はてなキーワード: 講談社ノベルスとは
ああすまん。新潮社の公式アカウントがラノベレーベルじゃないと言ったんだった。新潮社nex編集が言ったんだと理解してた。
参考: http://togetter.com/li/684962
そうかな。売れるなら書店は棚を拡大するんじゃないかな。
「ライトノベルとは違うんだ」っていうところに価値観を見出す市場が存在するからこういうブランド戦略で売れるだろう、という目論見があるのでは?
これはホント君の言うとおりだな。
ラノベの定義を「ラノベのレーベルから出ている本がラノベ」とすると講談社ノベルスの存在で破綻するということが判明したわけだ。
まあ講談社ノベルスの中の人が何を考えているのかはよくわからないけど。
そこで修正案を提案したいんだけど、
ラノベの定義を「レーベル側(出版社)がラノベだと言ったらラノベ」というのはどうだろう。
これだと「ラノベレーベル」だと宣言しているレーベルの出す本は当然ラノベだし、ラノベとラノベ以外も出版するレーベルも包括的に定義できる。
なかなか良い案じゃないかな?
ああ、確かにエンタメである必要があるという意味では内容は制限を受ける可能性があるね。
ラノベでは何でもできるみたいな言い方は間違いかもしれない。
大衆文学と比較してエンタメ傾向が存在することに起因する内容の変化はないということは言えると思う。
対象年齢については、文学作品の対象年齢に下限はあっても上限は無いと思う。
子供は漢字が読めなかったりするので読める小説に制限はあるが、低年齢向けに書かれたものが大人の鑑賞に耐えられない内容であるという説得力のある根拠はないからだ。
結局、「対象年齢が低い」ということを定義に含めるかという話をするべきだと思うんだけど、
今書いた理由もあって、それはするべきではないと考えている。
それに加えて「対象年齢が低い」というのがラノベの出自としてはあるとしても実際は児童文学を読んでいる大人よりも明らかに多くの大人がラノベを読んでいて
実際に大人の鑑賞に耐えうる作品も存在するという反論もそこここに見られる。
じゃあ今度は君は「大人のラノベ」はラノベじゃないのかよ、なんて話をし始めるのかもしれないけど、
まあ結局ジャンル分の定義は存在するものに対して後付でしていくものなので、世の中が変化していく以上完璧な定義はありえない。
結局、妥当性が高いものを共通認識として提案し続けるしか無いだろう。
僕は「ラノベ」っていうジャンルが、蔑称としても通称としても流通している現状は良くないと思う。
実際の文化的状況に対しての妥当な定義付けは、論理的な根拠の無い区別=偏見や差別を横行させないために必要だろう、と考えている。
「黒人を定義する際に、粗暴だとかリズム感がいいとかいう定義は間違っている、粗暴じゃなくてリズム感の悪い黒人もいる。黒人の定義は『黒色人種に属する人。』で十分だ」
と言っているのに、
「50%黒色人種の血が入っていて50%白人の血が混じっている人が存在するじゃないか! 黒人は定義できない! 」
と言われても困る。やれやれ。
「ラノベの定義=ラノベレーベルから出てること」と定義するなら「半分だけラノベレーベル」なんて曖昧な言い方はだめだろう。
編集がなんと言おうが、挿絵が無かろうが、ラノベレーベルから出ていればラノベだ、と言ったのはおまえだろ。しっかりしろ。
ちなみに「ラノベじゃないと言ったほうが売れる」のは「書店のラノベ棚が飽和している」という前提あってのことだ。
おいおい、「ラノベもラノベじゃないのもどっちも出すレーベル」なんてものが存在したら、
その時点で「ラノベのレーベルから出ている本がラノベ」なんて定義は成り立たないじゃないか。
それはライトノベルがレーベルじゃなくてパッケージによって定義されているということだろ。
どっちなんだよ。
ラノベって言葉はジャンルのエンタメ傾向と対象年齢をゆるく示しているだけなので、内容については実は何でもいいのではないかな。
親は教育熱心なひとで、物心ついたときから近所の公立図書館に連れられて育った。
一方、実質母子家庭のような家庭環境で、そこまで裕福でもなかったうえに、完璧主義者の母親であったので、自分でお小遣いをもらって好きなものを買うという環境でもなかった。
母については、わたしたちのために苦労してきたのだなと申し訳なく思うし他にも色々思うところはあるのだけれども、それは本題ではないのでここには書かない。
とにかく、娯楽のない状況だったので、図書館で本を借りるか、サンテレビの野球中継を見るかくらいしかお金のかからない趣味はなかった。友達に漫画を貸してもらったりもしたけれども。正直、そのことをさして不満にも思わなかった。
(我が家にお小遣い制度というものはなく、欲しいものがあればその都度申告して買ってもらうという方式だった。本だけは何も文句を言われなかった。ありがたいことだと思うけれども、正直この制度は欠点も多いなと思っていて、わたしは今でも本なら自分で選んで買うことができるのに、服を自分で選ぶことができない。いつかお金持ちになったら、ドンキでいいなと思った雑貨を罪悪感を抱くことなく好きなだけ買いたい)
持てる限りの記憶力をハリー・ポッターの登場人物のプロフィールと呪文の暗記に注ぎ込んだ小学時代。はやみねかおるも好きで、小学6年生のとき図書室で『踊る夜光怪人』を見つけて、この世にこんな面白い本があるんだと思った。
中学生のころに森博嗣を好きになり、京極夏彦や西尾維新を夢中になって読んだ。今思えば、お前森博嗣とか大してよくわかりもしないまま読んでただろという感じだし、今でもだいぶわかってないと思うんだけどさ。荻原規子も茅田砂胡も乙一も島田荘司も恩田陸も読んだ。辻村深月が大好きだった。とにかく、中学高校時代と、講談社ノベルスに関わりのありそうな本はたいがい手を出した。近所の公民館でパソコンスペースがあったので、時間があるときにはハリポタやダレン・シャンのイラストや考察サイトをめぐって過ごした。
高校生の頃『活字倶楽部』という雑誌をたまたま見つけ、そこで『銀河英雄伝説』という小説があることを知った。当時は絶版だったので、近所の図書館の地下書庫から出してもらって一気読みした。そのままの勢いで友人に「とにかく、最初の20ページは飛ばしてもいいから読め! 2巻までは読め!」とすすめた。銀英伝が好きすぎて、その夏にすくってきた金魚すくいの金魚たちに提督たちの名前をつけた。
「おかあさん、ヤンが死んでる!」
ちなみに銀英伝ではないが「巽」と名づけた金魚もすぐに死んでしまった。今の実家では、フリッツとオスカーとアーダルベルトだけが生きているんだけれども、どの金魚もそろそろ寿命という感じだ。
進学させてもらって、大学生になってからはもう少し色々読んだ。
際立った傑作というのはない気がするんだけれども、カポーティが一番好きだ(正直『冷血』は好きじゃないしもっと彼らしい作品があるだろうと思う。ちくまから出ている短篇集がいちばん好き)。サリンジャーも好きだし、4月に亡くなってしまったけれどアリステア・マクラウドという作家がもっと知られたら良いのにと思う。
3年ほど前、人生で読める本は限られているなということに気付いて、それからは注意深く本を選ぶことにしている。最近好きなのは皆川博子と津村記久子とコナン・ドイルだけど、だから何だというわけでもない。
そんなわたしも、四捨五入してもう30という年になってしまった。
好みのタイプは?という話題になり「本が好きで穏やかで裏表があんまない誠実なひとがいいな」と答えたら「聖☆おにいさんのブッダでいいんじゃね?」と返され、
「ルーピンは現実にいねーんだよ」と別の友人に説教され、正直今に至るまで毎日小説のことばっかり考えてて自分あたまおかしいんじゃないかなって思う。
これはただの、本を読むくらいしか趣味のなかった女の回想みたいなもので、なんのオチがあるわけでもない。
ただ、わたしは毎日ばかみたいに小説のこと――主に、その登場人物のことばかり考えながら生きている。
腐った妄想をしているわけでもなく、『白鳥異伝』の菅流かっこいいよなあ、とか考えながら生きている。
ハリー・ポッターの本命キャラが殺されたことを未だにねちねち言う。
島田荘司の作風の変化を残念に思い、既刊を全部読むのが勿体無くて法月綸太郎をちびちびと読む。
ちなみに、こんな感じの人間だったので、高校途中まではオタク仲間とつるんでいたんだけれども、一番好きなジャンルが違ったので在学中から疎遠になった。同じように本が好きな友人が1、2人いるので、彼女たちとは今でもよく話す。それは幸福なことだと思う。正直、他にも同じような本の趣味をしている同級生はいたし、当時はよくその話をした。ただ、彼女たちがわたしと同じように、未だに毎日現実かそれより重いレベルで小説の登場人物について考えているとは到底思えないので、積極的に連絡をとろうとは思わないし、話題が切り出せない。自意識過剰なんだろうけど、そんなふうに、未だに地に足を十分つけるわけでもなくふらふらしている自分をときどき怖く思う。
ジャンルを変えればどこにでもごろごろしている話なんだとはわかっている。長い上に固有名詞がだらだら出てきていやみったらしいのはわかっている。
追記:
ブコメありがとうございます。正直コメントがついたとしても「キャラ読みしかしてない腐女子」的なことしか言われないかなと思っていたので、共感してくださる方がいてびっくりしています。本当に、子どもに本ばっかり読ませても、子どもの性格によっちゃ、いつまでもこんな感じで現実に地に足つかない感じになる可能性もあるわけで、何事もほどほどが一番だと思います。黒出目金のジークフリードは早いうちに昇天し、コメットのフリッツは年をとってだいぶ動きが緩慢になってきました。
この世代のオタクの女の子には、アニメではなく講談社ノベルスや電撃、角川某レーベル系の文庫本、その他とにかく面白そうな小説を読んで、感想をお互いに共有しながら育ってきた子がいるのだということを少しでも知っていただけるとうれしいです。ミステリ界隈ではキャラ萌えだろうとよく批判されますが、みんな各々好きな読み方をして、好きな作家の新刊は未だに追いながらも、各々それなりに幅広く読んでいる感じです。今でも。すいませんだらだらと。
「京極夏彦と聞いて、当時の想い出と並べた」http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/12/13/105958
って文章
京極夏彦を初めて読んだのって丁度、新本格にハマってる頃で、個人的には海外ミステリ好きだったのが新本格第一世代(綾辻行人、法月綸太etc)以降国内ミステリにハマってた頃。
当時、講談社ノベルスの発売日(8日)には書店に確認に行って、ごっそり買ってたが「姑獲鳥の夏」を最初見た時の
「ぶ、ぶ、分厚い...」
ってインパクトはすごかったのに
前年の8月の講談社ノベルズの新刊が、5冊とも厚くて並んでるとインパクトのあった『夏と冬の奏鳴曲』『聖アウスラ修道院の惨劇』『ウロボロスの偽書』『柩の花嫁』『竹馬男の犯罪』だったから(竹馬男以外はどれも『姑獲鳥の夏』より厚かった)、当時新本格を読んでた人間が『姑獲鳥の夏』の厚さに驚いたとは思えない。
●ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
他の小説も読む。最近は歴史小説が多いけど前はミステリーが多かった。
レーベルでいうと講談社ノベルスとカッパ・ノベルスとミステリーフロンティアが多かったんだけど、最近では戦国時代モノの小説読んでる感じ。BASARAとか戦国無双とかの影響じゃないよ。本屋さんで平置きしてて面白そうだったからだよ。ゲームはほとんど出来ない。
読む理由は単純に面白いから。今度映画化する超高速!参勤交代なんかはまんまラノベっぽいというか少年漫画っぽい雰囲気で面白かった。勢いあったし最後は主人公の俺TUEEEEEEEEEEEEEEだし。話自体が魅力っちゃー魅力。
●ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
どちらも小説には変わりないんだし同じだと思ってる。
そんなこと言ったらハヤカワはハヤカワという何かだしガガガはガガガという何かだし。一般娯楽とおんなじだと思う。レーベル移動をした砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけないとか彩雲国物語とかどうなっちゃうのって話だし。
歴史小説だけど金ケ崎の四人とかすっごくラノベっぽかったなあ、キャラ付けとかも含めて。あれは一般娯楽小説の範囲に入ると思うけど雰囲気的にラノベっぽい。でもどこのレーベルっぽいかと聞かれたら即座には言えないので強いて言えばカテエラレーベルガガガっぽい。
あんまり挿絵を重要視しないで文字列を文字列として飲み込んで読んでるのでそんなに違いを感じない。ラノベレーベルから出てても挿絵ないのとかも多いしね。
●ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
あんまり好きじゃない。でもパロディの元ネタがわからなくても面白いのは好き。
普段活字ばっかりだからあんまりアニメのネタがわからないので、元がわからなくとも面白いのが読みたい。
警視庁草紙で半七出てきた時は半七捕物帳を読んでいたから嬉しかったけど、あれよく考えたら二次創作というかパロディというか、そういうもんな気がする。
●ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか?
ライトノベルて呼称は、主人公が若い小説っていうカテゴリ分けとして見てる感じなのであればあるで便利。
ラノベを主に買う理由が、最近では新刊が文庫で出てくれるに偏ってきた。ハードカバー置き場ないんだよなー。歴史小説で読みたい奴はだいたい文庫化数年後だし。タイトル買いしたくとも置き場がない。
文字数オーバーになってしまった前回(http://anond.hatelabo.jp/20131229045340)の続きである。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、警察に通報すべきだと意見するのは、ヒロイン(鋸りり子)である。
りり子は穏やかな声音で言葉を重ねた。もっともその中には、最後の審判を告げるガブリエルのごとき決然さをも含んでいたが。
「先ほども申しましたが、会長の心境には私自身強い同情を感じています。ただ……人が一人死んでいるという状況、命を落としたという事実に対して応じることは、やはり何にも増して優先されるべきだと思います。どんな信念、心情を差し置いても、です」
これに会長が返答をする前にある人物によって言葉が差し挟まれた。
「そ、その通りです……!」
金牛事務員だった。彼は周りを窺いながらもごもごと続ける。
「……会長さん、でしたっけ? お気持ちは分からないでもないですが、これはやっぱり一刻も早く警察を呼ぶべきです。議論をしている間にも、ほら、時間経過と共に重要な手掛かりが失われているかもしれないですし……」
『天帝のはしたなき果実』において、警察に通報すべきだと意見するのは、志度一馬である。
(中略)
「アタシの臓腑(はらわた)は今煮えくりかえってるわ。だからこそ、一刻も早く腐れ下手人が死刑になればいいと思ってる。そのためには通報すべきよ。それに、ひとの生き死に以上の優先事はないわ。たとえ音楽だろうと」
人の死は何事にも優先されるという理由が一致している。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、多数決で決めるとの宣言はなされない。生徒会長(衿井雪)とヒロイン(鋸りり子)の意見に続く形で、副会長(成宮鳴海)が会長の意見を支持したことにより、多数決の流れが自然にできる。
「一時沈黙、に一票ということです。鋸さんとも対立することになってしまいますね。しかしここはどうか目を瞑っていただきたい」
多数決の結果が決まった後に、多数決という方法で決めたのが正しかったのか山手線太郎が意見する場面がある。
「そんな取り違えはしてないよ。ただ行動の選択に時間を取られていてはいつまでたっても行動自体を起こせない。今は総意をある程度一致させてとにかく動き出すべきだと思う」
『天帝のはしたなき果実』において、部長(柏木照穂)が多数決で決めることを宣言する。
「決を採る。それには全員従うこと(この面子だと――)」と柏木。
「多数決で決めていいことなの? 瀆魂(とくこん)じゃない?」詩織さんが遺体を見遣った。
「どっちの意見を容れても、すぐ行動しなきゃいけない。みっちり討議してる暇がない」と柏木。
多数決で通報するか否かを決める理由を、すぐに行動しなければならないからとするのが共通点である。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「警察に通報しないことを、倫理的に糾弾する」のは山手線太郎である。
「――いいえ、速やかに通報するべきですよ」
そう言い切って、副会長の前に颯爽と立ちはだかったのは線太郎だった。一瞬、二人の男の正義がぶつかり合う音が聞こえた気がした。
「会長の鷹松祭への熱意も、それを慮る副会長の誠意も、最大限に斟酌したいと思います。でもやはりそれとこれとは別問題と言わざるを得ない。通報を保留し、再度この部屋に鍵を掛けて、知らぬ存ぜぬでさあ鷹松祭ですか? 死者を前に失礼ですが、僕は生前、灘瀬先生のことをあまり快く思ってはいませんでした。そんな僕でもこんな所業はあんまりだと思います」
『天帝のはしたなき果実』において、「警察に通報しないことを、倫理的に糾弾する」のは切間玄である。
「敢えていうけど(デンク・マール・ナッハ)」と切間。「奥平事件なんてあれだけ先陣争いみたいな捜査して、あれだけ関係のない可能性の高い生徒、総ざらえで調べたんやで。それでも解決してへん。まして発見者が協力せえへんかったら」
上記引用した「糾弾」がはたして「倫理的」なものかどうかは私には判断できなかったが、該当する部分が他になかったので上記部分を引用した。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、沈黙派が3人(衿井雪、成宮鳴海、万亀千鶴)、通報派が3人(鋸りり子、金丸遥、山手線太郎)で同数となる。最後に主人公(中村あき)が沈黙に一票を入れ、通報しないことが決まる。
なんてったってこれで三対三、通報か否かを巡る決議はもつれにもつれていた。本来、人様の死に対し、こんなやり方で接することなんて許されない。そんなのは分かっている――分かりきっているけれど、今はそんな採決の図式を思い描かないわけにはいかなかった。
事実、僕以外の全員の目がこちらに向けられている。
「僕は――」集まる注目の中、僕はおもむろに口を開いた。「沈黙を支持します」
『天帝のはしたなき果実』において、沈黙派が3人(志度一馬、修野まり、切間玄)、通報派が3人(古野まほろ、穴井戸栄子、上巣由香里)、棄権が1人(峰葉詩織)で同数となる。最後に部長(柏木一馬)が沈黙に一票を入れ、通報しないことが決まる。
「棄権する」
「はい?」柏木が、いや一同が眉を寄せる。「棄権は想定してないんだけど」
「どちらを選ぶにしても、失われるものが多すぎますわ。あたしには決められない」
「珍しいな、瞬殺(ブリッシュラーク)の詩織さんがよう決められへんなんて、理由訊いてええか?」
「黙秘権を行使します。それに理由を説明したところで、そしてみんなが納得しなかったところで、あたしの意見は変わりません。以上」彼女は以降の意思疎通を拒否した。
「最後は僕か」部長はため息を8拍ほど延ばした。「通報はしない」
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、実況見分をしようと提案するのは会長(衿井雪)である。「15. 現場検証」をまるまる使って実況見分する様が描かれる。
「ではまず、手早く研究室内の様相を検めようか。その後、施錠したら私たちも粛々とここを立ち去るべきだ。いまでさえグレーだというのにここで長居していたら、余計に捜査が入った時に疑われる」
『天帝のはしたなき果実』において、実況見分をしようと提案するのは修野まりである。
「なら」由香里ちゃんがいった。「ここは撤収すべきですね、粛々と、急いで」
「もちろん」修野嬢がいった。「この部屋に何がどのように配置されているのか、確認してからだけど」
「どうして?」栄子さんが訊いた。「当面の間、知らぬ存ぜぬを通すんでしょう?」
「まり、『犯人』よ。『容疑者』でもいいけど」詩織さんが微苦笑した。その声は何か哀しかった。
「――犯人による現場改変に対処するため。いまひとつは犯人を特定するためよ。ただし前者については」修野嬢は呼吸をずらした。「瀬尾先生がいまカードキィをお持ちなら成り立たない理由だけど」
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、現場から移動するように提案するのは生徒会長(衿井雪)だ(上記引用部分参照)。その理由は「余計に捜査が入った時に疑われる」との判断だからだ。移動先に音楽室を挙げるのは副会長(成宮鳴海)である。
「音楽室はどうでしょう?」と副会長。「今は誰もいないはずです」
音楽室は鷹松学園の新館でも旧館でもない、別館にあった。吹奏楽班や合唱班には別に練習室が設けられている関係上、入っていくのを見られたら何をしに行くのかと怪しまれるかもしれないものの、それさえ注意すれば後夜祭以後のイベントの間、ほぼ百パーセント誰も入ってこないような場所である。
こうして音楽室で落ち合うことに満場一致で決まり、すぐにそれぞれの組で行動を開始した。
『天帝のはしたなき果実』において、現場から移動するように提案するのは上巣由香里だ(上記引用部分参照)。移動先に第4会議室を挙げるのは部長(柏木照穂)である。その理由は相互監視をするためだ。会話文内にある括弧は柏木の心の声である。主人公(古野まほろ)は柏木の心の声を聴くことができるという設定がある。
「一馬」部長がいった。「一馬、美術得意だったよね。まほと見取図を作ってくれ。切間と僕で先生の遺体を改める。女性陣は第4会議室に先行して」
「柏木、きみは」僕は口を挟んだ。「僕らのなかに、教師殺しがいると?」
「(そのとおり)その議論は引っ越ししてからだ。誰も来ないとは思うけど、急ごう」
古野まほろ(作者)は「現場に留まるのは危険、との判断から」を「同一性」としているが、『ロジック・ロック・フェスティバル』においては捜査が行われたときに疑われるからであり、『天帝のはしたなき果実』においては相互監視をするためなので「同一性」とは言いがたい。
また「無人の部屋」とあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』における音楽室は無人の部屋だが、『天帝のはしたなき果実』における第4会議室は無人ではない。アンサンブル・コンテンストの運営を手伝っている勁草館高校の生徒の控室であり、実際に訪れた際にも内田という生徒が中にいる。
「あ、柏木先輩。例のおつかい終わりました」内田が焼きそば(大盛)を啜りながらいった。
「ここの部屋は」でんでんでん、と軍人のごとく爆進(ばくしん)しながら柏木が訊いた。「勁草館(うち)の人間以外は来ないんだね?」
古野まほろ(作者)側の主張に沿って見れば、勁草館生徒は事件関係者であり「(事件関係者以外は)無人の部屋」と無理矢理解釈することもできなくはないが、普通に考えれば第4会議室は「無人の部屋」ではなく、こちらも「同一性」とは言いがたい。
『ロジック・ロック・フェスティバル』と『天帝のはしたなき果実』を両方読了した印象としては、影響を受けているのは間違いないと感じた。今回検証した被害者のキャラクター造形と警察に通報しないことを多数決で決めるシーンは明らかに参考にしている。とはいえ文節単位の剽窃はなく、仮に裁判になったとしても著作権侵害との判断が下されるかどうかは微妙なところだ。
上記のように細部を比較すると必ずしも「同一性」と呼べない部分もある。箇条書きマジックを演出するために無理矢理同一だと主張した部分もあったのではないだろうか。とはいえ私が参照したのは旧訳であり、新訳では同一なのかもしれない。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
僕が雪村に出会ったのは、大学の研究室の新入生歓迎会のときのことで、そのとき歓迎する側にいたのが僕で、歓迎される側にいたのがいっこ下の雪村だった。
彼女は、長くきれいな黒髪の落ち着いた女の子で、お嬢様という感じではないが、どこか品のある立ち居をしていた。
僕は彼女とは別のテーブルにつくことになり、でも彼女のことが気になったのでたまにそちらの方へ目をやったりしていたのだけれど、ちゃんと正面に座って話す機会は、ひとつ上の先輩がくれた。
「真田くん、ちょっとこっち来てよ」と先輩が僕を手招いて呼んだ。「この子エーティーフィールド張ってて、俺ひとりじゃキビシイよ」
それで僕は、彼女の向かいに座って話をした。雪村は聡明で、控えめで、微笑みながら人の話にうなずき続けることができるタイプの女性だった。
でも僕は自分のことが話したいわけではなくて、彼女のことが聞きたかった。僕はゆっくりと、何か自分と合うような話題がないかと探した。彼女の趣味は読書で、好きな作家は恩田陸(←「ああ、あのガチホモミステリの……」)。よく読むのは講談社ノベルス(←今にして思えば恩田陸は講談社ノベルスとあんまり関係ない気がする)。映画も好きで、好きな監督はスタンリー・キューブリック(←『バリー・リンドン』)とピーター・ジャクソン(←『乙女の祈り』)。ピクサーとジブリも好き。好きな漫画は『夢幻紳士』『百鬼夜行抄』『うしおととら』『タブロウ・ゲート』……。まともにやったゲームは『ファイナルファンタジーX』くらいで、時間のカウンタが止まるまでやって(←大学受験が終わってから暇だったようだ)、「全てを越えし者」を倒すところまではいったとか。あと何かのレースゲームは前に進めなくて諦めたという。
僕はといえば、好きな作家は星新一で、好きな映画は『ショーシャンクの空に』で、好きな漫画はジャンプとチャンピオンとヤングジャンプとヤングマガジンとスピリッツとモーニングだった。僕はその程度の文化パワーの人間だった。
雪村は本当に本が好きで、暇なときには一日一冊くらいのペースで読んでいた。「『雑食なのでなんでも読みます』とか言うやつは信用できねえよ。そういうやつは絶対に大して本を読んでない」と吐き捨てる友人が僕にはいたが、雪村は本当に雑食で、ノンフィクションを除けばなんでも読む女の子だった。小説も漫画も。
その新入生歓迎会の日は、友達が帰るというので、彼女もそれについて早めに帰っていってしまった。僕はもっと残っていってよと頼んだけれど、穏やかに断られてしまった。
次に僕が彼女と話をしたのは、それからしばらく後の教養の授業のときのことで、雪村は教室の最前列に座って、社会学だったか文化人類学だったかの講義を無視してペーパーバックを読んでいた。
勇気を出して隣りに座って(←勇気を出したのだ)、何読んでるの、と彼女に訊ねた。雪村は手に持った本の表紙を見せてくれた。G.R.R.マーティンの『玉座をめぐるゲーム』だった。もちろん僕にはまったくわからなかった。
それからも僕は、折にふれては勇気を出して彼女に話しかけていった。レポートがあるので……と断られてひどく落ち込んだりもしたけれど、ついに僕は彼女を連れて名古屋城にデートにいくことに成功した。名古屋城はつまらなかったけれど、彼女といるのは楽しかった。
これはおもしろかった。本当に。
それからも授業で隣りに座ったり、食事に誘ったりして、僕らは付き合うことになった。僕は実家に住んでいて、彼女は下宿をしていたので、よく彼女の家に泊まって二人で本を読んだり、映画を見たりした。本山にゲオがあったので、近所でレンタルができて助かった。
でも不思議なことに、幸せなことはそんなに長く続かないもので、僕と雪村が二人で東尋坊を見に旅行に行ったとき、泊まった旅館でカニを食べて一緒の布団で寝たあと、彼女は僕の知らない何かに引っ張られて、僕が寝ているうちに布団を出て服を着替えて旅館から脱げ出して、東尋坊の先から海に飛び降りてしまう。
東尋坊では死ねないという話があるけれど、やっぱりそれは嘘で、飛び降りればちゃんと死ぬ。雪村がそれで死んだのだから間違いない。
彼女を失った僕は悲しくなって、雪村が死んだというそのこと自体よりもむしろ雪村が僕に一言も告げずに死んでいったことに鬱々と悩んで、こりゃだめだ、このままじゃ何も解決しない、と思ってそのまま十五の夜ばりにバイクで走り出す。でもそのバイクは別に盗んだものじゃないし行き先もきちんとわかっていて、僕は一直線に福井まで行って、雪村と同じように海にダイブする。そして生きて浮かんでくる。本当に死にたいのなら、そのための飛び降り方をしなければならない。
病院のベッドでしばらく暮らすことになった僕は、とりあえずアマゾンで小説と漫画と学芸書とDVDを注文しまくって、それを片っ端から消費する。雪村が生きていたときにはこの女はまたなんか読んでんなあとしか思っていなかった僕が、いまさらになって雪村の触れていたものたちに目を向け始める。村上春樹を、伊坂幸太郎を、恩田陸を道尾秀介を舞城王太郎を僕は読む読む。雪村のようにペーパーバックをぺらぺらとはいかないが、翻訳者に感謝しながら、ヴォネガットをカポーティをフィッツジェラルドを読む読む。福満しげゆきを藤田和日郎を増田こうすけを読む読む。カントを、デリダを、ヴィトゲンシュタインをホフスタッターをドーキンスを読む読む。そんでDVDはよく考えたら病室じゃ見られねえなと思ってそのままジャケットだけを眺める。いいじゃんアマデウス。時計じかけのオレンジ。タクシードライバー。
そして読みたい本をあらかた読み終えてしまったので、そろそろ家に帰ってDVDでも見るかと思って僕は退院する。退院するために荷物を片付けてきれいな服に着替えて、もう忘れ物はないよな、と思って振り返った病室に雪村がいるのを見て僕はびっくりする。
「いまさら化けて出てんじゃねーよ」と僕は言う。
でも雪村は生きていた頃と同じ顔で、僕がさっきまで寝そべっていた病室のベッドに腰掛けている。いつもと同じように黒い服ばっかりを着ていて、別に幽霊だからって白いベッドが透けて見えたりはしない。
「いやーいいじゃん。嬉しいでしょ」と雪村は言う。
そんな口調じゃねーよ。
以下、チラ裏。
結局は金。例えば桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」。富士見ミステリー文庫版では500円。3年後に再版されたハードカバー版では1400円。さらにラノベはイラストレータと印税が折半になるので1冊当り25円の印税。ハードカバーなら10%で140円の印税。ライトノベルレーベルから出た文庫だと、6冊売れてようやくハードカバー1冊分の印税になる。
「中高生が対象なんだから単価の低い文庫で出すのは当たり前」って言う人もいるだろうけど、でもラノベ界で一番売れている(という言われている)西尾維新の主戦場は、単価がやや高い講談社ノベルスやハードカバー並みの単価の講談社BOX。これを考えると、文庫が主戦場だったのに長者番付の常連だった神坂一て、ものすごい売れてたんだなって思う。「文学少女」の野村美月ですら未だにバイトしているっていうし。
さらに一般文芸作家には文学賞がある。直木賞・吉川英治文学新人賞・山本周五郎賞・推理作家協会賞、あと純文学では三島由紀夫賞(芥川賞はラノベ作家には本当に関係に無い文学賞なので除外)。これらは賞金が出る上に、受賞すると普段本を買わないような人まで買ってくれる効果がある。ラノベもアニメ化すれば同じような効果があるだろうけど、深夜アニメと直木賞、どっちが効果があるかは自明だろう。
さらにこれらの文学賞を受賞すると、地方から講演の仕事が舞い込む。これが1時間ぐらい話すだけで100万円ぐらいもらえるというからバカに出来ない。また、ある程度キャリアを積めば新人賞や各文学賞の選考委員になれて、それも収入源となる。純文学系の老作家の主な収入源はそれ(メッタ斬りコンビや福田和也が批判している、大作家の福利厚生)。残念ながらラノベには、まだそこまでのシステムはない。
角川スニーカー文庫が創刊してもう20年以上経つけど、創刊からずっと書き続けている作家ってどのぐらいいいる?50代で現役のラノベ作家は?しいて言えば、田中芳樹が現役といえなくもないけど、彼は遅筆というよりも才能が枯渇しているせいでまともに小説を完結できなくなっているように見える。
資料をあたる能力と知識が必要なファンタジーやSFならば、ある程度年をとってもかけるだろうけど、今日日流行の学園モノって40過ぎたおっさんおばさんが、主要な読者層である10代の若者が納得するように書けるんだろうか。ここ数年で一般文芸に転向した作家たちは、皆1970年代生まれ、いよいよ「若い感性」というライトノベルにとって必要なものが喪失し始め、小説的技術を身につけた作家が転向しているんだと思う。そういえば、2年以上発売延期している谷川流も70年代生まれだった。多分彼もラノベ界を去るつもりなんだろう。
以上、思いつく限り。
映画化も決まり、友人が口を揃えて面白いというので読んでみた。初の奈須きのこ。
驚くぐらい面白くなかった。これは確かに同人小説だ。オナニー文だ。人を楽しませようという意識が微塵も感じられない。
説明が長すぎるという感想をいくつか読んだが、逆だ。必要な説明がまるでない。特に人物を表現する描写が少なすぎる。これでまず初読みの読者は振り落とされるだろう。表紙を描いている武内氏のファンやアニメ・ゲーム等に慣れ親しんでいる人間でないと、和服の上に皮のジャンパーをはおるユニセックスな美女というものを、この文章だけではまず頭の中で構築できない。俺の想像力が貧困なのは認めるが、それ以前の問題だ。想像させる材料がない。最初から、ファンでないと読めないのだ。
そう友人に伝えると、
「これを読み辛いという奴は普段から文章を読んでない証拠」
「式はまったく新しいヒロイン像」
アホか。それも逆だ。俺自身はクソのような文章しか書けないが、素晴らしい文章・難解な文章はたくさん読んできている。この世にはこれ以上に面白く難解で、かつ読みやすい本なんていくらでもある。その上で、わざわざこの本を読むメリットが見当たらないと言っているのだ。語彙力の問題じゃねえ。お前らこそ、俺の知ってる限りエロゲの文章とラノベしか読んでねーだろが。その中では難解で斬新の部類に入るだろうが、これが文章の最高位とは井の中の蛙も甚だしい。最初からこう言え。
「これを読み辛いという奴は普段から【奈須氏の】文章を読んでない証拠」
俺は奈須氏のファンではないから、わざわざ氏に親切な読み方をする気にはなれない。
これは読者を選ぶ作品だ。読者に奈須作品の事前知識と武内絵変換機能を求めている。氏の他作品を読んでから読んだ方がいいというのなら、「月姫 番外編」とでもつけておいてくれ。帯にでっかく「奈須きのこファンしか楽しめません」と書いておいてくれ。単独の講談社ノベルスのような顔をして全国の書店で売らないでくれ。そうしたらこんなイライラした気持ちにはならなかった。
俺は小説というものにエンタテイメント性を求めている。「楽しい」「悲しい」「ムカつく」どれでもいい。その話に共感して、なんらかのカタルシスを得たい。そういう意味では、この本は俺には合わなかった。友人が好きなものを好きになれなかったのは非常に残念だ。