はてなキーワード: 実践とは
基本的に、作品の評論も作品そのものも「納得させること」「程よく目新しいこと」が大事なのであって、正解だ不正解だという議論は往々にして納得したかどうかなんです。
根本的に間違ってるのよ。
という前提がさ
わかった風に言う人多いけど
までなら部分的に正しいんだけども、じゃあ【言語を獲得したから正確に物事を伝えられてるか?】って言えば、Noですよ。
めちゃくちゃ話し込まないと相手が何がいいたいのかわかんないことなんてどんだけあるのよ?読解力の問題でなく伝え方の問題で
アドバイス罪って言葉を発明した人がいるけど、アレって助言しようという親切心や興味を持つことが悪いんじゃないんですよ。
【的確で参考になる助言】なんてものが世の中にも自分へも少ないのに、助言したがる事自体の頭の悪さといいますか、自分の見えてなさといいますか…それらへの苦言でしょうね
頭が悪いという言い方が正確かはわからんが、わかんないことがある時にググらない人や、わからない概念があるとメンツを潰されたよな顔で聞いてくる人がどれだけ多いか…
わかんないことをググれる人ってちょっとした才能だし、
子どものうちは大多数ができてることがおとなになった途端できなくなる人が爆発的に増える。
助言はしたがるんですよみんな。
でも、調べたり話を聞いて活かすことはできないんです
面白いよね
ちなみにこれ嫌味でもなんでもないです。
そういう人は多いです。
https://news.livedoor.com/article/detail/19793615/
スパコンなんて大したことないというか、生活の実践の知恵の前では無力だと分かった。花粉症をマスクで生き抜いてきた実践経験から言えば、2枚のずらし重ねが高い効果を上げることは事実。スパコンに騙される国民が哀れ。
身分のための大卒で合ってるし、(多くの親子は高専や実業高校の存在すら知らないから選ばないんだが仮に知っていたとしても)後者についていって実践する頭の良さもやる気もないから後者はスタンダードにならない
TOEICというか、どんな英語試験でもそうだけど、現場での切り抜ける力みたいなのは全く測れないし、仮に英語の国に10年住んだってネイティブがめっちゃ難しく話せばわからなくなる。
英語の試験は、「私はこのくらい英語ができます」というものではなく、「あなたは私にこのくらい英語の知識レベルで気を使う必要があります、なお実践での実力とは別物なのであしからず」というものでしかないと思うよ。
TOEICというか、どんな英語試験でもそうだけど、現場での切り抜ける力みたいなのは全く測れないし、仮に英語の国に10年住んだってネイティブがめっちゃ難しく話せばわからなくなる。
英語の試験は、「私はこのくらい英語ができます」というものではなく、「あなたは私にこのくらい英語の知識レベルで気を使う必要があります、なお実践での実力とは別物なのであしからず」というものでしかないと思うよ。
今ネットで見かける反出生主義者は本気でそう思っているんじゃなくて「どんなレスバトルにも勝てる魔法の理論」としてこの思想を持て囃してるだけなんじゃないかなと不安になる
一時期話題になったBAN祭りだって本気で彼らが右極化を憂えていた訳でなく他者をおちょくって怒らせるのが楽しい勢力が一時的にリベラルの味方のような行動をしていただけだったし
自分が子供を産むより今恵まれてない貧困層の子供達を助けるべきだとは主張しているけどそれを実践している人間が何人いるか?ただネット上で憂さ晴らしがしたいだけじゃん……
このままだと中途半端に仏教の教えと被る部分を利用してアレフや山田らの集団、ひかりの輪といったオウム残党に利用されて終了って感じでムーブメントが終わりそう
当時高校生だった私は3.11のその年に福島県の大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます。
2011年の3月11日に、私は茨城県の博物館の中にいた。高校の卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震のとき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。
実際にはガラスの耐震性能が高かったので、館内にはけが人はいなかったようだった。
信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。
私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島の原発がやばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。
私が高校生の頃、世界の原発事故のドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリ、スリーマイル島、東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達に気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。
当時、特にJCOの臨界事故のNHKのドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。
私は地震が起きて、一、二日後にはリビングのこたつを占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中のシャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。
私は震災の年、福島県の大学に入学した。私の地元の同級生にも福島県の大学に入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学の入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。
しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。
しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。
私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質がたっぷり含まれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。
私は、大学で特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚で放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。
私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから、原子力という「科学技術がコントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要なことなのである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。
3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。
最近、原子力、ひいては(科学)技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの、技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類の幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビのCMでIT系の企業がたくさん広告を打っていて、ITの企業に勤めていることが一種のステータス(少女漫画に出てくる男性がIT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイケドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなのである。今でなら炎上やむなし発言なのである!しかし、このアナロジーを単なる面白おかしいアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用の危険性をかなり早く認識できた。
ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学)技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)
そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学は計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。
「科学は考えない」
これは、理系の立場で仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないか。しかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか。
彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学は進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガーは技術を批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味、矛盾の中を生きなければならない。
私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。
私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近、哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。
でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系の研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養がほとんどないのだ。
「哲学を最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。
以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だから疎まれる。
しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガーが批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学や技術を信じて、生産、生産、生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか。
昔の時代、原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。
今の時代も同様に、情報技術や生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能な社会が実現できる」とも信じられている。
もし、「なぜ地震大国に原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。
ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。
論文書く系業界の中でとても多数派には見えない人達で草、あんなんたぶん医者が一番多いとかやろ
学者のうち実践に近い取り組みをやっていてさらに一部の分野なんてめっちゃ限定された集団なんて、全体から見たら居ないも同然とかじゃね
ーーー
3ヶ月付き合った女とセックスした。
が、全く良くなかった。
今思えば、それほど相手のことが好きじゃなかったんだと思う。大学4年で童貞だというのがずっとコンプレックスだったので、ヤレるならヤってしまいたい、というのが本音だった。
実際こじらせすぎたコンプレックスから解放されたので、そこについては後悔していない。
でも行為自体があまりにも気持ちよくなくてショックだった。相手が下手だったのか、俺が勃ちにくかったのかは分からないけど、入れたというより「さし込んだ」って感じだった。
俺はエロい事に興味があったし(その時は)相手を好ましいと思っていたので、上手くいくだろうと甘くみていた。
いや、初めてでアンアン言ってたら俺に才能がありすぎてしまうんだけど、それにしてもキツかった。AVはファンタジーだと改めて実感した。
人生で「シーツのシミを数える」なんて経験をするとは思わなかったな。ちなみにホテルのシーツは綺麗でシミ一つなかった。
あと、ヤる流れになった瞬間の女ってなんであんなに鼻息キモくなるんだろう。マンコに手足生えたみたいで、正直ドン引いてしまった。
そう言えば高校の頃付き合った女の子もキスの瞬間は目ギラついててキモかったな。
女はみんなああなのか?教えてエロい人。
女とはそれっぽい理由をつけてすぐに別れたけど、最中に言われた「○○くんはちょっと勃ちにくいのかな…」って言葉がずっと引っ掛かってた。
俺の下半身に問題があるなら、そんな不名誉なことはないじゃん?あと絶対お前より私の方が手コキ上手い自信あるから。
思い立ったら即行動。俺は小さい頃から行動力だけは褒められてきたのだ。
Amazonでオナホを購入し、次の日には届いたので早速使ってみた。
AVでの流れを思い出しながら男性自身をオナホに入れるが特に気持ちよくはない。
やはり動画を観ただけでは再現できないらしい。何事も実践の前に理論を学ぶ必要があるよな、と思いネットで「オナニー 気持ちいい」と中学生もビックリな安直ワードで検索をかけて知識を得た。
ここまで「俺が一番俺を気持ちよくできるだろ!俺の体は機能不全じゃないって証明してやる!」と息巻いていたが、大きな壁にぶち当たることになる。
それは、どのサイトにも書かれている「妄想を膨らませて気分を高めましょう」という文言。
オナホも買って(初心者にはエネマグラがオススメだと書いてあったがチンコを入れるための練習だと思っていたのでオナホにした)、あとはメソッドに沿ってやるだけだと思っていた。物理的な刺激があれば体は自然と興奮状態になると勘違いしていた。
肝心なことをどうして忘れていたんだろう。セックスをするためには心理的興奮はマストではないか。
恥ずかしい話だけど、この時まで俺は一回もオナニーというものをしてこなかった。
AVやR18作品を観ることはあっても、その行為を自分事として考えたことがなかった。
そりゃあ勃つもんも勃たないわ、だって興奮してないんだもんな。
絶望的な気分だった。お気に入りのAV女優の動画を観たけど、やっぱり勃つことはなかった。お姉さん可愛いなぁとしか思わなかった。
これから先、俺はちゃんとセックス出来るようになるのだろうか。受験でも就活でも病んだ事はなかったけど、この時ばかりは自分の行く末が不安すぎてちょっと泣いた。
「初セックス全然良くなかった!」なんて言ってたけど、一番の被害者はドマグロの男に抱かれた相手だったのかもしれない。申し訳ないことをしてしまったなぁ。
オチも何もないけど、こういう「エロい事を自分事として捉えられない」人って俺以外にも少なからずいるんじゃないかなって思って書きました。仲間がいたら嬉しいです。
3ヶ月付き合った男とセックスした。
が、全く良くなかった。
今思えば、それほど相手のことが好きじゃなかったんだと思う。大学4年で処女だというのがずっとコンプレックスだったので、ヤレるならヤってしまいたい、というのが本音だった。
実際こじらせすぎたコンプレックスから解放されたので、そこについては後悔していない。
でも行為自体があまりにも気持ちよくなくてショックだった。相手が下手だったのか、私が濡れにくかったのかは分からないけど、入れたというより「ねじ込んだ」って感じだった。
私はエロい事に興味があったし(その時は)相手を好ましいと思っていたので、上手くいくだろうと甘くみていた。
いや、初めてでアンアン言ってたら私に才能がありすぎてしまうんだけど、それにしてもキツかった。AVはファンタジーだと改めて実感した。
人生で「天井のシミを数える」なんて経験をするとは思わなかったな。ちなみにホテルの天井は綺麗でシミ一つなかった。
あと、ヤる流れになった瞬間の男ってなんであんなに鼻息キモくなるんだろう。チンコに手足生えたみたいで、正直ドン引いてしまった。
そう言えば高校の頃付き合った男の子もキスの瞬間は目ギラついててキモかったな。
男はみんなああなのか?教えてエロい人。
男とはそれっぽい理由をつけてすぐに別れたけど、最中に言われた「○○はちょっと濡れにくいのかな…」って言葉がずっと引っ掛かってた。
私の下半身に問題があるなら、そんな不名誉なことはないじゃん?あと絶対お前より私の方が手マン上手い自信あるから。やったことないけど。
思い立ったら即行動。私は小さい頃から行動力だけは褒められてきたのだ。
Amazonでバイブを購入し、次の日には届いたので早速使ってみた。
AVでの流れを思い出しながら下半身にバイブを当てるが特に気持ちよくはない。
やはり動画を観ただけでは再現できないらしい。何事も実践の前に理論を学ぶ必要があるよな、と思いネットで「オナニー 気持ちいい」と中学生もビックリな安直ワードで検索をかけて知識を得た。
ここまで「私が一番私を気持ちよくできるだろ!私の体は機能不全じゃないって証明してやる!」と息巻いていたが、大きな壁にぶち当たることになる。
それは、どのサイトにも書かれている「妄想を膨らませて気分を高めましょう」という文言。
バイブも買って(初心者にはローターがオススメだと書いてあったがチンコを入れるための練習だと思っていたのでバイブにした)、あとはメソッドに沿ってやるだけだと思っていた。物理的な刺激があれば体は自然と興奮状態になると勘違いしていた。
肝心なことをどうして忘れていたんだろう。セックスをするためには心理的興奮はマストではないか。
恥ずかしい話だけど、この時まで私は一回もオナニーというものをしてこなかった。
AVやR18作品を観ることはあっても、その行為を自分事として考えたことがなかった。
そりゃあ濡れるもんも濡れないわ、だって興奮してないんだもんな。
絶望的な気分だった。お気に入りのAV女優の動画を観たけど、やっぱり濡れることはなかった。お姉さん可愛いなぁとしか思わなかった。
これから先、私はちゃんとセックス出来るようになるのだろうか。受験でも就活でも病んだ事はなかったけど、この時ばかりは自分の行く末が不安すぎてちょっと泣いた。
「初セックス全然良くなかった!」なんて言ってたけど、一番の被害者はドマグロの女を抱いた相手だったのかもしれない。申し訳ないことをしてしまったなぁ。
オチも何もないけど、こういう「エロい事を自分事として捉えられない」人って私以外にも少なからずいるんじゃないかなって思って書きました。仲間がいたら嬉しいです。
研究職をやっていると大学の同級生から「私も研究したい」「大学院行きたい」「もう一度大学行って勉強したい」と結構言われる。
こういう人はいつまでもそう言っていて、何もしない。何もしようともしない。
一方で上のようなセリフを言わず、黙々と論文や専門誌、関連の新書や著述を読みながら、日々の仕事をこなして活かしている人がいる。
さらに踏み込んで、住んでいる地域の大学の聴講生やっている人もいる。
一番上のようなセリフをいう人間は、研究とかアカデミズムとかの威を都合よく借りたいだけなのだと思う。
そういう人にそれぞれの街にある大学の聴講を薦めると、「いや時間ないし」とか「体調が」とか「研究のセンスないから」とか言う。
一番ひどい回答は「いやあそこは市立大学でレベル低いし」だった。
もちろん本当に都合がつかない場合や身体の事情も多いのだろうけれど、上の人の場合は、個人的には言い訳であると思う。
無理ならば、なんどもふわっと「研究したい」「大学院行きたい」「もう一度大学行って勉強したい」などと言うべきではない。
学問で格好をつけようとするべきではない。
少しずつでも、関連する本を読むくらいはできるはずだ。というか学びたいなら身体がそう希求するはずだ。
繰り返すが黙々と本を読みシンポジウムに参加し、そこから何か実践している人たちがいる。
そうした人々がいる以上、上の「口だけ」の人は知らず知らずのうちに恥ずかしい言動をしているように思う。
都合のいい時だけはそう言うんだけど実践するつもりは欠片もないという
フェミニズムが「男女平等」を叫ぶ割には、その主張が女尊男卑であることにずっと疑問を抱いていた。
「女性比率の目標値」、あるいは「女性枠」の存在は認められるのに、男性枠、あるいは男性限定というのはなぜ認められないのだろうか。
例えば、かの RBG 女史は「9人の最高裁判事のうち何人が女性であれば満足するか」という問いに「9人」と答えていたが(https://www.townandcountrymag.com/society/politics/a34081296/ruth-bader-ginsburg-quotes/)、これは女性の権利主張をする上では納得できるものの、これが実現された状態は、平等というより女性優遇ではないか?と感じていた。
私は右利きなので、必ず右手でスポンジを持ち、左手で皿を支える。
洗い流すときも同じく、左手は皿を支え、右手で泡を洗い落とす。
右手と左手に構造上の違いはないはずだが、しかしいつも主導権を握るのは右手であり、左手は右手を支える役割に徹している。
幸い、右手も左手も同じ人間に取り付いているから運命共同体であり、また、それぞれの役回りについて不満を述べられたことはこれまで一度もない。
右手のみが主要な役割をこなす状況を左手がよしとするだろうか。
あるいは、左手が比較的負荷の軽い仕事ばかりしている状況を右手がよしとするだろうか。
右手の方が器用だから仕方がない、と言われても、そもそも右利きが多数派であったからそのようになっただけで、左手だって適切な訓練があれば、実践で鍛えられる環境があれば、右手のように振る舞うことは可能ではないだろうか。
そして、今から左利きを目指そうとするなら、左手を無理矢理にでもメインに据えて使っていく必要がある。
箸を持つのも左手、スポンジを持つのも左手、スマートフォンを操作するのも左手。
こうしなければ、左手は鍛えられず、いつまでたっても利き手の役割を交代することはできない。
この構造はすなわち、現代の男女間の構造と同様であり、真に男女間の格差がなく均衡した状態に持って行くためには、あらゆる役割において女性の占める割合を保証させてでも、男性の社会参加を制限してでも、女性優遇をしなければいけないのかもしれないのかもしれない。
下品だったり攻撃的だったりするエロの話じゃなくて、これは真面目に人生のQoLに関わる真剣な話として。
いきなりクリや乳首を触られても気持ちよくないばかりか、クリに至っては痛い。
かといって、指や背中や太ももを延々と撫でられてても別に気持ちよくなるわけじゃない。
オナニーのときのオカズにはセックスが出てくるようなものは使わない。
こういう話って多分個人差が大きくて、他人の話を聞いても信じ難いかもしれない。
セックスが好きな女性からしたら「気持ちいいセックスを知らないだけ」と思うのかもしれないし、オナニーもしたことない女性からしたら「女性でもオナニーできるの?スカトロで興奮する人なんて実在するの?」って思うんだと思う。
セックスに興奮しないことと、セックスしたくないことは別で、セックスしたいとは思う。
ハイキューを読んでいると、万年文化部でスポーツが嫌いな自分でもスポーツを楽しめるのかな、楽しめたらいいな、なんて思う。
カップラーメンのネギの浮いたスープを見て、ネギが好きになってこのスープをおいしく飲み干せたら幸せだったろうな、と思う。
一緒にセックスを楽しんであげられたらいいのにな、と思う。
膣トレとか、オナニーをしてみるなんていうのは最初からやってる。
気持ちいいときに声を出すといい、なんていうのは本当に悪い風習で、それで気持ちよくなれるわけがない。
私はそれを真に受けて散々頑張った挙げ句、この方法は引っ込みがつかなくなってイったフリをする結果に終わるだけだと学んだ。
正常位で腰の下にクッションを挟む、とかの、実践tips系もダメだった。
なぜなら、挿入に至るまでに盛り上がれないことが問題なのであって、無の境地からいきなりクッションを挟んだら大興奮なんてことはない。
セックスの実践的なテクニックについて語っている人は、誰も彼もセックスがある程度好きで、楽しむのがうまい人達だ。
その人達の語る、すでに盛り上がっているところから最高潮にアガるためのテクニックは、私の求めているものではないのである。
女医が教える本当に気持ちいいセックスも読んだけど、こっちサイドで、全然参考にならなかった。
結局の所、自分がオナニーのときになにをしているのか、事細かに伝えるべきだったんだ、と気付いたのはつい最近。
オナニーのときに気持ちいいポイントと、セックスで気持ちいいポイントは違うと無意識に思っていた。
かたたたきされて「もうちょっと右」を言う人よろしく、ずっと、相手のしてきたアクションの微修正ばかりやっていた。
そうじゃなくて、根本的に、ゼロから、なにをどうしてほしいか伝えるべきだった。
唇の左右の丘に、それぞれ人差し指と中指を、沿わせるように押し当てて、指先で膣口の横あたりを、クックッと押し込んでもらう。
そのまま、手全体を小刻みに左右に動かしてもらう。
これが気持ちいい。
クリにも膣口にも触れてないので、パートナーも「???俺はなにを触っているの??」と言ってた。
受け身に、されたことを微修正する姿勢で、この回答が見つかるわけがない。
気持ちよくなってきたら、指の幅を少しずつ狭めて、唇に近づけていく。
最後にはぴったり指の隙間を閉じて、日本の指でクリから膣口にかけてすっぽり覆って、左右に揺らしたり、指先で膣口周辺を押したりする。
男性器の挿入のときだけでなく、指の挿入のときも、潤滑液をつけてもらう。
指であっても、膣が濡れていても、乾いたものが入るのは痛いし、一度それで傷つくと、セックスしてる間ずっと痛くて、気持ちよくなれない。
指を挿入したときも、手のひらは丘に沿わせて、性器周辺全体を、ほんのり揉むようにする。
ここまでやってれば、後は挿入は、ローションさえつけてれば、雑にやってもそれなりに気持ちいい。
こうしたら気持ちいいなんてインターネットのどこにも書いてなかった。
私の体質が特殊なのか、私のようなタイプはセックスについて語らない人が多いだけで一定数こういうタイプはいるのか。
今のパートナーは、ある程度女性経験はある方だけど、このテクニックは知らなかった。