はてなキーワード: チェスとは
っておかしくない?将棋の不正疑惑の件について。チェスでは間違った告発をした人にはペナルティーが与えられるらしいってことで、今回の件で5人前後とされる告発者の名前を公開して処分しろっていう声が出ている。
いやいや、それっておかしいでしょう。お隣さんから尋常ならざる悲鳴が聞こえて通報しました。結果として間違いだったので通報者を逮捕しますってなりますか?人として謝罪はした方がいいかもしれませんが。
悪いのは告発した人ではなく、白か黒かも分からない(しかもこれからも白黒はっきりさせるつもりはない)のに「三浦九段は不正を疑われました」って公表したこでしょう。だから告発したもん勝ちみたいな魔女狩り状態になってる。
何の歌かわかるかな?Shareさせていただきます(laugh)
Under the big chestnut tree.(アンダザビグチェスナットツリー)
You & I.(ユーウウウーウーアンドーナァイ)
We're the best friends. Let's play!(ウィーアザベスフレンレッツプレー)
Under the big chestnut tree.(アンダザビグチェスナットツリー)
Bubble is flying.(バーブルイーズーフーラーイン)
For upper the roof.(フォーアッパーザルーウーフー)
Flying for upper the roof.(フラインフォーアッパザルーウーフー)
Bubble is broken & disappeared.(バボイズブロケンアンディスアピアー)
Wind wind don't blow.(ウィーンドウィンドードントブロー)
I blow off the bubbles.(アイブロオフザバーブルー)
やっぱりゲームの面白さって人間の適正力に大きく左右されると思うのよね
そのジャンルにはそのジャンルに適した人間のスペックが本来あるはずなんだよ
例えば格闘ゲームに関して言えば最低限の反射神経は必要だが重要なのは反復する練習ができるかどうか読みができるかどうかというのが非常に重要
レーシングゲームも対戦は相手との駆け引きが発生するから読み合いが必要だしミスしない胆力と取り返そうとする心の強さも必要
RTSは全体の大局観というマクロ的能力と実際の戦闘の勝敗を分けるミクロ的能力の総合力が求められてさながら一人で軍師と将軍をする必要がある
独創性の求められるマインクラフトのようなシティ系のゲームでは発想力が求められて自分がいかにして目標設定できるかが鍵となる
モバゲーや艦これ系は課金要素を自分の領域内でどれだけ効率よく活用して自分の欲求を満たせるかを問われる
カードゲームはメタや戦略や対策されにくいデッキ構築、運の要素に対してどれだけ調整することができるか構築力と判断力が求められる
FPSはAIM能力や反射神経、戦況を把握する能力、コミュニケーションスキルが求められ単体での戦闘力とチームとしての作戦行動力が必要
MMOは資金調達の効率化やレアアイテム取得のための手段模索、目当ての武器調達までの最短ルート模索、条件下での最適解を探す、情報交換能力など探求心を求められる
その他色々
なのにゲームはゲームっていうジャンルで一般人からひとくくりにされてしまってるせいで
適正力があり楽しむこともできる潜在的ゲーマーが埋もれてしまい
実際プレイしてる自称ゲーマーは上手くも無いし適正もないのに下手な横好きで遊んでるやつが大半だと思うのよね
もちろん下手でも楽しめてる内はそれでいいけど自分が適正力がないのを
他人のせいにしはじめるケースが1つや2つどころじゃなくて沢山あるので
もっと実際のスポーツみたいにゲームにも向き不向きがあるということを啓蒙させていきたい
何が言いたいのかと言うと才能ないやつはゲームすんな
保育園の開園を断念して「これはひどい」とかブコメ付けてるやつがいるけど、例外者批判(実際には批判にもなってないただの批難ばかり)も甚だしい。
次に出てくる言葉が何かと思ったら「子どもを大切にしない」だとか言うけどさ、実際に保育園か幼稚園の隣に住んでみろっつーの。
例えば航空自衛隊のある町の近くに住むと二重ガラスにする補助がもらえたりするけど、保育園にはそういう近隣住民に対しての何か配慮ってあるの?
「子どもを大切にする精神」だけを求められるのであれば、是非とも保育園の近隣に率先して住んでくれ。
とか言ったら「会社がー」「通勤がー」とか言いやがるだろ?その程度の関心しかないんだわ、そういう人たちって。
なんのためのフレックスタイム出勤だよ、と思わざるを得ないくらい朝はゆっくり寝られない。
誰だって迷惑をかけるんだったら、しかもそれが子どもであるのならば、迷惑をかけないように如何に配慮するのかってのが大人の役割なんじゃねーの?
「防音対策をしっかりする→建設費用がー」という問題が出て来て始めて国政に声を挙げられるんじゃねーの?
それ以前の批難しかできない人たちが選挙権を持っていることの方が日本の未来の暗さな気がするわ。
そういう大人ができること、配慮することを無視して「日本ノミライガー」とか、驚くほど知性を感じさせない大人という念しか懐かない。
マジで飛行場の方が静かなレベルだからね、保育園の隣に住むというのは。
そもそも子どもは騒がしい生き物なんじゃない、大人が騒がせている=元気溌剌だと勘違いしているだけなんじゃないのか。
子どもを黙らせるんじゃなくて、静かにならないのならば配慮できる理性を備えた大人が対処するものなんじゃないのか。
そういう大人だからできるもの、むしろ大人だからすべきものを全く無視して「若者ガー」とか何言ってんだ?
重要だからこそ、しっかりと環境や実状を踏まえてどうすべきかを考える。
そういう人たちが増えることを願ってやまない。
追記::
「実際に隣に住んでみろ」っていうと「極論ダ―」が現れそうだから、一応付けたしておくよ。
先にも述べたけど「実際に住め」と言われて「通勤通学ガー」と言い訳する奴らなんて、本当は「保育園」に興味なんて1マイクロもないんだ。
ただただ世間で話題になったことがらに、インテレサントなものにだけ興味を引かれて、脊髄反射的に批難する言葉が出てきているだけで頭なんて使っちゃいない。
自らの経験や周辺住民の声を聞いて、それらを踏まえてどういうことをしていくか、あるいは為していくか、それが科学的な思考であって、義務教育を終えた人が為し得る考え方なんじゃないのか?
それは面倒だし簡単にできることじゃない。
そういう面倒なことをやってまできちんと「これからどうすべきか」を考える人たちが必要なんだけど、そういうところにお金は廻らない。
このような状況を全く踏まえないですぐに「コドモガー」というのは、そういう短絡的な大人に教育されている子どもが最も不憫でならない。
追記その2::(4月12日12時ごろ)
なんか知らんけど沢山ブクマ付いてて個人的には興味深くて考えさせられるものも沢山あった。
批判は真摯に受け止めたいし、どんなコメントをくれた人でも全ての人へありがとさん!とは言っておきた。
私は口も悪けりゃ頭も悪い。挙句に文才なんて胎内に忘れてきたようなタイプなので支離滅裂な文はご寛恕いただきたい。
想定していた「私は気にならなかった」系のブコメはやっぱりあった。
もちろん他意はなくて自らの意見を述べているんだろうけど、そこで留まっていれば声としてとても重要なものだと思う。
だけど、そこから一歩進んでしまって、住宅の施設や立地などの諸条件を捨象して、結果を「神経質」というような単純化していく論の持って行き方は賢くない。
賢くないと言っているだけで、嫌いだとかダメだとか言っているわけじゃないことだけは理解して欲しい。
もはや忘却の彼方にある「民主主義ってなんだ!?」「これだ!」なんて語られてたけど、あんなのは民主主義とは言わないんじゃないかと思う。
既存のイデオロギーがあってそこに邁進していくんでもなくて多数決をするんでもない。
多種多様な生き方をしている人たちの声を聞いて、さまざまな問題を語り合って共に解決していくものなんじゃないのかな。
もちろん複雑化していくのは火を見るよりも明らかだけど、日本死ね!って感じて諦めたくねーんだわ、私はね。
そもそも何かに対して「死ね」だなんて良くも簡単に言えたもんだなとは思うけどね、私は口は悪いとは思っているけど「死ね」みたいな言葉は使わないように心がけている。
チラシの裏書きみたいなものだから、本当に散文的なものになってるんだけど、常々思うことを書いて筆を降ろしたいと思う。
日本が悪い、社会が悪いみたいなこというけどさ、そういう人たちは何と戦ってんだろね。
追記その3::(4月12日18時くらい)
チラシの裏2枚目。
色々な声が聞けるインターネッツってやっぱり素晴らしいな、と思ってる。
ブコメを読むと「すっごい頭がキレッキレ(いい意味で)な人で弟子入りしたい!」と思うものもあれば「何ちょっとこの人文盲?」って思うものもある。
そして何より感動しているのは「共存」かそういう類のキーワードを挙げている人がいること。そうなんだよ、それなんだよ、これからの時代って、と個人的に思ってる。
いずれにしても、どのブコメを読んでも個人の素晴らしい意見で、何かこう勝手にカタルシスのようなものを感じちゃってる。
ちなみに増田個人の見解として「こうしたらいいんじゃね?」みたいのは、少しだけ提示したつもり。
もちろん個人の見解(防音対策)はかなりの片手落ち、どころか飛車角を落とした感じ、あるいはキングのいないチェスみたいな(適当)
だから頭をこねくり回して考えてみたけど、これから述べるところの要約を先に言えば「私個人としての結論はない」これが答えだ。
「は?」かもしれないけれど、ソリューションへの道は集積が第一であって一人の意見に可否を付けることじゃないと思うし(震え声
まず、引っ越した先に保育園があるのと、住んでいたところに保育園ができるのとでは意味が異なる。
極端な例を出せば、基地の隣に引っ越したのか、それとも住んでいたところに基地ができるのかでは意味が異なる。
間違いなく別の観点から斬りかかってくる(例えば命の危機だとか何とかね)人がいるけれど、こういう極端な例を出さなきゃ分からない人がいるからこそ、あえて極端な例をあげてみた。
さて、既存の保育園の近隣に引っ越すということは、そういう騒音リスクも承知でなければならない。
決して安い金で引っ越すわけじゃないんだから、徹底的にリサーチが必要だ。
「やっぱり土いじりしたいっすw」ということで一階の部屋を選択し、気晴らし程度の目隠しと1mくらいの道路とフェンス一枚を隔てた向こう側が保育園だった。
演奏会の練習を夏に窓を開け放してやってくれるもんだから、夜勤明けなんて寝てらんない。
ちなみに飛行場関係では、勤務地から歩いていける方がいいじゃん!ってことで岐阜県のK市に航空自衛隊の側に部屋を借りて失敗した。
この失敗は、その町にある既存の施設がどのようなメリットとデメリットがあるのかを考えなかった、単なるリサーチ不足だ。
これに関しては、移住者である私が悪い。そこを選択したのは私だ。保育園が迷惑なんじゃない、基地が迷惑なんじゃない、自分から迷惑に飛び込んで自分から苦しむ一番ダメなパターン。
既存の保育園が足りないというのであれば新設するか、あるいは増床するかという選択になると思う。
今回の開園中止なんてのは新設するパターンだったわけで、上述した既存の保育園とは問題の質が異なる。
新設の場合は、そういうリスクを避けていた人たちに影響が及ぶ。
だから新設するのであれば説明しなくてはならないと思う(問題は賃貸に住む住民にそういう説明があるのか否かというところだけど、個人的な経験がないからどうなの?聞かせて!)
防音設備をしっかりするだとか、お迎えようの駐車場をしっかり設けるだとか、リスクを避けていた人たちがそのリスクを許容できる話をしなきゃいけないと思う。
どうでもいいよって人もいれば、敢えて保育園のない場所を選んだ人もいる可能性はなくはないからね。
こういう話をすると、いろんな考えの人が居て収拾のつかないような議論が続くっていう人もいる。
だけど、それが不毛なやりとりだなんて思わない。
自分の主張をせずに黙り込んで、いかなる困難にも耐え忍んでいくのが美徳なんだろうか。
不毛なやりとりに見えても、実はそこに斬新なアイデアがでるかもしれない。
脱線しちゃったけど、保育園を新たに開園するのであれば、その立地を選んだ条件、なぜそこでなければならなかったのか、という説明はしかるべき事だと思う。
例えば、山の中に大きな保育園を作ってバスで送迎なんて手段もできないことはないだろう。可能性という意味ではね。
経営主体が「私」、つまり利益を出さなくちゃいけない、しかも公益に供するわけだから半端な経営計画が起因して倒産して公益に損害を与えてはいけない。
そういう諸条件を吟味して「ここ!」という選択が行われるとは思うわけだけど、公共の福祉のために個人の幸福が犠牲になるってのは、いささか頂けない。
もちろんこれが国であれば、そりゃもう判例だとか出ちゃってるから「ぐぬぬ」と飲まざるを得ないこともある。
法律を作ってるのは国会だけど、その構成員は日本国民の代表であるから日本人の意思として決めた法律だ。
それに反するというのは、自分で約束したことを自分で「そんなこと言ってねーし」と言うような、無責任な人だと思う。
だけど、保育園の経営主体が「私」となれば、私人が私人の幸福追求を阻害していいのかって話にもならざるを得ないだろう。
「じゃあどうすんの?」って声が上がるのは当然で、一人で考えるよりも三人で文殊の知恵、十人なら聖徳太子やぞ!ということで、いろいろな声を発するのが大切だと思う。
それらを拾って吟味するのが、我らが国民の代表たる政治家!!だと思うんですけどねー。
裏を返せば国民の意識が政治家として表れてるだけでしょうから、政治家がう○こなら、国民もう○こなんです。
はい、私もう○こです。生きて腸に届きすぎた感じの時のう○こです。
「う○こは臭い」と当然のことを指摘して、何かを言ったつもりになったっていいじゃない。何も言わないよりはね。
当然なことかもしれないけれど、その当然なことすら声として発しないと耳を傾けて聞けない人がたくさんいるんだ。
わけ分かんなくなったかもしれないけど、既に述べたように「私の結論はない」からご寛恕ください。
海外の状況ってどうなの?っていうのは、個人的にはブラジルでの経験しかないから「海外」とひとくくりにはできないけど、すくなくとも甲高い「奇声」をあげることはなかったように記憶している。
ただそれは、たまーに迎えにいった時の状況であって、常にそうなのかは知らない。
海外での経験がなくったて、Youtubeでnursery schoolとか何とか、そういう言葉で検索してみると海外の保育園の姿が少しは分かるんじゃないかと思う。
そういうところからも学ぶところはたくさんあると思う。
ところで、どっかの昔の首相がベンサムの最大多数の最大幸福なんて言ってたけど、こんなの私はクソだと思う。
問題をすごく簡素にしてしまうから誤解の嫌いは免れないだろうけど、1億人のうち5001万人が幸せな道であれば4999万人は不幸でもいいのかな?
もちろん1か0かの二項対立で考えるべき言葉じゃないのは分かってんだけど、こうやって簡素化しないと考えられない人っているじゃない?
それでもいいって主張する多くの人は、自分がその最大多数に入れると思ってて、案外4999万人の1人になっちゃうタイプ。
今の格差社会って最大多数の最大幸福で例を挙げた5001万人と4999万人って感じになっちゃってると思わない?
最大多数の幸福のためならば少数派の幸福は侵害してもしかたないんだからね。
おわり。
競技という時点で、ルールがあるだろ?
陸上競技で「優劣は気にするなよ」って言われて何度もビリになったら嫌だろ。
前提が「普段運動をしていないので運動しよう」なら、登山とかハイキングもNG。
ハードルは下げられるだけ下げるのが基本。
だいたい40分5000歩なので、往復で5000歩の運動になる。
ウォーキングですら無くて、食べあるき、観光地巡りを企画する。
ディズニーランドなら一日いりゃスゲー歩くのは判るだろうが、
久々に本屋の実店舗に行って、全く興味のないジャンルを観てみるとか、
なんなら、酒を買いに行くとか、ビール工場見学なんてのでも良い。
「スポーツを楽しむことと運動能力について」って題名から判断するが、
元増田は「運動をしないから運動しよう」じゃなくて「スポーツがしたい」だから。
「チェスはダメだった、麻雀ダメ、オセロもダメ、どんどん人が減る」って愚痴と一緒。
苦手意識を克服しようとか、余計なお世話も良いところだから。競技は向き不向きがある。
ただ、健康のために体を動かすのが良いってのは、その通りだ。
http://anond.hatelabo.jp/20151108234357
1)ゴール系球技
敵味方に分かれて、方形や円形に仕切られた空間にボールを通すことを目的にする球技。
たまに線上をボール保持した選手が通過しただけで点になるヤツもあるが、あれも元は「通過することでボールを通す権利を得る」ことだった。
ボールを通すことを妨害するために強力なコンタクトが発生するのが特徴で(例外として、相互コンタクトを一切禁止するゴール系球技も存在する。競技名は「玉入れ」という)、その派手さとチーム戦術のダイナミックさゆえに最も人気のある球技。
相手方の対応可能な範囲に、ボールを空中に浮かせて送り込み、それを相互に返し続けることを目的にする球技。
勝敗を絡める場合は、対応可能なボールを送れなかった、対応可能な範囲のボールを処理できなかった、一定の高さを越えられなかった(この定義のためにネットが競技場に存在する場合が多いが、例外として「羽子板」というネットの無いラリー系球技もある)、という失策に対するペナルティを得点として換算するので「相手に打たせない」ことが目的に見えるが、本質的にはラリーが続くことを理想状態とするのが、ゴール系球技との大きな差異である。また、1対1でも試合形式を行うことが可能で趣味として簡便だが、見世物としてはゴール系より若干地味。
ボールに対する操作をルールとして定義し、それを達成することに対して相応のポイントを獲得することを目的にする球技。
時に達成の定義として円形に仕切られた空間にボールを入れることを伴うが、手球へのコンタクトは競技者間で完全に独立してかつ止まった状態からの操作に限定され、ボールを争うことはなく、むしろ精密性が問われる、かなり地味な競技である。その他、ボールを当てる数のみを競うパターン、ボールを特定エリアに置く数を競うパターンなど競技バリエーションは割と多い。対人ルールで行われる際は、精密さと同時に駆け引きが重要となり、チェスに擬せられることもある。
傾向として(ラリー系競技とは逆に)ボールを転がすものが多いが、例えば大玉転がしのように浮かせるプロセスが入ったりゴルフのように長距離の場合はボールを飛翔させることもある。
相手方に対して狙撃としてボールを射出し、殲滅したり敵の数を減らしたところで旗を奪ったりすることを目的にする球技。
遊戯としては戦闘行為としてプリミティブなきらいがあるため、メジャー競技であることは少ないが、単純明快遊戯として子供を中心に楽しまれる。
ドッジボールと雪合戦が代表的だが、ある意味ペイントボール辺りも有資格者ではあるか。
これらの球技はある意味、鬼ごっこという余りボールと関係のない遊戯にラリー系球技の要素を付加したものとは言えよう。
しかし、上にラリー系球技の特徴として「相互に返し続ける」ことを目的にしていると書いたが、これらの競技では投球に対する打撃という形で、非対称な形態を取るので「ラリー」にはならない辺りが、根本的に逆行している。にもかかわらず、ある種の「打ち返せなかったペナルティ」としてのアウトや、「打球を処理できなかったペナルティ」としてのヒットにより試合が進むという点では、ラリー系球技の得点パターンを踏襲している面もあるのだ。
また、例えば校庭で女子中学生が輪を作ってバレーボールのトス上げたり、蹴鞠で貴族がボールを蹴り合ったりするようなものと近い感じで、野球ではキャッチボールなどが「ラリー的なもの」として基礎練習において尊重されるのは、こうしたラリー系の精神を引き継いだものではあるのだろう。
その意味では、広義のラリー系球技に野球は含まれるべきなのだが、一方で完全に「ラリー系球技の鬼子」と言うべき立場であるのが、特異性であるとは言える。
ただ、その特異性ゆえに、多くの球技において禁じ手となっているところの「手でボールを操作する」行為に対して非常に自由度が高いのも特徴であろう。この手のまだるっこしさを排除したスポーツとしてはアメリカンフットボールも相当に自由度が高いが、あれはあれで前パスは各ダウン1回しか出来ないし未登録レシーバーがダウンフィールドでボールを獲れないとか制約はあり、野球の自由度よりは低い。
その「投げる」自由さの代償として、その自由さを定義する中での競技者の関係の特殊性やルールの複雑さが存在する訳だが、ともかくも手という最も人間が頼りにする部位でボールを掴んでプレーしたりそれを相手に走り回ったりすることが、野球の「球技」としてのエッセンスではあろうな、とも。
①アニクラいってナンパしてみろ
行ったら、客がいなくて、え?ってなった。
主催者のDJしかほぼいなくて、そいつらがかわるがわるDJやってるだけの、なんつーか、内輪のサークルだった。
ナンパしようにも、内輪ノリでやってるのに悪いなって思ったけど。コスプレしてるDJをナンパしてみた。だけど、「来てくれてありがとー」で終了
で、しばらく待ってると、勘違いした外人が入ってきて、そこにも突撃したが、チェスが趣味だっていう男と会話が進んで、俺もチェスやってんだぜーとチェス。
クラブのほうは、40代のおっさん達が魔人英雄伝ワタルとか流してて、それBGMにして、チェス。
コスプレしていけばよかったんだろうか?ただ、参加者いなさすぎだろwあと、明らかやばそうなタバコじゃない煙吸ってる奴いて怖かったわ。
②バーに池
知り合いの女に、どこのバーとか行くか聞いて、そこ行ってみたが、ひたすら男しかいねえじゃん。
くっそ怪しい精神理論を講習された。参加者も、いかにもな見た目のキモオタや人生終わったおじさん、まあ俺もそうなんだけど。
俺医者で、精神医学的な話が明らかにおかしいと思いつつも、聞いていた。
したら、高額のセミナーに1人1人あとで呼び出す形式だった。壷売りとかと同じじゃねーかw
流石に逃げた。
ツイッターで申し込んだ、ナンパ師の講習受けたときのほうがハルカによかった。
とりあえず、アスペ並みに行動だけはする。
教えてくれ、どうしたら俺は出会えるんだ?
次は、テニスレッスンと、外国語を教えあうランゲージエクスチェンジだかをやってみようと思う(友達がランゲージエクスチェンジで知り合った女を彼女にしていた)