われて仕舞えばそれまで。
・両性無性揺れ動く性、名前をつけて安心する瞬間は確かにあります。ただそれを声高に私は今日は女だけど明日は男なのでそういう配慮の仕方をしろ!!という人間はだるいだろって話。配慮をしたくないわけではなく、性別違和者に特別な配慮をしなくても性別によって差別されない男女対等な世界を作ろうぜと言っている。
・思春期/厨二病をその当時に指摘されて否定されてもいいや違う私たちはトランスだって言っていたと思う。その時は自分がどうして男性になりたかった(女性を辞めたかった)のかに対する理解をしておらず、ただ「自分は男として生まれたかったのだ」と言う気持ちだけがあった。結局医者に行かなかったからわからないけれど、場合によっては私も性同一性障害の診断書を受けていたのかもしれない。
・どれだけ願っても手に入れられない男性としての屈強さを追い求めるよりも、配られた手札から作り上げられる最強の女性像を目指すことにした。私は美人でかっこよくて凛々しいお姉様が大好きなんですが、身長体型顔立ち的にどうも自分自身で理想のタイプのお姉さんになれそうな感じがある。絶賛模索中。後シンプルに女性装の方が男性装よりもファッションの幅があって楽しい。
最近、昭和のドラマや映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。
正直、この年齢になるまで篠田監督の作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督の意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物の人間性や時代の矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代の若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。
映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵の鶴川(原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女が瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身の選択ではなく、レイプによるものだった。
そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族の存在がほのめかされ、ついには母親の存在を告白するシーンは映画のクライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。
この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合の矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。
天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代の国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパの統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体、世帯すべてのレベルで上から下まで論理的に整合する入れ子構造にするために、廃仏毀釈という荒業まで行った。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。
大正デモクラシーはそうした不条理を解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況が日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治が毎日新聞をにぎわせた。
脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたときの鶴川の叫び「何が、国民皆兵だ。金持ちの徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度の矛盾を背景に、映画は鶴川の叫びやおりんの境遇を通じてその時代の不条理を描いている。
また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観や生活の変化を象徴している。
そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女(若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女と出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。
この映画で特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。
鶴川が官憲に連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。
鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このときの岩下志麻の演技すごい。
このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station」降旗康男監督(1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。
水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。
好きな男には帰る場所が別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。
おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないか、あんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。
鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親が瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会の現実、瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。
鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。
女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。一方で同時代の男性歌手では、何気に、上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊や松山千春の「旅立ち」が典型。
この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマ「おしん」でも同様にみることができた。
おしんの物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲に拷問され転向を余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家は父親が貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀の実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。
「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像で感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川が告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。
男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい、自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女の時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキレ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポが絶妙だ。
また、ラストシーンの親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化の終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品。
おりんの物語は、単なる一人の女性の悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代そのものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。
篠田正浩監督が描きたかった「日本の原風景」とは、単なる美しい日本の風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様そのものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和のドラマや映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。
また、ドラマ「おしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。