はてなキーワード: 華氏451とは
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
SF小説好き1480名に聞いた「絶対に読んどけ」っていうSF小説ランキング - 俺だってヒーローになりてえよ
https://www.orehero.net/entry/bestsf
以下、数が多いので省略
これは所謂チャットGPTに頼まれて書いている、といっても過言じゃない。
事の発端は実にシンプルだ。
西暦2049年となった今年ではついに新作AVの発売本数が月に二千を超えた。
大半がインディーズで名もない同人の作品なんだが、まあそれも当然といえば当然だ。
そこからAIの発展、特にクリエイター関連の分野は発展が目覚しく、2025年にはAI作のアニメが話題になったことも記憶に新しいだろう。
そんな折、アニメから実写へと推移していくのは自然の流れで、道理でもあった。
内容はごくシンプルなものだったが、それでも出演する女優は見た目もあれの反応も人間そのもの。
さらにAIが作るっていうんだから絶世の美女でもあって、体型も操作し放題なんだからまさに男の欲望をそのまま再現したようなものだった。
そりゃ売れるわけだ。
そしてだ。当然問題も噴出する。
AIが作った美女の、演技の、表情の、喘ぎのモデルは誰で何かって話だ。
そこで嫌気が差しきったメーカーと、前世紀からギャーギャー騒ぐフェミさんたちの思惑が偶然にも一致した。まさに奇跡的な確率だ。
そこで革命が起こった。悪魔狩り、のようなものともいえるかもしれない。もしくは華氏451。
人間による、新作AVの製作が禁止される時代に陥ったわけだからな。
だが、彼ら…いや、彼女ら(かの団体に配慮して)の勢いは止まらなかった。
次にはこれまでのすべてのAVの存在を無いものにしよう、それで出演した彼女たちの過去の過ちをないものに!!
要は、ネット上からこれまで発売されたでもののデータがどんどんと排除され廃棄され禁止され、所持しているだけでも違法になるとかどんだけだよほんともう!!!
あ…ごほんごほん。すまない、ちょっと取り乱した。でだ。話を戻そう。
そしてネット上からも人間の出演するAVのデータはすべて消えた。形式上、一応は。
けど形式上といっても結構な厳格さはあるもので、実際検索してもAVは出てこない。
すげぇな…と思いつつ、話はこれで終わりじゃない。
そうしてAVに生身の人間が出演することはなくなり、AVはAIによって作られるものがスタンダードに。
AVの中に人間は存在せず、AVというフィクションの中にAIによって作られるAVという、まさにフィクションの中のフィクションとなったわけだ。
何故かって?
そう。そうなんだ。モデルなんて実際、必要じゃない。それが一から作られたものなら、だ。
でもそうじゃなかった。これは作った側も実際、想定外だったらしい。
共通していたんだ。
一部、ほんの一部分、AIが作るAV女優。それらの女優すべてに共通している部分があったんだよ。
調べた結果、わかったことはそれだけだ。
だがAIが作るAVの女のすべてに、何故かレイ・ミカの一部が混入していた。
どうしてなのかは分からない。わからないからこそ、俺はレイ・ミカという存在を追っている。
未だ手がかりは皆無だがそれでも追わなきゃならん。
詳しくはいえないが、このままだとずいぶんと面倒なことになるんでね。
なぜAIはレイ・ミカと呼ばれる女性(?)を参考にしていたのか。
それを探らなければならない。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/110_kasi451/index.html
華氏451度は1953年に書かれた70年前の本なんだけど、全部言い当ててると思うことが最近増えた。
vtuberにしろ、TRPGにしろ、コスプレにしろ、キャバクラ・ホスクラにしろ、絵師にしろ、
手間暇かけて丁寧につくりこんで演じることで自己承認を求める空虚な個人主義が流行しまくっている。
自分以外のだれか、それがたとえば全く知らない神であってもいいんだけれど、その優しさについて思いやってみたり信仰したり単にメンツをたててやることさえ全くできない。
一人っ子の究極に悪いとこ集めましたみたいな世の中だなぁとおもった。
主張や伝えたいことそれ自体は色褪せていないとは思うが、
テレビに監視装置とか日記つけたらダメとか少し古さを感じるし、洗脳したあと殺すという極めて非効率な展開は理解できなかった。
【追記】
サイコパス面白かったなあ。不幸を減らす営みが別の不幸や矛盾を生み出すのは興味深いと思った(こなみ)
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自分たちの現実の方が上回っているという指摘は確かになあと思う。中国の信用スコアとか最たるものだよね。
ブラックミラーのランク社会とかに似てると思う。現実的で真に迫る描写がよかった(こなみ)
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すまん。やっぱ監視社会だけでなく、絶望を感じさせる未来的なSF作品が見たい、という趣旨に鞍替えしたい。
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華氏451度は懐かしい。読んだなあ。でも今思うと本を強制的に読ませないとか国力衰退に直結するからどうも現実感に乏しいような気がする。
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俺もケストラーの真昼の暗黒は大好きだ。まさかこんなマイナーな作品を知っている人に巡り会えるとは思わなかった。
ルバショフの心情の変化が非常に丁寧に書かれていて、そのほかの人物たち(リチャード、小男ローウィ、秘書アルロヴァ、イワノフなど)との回想の中で
革命家としての冷徹さと反革命と見なされうるヒューマニズムの拮抗と挫折が心を打った。あれは名作だ。
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あれは社会の安定を第一に考えた世界の末路とその問題点とも言えるし、みんなソーマで幸せなのになぜ読んだ人に絶望を抱かせるのかという点においても難しくて考えさせる物語だと思う。酸素供給不足によって故意に障害を起こしたり、本嫌いにさせる洗脳を施したりすることで、一定数の人たちの本来の可能性を奪ったうえで安定させた社会には何の価値があるのか、と考えてしまう。
How's that? Go ahead now, you second-hand literateur, pull the trigger." He took one step toward Montag.
どうだ?中二病の文学者め 引き金を引け」 彼はモンターグに一歩近づいた
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本を読んで近隣のご婦人たちに一席ぶった主人公のことを創造主気取りかと上司がなじったシーン
「中二病の文学者」のほうがニュアンス的には合っているのは合っているが…
全体的に主人公の心理描写に比喩が多いので機械翻訳も各社ともに割とめちゃくちゃ
香川県の学校で「ノーメディア」チャレンジシートなるものが配られる、しかも強制参加の模様
https://togetter.com/li/1469321
草。
華氏451かな?
画像消えているけど色々酷くて草。
更に言えばノーメディアならばその規制を扇動している四国新聞すらアウトと言う矛盾wwww
ネットでは良く群馬とか良く馬鹿にされていたけどこいつらそれ以下だよwwww
もう香川県民は石器でも使っていればいいと思うくらいには酷い。
しかしこれ全国に広まったらいよいよ日本のITやらゲームやらのまだ持ちこたえている産業も終わりで経済的ダメージも大きくなるし、香川のみに限定されてもその香川自体が限界集落化するのでどちらにしろ面白い事にしかならなさそうだよね。
大本のゲーム障害自体、WHO自体コロナで色々やっちゃって箔が剥がれだした上に中身が空っぽな疑似科学だし、あのセンターの連中も大方終わりそうだよね。
https://togetter.com/li/1480404
香川県のゲーム依存防止条例、パブコメで賛成派が露骨な多数派工作をした模様