はてなキーワード: 作品とは
聲の形ってアニメ、金曜ロードショーでやってるのをきっかけに知ったけれど
わざわざタグを用意してまで登場人物の一人を執拗に叩いているファンがいる作品らしい
どうも見てみると
主人公の男が小学生の時に聴覚障害者のヒロインをいじめて補聴器を壊した過去があり
その事実を全校生徒に広めた女性キャラクターがいて、そのキャラクターが悪者扱いされて叩かれているらしい
どう考えたっていじめた主人公が悪いに決まっているし、どんなに反省してみせたところで過去は消えないだろうに
しかもその女性キャラクターだが、Xでの無断転載画像を見るに、突然腕に触ってきた男キャラに対して触らないで汚いと言った事が取り沙汰されて叩かれている
そりゃいきなり身体に触れられたら嫌に決まってるだろ
多分、その男キャラが見るからに不潔そうなキャラだから、そのキャラに自分を重ねているんだろうな
いじめ加害者の主人公が被害者の美少女ヒロインに再会して許され最後は恋愛関係にまで発展するって聞いた時点でヤバい漫画だとは思っていたけれど、
ブラックジャックの少しあと、こち亀より少し前、そんな時代に生まれた作品としてオーパーツレベルだろ。
漫画の文脈がいよいよ洗練されていく過程に出来た作品でありながらここまでスッキリとした読み味、演出意図のメリハリや視線誘導の迷いの無さは時代を考えれば異常としか言えん。
同じ時代に生まれた化け物コンテンツとして釣りキチ三平やポーの一族があるけど、これらの作品も今読むとどこかゴチャついた読みにくさがある。
だがガラスの仮面の読み易さはなんだ。
何が恐ろしいって、どのページもどの演出も「これをどういう気持で受け取ればいいのかわからない」と迷子になることが一切ないことだ。
それぞれのシーンの作中における意図がハッキリと伝わるわけだ。
この時代の漫画といえばよくあるのが、コマやページの空白を埋めるように粗雑なギャグが挟まり、迷い箸のような行儀の悪さを感じさせることだが、ガラスの仮面ではそれが極めて少ない。
これから何を描きたいのか、次に何を読ませたいのか、物語をどこに向かわせたいのか、それらが作者の中にシッカリと固まっていて、それを読者に精緻に伝える漫画的なコミュニケーション力を持っている。
何より凄いのが「この物語をただそのまま楽しませることができれば、読者はそれだけで満足するはずだ」という確固たる自信だ。
それが虚勢なのか本心なのかまでは紙面だけでは伝わらないが、ただ一直線に作品を読者にめがけて投げつける渾身のストレートのなんと鋭く重いことか。
漫画が無数の技術と文脈を身に着けた時代を生きる50年先の未来人が読んでなお、「漫画が上手い。漫画力が高い」と思わせるここの普遍的な技量、揺らぎのない精神性はなんだ。
とんでもない作品だな。
50年弱も連載して未だに完結もしないダラダラと間延びした過去の遺物だと思っていた自分が恥ずかしい。
正しく知る誰もがその完成を待ちわびる漫画界のサグラダ・ファミリアだ。
漫画力の高さが本当に狂っとる。
ソシャゲを遊ぶ時、基本的にゲームの音楽は一切聴かないで違う音楽やラジオ、もしくはTVや配信の音を聴きながらゲームは無音のまま遊んでいるもんだから、ゲームの音楽系イベントやらサントラが出たりしても全く楽しめなくて、作品に触れているにも関わらず置いてけぼりを食らうので地味に困っている。
音ゲーでも場合によっては自然回復したスタミナ消費をしたいだけとかなら音楽を聴かずに遊んでいるので、曲に対する思入れとかもない時がある。
コンシューマのゲームなら普通にゲームの音聴きながら遊ぶけど、ソシャゲとなるとどうもそこまで集中して遊ぶ気が起きない。
でも周りの反応を見ていると作中で流れている音楽に対する色々な反応が出ているのを見ていると「周回ばかりするのに律儀に全部聞いているの?」と思ってしまう。
3〜4年遊んでいるソシャゲがあるけど、音楽の事は何も知らない。
「それ遊んでて楽しいのか?」と思われそうだけど、ソシャゲは暇つぶし目的でやっているので余程つまらないとかではない限りは別に面白さはどうでもいい。ソシャゲに面白さを求めている人そんなにいるのだろうか。
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
見た以上は感想も言うし、さっぱりわからんかったという感想になることもある。
それと感想ってのは自分が作品に対して感じたことという自分の話。
作品を通じて自分の話をしているのであって、作品の解説で反応するのも筋違い。
感想ってのは良くも悪くも隙自語ってやつだ。
ヒロシのひとりキャンプのすすめで「涙腺崩壊アニソンランキング」やってたんだが(第二回かな?)
なんでこうも古い曲ばかりになるのだろうか(知らない曲が多すぎる。それらのアニメを見ていない。超有名作品だから存在は知っているが)
「ちょっと古い」のではなくて「思い切って古い」のだ。昭和40年代ではないだろうか。戦後20年でやってるアニメ。来年戦後80年だ
(たぶん50代以上。しかも50後半じゃあないか?アラフィフでもこのラインナップになるかあ?)
(でもヒロシもアラフィフだよな?50後半ではない。まゆたんだってアラフィフくらいだよね
まゆたんが古い曲知ってるのはアニメガチ勢だから「遡って視聴しているから」に他ならない。リアルタイムなわけない)
まあ…この番組に関しては「キャンプ」から遠ざかっているので、視聴者層は「アウトドア系おっさんバラエティ」が見たい人達だと思われるので
年代は「夜中に酒飲みながら昔のアニメを思い出したりしている」層になるのかな
「古い曲ばかり」つっても、自分にしたって最近のアニソンといって知っているものは「異常に有名な曲」くらいだ
今期は大変久しぶりにアニメを見ているから2期モノ以外はちょっと分かる
異世界失格のopはサブスクで高評価群に入れた。逃げ若のop/edも良い
あとなんだ。これからまた好きなのが増えていくかもしれん
DLsiteで合同誌を出してくださった作家さんに言ってるんですよね?
どういうこと?
どうしてはてなブックマークユーザーは、陰湿でユーモアのかけらもなく何の勉強もせず他人を妬んだり嫌がらせするし可能がないいじめ加害者の集まりみたいに認識されてしまっているのか・
ネット界の上九一色村、ネット限界集落とか散々言われても全く行動が改まらないばかりか、むしろworrisやanigokaみたいな老害ばっかりが元気になっていくし、メンタリティが、アップデートを拒否した限界集落の住人並なのに地方民や低学歴の生徒をうっすら馬鹿にするその自意識も痛々しい。
『インサイド・ヘッド2』みたいに実際には白人だらけのスポーツで敢えてコーチや有力選手に黒人を設定し
これ元増田が三連投してんの?
憎しみを投げて、憎しみを投げ返されて、それにまた憎しみを連投して
そんなの辛いだけでしょ
その好きな作品の好かった探しでもした方がいい
足枷になった具体的なケースについてはあげないので想像して。もちろん、インプットをごちゃ混ぜにしてオリジナルができることは正攻法だと思うが、ただの消費者が「制作やるんだったら名作は知っていないとダメでしょ」と強要するのは違うよなって思う。そういうクソバイスに揉まれて制作者が一人いなくなったのを目の当たりにして「あーあ、壊れちゃった」と思った。人間は愚か。
ある企画で、「マイムマイムを踊っている動画を集めて一つの作品にする」ってのがあったのよね
んで、見てみると、一番可愛かったのが、仲間がいなくて一人で踊っている人の投稿
俺も一人で踊って投稿すればよかったなぁ
アニメ化したなろう作品でコールドスリープでてくるの。短期間目を覚ましてあと寝てるやつ。
やってみたい
1年に1週間だけめさまして
50回やるだけで50年も先に行けるじゃないですか。ここ1年何があったかなーって調べながら
楽しみたい。
なんか、感想見るとやたらエヴァエヴァ書かれてるんだけど、まあ、時期的にエヴァの影響がないとは言い難いけど、
エヴァをパクったというより、出渕氏と庵野氏が世代的に近いからか似た作品の影響を受けてるわけで、
ラーゼフォンのムーリアンの血が青いのはブルークリスマスが元ネタだし、
エヴァのパターン青!使徒です!の青も同じ岡本喜八、ブルークリスマスが元ネタで、
自分は出渕、庵野世代よりも若いので、ブルークリスマスは雑誌ロードショーだったか、
映画雑誌のバックナンバーを近所の図書館とか、あと親戚の家で収集している人がいて、
それでブルークリスマスを実際に見たことはなかったけど、雑誌で見てトラウマのひとつになってたんだよな
円谷の昔のホラーとか、見たことないけど子供心には怖かった、ガス人間とか、電送人間とか
大人になって見て、ドゴラとかも子供の頃のトラウマだったんだけど、実際見てみると正直ショボかったんだよな
エヴァエヴァ言ってる人も、エヴァの元ネタってちゃんと分かってんのかな?って思ってしまう
自分は第一話から、ウルトラマンかー、と思ってたし、活動限界とかカラータイマーあるしw
ガイナックス作品とかって、分かる人が見たら、そこで突然みんな爆笑し始めたりするんだよな
大学時代にみんなで視聴してたりすると…
話が難しいから嫌い、という人も多いみたい…
流石にそれは勿体ない、単なる時空の捻じれ?によって年齢が離れてしまった男女の恋愛ものとして見ればいいと思うし…
しかし、それにしてもラストバトルだけ取り出しても自分にもよく分からんのよな
で、綾人の遺伝子上の母親は久遠なわけだけど、ラストで久遠と殴り合いするわけで、
つまり、母親と息子が壮絶な殴り合いをするわけで、という理解でいいのかな…
例えば、初代ガンダムだって父親殺しであるし、あぁ、あれも母親殺しとも言えるのかな…
アムロは両親を見捨てる、見限るわけだけど、精神的に殺してるわけだよな
それが少年が大人になる、自立するという意味なんだと思うんだけど、
ラーゼフォンはなんで遺伝子上とはいえ、母親と殴り合いの取っ組み合いの喧嘩するのかさっぱり分からん
なんだかんだ久遠とか麻弥はムーリアンのはずだから、ムーリアンとして、異次元からの侵略者として、
地球というか、この世界側をムーリアンの都合がいい世界に完全に改変したかった、ということなのだろうか?