はてなキーワード: 耳をすませばとは
これを読んでというわけないじゃないが、最近(でもないが)ハッピーエンドとかバッドエンドとかがわからなくなった。
例えば、『秒速5センチメートル』とか、私はハッピーエンドだね~と思ったけれど、世の中では胸糞らしいし、『かぐや姫の物語』も私はすごい上級のハッピーエンドじゃん……!と感動していたら、ツイッターでものすごいバッドエンドって言っている人がいて驚いた。
というか、見る側にとっての、ハッピーエンドになるための目標スコアが高まりすぎていて、なんでもバッドエンド扱いにしすぎじゃないのか?という。
で、結局、思ったのは、私の思う"ハッピーエンド"ってハッピーどうこうよりただの私の"好きエンド"なんじゃないかってことだ。
物騒な言い方だが、私は人の死ぬ話が好きだ(スプラッタものとかではなく)。報われない話が好きだ。結ばれない恋の話が好きだ。
で、そういう要素があると、私的には"ハッピーエンド"になるのである。
逆に、たぶん世間的にハッピーエンドなんだろうなあと思っても、個人的に好きではない話とかももちろんある。そりゃ誰でもそうだろって話ではあるが。
例えば、『ゆりかごを揺らす手』とかは、ベビーシッターの金髪美人の思うままになって終わったらそれはそれで好きかもと思うし、『耳をすませば』も『秒速~』みたいにウダウダして何もないまま終わってたらもっと好きだった気がする。
ただの、アンチハッピーエンドなのかもしれないが、とにかく、個人個人でハッピーとかバッドとか変わる基準ではなく、これからは「私が好きなエンド」基準で生きていこうと思った。
「この漫画がすごい!」はもう飽きたんですよ。
一発ネタが限界だったんです。構造的に問題があるんですよ。何故なら、この漫画がすごい!が主観に基づいていればそれはもう単なるオナニーだし、この漫画すごい!を客観に基づいたものにしょうとすればそれはメジャー作品を再評価するだけのオナニーじゃないですか。もうね審査員がシコシコしてる音が聞こえてきますよ。ほら耳をすませば聞こえるでしょう。
じゃあどうすれば俺は満足なのかというね。この漫画がすごいと言われている理由がわからない!を選ぶべきなんです。でも今更ワンピースやハンターハンターを叩いてもそれはオナニーでしょう?セックスにはなりえませんよ。セックスにするにはリアルタイム性がいるんです。そこでその年ごとにやたらと評価されているけど何かおかしくね?って作品を選んでそれを評価するのが正しいのかを語り合うんですよ。
たとえば今年ですと「僕たちは勉強ができない」なんて中々のものですね。とはいえランキングだと9位ぐらいでしょうか。1位や2位に選ぶような作品はすぐには思いつかないものです。パっと思いつくようでは駄目なんです。ただのワンピース批判で終わってシコシコっとなるだけです。僕勉(僕たちは勉強ができないの一般的な通称。はがないと略されるのを狙ったはずの作者の思惑をぶち壊す辺りに漫画読みの陰湿さが現れてますね)はですねえ……何ていうか漫画として未熟なんですよ。未熟だからこその荒削りな面白さを評価している人も多いんでしょうが、むしろそれは未熟さを愛してしまっているんだと思うんです。漫画として面白すぎないことに安心感を覚えている層がいるんだと思うのですよ。稚拙さへの愛好。たとえばフェラチオはたどたどしい方が良いっていう気持ちわるい話ですね。そういう気持ちの悪い童貞的な、相手が垢抜けていないことに対するフェチズムによってこの漫画は支えられているわけです。同じジャンプだとヒロアカも似たような方向性ですよね。
おっとっと語りすぎました。あまり長く語ると長いというだけで読まれなくなってしまう。それはたとえばゴルゴ13やこち亀が長すぎて手に取られなくなってしまうようなあの現象です。今回はここら辺で終わりにします。いつかまた機会があったらもう少し先の話をしましょう。
小学一年生の時だったと思うが、通学路の途中で赤くて艶のある小さな巾着袋を拾った。今思うとサテンの生地でできたアクセサリーか何かの入っていたただの袋なのだが、その時は魔法の宝物の見つけたような気がして、こっそり持ち帰った。
「耳をすませば」の雫が猫を追いかけるうちに素敵なお店にたどり着いたような、特別な出来事の始まりだと思った。選ばれた人にだけ天から落ちてくる魔法の道具じゃないかとか色々想像を巡らせていたのだけど、そのうちビー玉をしまったりするようになった。
学校での出来事はほとんど覚えてないのに通学路の出来事の方が色々覚えているのはなぜだろう。
歩道橋を渡るよう親や先生に言われていたのに歩道橋の下の横断歩道もないところを渡る友達に付き合ってしまった時のドキドキ感とか。ある男子との仲を冷やかされてその男子を上靴入れで思いっきりぶん殴ってしまったこととか。水の無い用水路に出没する狸に給食のパンの残りをあげたこととか。
学校での出来事と言えば3年生の頃クラスメイトのA君がいないと先生が探し始め、教室の後ろのランドセル入れの棚にA君が入り込んでいたことは覚えている。発達障害の話を耳にする度に、彼は発達障害だったのだろうなぁと思い出す。
努めて何かの仲間の中に入ろうとしていた学生時代から何年もたつけれど
そもそも、学生時代のころも心の底から楽しんだことがあったろうか
誰かに好かれなければいけないという、
今日、かつて自分が背中を預けた友人から、1年ぶりの食事の誘いが来た時に
「面倒くさい」
そう思った自分がいた事に驚いている
友達ってなんだろう、
"理由もなく会えるのが友達で、理由がないと会わないのが知合いで、理由をつくって会いたくなるのが好きな人。"
なんてあるけれど
理由もなく会いたいと思う事もなければ、人と会う理由も考えつかないし、理由を作って会いたい人もない
人に会わずに一人で生きたい
一人で美しい自然を見つけた時に充実感を覚えて
自分一人で出来ることが増える喜びが
人と喜びを分かち合う事より大切で
人恋しさをもう何年も感じていない
大人になってもまだ、子供のようなわがままをいう人々にうんざりしているのか
自分のわがままに、うんざりしながら付き合ってもらうつもりもない
自分勝手にやるために、誰も関わらないところに行って、自分一人で味わいたい
人と会いたいと思う人はぜひ教えてほしい
また会いたいと思う仲間達には何を望んだら良いのか、そして何を望むのか
私は退屈したくない、退屈させたくない
もちろんあるよ。
デビュー作は荒削りで良かったのにそこから変にまとまっちゃってダメだとかね。
最初は売れなかったけど路線転換してヒットした作家のその初期作が好きだったのに、とかあるよね。
逆に売れ線描いてた頃は好きだったけど趣味に走ってダメになった、とかね。
他の作品はダメだけど、この作品だけ奇跡的に自分好みの要素を詰め込んでいる、みたいなパターンもある。
個人的にはガンダムSEED DESTINYなんかがその枠。
うーん、まあGODにコアなファンが付いてるのは分かるけど俺は違うし、他の大多数のラブライバーも違うと思うぞ…
たとえば「耳をすませば」が好きでも「近藤喜文の作品が好き」とは言わんよね。
最近観た映画だとBvSが好きなんだけど、じゃあザック・スナイダーが好きなのかと言われれば別に…
DCEUの雰囲気は全体的に好きだけどね。
ゲームだとか、まあ中にはプロデューサーが前に出てきてるのもあるけど、
ヒット作品、何かの賞を受賞してる作品、クリエイターがよく挙げている作品、ネームバリュー等々……要するに「よく語られてる作品」をリストアップしていたらあっという間に100を超えてしまったので、ちょっと手を加えて100作品に調整してみた。正直なところ100だと枠が全く足りない。映画だけで絞ってもだ。
オールタイムベストではないので、ここに載ってるから優れているとかそういう意図はないです。
男子は女の子の漫画とか見てはいけないし、語ってはいけない風潮があった。
セーラームーンもそうだ。
自分は当時エアガンとかいわゆるミリタリーのことにしか興味がなかったが、あずきちゃんだけは別だった。エアガンの話をできる友達はいたが、あずきちゃんの話をできる友達はいなかった。あずきちゃんを観たいし、話し相手も欲しい。
結局その願いはかなわず、高校生になり耳をすませばに出会ってそこからは耳をすませばになったが、相変わらずこの手の話ができる友達はできなかった。
そして大学生になり、科学者を目指し大学院にすすみ、博士課程まで行ったがついぞあずきちゃんや耳をすませばの話ができる相手は見つからなかった。
国際学会では日本好きな外国人のオタクもいるのでその話をしようかとおもったが変態扱いされるのを恐れ、言えなかった。
社会人になり、30超えたのでもうあずきちゃんの話はできない。下手すれば小学校・中学校あたりの同級生ならそれぐらいの子どもがいてもおかしくないぐらいだ。
どこだ。どこで俺は選択を間違えのだ。
地味めのシーンから始まって、ブワーッと世界が広がった時の快感は得難いものがあるのも確かだがな。
冒頭に見せ場のシーンを持ってきて作者の技量のほどを見せつけて、先のシーンを予告して読者の期待を煽るのと同時に、作品の方向性を示す重要性は増していると考えねばなるまい。
無論、アクションシーンでなければならないという事はない。
要は、先まで読めば面白くなるのに早めに見切りをつけてしまって結果的に損してしまう事を避け、
また逆に、合わない読者が先まで読んだ時に「期待したのと違って時間のムダだった」と思わせない効果が見込めるシーンであればいいのだ。
なお、ちょっと意味合いは違うが、耳をすませばのポスターみたいに本編の方向性と関係ないファンタジックな画で期待を煽るようなのは詐欺なので良くない。
ラストではなくてペジテのアスベルのセリフ「火と水に調和を 敵意はない」に集約されているのではないか
墓所の存在は『浄化した世界到来の暁に人類という種を生きながらえさせるための希望』といいながら、
墓所はカーバ神殿のようにも見えるが、実際のところ、原子力発電所のようにも見えなくもない。
ナウシカの連載が始まったのは1982年2月から幾度かの休載を挟んで1994年3月に完結しているが、
そのあいだ、1986年4月にはチェルノブイリの爆発事故が起きており、
1995年には毒にも薬にもならない『耳をすませば』と同時上映で『On Your Mark』が発表されている。
3.11の後は「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」の横断幕で物議を醸したが、
原子力発電所は火と水に調和をもたらさない。でも、自身はどうしようもなくミリタリオタクで