はてなキーワード: 婚姻とは
https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000257944.html
これを見て思うんだけど本来
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③晩婚化・少子化
……という流れを汲むべきなのに政府は何故か
男女ともに、婚姻関係は2人まで結べるってことにしたらいいんじゃない?
親2人なら世話できる子供は2人が限界って感じがするけど、親4人に子供5,6人なら何とかなる気がするよ
金持ち男性1人に女性が2人、みたいな夫婦が、女性2人とも専業主婦で子供4人とかはあり得そうだし
女1人がヒモ2人囲うパターンもあるかもしれないけど、これは少子化対策にはならないな
未婚男性のなかに、未婚女性が結婚する価値のある男性がいない、って状況が、一気に価値のある既婚男性も対象になって受け皿が倍になるからグッと結婚する女性増えると思う
あとさ、1人としか結婚できないから、この人でいいのかなって躊躇するんだよ
外れだったら2人目でいい人拾えばいいや、みたいになれば結婚も気軽になるよね
全て強制してるわけではないのに、婚姻に関わるのがこのように燃えるのは、常に女が結婚の被害者であるという先入観があるからだろう。
要は女の弱者男性に関わりたくないという、『負の性欲』を社会で支援しているわけである。
ここが少子化の勘所ではないだろうか。
障害者は迷惑をかけているので、迷惑料(バリュー)を払ってお互い気持ちよく付き合っていきたいという意識がある。
その上で発達障害が家庭をつくる中で(発達障害特有のコミュニケーションを家庭に持ち込み)子供を精神的に傷つけてしまう可能性がある以上発達障害は婚姻と子供を育てるべきではないように感じてしまう。(人権があるので自分にしか適用させませんが……)
そういうことを考えると渋くなるし、なんなら軽作業現場等(ある程度履歴書だけで入れる仕事)の人々はなんで家庭があったりするんだと勝手に憤りたくなる(その人々にもつらみはあるのはわかるが)。
それでも俺は筋を通して、家庭を作らないムーブをちゃんとやっていかないといけないのだろう。
幸せがわかりませんわね。
これ https://anond.hatelabo.jp/20220602000754 とか書いたの俺なんだけど、ここに書いたように今更婚姻数だけ増やしても同時に子供産め圧力を掛けまくらないと子供は増えない気がするんだよなあ。
法律で一夫多妻婚を認めているサウジだけでなく、日本でも時間差一夫多妻状態が認められるし、北欧でも生物学的には一夫多妻状態の婚外子が広く普及している。
理由は簡単で、そもそも魅力的な男性は魅力的な女性と比べて数が少ないから。
魅力を磨かない男性の努力不足もあるかもしれないけど、世界中で観察される現象なので、人類にとってそれが当然なのかもしれない。
限られた魅力ある男性を選びとるだけで、自然と一人の男性の所に複数の女性が群がる構図となる。
これがもし、一夫多妻婚を法律で認めている国なら、複数の女性皆が希望するパートナーと結ばれる。
しかし、一夫一妻婚を強制する国では、法律婚ができる女性は一人だけであり、残りの女性は時間差で空きが出るのを待つか、あくまで子どもの生物学的な父親になってもらうだけで良しとするしかない。
何ら魅力のない男性にも家族を持たせ、子供を増やそうとする近代軍国主義の発想で一夫一妻婚の制度ができたが、やはり不自然な制度はいつまでももたない。
魅力のない男性と無理にくっつけられるくらいなら、婚姻を選ばなくなる女性が急増している。
彼女たちは一夫多妻制度の元では婚姻を選び、一夫一妻制度の元では選ばない。
はい。
https://www.masshirona.red/entry/2018/09/25/230804
『日本には『上昇婚』なぞ(いうほど)ないだろうという話(3) 高学歴男性の視点がズレるわけ』
日本は(それなりに厳格な)階級・性役割分業社会としての側面を持つ。
その上で、日本は、同一の出身社会階級、あるいは学歴・職業などの共通の特徴を持つ者同士が婚姻する傾向が強い、同類婚社会である。
山田昌弘氏が定義したところの『上昇婚傾向』は、高度経済期のごく限られた時期、経済成長や第二次産業中心社会へのシフトが、婚姻行動に強いインセンティブを与えたことを説明するもので、日本における婚姻傾向を説明するのに普遍的な用法ではない。
実際には、女性が事務職(一般職)の場合を除外すると、同一の職業同士の婚姻が多く、高学歴者は高学歴者同士、低学歴者は低学歴者同士でカップリングされる傾向があり、格差拡大を招いている。
人が獣人になる。横アクションとしてはかなり面白い部類。意外とやり始めるとはまって続けてしまう。
アーケードではまり、メガドライブで発売されて速攻購入した。当時はこの系統のアクションは面白いものが多かった。主人公たちはなぜか薄着の戦士たちである。鎧着ろ。
ダンジョンが凄まじく見にくい。だが、個性的な敵とアニメーションは1989年としては斬新だった。ストーリーの舞台もまた心躍る環境だった。
PCでも遊んでいたが、メガドライブ版もプレイした。パッケージがとにかく渋く、米田仁士のイラストは大人向けという感じだった。
横アクションゲームだったはずなのに最終面はスターラスターみたいなシューティングになる。
今でもこれは名作3DダンジョンRPGだと思っている。結構アニメーションが凝っていて、ダンジョン内でもアニメーションがある。またキャラデザインも個性的でディズニーなんかにありそうなデザイン。
セガのおなじみソニック。ここから始まった。オープンワールドのソニックも楽しみである。内容はオーソドックスなアクションゲーム。
結婚システムが面白かった。茨の道の婚姻を選ぶか、テクニックが十分使える婚姻を選ぶかによって面倒臭さが変わる。歩行スピードに難がありテンポが悪い。ストーリーは面白い。
いろいろなコンシューマーに移植された作品。シビアさでいえば、MD版ラングリッサーが一番辛い。シミュレーションゲームとしては、かなり面白い。
レースに勝てるようになるまで時間がかかるゲーム。忍耐がないと辛い。勝てない人にはとことんクソゲー扱いされる。
内容は昭和のノリ。唯ちゃんが可愛いがロボットの顔面を殴って潰すというバイオレンスガール。なかなか面白いゲーム。
とピックアップしてみた。
まず適当なブスとかババアを努力して口説いて彼女としてキープして
どんどん彼女を増やして
最終的に一番いいなと思える女と結婚すれば
少子化が進んでおり「上の年齢階級ほど人口が多い」という傾向を持つ2022年現在、多くの女性から選ぶことができるのに、
その逆をやり(10代~30代をゲームとネットだけやって時間をドブに捨て、40代50代弱者男性になって焦って20代前半有職女性を急に狙いだす)、
10代~30代を怠けて時間をドブに捨てた40代50代余り物中年が、
なぜ20代前半女性(しかも可愛い・経済的自立している)に対して「イケる」と思えてしまうのか。
20~24歳女性は大人気なのに311万人(45~49歳男性の6割の人数)しかいない。
なぜこんなに減ったかというと、20~24歳は45~49歳の子供世代だからだ。
45~49歳のうち結婚して子供を作った人の割合が低かったから20~24歳はこれだけ減った。
余り物の45~49歳男性が、まともな20~24歳女性に選ばれるわけがない。父親の年齢だ。
しかも、35歳を過ぎた睾丸で生産された精子はメチル化が起きやすく、子供の発達障害(ASD)率を上げる。
理解婚(生活費)を求めているメンヘラ貧困層などではない、まともな個体なら、±3歳以内の同年代婚をする。
夫大幅年上の結婚の割合が激減し、同年代婚の割合が激増しているのは、統計に出ている。
※1943年の結婚は平均4.5歳男性年上→2010年の結婚は平均1.7歳男性年上と、年齢差が縮小。
※婚姻数全体に占める「同い年結婚」の割合は1970年10%→2015年21%と倍増。
※婚姻数全体に占める「±3歳婚」の割合は1970年50%→2015年80%。男性年上婚は半減した。
若い女性が同世代と結婚したがっている以上、余り物中年男性は、もう手遅れなのだ。
いい年して独身の奴って本当に好きになった相手にしかアプローチしてはいけないとか
好きな相手に一途になるのが美徳みたいな下らない倫理観に囚われてる奴が多い
そういう奴はストーカーになるか片思い引きずって高齢独身になってる
若い頃女遊びやヤリ捨てに精を出してた奴で、高齢になって独身の奴って見たことない
いい加減一途が美徳みたいな風潮は無くして女遊びやヤリ捨てを推奨する風潮に変わるべき
浮気やヤリ捨てをしてはいけないとか本当に好きな相手しか口説いてはいけないって思いこんでて彼女ができない奴は
浮気やヤリ捨てを解禁して付き合う気になれない女も口説いてヤリ捨てするようにすると
人生楽しくなってくる
結局清潔感とか努力する気になれないのは一人の女だけを大切にしなきゃいけないっていう倫理観があるからなんだよな
そういう倫理観があるとせっかく清潔感を磨いても一人の女としかヤれないからもったいなくて清潔感を磨く気なんてなくなる
女なんて片っ端からヤリ捨てしまくっていいっていうスタンスでいると清潔感を磨けるようになるからオススメ
清潔感を磨きつつ街コンやマッチングアプリで出会った女を片っ端からホテルに誘ってヤリ捨てしていくようにすると自然と清潔感を磨くのが習慣になる
幸せとは何だろな。
子を持つ世帯は増えない気がするけど、一世帯当たりの子供の数は増えそうな気はする。ただ、出生率の低下は婚姻率の低下と相関が高いそうなので、費用対効果は悪そうよね。
でも、子持ちにとって、学費は一番大きな問題で、私学理系出身の自分を再生産しようと思うと、子供二人だととんでもない学費になる。
それを踏まえて生きているので、「その年収(仕事))で何でここに住んでるの?」っていうところに住み、生活レベルも質素だ。
結局良い暮らしはできないのだけれど、金があるから妻子持ちになれたわけで、金は人生の選択肢を増やしてくれるものではあるかな。
でも、それは高学歴を再生産したいという前提の場合であって、高卒就職を再生産し続ける出身地の人々は、それはそれで幸せそうだ。
彼らにとって子供を大学に行かせることは選択肢になく、でもそれは俺が子供達を海外の大学までは行かせるつもりがないのと同じで、知らない世界の選択肢を持たないのは誰だってそうでしょ。
超エリート層は職人的生き方はどうやればいいのかわからないだろうし。
学費が高騰しすぎているのに、その学費に見合った収入にならないので苦しくなっている。
日本国内ではかなり高い年収に分類される稼ぎがあって子供好きだけど、それでも自分の子供達が自分と同じように結婚して子供を持つことが果たして幸せなのだろうかと疑問に思う。
自分と同じように旧世代の普通の価値観に従って、結婚して子を持ってほしいなと素直には思えない。
結婚して子供を持つことが当たり前の普通だと、あまり深く考えずにそこに進んで行くので出生率も保たれるわけだけど、それが当たり前ではなく、一旦立ち止まってしっかり考えて選択するものになると、子供を持つ事でのメリットが大きくならないと出生率は改善しないわな。
俺は子供ができて良かったと思ってる。趣味もないし仕事も嫌いだし。
幸せって何だろうな。
現在ネット上で私に対する告訴をちらつかせている人物は、その人物の元・妻であると私が称したと主張している。しかし、文章の修正の前も後も、私はそんなことは一言も書いていない。その点に関してだけは明確にしておく。
2022/05/30告訴をちらつかせている人物がいるが、私はその人物の元・妻ではない。繰り返しになるが、最初から私はそのように称していない。本来ならば、セクシャルハラスメントの被害者として、特定されたり好奇の目に晒されるような二次的被害を防ぐために個人情報を曖昧にして書いた。それなのに、告訴をちらつかせている人物からは「自分の元・妻ではないから、このセクシャルハラスメントの被害の話は虚偽」と言われ、私は非常に苦痛を強いられている。痴漢冤罪をピックアップすることで痴漢の被害者の声を掻き消そうとする人たちがいるが、それと同じことをセクシャルハラスメントの被害者に対して行っていると、告訴をちらつかせている人物には自覚して欲しい。
以下の話は、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
ーSLAPP訴訟を準備している人に対する注釈ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初に発表した時点では無かった「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、上のとおり書き加えることにした。後に続く部分でも同じ書き加えをした。この、たったの一文を挿入することが、私には耐え難い苦痛だった。私自身のハラスメント被害を無かったことと、皆の前で宣言しろと言われているような気持ちになったからだ。私は今、トイレに行って嘔吐してから、この部分を記している。結局、あの頃と同じく今の私も、保身のために自分の主張を引っ込めたことになる。
ーSLAPP訴訟を準備している人への注釈・終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
元・夫が、ある場所で「離婚したとはいえ、元・妻が傷つけられるのは許せない。何らかの対応を検討する」と言っていることを知った。この元・妻というのは、何を隠そう私のことだ。はてな匿名ダイアリーに書いているのだから、隠すも正体を明かすもないが。
「傷つけられる」と元・配偶者が言っているのは、かつて私がある人物から受けたセクハラについての情報が広まって、私が心無い言葉を浴びたり、中傷される状態を指しているようだ。
今になって「元・妻が傷つけられるのは許せない」と言い出すぐらいなら、何故あの頃、言ってくれなかったのか。そう思って、元・配偶者ながら、というか元・配偶者だからこそ余計に、私はゲンナリしている。
私にセクハラをした加害者は、元・夫の仕事上で付き合いがあり、仕事以外のプライベートな時間や場でも私たちと交流が有った、私たちよりも年長の男である。
加害者は、私にセクハラしただけでなく、そのことを仕事仲間などに自ら話したりもしていた。懺悔としてではない。愉快な話としてである。つまり、セクハラをされた時にだけでなく、その後にも継続的に、私は傷つけられ続けている状態に置かれていた。
セクハラされた時、私は「そういうことは止めて下さい」と加害者に対して言ったのだが、私の憤りや恐れや嫌悪の感情をまるで理解しようともせず、軽い口調で「ゴメンゴメン」みたいな感じで誤魔化されただけだった。今でも「もっと強い口調で言えば良かったのでは?」「いっそ殴ったり蹴ったり物を投げつければ良かったのでは?」「何故あの時、もっと適切な反撃ができなかったのだろう」と、自分自身に対して不甲斐無さを覚えて、自己嫌悪に陥ることが度々ある。
さらに私が苦しむ原因になったのは、その頃は婚姻関係にあった現在の元・夫が、私の側に立ってくれなかったことだ。
加害者から私がセクハラを受けたこと、それに対して私は憤りや恐れや嫌悪を感じたこと、加害者へは私に対する謝罪をするように要求して欲しいことを、その頃は夫であった彼に訴えた。それに対する彼の反応は「あの人も悪気があった訳ではない」とか「あの人は昔気質の人だから」とか「あの人は冗談のつもりだったのだから、怒るのも大人げない」とか、概ねそういった言葉だった。漫画『寄生獣』でパラサイトと会話する主人公・新一が、昆虫か何かと話している気分に陥る描写があったが、私も新一と同じような気分だった。つまり元・夫は、加害者の側の人間だった。だったという過去形ではなく、であるという現在形で言うべきだろうか。
会社勤めとか役所勤めの仕事などであればその組織に訴え出て処分を要望するとか、金銭や知識を持っていれば弁護士などに相談するとか、何かしら対処の仕方があったかもしれないが、私は上手いやり方を思いついたり実行したりすることは出来ず、そうこうしているうちに私たちは、元・夫と元・妻という関係になった。
あの頃、彼は「馬鹿馬鹿しい話だ」と言った。近頃の彼は「これまでは馬鹿馬鹿しい話だから取り合わずに放置していたが、いい加減、噂を広められて元・妻が傷つけられるのは許せない」と言っているようだ。私にとっては、あの頃も現在も、少しも馬鹿馬鹿しい話ではなかったのに。
私の元・夫が「馬鹿馬鹿しい話」として放置できなくなったのは、決して私が苦しんでいることが理由ではないことを、私は知っている。元・夫が黙っていられなくなったのは、加害者の男が批判されているからである。元・夫は、あの男のことが大好きなのだ。
最近では、何処の業界や職場でも大なり小なり、セクハラは良くないことであり、するべきではないし、セクハラをする人がいれば止めたり批判するべきであるという意識が浸透し始めた。私にセクハラをしたことを愉快な話として吹聴していた加害者の男と、私を救ってはくれなかった元・夫が関係している仕事の世界にも、少しは変化があった様子で、私に対するセクハラの話を愉快な話とは受け止めてはもらえなくなったと聞いている。
このため、加害者の男は「大袈裟に話して誤解を招いた」と言うようになったらしい。大袈裟?誤解?私にしたことを、そのまま本人が言い触らして回っていたのに、いったい何が大袈裟で何が誤解なのだろうか。
元・夫は、誰に対して、どんな対応をするつもりなのだろうか。私がされたセクハラの話を誰よりも他人に広めたのは、ほかならぬ加害者本人なのに。元・夫は、加害者を批判したり止めたりしてくれなかったのに。まさか、加害者を批判する人たちに対して「元・妻が傷つくから許せない。セクハラについて語るのを止めろ」と言うつもりなのだろうか。仮にそうだとしたら、それを何故あの頃、加害者に対して言わなかったのだろうか。元・妻である私を救おうとしなかったことが知れ渡ると、元・夫としては困るのだろうか。
セクハラの被害者が、セクハラの加害者に対する批判を食い止めるために、よりによって元・配偶者から利用されるという救いの無い境遇を知ってもらうために、理解してもらうために、自分の気持ちを吐き出すために、はてな匿名ダイアリーに書いた。
以上の話はフィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。最初に書いた時には、ここに「どっとはらい」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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このフィクションの日記に書かれた人間関係が、具体的に誰のことを指すのかに関して、はてブで推察と特定が試みられている。それに対する答えのようなものを記しておく。
以下もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
私は、人物特定に関する推察を肯定、否定のいずれもするつもりは無い。答えは無い。それが答えである。実在の人物・団体・事件には一切関わりはない。
そもそも特定が可能ならば、匿名ダイアリーに書いたりする必要は無く、私も現実の世界で対処しているはずだからだ。
一次的なセクハラが反復的に行われていれば、それを例えばボイスレコーダーで録音するなどして証拠を固めて私も反撃できただろうと思う。しかし、一次的なセクハラが突発的・単発的なものであった場合、被害者は驚きやパニックなど心理的な硬直状態に陥って、証拠固めなど実行できずに終わることが多い。たとえ複数回、継続的に行われるセクハラであっても、被害者が恐怖心で萎縮するなどして理性的に思考するのが困難な状態に陥り、やはり証拠固めをできないことは珍しくない。
私に対するセクハラを愉快な話として加害者が吹聴していたという、二次的な加害行為に関しては、その話を聞かされた人たちの記憶にも残っている。しかし、一次的な加害行為そのものに関する証拠が残されていない状態では、加害者が今になって主張する「大袈裟に話していただけで、事実ではない」という言葉を覆すのは、極めて困難だ。
二次的な加害行為だけに関して言えば、それ自体がセクハラなので、その被害を司法機関などに訴え出ることは理論的には可能かもしれない。しかし、それを仮に私が実行したとしても、やはり加害者は「大袈裟に話していただけで、事実ではない。しかし、たとえ事実ではなかったとしても、愉快な話として触れ回ったことは被害者を傷つけた。だから、そのこと(二次的な加害)については謝罪する」といった、一見すると謝罪に見えるが、肝心の一次的なセクハラ行為については否定する言葉を述べるという手法をとるだけであろう。
私が、何よりも加害者に認めて謝罪して欲しいのは、一次的なセクハラ行為についてなのだ。それなのに、加害者にとっての都合が良い主張を、それを覆す手段も持たないままに聞かされて、挙句の果てには「一次的なセクハラ行為については、認定が困難である」と公的に結論づけられるかもしれない。そう考えると私は、とても精神的に耐えられない。もっと悪い方向に想像を巡らせ、加害者が「むしろ自分の方こそ、セクハラしたと誤った情報を流されて苦しんだ被害者の立場だ」と、SLAPP訴訟などで私を攻撃してくるかもしれないとも思って恐怖すら覚えた。元・配偶者ですら助けにならなかったという、孤立感も私を動けなくした。
こうして私は、自分が受けた一次的なセクハラの被害を決して忘れたわけではないのに、無力感や恐怖感から口を閉ざすことを選ばざるを得なかった。私が口を閉ざしているから、どうせ何もできないと高を括って「大袈裟に話していただけ」と言い張ることで、加害者は乗り切ることにしたのだろう。元・配偶者から「セクハラと思われるようなことは無かったよね?」と誘導され、無力感や孤立感から沈黙することを選んだので、加害者が私のことを何もできない人間と値踏みしたのも無理はない。
加害者の男は、私に対するセクハラを無かったことだと言っている。つまり、私に対して行ったセクハラの話は、加害者の男にとってはフィクションというわけだ。私を登場人物にして作り上げた、馬鹿馬鹿しいフィクションだ。
ならば、と私も考えた。
私が私自身にとってのフィクションを作ったとしても、特に問題は無かろう。今度は私のターンなのだから、私の周囲の人物を登場人物として、馬鹿馬鹿しいフィクションを書いたというだけのことだ。柳美里の作品とは異なり、人物特定もできないように最低限の配慮もしてある。人物の特定ができないということは、私の受けたセクハラは日本の社会でありふれた話なのだ。それに、加害者とは異なり、私は私のフィクションを現実の周囲の人たちに言い触らしたりなどしていないのだから、私の配慮に少しは感謝してもらってもいいぐらいだ。
世の中のセクハラ加害者たちは、私たちのような被害者たちが沈黙しているからといって、セクハラした過去を全く無かったことにできるなどとは思わない方がいい。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』の中で、法的に罪に問えない人物に対して京極堂が呪いを掛ける描写があったが、このフィクションも呪いとして書いたようなものだ。呪いが在るのか無いのか私には分からないが。
以上もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。一つ目の追記を書いた時には、ここに「とっぴんぱらりのぷう」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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私は、自分が誰なのかも、文中に書いた登場人物が誰なのかも書いてはいない。私は誰それの元・妻ですとも書いてはいない。
では何故、私はフィクションと銘打って、人物を特定しない書き方をしたのか。それは、これが「普遍的な物語」だからだ。被害者となる人間、なった人間は、私だけではなく誰でもあり得るし、加害者もまた同じく誰でもあり得る。被害者の側に立たないで、加害者の側に立つことを選択する第三者も、同じく誰でもあり得る。だからこそ、読み手に「これは自分のことを書いているのでは」と自問自答して欲しくて、自省を促すために、そういう書き方をしたのだ。そういう意味でならば、読み手に「自分のこと」という思いを抱かせる狙いが有った。想像力がある読み手ならば、性別を入れ替えたりセクハラをパワハラに置き換えたりして、考えを深めてくれることだろうと淡い希望も抱いていた。
しかし、それを「これは自分のことを書いているに違いない。だから自分に対する名誉毀損だ」と決めつけられて、法的な措置をちらつかせることで圧殺しようとする人間が出てくるとまでは思いもよらなかった。それはまるで『ホテル・ルワンダ』の公開に対して「これは関東大震災の朝鮮人虐殺を描いていて、日本人を攻撃している。日本人に対する名誉毀損だ」と言うようなものではないか。
自分のことではないならば「この文章に書かれた人間の同類にならないように、自分は気をつけよう」と省みれば済むことではないか。
私が「ある人物の妻ではない」ことによって、何故「私がセクハラを受けた話」まで無かったことにされねばならないのか。ルワンダの虐殺被害者でなければ、虐殺の被害者ではないと言うつもりなのか。自分たち以外に、この社会を構成している人間が存在しないとでも思っているのか。
仮に、ある痴漢事件で冤罪により罪を問われている人間がいたとしても、それとは別の痴漢事件の被害者に対してまで、被害を訴えたり加害者を批判したとしていることを「これは冤罪で苦しんでいる自分のことを書いているに違いない」と決めつけて「痴漢の冤罪を作るのは止めろ」と言うのは、いくらなんでもおかしいではないか。
セクハラを含めたハラスメントの被害というものは、とても苦しい。それ自体が苦しい上に、顔や名前を出せば好奇の目に晒されて、さらに苦しむ。その一方で、その苦しみを誰か他人に分かってもらいたい、共感してもらいたいという思いも湧く。以前、はてな匿名ダイアリーでは「保育園落ちた、日本死ね!」という記事が書かれたということを知っていた。だから、ここでなら匿名を保ったままで、自分の辛い気持ちを吐き出して理解や共感を得られると思ったのだ。
それを今、私は「お前は自分の妻ではない。だから、お前のセクハラ被害の話は嘘に違いない。正体を暴く」と脅されている。理解や共感を示してくれる人ばかりではないだろうとは予測してはいたが、まさかSLAPP訴訟によって口を塞ごうとする人が出てくるとは思わなかった。
私は、私が救われるために、私自身の物語を書いた。私自身の人生や尊厳を、無かったことにされたくなかったから。セクハラだけではなく、ハラスメント全体を減らしたい、無くしたい気持ちがあったから。たとえ過去の自分は救われなかったとしても、未来の他の誰かが同じような苦しみを味わうことは防げるかもしれないと思ったから。
「この文章は自分のことを書いている。だから許せない」と言う人間は、私が私自身の話を書く行為について、許可や不許可を下す権限が有るのか。例えば「今、そんな文章を書かれると、自分が誤解を受けて困るから止めろ」とでも言うつもりなのか。では、私は、いつになれば声を上げることを許可されるのか。一年後か?五年後か?十年後か?その日は、やって来るのか?文章を修正し始めて理解したが、そんな日が来ることはなさそうである。
この文章を書いた人間である私が、ある特定の人間の妻ではないからという理由で、嘘つき呼ばわりされて、勝手に私の苦しみが無かったことにされるのは、極めて心外である。
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「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、苦渋の決断とはいえ書き加えたことで、私の文章からは普遍性が失われた。私の文章を読んだ人間の誰もが皆、セクハラを含めたハラスメントの問題を自分自身のこととして受け止めて欲しいという思いから書き始めてアップしたはずの文章だったのに、今の私は、一部の人間をこの問い掛けの対象からは除外しようとしている。とんだ腰砕けだ。私は、セクハラを無くしたいと言いながら、土壇場になって、我が身かわいさの保身に走ったのだ。このクソみたいな自分自身のことを許せない。私にはセクハラやハラスメントを無くすことはできそうにないと思い知った今、絶望しかない。