はてなキーワード: 読書感想文とは
この時期だからなのか、読書感想文云々な書き込みが目に留まったかはわからないが、小学生のときの思い出が蘇った。
夏休みの恒例となって久しい読書感想文だか作文の宿題をやっつけていたとき。テーマは「木の家」で、まだ幼きわしは図書館へ行って木の家の利点をくまなく調べて作文用紙へしたためたもんである。
いわく、木は木材となった後でも気温や湿度に応じて収縮したり湿気を吸ったりだの、冬暖かく夏涼しいだの、耐久性があるので長持ちだの。まあ木の家のメリットを調べ上げて、木の家のいいところをまとめた文章をモリモリ書き込んで肩の重荷を1つ降ろすことに成功したんだよ。
そんな作文を無事提出し終わり、特に待ってもなかった結果発表。なんの賞も貰えなかったけどこれもまた日常。しかしふと入賞した作文が気になったのだな。だって結構木の家のメリット調べあげた訳だし、かすりもしなかったわしの文章を尻目に賞もらったやつの文章、んまあ気になりますわな。
んで読んでみたわけさ、金賞だか最優秀賞だか忘れたけど「1番」のやつをさ。そしたらさぁ、
「木の家」「おじいちゃんとおばあちゃんの家」「柱に傷」「お父さんの背を図った跡」「当時の様子が目に浮かぶ」「私の背の跡」「私の背の跡とお父さんの背の跡が柱にどうたらこうたら」
大体こんな感じ
もう20年前くらいの話だからちょっと違うかもしれないけど大体こんな感じ。
もうこれ母親か誰かが書いたやつだろ。少なくとも小学生が書いたシナリオじゃねーわ。文章力はともかく。(どんな文章だったかは覚えてないけど)
お父さんが子供の頃の風景が〜〜〜みたいなことが書いてあんの。当時のわしもこれゼッテー嘘だわ思いましたわ。今でもこれゼッテー嘘だわ思ってます。
とは言え誰が書いたとかは当時のわし的には割とどうでも良くて、このとき抱いた感情ってのが怒りでも呆れでもなんでもなくて、
「あーーーーー……こういう感じかぁ……」
っていう、わしの視点がズレてたんだなぁ、求められてるのはこういうのだったんだなぁっていう、単なる、ただただ「はぇ〜」っていう感情だった。
別に関心したわけでもないけど。あーこういうのね、あーそっか、はぁ。みたいな
呆れもてないんだけどね。はぇはぇみたいな。やっぱなんか調べた事実の羅列よりもお話〜〜みたいな、感情〜〜みたいなのが「いい」んだなぁってしみじみ思いました。
そんな思い出の夏でした
おわり
学校って、みんな同じようにさせるの好きすぎ。
なんでも向き不向きがあって、みんなと同じようにできるまでに何倍も時間かかる奴が必ずいる。
それが国数英社理のような基礎学力なら、多少無理してでも一定水準に到達させる価値があると思うけど、そうでないことが多すぎる。
リコーダーとか、みんなと同じ程度のレベルにようやくついていくために、みんなの何倍も練習する必要ある?
例えば藤井聡太二冠がリコーダー苦手だったとして、将棋の時間削ってみんなと同じ程度のレベルに到達するまでリコーダーの練習すべきだと思う?
大体、なんでリコーダー強制なの?音楽に触れ合うならギターやドラムでも良くない?
リコーダーだけじゃなく、鉄棒も跳び箱もポスターも習字も、経験として少し触れてみるのはいいと思うけど、少し触れたら向いてないって分かるのに、なんで人並みになるための何倍もの努力を強要されるの?
今なら、基礎学力の部分以外はもっと多様なことに触れられて、得意なことややりたいと思ったことをがっつりやらせてもらえるような教育も不可能じゃないと思うんだけど。
プロジェクトXのノベライズ本を選んだ時があってその時はいたく担任に感心されたな。
てかさ、俺の増田は自意識過剰すぎて本選びすら優柔不断だったって話なんだよ。ちぐはぐなトラバでもやもやすんなあ。
結局のところプロジェクトXの時もしんどかったよ。
しかも褒められてその場ではちょっといい気にはなったけど、結局その本を選んだ経緯とあらすじと当時の情勢の説明で原稿用紙が埋まってるような代物で情けない気持ちも強かった。今でも思い出しただけで恥ずかしい。
経験に照らし合わせると俺はどの年でもどんな本選ぼうが苦悶していた。
繊細さを踏みつけにされながら自意識を癌細胞のように肥大させてた俺の様な児童がいたとして
それこそ「自分ならどうするか」「この本の人たちのように行動できると思えない」「本の人たちは困難に立ち向かって社会を変えられて本当にすごい」「自分もこうありたい」って理想的なことを簡単に書ける
というようなテンプレ優等生解答を書き綴ることは受け入れられないし
「それが『面白かった』『つまらなかった』レベルの感想より深みのあるものなのか?そんな虚無の塊みたいな人間を俺は演じないといけないの?」みたいな反発心を抱くんじゃねえの?実際俺はそうだった。
これは今でもそう感じてしまうことなんだけど、藤井聡太だとかの神童みたいな扱いされてる未成年が公の場で話してるの見て「若いのにしっかりしてんね」みたいな反応する奴に凄くイラッとするんだよ。これぐらいの月並みな挨拶やスピーチできる子どもいくらでもいるからって言い返したくなる。
だって「がきなんて未熟だから思想とか人格なんてろくにあるわけないでしょ」って普段軽んじてるから「若い割になかなかやるじゃない」っていう上から目線な褒め方になるわけじゃん。
フラットな視線から見て純粋に素晴らしいと感じたから褒めてるってわけじゃないんだから投げかけられた方は面白くない。更に言えば、褒めた(つもり)の方は受け手の人格が酷く幼稚で単純な物だと考えてるからそれで喜ばない方がおかしいぐらいに思ってるし、自覚していても子どもが見抜いてくることはないと思っている。
こういった感じの大人に誰が見てるわけでもないのに愛想よく振る舞う秀才が、子どもの頃の俺には滑稽に見えた。優等生的な回答で卒なくこなすことが二流でかっこ悪いものに感じたんだ。
テレビとかネット見たら10代で自分のスタイルを確立しているように見える人がいくらでも見つかるわけじゃんか。だって子どもがそんなん見て憧れないわけないじゃん。
で、俺の時代は10代作家を持て囃すブームがあって綿谷りさとか羽田圭介、乙一なんかに衝撃受けてたからなおさら読書感想文に気合入れたんだよ。今の子にもこういう文章がかけたらいいのになって憧れの対象はいると思うけど違うかな?
とどのつまり作文とか読書感想文書けない子ってイノセント故に志が高すぎるのかもな。
俺はもう中2くらいから開き直ってこういう類の課題は「高校もろくに通ってないおバカ系アイドルのブログ」とか「小学3年生が祖父母に宛てた手紙」みたいな想定でわざと雑に書くようにしてた。
選ばれづらいけど、読書感想文には物語じゃなくて実話ものを選んだほうが絶対に感想を残しやすいと思うよ
課題図書にも必ず伝記とかプロジェクトX的な本が入ってるでしょ
現実にあった話を読んだほうが自分の身近な世界との接点を想像しやすくて、本の内容を素直に咀嚼できるよ
それこそ「自分ならどうするか」「この本の人たちのように行動できると思えない」「本の人たちは困難に立ち向かって社会を変えられて本当にすごい」「自分もこうありたい」って理想的なことを簡単に書ける
まあどうしても図書の選定の時に、物語のほうがエンタメ要素があって読みやすそうって意識が働いてしまうのかもしれないけど、それは罠なんだよなぁ
創作された物語だと「面白い」「つまらない」以上の感想を持ちようがないから。
比較するにしても「自分」とじゃなくて、他の物語(小説だけじゃなくて漫画、アニメ、ゲーム、映画、ドラマ)のキャラとの比較が真っ先に思い浮かんで、余計に書けなくなっちゃう
自分もゲームの感想を書いたりするんだけど、だである調で書くべきか、ですます調(敬語)で書くべきか定期的に悩みながら書いてる。
昔は思ったことを率直に綴ってたからか自然とだである調になってた。けど最近は文全体に丁寧な印象を持たせたいと思って、意識してですます調で書いてる。
で、自分の感想を読み返して思ったんだけど、昔の方がなんとなく上手く書けてる気がするんだ。上手く書けてるというか、冗長な部分が少なくて読みやすいと感じる。今の感想も悪いわけではないけどちょっとくどいかなと思う。
結局何が訊きたいかというと、だである調で丁寧な雰囲気を感じさせる文、もしくはですます調でコンパクトな文を書けるようにはどうすればいいのか。
何かトレーニングやこれ読んどけみたいな題材があれば教えてほしい。
そうはならんやろ
あらゆる社会問題においてそう
もちろん、世の中のお約束は知っておいた方が生きやすくはなると思うけど、
わかった上で反発するのが小学生・中学生だと思う(お約束はクソ喰らえ)
ただ、世の中にはわかった上で「無視をする」「反発する」じゃなくて
「素で理解が出来ない人」もいるので
そういう人向けになら読書感想文ごっこを出来る場があってもいいね。道徳やお約束の指導のために
社会で生きる・過ちを繰り返さないために必要な道徳を教えることは親の役目だと思うけど
親にそれが期待できないからそういう結果になるのだろうし
俺なんて本を読むのが好きで自分の感想もあるし、嘘つくのまでも得意な子供だったから読者感想文なんて楽勝だったわけよ。
でも例えばサッカーとかは苦手でいつもお荷物以下、かわいいワンちゃんでもコートに入れといた方がかわいい上にボール追いかけるからまだマシっていうくらいのクソザコトーテムポールだった。
先生や陽キャはボールを怖がらないで!みたいに雑なこと言ってくれるけど別に怖くないんだよ。
もともとできる奴と一朝一夕で同じになんてできないし、コツがあろうと体が動かない。
これが重要。やる気はある。できないだけ。悔しいし苦しい。
ただまあ読書感想文とか他に得意科目があるから甘んじて劣等のレッテルを受け入れてやってた。
でも「人間には個人差があるんだからサッカーはやめろ!」「無意味!」「教え方が悪い!」とか言ってくれる人はいなかった。
で、巡り巡って大人になって、この分野では味方のはずの文系インターネット正義マンが俺の輝けるフィールドである読書感想文に対してできない子もいるよね…!とキラキラ言い始める。
は〜ふざけんじゃねえよ。
お前らそれでも隠キャのインテリか。
読書感想文の必要性を訴えて第二第三のあの頃の俺を救ってくれや。
できない奴に合わせてできる子の得意分野取り上げるならサッカーも取り上げてくれ。
読書感想文の話題が盛り上がってるから好きだった雑文館の読書感想文の話貼っとくわ
https://web.archive.org/web/20010408013925/http://zatsubunkan.net/z4/z061.html
異性関係でボロ雑巾になっていて、ここんところとにかく自信を失っていたところの私が、唯一と言っていいほど自信を持っているのが読書感想文だった。そんな中、光属性の例の増潤を見て、ひとしきり笑ってひどい虚しさを覚えた私が、滅びよ人類と思いながら酒を片手に読書感想文に関する増田を勢いで書くのは、必然だったのだろう。あんなにブクマが付くのは完全に想定外だったが。
今でこそ読書感想文は自信があるが、昔は苦手だった。あらすじ書いて、作者が伝えたいことはこれじゃないか、みたいな書評もどきを書いていた。そのころの感想文なんて、「○○は「A」と、言いました。××は「B」と、言いました。でも本当は、BじゃなくてCです。××はうそをつきました。」とか書いてた。あまりにもわからなくて、親に聞いたら「これは感想文じゃない」だ。そのとおりだが、書き方がわからなかった。「感想文なんだから感想を書くんだよ。」そうなんだよな。しょうがないから最後にとってつけたように、「うそをつくのはよくないと思いました。」と書いて、感想文の完成だ。「うそをつくのはよくないと思いました」という嘘をついていた。
覚醒したのは小4。今でも内容までかなりの精度で覚えてるぞ、「カモメがおそう島」、実在するほうの兄が買ったのを、金使いたくなかった私が勝手に借りて読んだ課題図書だ。イースター島奇譚。今思い返せば、確かにいろんな切り口で感想文を書ける。習慣と善悪あたりは、多分大人が評価する子供の切り口ができるだろう。特に「カモメの無垢さ」と「習慣」あたりから、「自ら善悪の判断をつけずに、周りにあわせて他人を攻撃していないか?」「いつも習慣のようにやっていることもカモメにならないために善悪を考え直してみようと思った」みたいな事書いたらよく出来ましたハンコと原稿用紙2,3枚分の厚さの紙ペラが1枚が貰えるだろう。今の私だったら、対カモメの防御兵器になった仮面と絡めて「善悪の判断がつかないカモメから自らを守るのは仮面という盾であった。しかし、現在のインターネットの発達により作られた匿名という仮面は、人を攻撃する武器となり、インターネットカモメを生み出してしまった。さらに言えば、このインターネットカモメから身を守るのも、本音や本名を隠して別の人格を形成するペルソナ、仮面である。」とか書けるな。小学4年生で書いたら呼び出しまったなしだ。
今でこそ、そんなこんなを楽しめるが、当時の私はこの本を復讐譚として読み出してしまったのだ。復讐譚にワクワクし、カモメにもっと、もっとやれと思い、助けに来た船を襲った時はよくやったと思った。主人公はなぜ島民を許してしまったのだ!復讐をメインに添えやがれ!何がめでたしじゃ!と怒ったのだ。あらすじを3行で終わらせ、あとは全部怒った。先生に呼び出されて、「俺はこれ1番好きだよ」って言われた。紙ペラ1枚すら貰えなかったし、先生が読書感想文について何か教えてくれることはなかったが、この先生にはだいぶ救われた。正解じゃなくていいんだ、って気づけた。大人の正解と自分の正解が違うし、先生も大人だけど、先生の正解と大人の正解すらも違うとちゃんと気付けた。自他の境界がつくのは4歳頃と言われているが、私がついたのはこの経験があったタイミングかもしれない。まあ4歳と4年なら1文字しか違わないしええとこやろ。で、この本は「復讐」と見せかけて「ペルソナ」がテーマになるので実質ファイアパンチ。
ちゃんと読書感想文というものに向き合ったのが5年から。それからは賞もらったりもらわなかったり。内容はあんまり記憶にないな。例の技法で、ひーこらやってた課題から、自信をもってこなせる課題にはなってた。
だからこそ、読書感想文何を書いたら良いかわからない問題には「正しいテーマなど必要ない」「主役は本じゃない」「自分の誤読を書け」が特効薬だと思ったのだ。だからあんな傲慢な、誰もが自分が言いたいこと、主張したいことがあって、それを書けばいいのだ、のような文章を平気で書いてしまったのだ。「本から受け取ったものなんてない」は想定できた。だから自分語りを勧めた。「書けったってどうやったらいいの」も想定できた。だから「読書感想文こそが訓練」で予防線貼った。方法論がわかれば、あとは訓練次第だと思ったからだ。完全に、「そもそも自分のことすらも書きたくない」を想定していなかった。切実なトラバに気付かされた。それなのに、凄く偉そうなことを返信してしまった上に、結局「書きたくない」ならそう書けばいい、のテクニック論に終始して、書きたくない「気持ち」をないがしろにしてしまったかもしれない。よりにもよって「オチ」などと!「私ならこうする」ばかりで、我が強いは良いとしても、猛省しなければならない。
自分のことすらも書きたくない、の原因は、様々なブコメが大変参考になった。「手が疲れるから書きたくない」「原稿用紙アレルギー」なんかは、もう課題自体をやらないという選択しか出来ないだろう。ただ、「そもそも大人が信頼できないから内心を開陳したくない」が真因の場合、これほど悲しいことはない。とくに小学生からみた周囲の大人なんて、社会のすべてだと思っていてもおかしくない。その大人が信用できないときの辛さ、全てが嫌になっていくだろう。そして、大人の信用できなさなんて、「ウソを付くこと」「ごまかすこと」「言ってることとやってることのズレ」という基本の基本から来てるんじゃないか。そんな子供に、課題がこなせないなら嘘捏造もありやで、なんて、何の役にも立たないアドバイスじゃないか。
私には何が出来るか。何も出来ない。教育には一切関わっていないし、親になる予定が無くなったからこんな文章を書き始めたのだ。このままゆるやかに、一人死んでいくのが私なのだ。自分一人の人生すらまともに面倒見れない私が、救えると思うことすらおこがましいのではないか。
数少ない救いの1つは、私の書いた感想文テクで、「感想を書けばいいんだよ」以外の指導を親御さんたちが出来るようになってくれたら、読書感想文などというくだらない課題に苦しむ子供が少しは書くのが楽になることだ。「内心を開示したくない子を救えなかった」よりも、「正解を求めてしまう子を救えた」と考えよう。いかにも大人っぽい諦念だ。そしてもう1つの救いは、大人を信用できなくなった子供も、大人に開陳したくないだけであり、「何も思っていない」ではないことだ。私はそう信じたい。結局自分を救えるのは、自分しかいないのだ。自分だけは、自分の思いを信じていかなければならない。自分だけは自分を信じていて欲しい。ああ、いかにも大人が言いそうな言葉だ。こうやって言葉で反省して、嘆いてみせることも出来るようになってしまった。明日になれば、私はまた仕事に戻ってせっせと自分の世話に勤しむだろう。そんな仮面をかぶって、生きていくんだろう。
「感想は個々人で勝手に持っている」は真だと信じている。そう思っていないと、やってられない。
私だったら、これには「テーマが「嘘」「ペルソナ」なので実質ファイアパンチ」みたいなコメント書くね。自分すらも茶化さずにはいられない。嫌な人間、架空の兄だ。
そしてこんな長々しい自分語りを読んでくれてありがとう、前2つについたブコメもトラバも全部読んだよ。コロナ禍以降久々の退屈しない週末だった。私は感想文だけじゃなくて、文章書くの好きなんだな。
五体不満足を読んで
まず乙武という苗字がカッコいいなと思った。ネットではZ武なんて呼び方もあるようだが、そういう変形ができるという点もポイントが高い。ぼくの苗字は弄りがいがないので少し羨ましい。
腕と脚がないのは大変だろうと思う。正直あまりどんな暮らしぶりなのか想像がつかない。片手を封じて暮らすくらいのことは試せるが、両手両足を封じるとなると暮らすどころではなくなってくる。とんでもない障害だ。
たぶんあのくらい障害があったら何も生み出さないでゴロゴロしてるだけでも許されると思うし、僕なら間違いなくそういう生き方をすると思うのだが、乙武さんは活力があってすごい。
ただ、活力というものもいわば見えない四肢のようなもので、ぼくは先天的にそれを欠いて生まれてきたのではないだろうかとも思う。
ぼくには精神の四肢がない。だから普通の人が当たり前にこなせるような、作業とも呼べない作業をするのに3日くらいを要するし、うまくやり遂げても疲れ切って動けなくなってしまう。片脚のない人が50メートルを3分かけて走り切ったら称賛されるが、ぼくが書類一枚を1ヶ月かけて書ききったら罵倒を受ける。
活力というものが誰にでも当たり前に備わっているものではないのだということはまったく理解されていない感じがするし、たぶん今後も理解されることはないだろうと思う。
そういう意味ではぼくだって五体満足とは言えないし、なんなら同情や支援を一切受けられないという点では四肢すべてを欠くよりも大変かもしれない。
さすがに言い過ぎな気がする。四肢が全部ないのはやっぱり迫力が違う。気力で言うならおそらく学校に一日も来れないとか部屋から一歩も出られないとか、なんだったら食事ができないというようなレベルの話かもしれない。ぼくはせいぜい手足のどれか2本を欠くくらいのものだろう。
乙武さんには負ける。人間として持ち合わせた根本的なスペックで負けていると感じる。やはり活力がある人間は違う。
しかし、やっぱりどうもズルイような気がしてしまう。ぼくだって活力にあふれ、かつ手足のない人間として生まれていれば本をだしてバカ売れするような人生が送れていたんじゃないかと思う。
障害なんかで人生は決まらない、というのは勇気を与えてくれるメッセージだが、では何が人生を決めるのかと言ったらそれは精神的な活力の量で、その精神的な活力の量というものは先天的に決まっている。
つまり活力のない人間に生まれた時点でよっぽど突出した才能がなければ転落人生を送ることが確定しているわけで、しかも目に見える障害の場合と違ってぜんぜん同情はしてもらえない。
ぼくこそが五体不満足なのではないか?と思う。本当に困っているのは誰か、本当に同情されるべきは誰か?
ぼくだ。
皆ぼくに同情するべきである。
(1166文字)
そもそも本を読むのが好きだったが、本について話の合う人間が居なかったし、話下手なので
いつも「この本面白いよ」とか「有名だけどよく分からなかった」とか誰かに話したいと思ってた。
読書感想文はそういう「伝えたい!」という気持ちを思う存分書ける機会なので楽しくて仕方なかった。
面白い、面白くないだけじゃなくて、「共感できなかった」「関心を持てなかった」とかでも感想をふくらませることができるので
書こうと思えば幾らでも書けた。(実際には提出物の形にするのは大変なので書きたいことは絞って少なめに書いたが)
ただ、自分は「人と話すことが苦手」なのでそこで共通点はあるのかもしれないと思う。
自分にも話したい事はあるけど、上手く話せないし理解してもらえるか分からないし
相手の方が喋りたいなら喋ってもらって自分は聞き役に徹する というのが普段の自分。
一方的喋ってる人から「ごめんね。私ばっかり喋っちゃって」って謝られる事があるけど
なるほど。
読むものと自分が断絶していて『何も感じない』ことは自分にもある気がする。
テキトーにつまみ読みしかしてないけど、読んでるものに対してツッコミ入れられるくらいの技量がないと読書感想文は書けないのかも知れない。
パソコンからスマホに変わったのと、エンタメの方が重要度が高くなっており、
かなり昔に一時期流行っていた知的生産の技術というのが話題にのぼらなくなった。
軽く検索したところだと、KJ法、京大式カード、グラウンデッド・セオリー・アプローチ、MAXQDAなどのQDAソフト、といったものから進んでいない。
Webの記事を読み、それを真似て文章を書いていると、佐藤郁哉の「7 つのタイプの薄い記述」に陥っていることが多い。
①読書感想文型 主観的な印象や感想を中心とする、私的エッセイに近い報告書や論文
②ご都合主義的引用型 自分の主張にとって都合のよい証言の断片を恣意的に引用した記述が中心のもの
③キーワード偏重型 何らかのキーワード的な用語ないし概念を中心にした平板な記述の報告書や論文
④要因関連図型 複数の要因間の関係を示すモデルらしきものが提示されているのだが、その確実な根拠となる資料やデータがほとんど示されていないもの
⑤ディテール偏重型 ディテールに関する記述は豊富だが、全体を貫く明確なストーリーが欠如している報告書や論文
こういったのに陥らないような方法が編み出されているのであれば、知りたいと思った次第だ。
自分くらい読書感想文苦手だった奴になると、どういう本をチョイスするかってところで一悶着ある。
「こんな本読んでるってどうなんだろう?」みたいにうじうじ悩む。
「ローティーンで読書感想文の機会に伊坂幸太郎選ぶって背伸びした感じでて痛々しいかも」とか
「サルトル読んでるとか絶対引かれる」とかずっとそんなことばっか考えた。
1人でこっそり読む分には知り合いのいない隣町の本屋行ったり、親に図書館へ代わりに行ってきてもらったりで何も気にしなくていい。
トップブコメにもある「子どもだから」「自我が確立してないから」仕方ないみたいな態度は子どもを軽んじてるし、そんな素振りを見せるのは逆効果だから絶対やめたほうがいいと思う。
読書感想文や作文が書けない子はとどのつまり褒められたいんだよ。大袈裟に言い切ってしまうと、書けない子は人から承認されうることがないと自分には存在意義がないと思う傾向にある。
変わった趣味を持ってて周りと話が合わなかったり、おっとりしていて出し抜かれがちな子。そんな子ほど周りより目立って称賛される立場でないと釣り合いがとれないんじゃないかと考えるのでは?と僕は思う。
もはや自分の思考なんかに興味を持つ人間なんていないというぐらい悲観的な子も中にはいる。現に自分はそういう小学生だった。
幼稚で平々凡々なものを提出して「自分は人より劣っているのでは?」「取り柄なんてないのでは?」という不安に苛まれること。それは彼らにとってのアイデンティティクライシスであり避けなければならない事なんだ。
そして本をよく読む子ほど文庫本の解説や雑誌新聞の書評といった「洗練された感想文」を目にしているため、自分もそういうものを目指して書こうとする。
評論や解説というのは対象をよくリサーチしそれで得た情報を整理していく作業。なので「かっこいい文章を書きたい」と手段と目的を倒錯させて取り掛かると当然うまく書けない。
この場合だと読書感想文のための読書になってしまうので本をちゃんと読めていないんだ。本を読んでいても、先生を唸らせる様な独創性がありかつ思慮の深い自論をどう構築するのかみたいなことばかり考えている。
(流石に小中学生でそれを明文化できるほどのメタ認知ができる天才なら苦もなく文章なんて紡げるので、本人は自分のそういう感情をはっきり把握はできていないだろうけど)
僕個人の体験からいうと「エルマーの竜の続きを考えよう」とか「ごんぎつねを一人称視点にアレンジしよう」みたいな課題は楽しく書けてた。そういう二次創作は対象を読んだときの解釈等で個性は出るけど、ベースは原作の世界観や設定を引き継ぐので気持ちが楽。
万が一「それは変だ」と指摘されても、「課題の物語がああなんだから仕方ないだろう」「自分の勝手な想像なんだから自由だろう」というダブスタで煙にまける。卑怯かもしれないがそうでもないと自分は書けなかった。
なので物は試しで増田もお子さんに課題図書の続きを考えることを一度進めてみてはどうだろう?
それですらすら物語を紡げる子ならなんとかそれを書き留めておく。そんで休み終盤でにっちもさっちもいかなくなった頃合にそれを基に読書感想文を完成させることを勧める。
自分の経験だと親に変わったアプローチを勧められると、どんな評価が下されるかわかったもんじゃないと反発していた。おそらくその案を採用するしかないというところまで追い詰められてないとすんなりそれを飲んで書き進められなかっただろう。だからあえて終盤まで書くことを意識させない方が却っていいかもしれない。
早い段階から取り掛かってしまうと「先生ベタ褒め完全無欠の読書感想文」を休み中ずっと追い求めるという地獄にのまれる可能性もある。それで苦手意識を強めるのもよくないので、そのためにも一旦読書感想文の存在を忘れさせてあげるのもいいのではないか。
「なぜ読書感想文を書くことが苦痛なのか?」という切り口の作文にスライドさせてけみたいなブコメもちらほらあるね。でも本の感想というテーマ設定があっても書けない子に、より自由度の高い作文は茨の道だろう。
「読書感想文」って言われるとものすごく困るけど、「書評」って言われたらまだ書きやすかったなあ
特に感想を書きたいわけでもない本の感想書けなんて言われても「面白かった」とか「おもんない」とかそんなのしか書きようがないし、感想に理由を求められても「そう思ったから」以上のことが書けなかった。どこまで行っても一人称のことしか書けないし書きようがない。
書評になると、書評を読む相手が想定されて、その人にこの本を勧める/勧めないという目的をもって書くことができる。感想文よりは何を書けば良いのか明確だし、ある程度創造性も出せるし、感想なんぞよりかなり評価しやすいと思う。
まあ小学生にやらせるなら書評でも難しすぎるとは思う。小学生に作文やらせるなら論文とかレポート的なのをやらせた方が良いと思います。
家で飼っていた室内犬が死んだ。母親が散歩させている途中、他の人が連れている犬に噛まれて死んだらしい。外出先から帰ってきた途端、父親の口からそのことを聞かされた私はしかし、何も感じることができなかった。
私はその犬をわりあい可愛がっていたと思う。週に一度は母に代わって私が散歩に連れて行ったし、夕食後にテレビを見ている時はいつも膝の上でじゃれさせていた。今でもそのふわふわとした心地よい体毛の手触りを、懐かしさと共に思い出すことすらある。私はその犬に対し、単なるペットではなく家族の一員としての愛情を本当に持っていたのだ。
にも拘わらず、私は犬が死んだことに対して、やはり何も感じることができなかった。私の後に帰宅した姉は部屋に籠って泣き続けていたし、父は事件の細部を知るにつれ相手の飼い主への怒りを煮えたぎらせていった。家族の中には犬の死に際しての、ある種の感情的連帯が出来上がっていたが、私だけがそこから疎外され、居心地の悪い思いをしていた。
思えば私は昔から感情表現が苦手な子供だった。自分の中に確かに感情はあるのだが、それをどういう言葉で表せばいいのか迷っているうちに言いそびれてしまう。私の中での感情とは何かよくわからないもやもやしたレトルト状の実体であり、喜怒哀楽のような確固たる形をとることがないのだ。
そんな人間だから読書感想文も苦手だった。本を読んで何かを感じることはできるが、それを既成の概念で説明することにはどうしても抵抗を感じてしまう。かといって自分独自の表現を編み出せる訳でもないから、陳腐な教訓をむりやり本から引き出すことで体裁を整えていた。
思うに、程度の差こそあれ、誰でも私のような部分を持っているのではないだろうか。人間の感情とは元々、確固たる形を持たない不分明なものであり、それを無理やり怒りだの悲しみだのと呼んでみることでわれわれは他人に自分の気持ちを伝えられている(と錯覚している)だけなのではないか。われわれは単に怒るから怒るのであり、悲しむから悲しいだけなのではないだろうか。
犬が死んだ後の父はまさに怒るために怒っているように見えた。犬に愛着を持っていなかった(どころか、犬の頭をペットボトルで殴りつけたことさえある)父は相手の飼い主に賠償させることに拘り、ただ悲しみに沈むだけの姉や母を「泣き寝入り」だと言って激しく非難した。その姿は単に「家族を守る強い父親」という自己像に執着しているようで、痛々しいほど滑稽に見える。
私は依然、家族の誰にも同調することが出来ず、ただぼんやりと犬の死が家族の記憶から薄れていくのを待っている。そしてこの先も、感情を表に出さない、歳の割には幼く見える人間として生きていくしかないのだろう。