真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えとしては「好き嫌いの表明は自由だが、尊重されるのはそこまで」といったところだ。
評価されるものというのは、総体的に見て賞賛と批判が表裏一体の存在である。
でなければ、それはそもそも評価に値しない(賞賛も批判もするような代物ではない)。
故にそれが評価に値するという前提が共有されているなら、「賞賛することそのもの」や「批判することそのもの」に是非を問うべきではない。
ここを混同して、意思の表明そのものまで脅かしたり、脅かされたと認識する人も少なからずいるが。
主張の是非について語る上で重要なのは大まかに三つの段階がある。
一つ目は前の回答の「行使」だな。
先ほどもいったが、意志の表明そのものは自由なので是非は問えないが、それをどういった筋道で表明しているかには是非が問える。
ザックリいえば、法的に、道徳的に問題のない、正当な範囲内での手段で意志を表明することだ。
三つ目は「内容」。
例えば正しい筋道で行使された主張であっても、内容の是非は別の話だっていうケースもあるし、主張の内容に妥当性があっても筋道が成っていないというケースもあるということだ。
だが、これら段階を常に一纏めにして解釈する人もいるのだ。
筋道のせいで否定されようが、内容のせいで否定されようが、結果的にはその主張を否定していることに変わりないこともあって、意思表明そのものを脅かされたと混同する人が出てくるわけだな。
当然、前の回答で語ったように意思の表明そのものを脅かすというのは、行使する権利そのものを否定したときであって、その筋道や内容の是非について語ることは可能なのである。
ああ、そうだ。わざわざ言うことでもないかもしれないが、私の答えはあくまで教養を必要としない人向きの答えだから、ちゃんとした答えを手に入れたければ君自身が勉強することだ。