はてなキーワード: フィリップ・K・ディックとは
SF小説好き1480名に聞いた「絶対に読んどけ」っていうSF小説ランキング - 俺だってヒーローになりてえよ
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以下、数が多いので省略
「無いのが不思議だから書いてみた」と思ったことを形にする姿勢はいい。そこは評価ポイント。
小説を読んでみたが、面白そうになりそうな話題を膨らませずに、余計な部分ばかり多い。
宇宙の知識を仕入れたければ、こんな小説読まずにニュートンを読む。如何にも「僕は宇宙について知ってます」という説明はいらない。
設定の陳列も、設定が余り面白くないため、鬱陶しくなっている。
設定を開示する場合、何か目的が必要。設定自体が面白いと思うから書くのか、それとも、今後起きる出来事を理解させるためなのか。そこが不明瞭な印象を受ける。
単純に「こういう設定を考えたから、書いてみました」以上になっていない。
個々の話も、膨らませれば面白くなる部分が多々あるが、そこを軽く流してしまっている。めちゃくちゃもったいない。オバケが出るレベル。
例えば、第二話のラジオの話なんか、めちゃくちゃ話を膨らめられる部分。めちゃくちゃもったいない。バナナを剥いて、中身を捨てるようなもんだ。ちゃんと中身は食べろ。
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異世界転生モノで、「こういうの書けば面白いんじゃないか」っていうアイデアはそこらに溢れていて、「実際に書いてみました」という小説もたくさんある。
でも、今はそんな「書いてみました」という一発ネタだともう全くウケない。
既に「異世界転生大喜利」は飽和状態だ。今はもう「一発ネタ」をどれだけ真面目にやるか、という勝負になってきている。
最低限の文章は書けていると思うし、基礎的な知識はあると思うのだが、ただ、圧倒的に「物語」が不足している。
もし、今の話を続けるなら、たくさんSFを読め。とにかく読め。そして、それぞれのSFでどこが面白かったか、感想文を書いてみろ。どんな書き方をしているか、分析してみろ。
「俺はフィリップ・K・ディックだ」と叫びながら、窓から飛び出してみろ。SFの売り上げに貢献しろ。
俺も新参だけど、あれは盛ってる・創ってるのは百も承知で文体の勢いとか馬鹿馬鹿しさを楽しむコンテンツだと思ってた。
いわゆる嘘松みたいな、嘘とわかった瞬間に主張が揺らぐとか、共感した読者が損した気持ちになるとか、そういうのとは違うでしょう?
逆に、ホントかウソかを故意に曖昧にしているからこそ読み手の想像力が刺激されるところもあるよね。ていうか、そここそがあのブログの独自性であり魅力だと思う。そういう意味ではだいぶハイコンテクストではあるけれども。
たとえばフィリップ・K・ディックなんかには「現実と虚構の境界が曖昧な様子を描いた虚構」がよくあるじゃん。浮遊感とか遊離感、不安感を楽しむというやつ。それを1レイヤー現実側に引き寄せたのがフミコフミオのスタイルなんじゃないかな。ごめんほめ過ぎた。そこまでじゃない。
1.「限りなく透明に近いブルー」 村上龍
5.「国のない男」 カート・ヴォネガット
7.「夢渓筆談」 沈活
8.「神は妄想である―宗教との決別」 リチャード・ドーキンス
11.「冬の夜ひとりの旅人が」 イタロ・カルヴィーノ
12.「高い城の男」 フィリップ・K・ディック
13.「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン
16.「きつねものがたり」 ヨセフ・ラダ
20.「フェルマータ」 ニコルソン・ベイカー
21.「四十七人目の男」 S・ハンター
22.「逆転世界」 クリストファー・プリースト
24.「謎の女」 福田恆存
28.「神秘の島~ミステリアスアイランド~」 J・ヴェルヌ
29.「連射王」 川上稔
34.「ほとんど無害」 ダグラス・アダムス
35.「黄落」 佐江 衆一
38.「リレイヤーⅢ」 鴻上 尚史
39.「糞尿大全」 柳内伸作
40.「十六の話」 司馬遼太郎
45.「穴」 ルイス・サッカー
46.「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハインライン
47.「ギャシュリークラムのちびっ子たち」 エドワード・ゴーリー
50.「伊平次とわらわ」 坂田靖子
51.「食肉の帝王―巨富をつかんだ男 浅田満」 溝口敦
52.「だれも知らない小さな国」 佐藤さとる
55.「楽園の知恵」 牧野修
56.「鳩どもの家」 中上健次
57.「古事記」 倉野憲司
60.「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」 秋津透
66.「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー
67.「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一
69.「百頭女」 M・エルンスト
74.「不可能性の時代」 大澤真幸
79.「他人をほめる人、けなす人」 フランチェスコ・アルベローニ
80.「星虫」 岩本隆雄
83.「おとなもブルブルようかい話」 木暮正夫
84.「ヨーロッパ文学講義」 ウラジミール・ナボコフ
85.「サマー/タイム/トラベラー」 新城カズマ
87.「死の蔵書」 ジョン・ダニング
88.「死のロングウォーク」 リチャード・バックマン
91.「フロイト先生のウソ」 ロルフ・ゲーデン
92.「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー/野崎孝訳
94.「針の上で天使は何人踊れるか」 ダレン・オルドリッジ
95.「歴史」(上・中・下) ヘロドトス
97.「愛はさだめ、さだめは死」 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア
98.「幾千の夜を越えて」 神月摩由璃
100.「アルジャーノンに花束を」 ダニエル・キイス
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
「共感能力は人間の決定的な条件」というのは、映画ブレードランナーの原作、フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Philip K. Dick, Do Androids Dream of Electric Sheep?, (1968) )の重要なモチーフだった。
人間そっくりにつくられ、一見すると見分けがつかないアンドロイドを人間から見分けるテスト、それは共感能力を測定するテストだ。社会の様々な問題に対して「人間として適切な反射速度で」共感できる力、あるいは共感を引き起こさせるマシンに入って共感を感じる力が、人間の条件ということになっている。だがその中でも「宇宙船の中など極めて人工的な環境で育てられた場合、人間であっても(アンドロイドのように)高い共感力を育てきれないケースがあり得るのではないか?」といった疑問は提示されていた。あるいは「共感能力がないというだけの理由でアンドロイドは人間より劣ったものとされるべきなのか?」とも。結局作品の最後で、人間が熱中していた「共感を引き起こさせるマシン」はアンドロイドが作ったものであり、主人公の警官がかわいがっていた羊も作り物だということが判明し、一方人間たちは自らの感情を淡々とマシンでコントロールすることに慣れきって、警官は疲れ果てて眠ってしまう。作中から「ノーマル」な「共感能力」を持った存在が全て消え去ったところで作品は幕を閉じる。
「共感能力は人間の重要な条件だ」という前提のもと、共感能力を失った人間たちが生きる絶望的な未来(核戦争後の荒れ果てた世界)をディックは詩情を込めて描いて見せた。すなわち、どちらかといえば感情を失ったアンドロイドの方が「生存適者」であるという世界の中で、人間は人間であり得るのかという問い。だがそれを笑えるほど立派な未来に我々が生きているのかどうか。
思想良心の自由が平然と侵され、ある考え方生き方を強制されるような社会は、「共感能力」を必要としない荒れ果てた世界だ。だがそんな未来はそれほど遠くないように感じられる。一方、世の中で幅を効かせているのはまさにその「共感能力」を失ったようにしか見えない、アンドロイドのような大人達だ。そして、そんな風に感じてしまう自分自身もまた、リック・デッカード(主人公の警官)のように、自分自身こそがアンドロイドのように感じられ作り物の中にリアルな生と限りない慰めを感じて、そして疲れ果てて眠るしかない生を生きているのではないか。
何かが間違っている。
何かが間違っているのでなくてはならない。
ふと気がつくと、そんなフレーズを呟いているような、そんな今日この頃。
みなさんはいかがお過ごしですか?