真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
伝わる人にはこれだけで伝わるが、いわゆる“終わりなき日常”だよ。
広義的な意味でのオタクコンテンツは、豊かなライフスタイル(日常)を基盤としているし、その点で日常の肯定がフィクションにも求められたというわけだ。
なぜならそこから離れれば離れるほど憂鬱な現実か、未来への根拠なき夢想に近づくからだ。
つまり表面的に調和しているだけで、それら側面的に見えてくる構造が露呈していないだけだ。
『ど根性ガエルの娘』15話の影響で、色んな人たちの毒親の話が出てきているが、これは当然ながらいきなり出没したわけではなく、元から既存の構造にあったものが露呈したのであって、件の作品はきっかけに過ぎない。
だが、“終わりなき日常”にある優しさや安定といった停滞感の肯定に慣れ親しんだ一部の層はその側面が見えたときに、元から既存の構造にあったにも関わらず大きなショックを受けてしまうのである。
おっと、断っておくが別にこれは日常系の是非を問う話ではなくて、なぜそれらが求められているかという話の一環だからな。
当然、現代でも非日常的エンターテイメントは基本であり花形だし、日常や空気を破壊したり、そういったものを皮肉った側面を持つ作品も多く出ているしな。