五体不満足を読んで
まず乙武という苗字がカッコいいなと思った。ネットではZ武なんて呼び方もあるようだが、そういう変形ができるという点もポイントが高い。ぼくの苗字は弄りがいがないので少し羨ましい。
腕と脚がないのは大変だろうと思う。正直あまりどんな暮らしぶりなのか想像がつかない。片手を封じて暮らすくらいのことは試せるが、両手両足を封じるとなると暮らすどころではなくなってくる。とんでもない障害だ。
たぶんあのくらい障害があったら何も生み出さないでゴロゴロしてるだけでも許されると思うし、僕なら間違いなくそういう生き方をすると思うのだが、乙武さんは活力があってすごい。
ただ、活力というものもいわば見えない四肢のようなもので、ぼくは先天的にそれを欠いて生まれてきたのではないだろうかとも思う。
ぼくには精神の四肢がない。だから普通の人が当たり前にこなせるような、作業とも呼べない作業をするのに3日くらいを要するし、うまくやり遂げても疲れ切って動けなくなってしまう。片脚のない人が50メートルを3分かけて走り切ったら称賛されるが、ぼくが書類一枚を1ヶ月かけて書ききったら罵倒を受ける。
活力というものが誰にでも当たり前に備わっているものではないのだということはまったく理解されていない感じがするし、たぶん今後も理解されることはないだろうと思う。
そういう意味ではぼくだって五体満足とは言えないし、なんなら同情や支援を一切受けられないという点では四肢すべてを欠くよりも大変かもしれない。
さすがに言い過ぎな気がする。四肢が全部ないのはやっぱり迫力が違う。気力で言うならおそらく学校に一日も来れないとか部屋から一歩も出られないとか、なんだったら食事ができないというようなレベルの話かもしれない。ぼくはせいぜい手足のどれか2本を欠くくらいのものだろう。
乙武さんには負ける。人間として持ち合わせた根本的なスペックで負けていると感じる。やはり活力がある人間は違う。
しかし、やっぱりどうもズルイような気がしてしまう。ぼくだって活力にあふれ、かつ手足のない人間として生まれていれば本をだしてバカ売れするような人生が送れていたんじゃないかと思う。
障害なんかで人生は決まらない、というのは勇気を与えてくれるメッセージだが、では何が人生を決めるのかと言ったらそれは精神的な活力の量で、その精神的な活力の量というものは先天的に決まっている。
つまり活力のない人間に生まれた時点でよっぽど突出した才能がなければ転落人生を送ることが確定しているわけで、しかも目に見える障害の場合と違ってぜんぜん同情はしてもらえない。
ぼくこそが五体不満足なのではないか?と思う。本当に困っているのは誰か、本当に同情されるべきは誰か?
ぼくだ。
皆ぼくに同情するべきである。
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