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2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

2021-01-09

anond:20210109225351

>>自分が得られなかったキラキラした青春エンジェイするアニメなんて見ても余計辛くならない?

>>耳をすませばを見て鬱になる人が一定数いるってよく話題になるし

このアニメに対するとらえ方自体がそうだ

あなた快楽目的アニメ好き

anond:20210109215412

自分が得られなかったキラキラした青春エンジェイするアニメなんて見ても余計辛くならない?

耳をすませばを見て鬱になる人が一定数いるってよく話題になるし

2020-10-18

何でもかんでもジブリみたいって言うやつ

森林舞台の某アニメレビューに、ジブリのような世界観が云々ってコメントしてるやつ、一生ジブリだけ見てろ。

大体ジブリ自然みたいな考えなんなの。耳をすませばは確か街中が舞台だし、安易ジブリジブリ言い過ぎなのが腹立つ。

2020-04-11

大浴場でさっぱりしたモフ!

からモフルンはちょっとも怒ってないモフ

おだやかな気分モフ

さてと部屋に戻る前にゲームコーナーに寄るモフ

来る途中にのぞいたらなつかしい筐体があったモフ

ハングオンとかポールポジションとかモフ

楽しみモフ!

耳をすませばゲームコーナーの音がきこえてくるモフ

\はどーけん/\はどーけん/\ズコー

大変モフ!!

スリッパがたくさんモフ!!

どれが誰のスリッパかわからないモフ

こんな時はどうするモフ?

まず考えられるのはどれでもいいから履く方法モフ

これなら足が汚れないモフ

しかし誰のスリッパなのかわからないのが怖いモフ・・・

それがいやならば裸足で歩く方法があるモフ

しかしこれは足がかなり汚れるモフ

モフルンは普段裸足だけどせっかくお風呂に入ったのだからすぐに汚したくないモフ

でも知らない人のスリッパは衛生面が不安モフ・・・

裸足よりある意味汚れそうモフ

しか心配無用

こんなこともあろうかとモフルンのスリッパは少し離れたところに置いたモフ

ってないモフ!!モフルンのスリッパがないモフ!!

モフルンはちょっと怒ってるモフ!!

誰モフ!

殺すモフ!

絶対モフ!

おわりモフ

2020-03-11

耳をすませばメソッドはてブ

好きなブクマカブクマを常に監視しておき、ブクマされた記事を次々ブクマしてブコメ

できるなら、ブクマしそうなソースを調べておいて先回りブクマ

これで、なんかこいつ最近良く見るな...という状況を十中八九作り出せる。

2020-02-12

anond:20200212153559

他人はだれも責めていなくても自分から逃げられないという話

耳をすませば」もそうだけど共感性羞恥他人には何も感じられず自分が悪いとわかっている分だけけっこうキクんだ

そしてそれを勝手に「他人悪者にしたがっている」と解釈するのも炎上ムーブからやめときなね

 

自分へ言い聞かせるものであっても「※個人の感想」はネットに書くなっていいたいのか?

それをいうならお前の元増田こそ※個人の感想からね、チラシの裏にでも書いてろ

2020-02-11

anond:20200211040659

増田のことを悪口いってもいいが

ヲタ恋を(恋愛マンガにまともに働いているシーンがでないだけのことで)つまらなそうとはいわないでほしいなー

羞恥性なんちゃらなんてのは「耳をすませば」もさんざんいわれてたよ

意識しすぎ!作家めざしすぎ!バイオリン職人ことなにもわかってなさすぎ!みたいな

2019-11-22

anond:20191122052512

しかに。

そういう意味耳をすませばってよく出来た話だよなあ。

本を読んでる、ただそれだけで誠司は雫を好きになる。

そこから始まる二人の交流によって、雫も能動的に自分人生を切り拓こうする。

ララランドもそうだけど、なにもなかった女の子男の子)が恋で自分を見つけていく話大好きw

2019-07-27

anond:20190727021216

耳をすませば」です 昭和後期の地味めな女性恋愛観が煮詰められてる

リアルはもう見ないふりしてそば通らないといけないときだけ

はいゴメンナサイヨーってとなえてそっと通り過ぎるよ

2019-07-04

anond:20190704143911

実写版アラジン見た人「映画表現方法が○○だったからそのコメントはアリ/ナシ」みたいの知りたかった

 

ちなみに似て非なるものだが

俺にとって「耳をすませば」は

男性が一人で食い入る様に見てたら

「やめろ!これは中学生ときの俺の妄想だ!直視するな!」

っていいたくなるくらい恥ずかしい

判定よろしく

こないだ50代女性大学講義もってる)が他の大人雑談してたんだけど

一人で実写版アラジンレイトでみにいったら

わりと空いてる映画館男性が一人でみててカップルでもないので気持ち悪いとおもったそうな

ウィルスミスジンをみるにしてもちょっと・・っていってた

それを大学男子の群れにいっちゃったら「先生それ差別ですよ!」ってつっこみ入ったそうな

 

その話してる相手立場が下なのでイエスしかいえない立場

コピーしながら全部聞こえちゃった自分アラジンアニメ版は見てるけど実写版のものは見てないので何とも言えない

ただこの人には今後は連れ立ってプィキュアの映画みにいく大きいお友だちの話だしてはいかんとはおもったけど

  

きみならどうする

 

追記

「おばさん1人もキモイ

その返し方って増田煽りでは正当なんだろうけど

コンテンツに全く目がいって無くて気の毒じゃん

 

そこまでいわれるってことは彼女にとってどういう映画だったんだろ?

パパと同時にみてると気まずくなるような

彼女にとっての「女の夢のかたまり」みたいな映画だったんだろうか?

実際3次元ジャスミン姫がナイスバディでハーレム衣装きてるんだろうしな

 

ディズニーで言えばシンデレラと同じディズニープリンセス部類なんだよな

でもそこまでのものを作る気はしないんだが

正直実写はエマ・ワトソン美女と野獣金ローでちら見したレベルしわかんね

増田なら1人くらい見てきた人いるかと思ったんだが

 

追記

「判定って何」

 

実写版アラジン見た人→「映画表現方法アニメに比べても一般的にも○○だった。したがって、その「気持ち悪い」コメントはアリ/ナシ」みたいの知りたかった。

なんていうか彼女にそこまでいわせた理由があるなら知りたい

 

ちなみに今思い出しただけで似て非なるものだが例えば

俺(女性)にとって「耳をすませば」を映画館自分の2つ向こうくらいで異性の一人客が食い入る様に見てたら

「やめろ!これは中学生ときの俺の妄想だ!直視するな!みなくていい!もうこれは夢だってわかったんだ!」

っていいたくなるくらい恥ずかしいだろうとは思う(実際には何も言わないのも彼女と同じだろう)。

翌朝以降に人に話すときには手短にいって「気持ち悪い」までいわなくても「男性はあれは見に来なくていいのに」って表現になってるかもしれない。

実写版アラジンが「耳すまレベルの夢女映画かもしれないとおもうと余計に気になってきた。

 

男性場合ラピュタもののけでいいかもしれん。

子供連れ・家族連れ・カップルならともかく

異性が一人で食い入る様に「男の夢」みたいな映画を見てたらへんな気分にならない?

 

2019-06-24

anond:20190624174302

ジブリアニメ普通声優で声当てたらどうなるかっていうのは気になるな

耳をすませば本名陽子千と千尋入野自由なんかは経験を積んだ今の方が絶対いいだろうし

2019-02-08

耳をすませば』を見ると死にたくなるの?

本心なのか、ネタで言ってるのか、わからない

2019-01-24

anond:20190124202733

かに漫画アニメ集合住宅というと『童夢』と『耳をすませば』くらいしか出てこないな。

幽遊白書』の幽助の家は平屋の公営住宅だったけど、あれは「一戸建て」に入る?

なぜ漫画アニメ主人公はみんな一戸建てに住んでいるのか?

なんか、増田で間違った説を唱えると、次々に反証が集まるらしいので期待している

俺は幼児期から成人後まで10回ぐらい引っ越して一度も一戸建てに住んだことがない

そういう人間は世の中に一定存在すると思っていたがそうではないのか

で、怠惰な俺が把握する範囲、"家族で"(←ここが重要一戸建てではなくアパートマンションや団地に住んでいる主人公って、『みなみけ』ぐらいしか思いつけない

実家を離れて学生寮に入った、進学に際してアパートで独り暮らしを始めたパターンとかは除く)

あとは『ハートキャッチプリキュア』で母子家庭キュアムーンライト団地住まいだったのが記憶に残ってるぐらい

メジャー少年漫画ラノベ原作アニメとかで、中心的な主要キャラが"家族そろって"一戸建てではなくアパートマンションや団住まいってどれだけあったっけ?

―――

追記

主人公が「一人暮らし学生社会人」ならアパートマンションは、むしろ当然・普通なんですよ。「実家住まい」で集合住宅あんま見かけない気がしたなあというのが発想の発端。

追記

大量に反証が挙がって感謝する。ありがとう

あたしンち」とかデジモンとか、メジャーだけどクレしんドラえもんレベルには劣る、というポジションが、現実世界での一戸建て居住者に対する集合住宅居住者存在感を暗示してる気がするなあ…

団地ともおや耳をすませばは、「あえて」団地ニュータウンを題材にしたイメージ

君の名はエヴァは、メジャーなんだけどやっぱどっか異質な作品なのか

ヤマノススメのここなちゃんの家とか、やたら何度も出てくるあおいとひなたの家の印象の強さに比べて「あ、そういえば…」という感じ

(↑単に俺の記憶力と作品メジャー基準が偏ってるだけ)

2019-01-20

anond:20190120033600

リンダキューブのカナビスは嫌いじゃないし村田蓮爾が出したRobotじゃないもっと凝縮されたなんかの本タイトル忘れたけどそれに入ってる系で同じようなのたくさんあってあれは保存してるし、ラピュタ大好きだし耳をすませば空想の国というか井上直久さんでしょ、大好きだしゲーム実況見てたし画集も持ってるし、ビジュアル系が好きなわけではないけどビジュアル系の「チャラいのに本人たちは気づいていない本質をやっている」的な感じは感じて嫌いではないし女がたくさん集まるのにその全体の現象がとても文化的事象になっていて好きだし、ラブサイケデリコ出るあたりからやっぱりかぶってないし、

ほら合わない 多少合うけどたぶん3,4割しか合わない 悲しい でもそういうのは人間関係には関係ない こうやって合わせて話してくれたことには感謝するしありがとうだし楽しかったし3,4割もわかる人なんて全くもっていない 

2019-01-11

耳をすませば面白くないけど

バロンだけ抽出しておもしろくできないかな。

アレの絡みは好きなんだ。

anond:20190111230847

だが待ってほしい。耳をすませばを見るのはリア充だけではないだろうか。

耳をすませば』のセイジよ、チャリで道の右側逆走ヤ・メ・ロ

2019/1/11今日現在ジブリ映画が、ポリコレに引っかかってる。

たぶん、ネット炎上しとるはず

2018-03-17

漫画村批判している奴らが「耳をすませば」の画像無断転載しまくってた

どういうこと?

アニメーション映画なら勝手に切り取って、

それを公開していいの?

2018-02-05

まだ耳をすませばに憧れている

最初にあの映画を観たのはいつだろう

小学生幼稚園?覚えてないけど、それくらい昔から月島雫と天沢聖司のことが好きだった

というかあの爽やかで甘酸っぱいラブストーリーが大好きだったんだ

現在22歳

まだ憧れは終わっていない、終わる気配もない

今まで付き合った男は2人

1人は2週間、2人は2ヶ月で別れた

から本当は0人って言ってもおかしくないレベル

けどこの歳で0人なのは恥ずかしいから、人に話すときは一応2人って言うようにしてる

期間はうまく誤魔化して触れられないようにね

少女漫画も大好きで恋愛脳だけど、人を好きになったことなんて殆どない

でもこの前、奇跡的に人生で初めて大好きな人ができた

まあ結局二股されて終わった話なんだけど

いや本当、今となっては何が好きだったのかもわからない

月島雫と天沢聖司ってあの後もハッピーエンドで終わるのかな

あー・・

にしても私、まだ間に合うの?

中学生みたいな恋愛ってこの歳でもできるのかしら

わがまま言ってる場合じゃないのに、割と本気で耳をすませば理想から人に言えない

とりあえず手繋ぎは一か月、キスは三ヶ月からでお願いしま

2018-01-24

勝手図書室の思い出を綴る。

https://anond.hatelabo.jp/20180124221748 を読んで現場は大変なんだなと同時にそういうものを書き込んでくださった増田さんに感謝している。

大変そうだけれど、無理しすぎず、ほどほどのところで過ごして欲しい。


それだけじゃ何なので、掲題通りである

一時期入り浸っていたことがあるので記憶のある限り書いてみる。

小学校は何回か転校していたため、正直各学校の独特の匂いとやけにじめっとした、あるいはやたら日当たりの良い図書室の壁に添って作られた本棚を思い出す。図書カードの置かれたあのカウンターだとか。おとなしそうな図書委員だとか。似たような雰囲気だなあと思っていた。

低学年の頃は授業時間に行く以外では寄り付かず、気が向けば学級文庫か自宅にある本を読んでいた。

その頃好きだったのは大判で、フルカラー写真が多く載っていたこごましたもの特集されていた本だった。

ただ眺めているのが楽しかった。シリーズで何冊かあったが、色で分類されていたと思う。漢字で書かれていたテキストの部分も気が向けば適当に読んでいた。

不遜な子どもだったので、およそ感想文の類を提出したことがなかった。課題図書もふーんと眺め一度だけ気になったものを借りたか買ったかした程度だった。

自宅では主にオカルトに凝っていた時期だったと思う。魔女とか怪談とかそういうものを読み漁っていた。


中学時代。できて20年未満の学校に進学した。

なんとなく耳をすませばを思って、半年かけて図書室の本を全部読んでみた。伝統ある学校に比べたら冊数はそれほどでもないと思う。普通教室3部屋程度。読んでみたが読んだはずの本でもおぼえていない本が結構ある。

きっとその頃は読み切ることが目標だったのだろう。それでもいまだにその頃出会った作家で読み続けていたり、何冊も装丁違いで購入した本があることはひとつの宝物だと思っている。

あとすべり止めで受けた私立高校入試で読んだことのある作品が題材だったのも愉快だった。

そこから高校までで多いときは一晩に文庫8冊。一番かかったのが篠田節子氏のハルモニアで2日だったと思う。

なんとなーく早く読めるようになったりもした。あの数年間は登下校時にも本を手放さなかった。

勉強あんまりしなかったけれど、勉強せずに中学2年で漢字検定2級が受かる程度には知識も増えた。

当時は図書カードがあったので、誰がどの本を借りたのか分かるのも面白かった。天沢聖司にも月島雫にも出会えなかったけれど。

ここ数年で文庫化された書籍も当時はハードカバーで、月に10前後は購入されていた。それを片っ端から読みつつ、すでにあった蔵書も読んでいた。

多感なお年頃なので、性描写のあるもの出会うと成人指定境界ってどこやねんと思ったりしながら読んだ。(し、本屋に行けば女性向けのBL小説は性描写があっても普通に買えた。謎だ。凝り性なものでそちらもだいぶ読んだがこちらは卒業たかもしれない)(コバルト文庫でも結構あると思う)(基準が謎だ)

野中柊氏のダリアとか、ドキドキしながら読んだ。今思えばかわいいものだ。

後宮小説なども読んで良いのかなと思いながら読んだ。


地元公立高校で初めて、司書さんという存在を校内に認識した。いつも白衣をまとった女性で、図書館以外にもいるんだなと思った。その学校では希望があればCDなども購入していた。

アングラっぽい写真集や当時走りだったライトノベルを一式入れてくれたりもした。(その後、メディアミックスされた各作品初版本が揃っていたため、数年後盗難にあったそうだ。嘆かわしいと同時に初版本に価値を見出す感覚がまだあるのだなと感じた)

同時に、遠野物語をはじめとする民俗学やら薔薇の名前やらを借りまくっていた。

学業に励む生徒にとっては、赤本がずらりと並んだ赤本専門の小部屋があるのも魅力だったかもしれない。

その頃は読んだなあというほどは読んでいないと個人的には思っている。

ただ、気になっていた本たちをするする入れてくださった司書さんには当時も今も感謝している。

森博嗣氏のシリーズもいくついれてもらっただろうか。講談社ノベルスがやたら充実していた。

お小遣いでは追いきれない本たちをあの時期に読めたことには感謝しかない。


うってかわって大学ではまあひどいものだった。

専門課程書籍もあまりない。

ちらほらある小説もだいぶ前で時が止まっている。

大型書籍比較的充実していたが、借りるには重いので閲覧のみとなる。

専門書も同じく時が止まっていた。

半地下で静かで独特の雰囲気が好きだったけれど、およそ学業のための空間ではなかった。

卒業後も利用できるということだったが、生憎地域図書館の方が便利であった。



今につながる本の思い出。

急接近したり、離れたりしつつも、どんな格好であれ図書室・図書館存在してくれればいいなと思う。

読む子は何をしても読むし、読まない子は読まない。

ひどいようだがそんなもんだよなと思う。

あるときブログ家族から勧められた本が という記事を見て、自分の家ではない習慣だなと思った。

家の中にある本は読みたいだけ読んだ。隔離されているような本も気になればこっそり読んだ。

教育機関にあったら驚かれるかもという本もリクエストして入れてもらえれば読んだ。

面白かった本を教えてと訊かれたら100冊くらい列挙できた(今はどうだろう?)

それだってきっかけは耳をすませばだ。(個人的気質はあるにせよ)

こういう本が読んでみたいなと思って書いたこともある。

作文はからきしだけど、幸か不幸かある程度蓄積があるので大学教員には高評価だったりもした。

もうちょっと器用だったら桜庭一樹氏のようにアウトプットにも使えたかもしれないが、そこに愛が足りなかった。

ルールのあるなか、大変苦しんでらっしゃる元増田さん越しに、学生時代、本を介してお世話になった司書さん司書教諭先生方には感謝を伝えたい。

制限あるなか、出会いをくださってありがとう

思えば、落ち込んで図書室にこもっていたような日もあったと思う。

期限通り返せなくてお手間を取らせたこともある。申し訳なかった。

それでも、「これです」とは挙げられないけれど、人生を形作る何かを図書から得たと思っている。

あの少しだけほこりっぽく、冬はむっと暖房が入った空間を懐かしく思う。

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