はてなキーワード: クラシックとは
③サークルの知人(世話好きのおじさん)
が異性を紹介してくれようとした。
なんて親切な人たちなんだろう!と大感激。
しかし、喜びも束の間。
①は、金曜の仕事のあとに合コンをセットしてくれた。私は朝、いつになくお洒落してそわそわと出勤したが、午後から急に熱と咳で合コンどころか仕事を早退。
②は、先生の主催するクラシックコンサートのあとに共演の奏者(爽やか系お坊ちゃま)を紹介してくれてる手はずだったが、私は最寄り駅まで来たところで急に頭痛と吐き気。動けなくなり、帰宅。
③は、ある人が主催する趣味絡みのイベントで、私のような人がタイプだという相手を紹介してくれるはずだった。このところ体調管理に気をつけていたので私は風邪を引かなかったが、相手が当日になりインフルエンザで急遽欠席。
私は呪われているのだろうか。
80年代 ゲーム好きで、ゲーム音楽が自然と好きになる。インストゥルメントつながりでクラシックも聴くようになる。邦楽は殆ど聴かない。
90年代 ↑と似ている、(avex系CD)テクノ/ハウス/ユーロビートを聴くようになる。MIDI全盛期で音楽作りもするように。
95年代 ↑と似ている、ハッピーハードコアをMP3で聴くようになる。MP3は日本ではまだ知られていない時代。
00年代 ↑と似ている、ダンス系/トランス/チップチューンも、このころ流行りだしたインターネットラジオ経由で聴くようになる。
05年代 ダンス系で良くカバーされるポップスも聴くようになる。
10年代 ↑と似ている、ダブステップ/エレクトロポップも、YouTubeなど動画サイトなど経由で聴くようになる。
40代後半のおっさんだけど、洋楽を聴き始めた当時(中学生、80年代前半)の日本は、
J-POPと呼ばれる前の歌謡曲と呼ばれる流行歌、それも若者には松田聖子を筆頭とする
アイドルの曲が全盛だった。
もうね、嫌になった。こんなくだらない音楽聴いてられるかと。
Music TVという音楽のビデオクリップ専門チャンネルがアメリカで放送を開始して、
なぜか日本でもUHF放送(千葉テレビ、テレビ神奈川)とかで放送されていたので
にマイケル・ジャクソンとか大流行。
イギリスのバンドも人気があり、Duran Duran ,Culture Clubなどとても流行った。
歌詞は歌詞カードを読んで翻訳しないと意味がわからない語学音痴なので
聴いてるだけなら頭に入らず聞き流すことができる。
じゃあクラシックでも同じじゃんと今なら思うが当時は全く興味もなく。
ていうか増田は何聴いとるん?
といっても作曲の話じゃない。なんて言えば良いんだ?
趣味で楽器を練習してるんだけど、教室にも行ってないし友達もいないし聞かせる人もいないし好きで好きで弾きたくて仕方ない曲もなくてどの曲も中途半裸。
そこそこ耳が良くてそこそこ弾けるもんだから歌える曲はすぐにソロでも弾き語りでも弾けるし、映画やCMの曲なんかも聞いたらすぐに弾けちゃうけど、でも完成しない。気に入ったところとか一発てイケてるアレンジができたフレーズだけちゃちゃっと弾いて終わり。曲の頭から終わりまで1曲ばっちり練習しようとするとどうしても途中で飽きちゃう。でもなにか完成させたい。でもその先は?それで飽きてるのかな。
やっぱ死ぬほど弾きたい曲がないのが致命的か。ロックもポップスもジャズもクラシックもアニソンも好きなんだ。情熱をくれ。
とりあえずBLUE GIANT読み始めてみたわ。めっちゃおもろいですね。
メガネでスーツの里山くんと、カジュアルな格好につんつん頭のズッケロ佐藤くん。
スタンダードでクラシックな漫才から、リズム芸が含まれたコントまで
彼らが目指すのは、昔ながらの誰かを貶めながらとる笑いではない。
かといって人を傷つけないことに配慮しまくった結果ぬるくなってしまった人肌の温度の芸でもない。
気のおけない友人たちとお酒を適度に飲みながらやる宴会みたいな雰囲気。
こんなにルールとコンプライアンスとマウンティングでがんじがらめになってしまった世の中にあって、
彼らの漫才を聞いている間は、何も気にせず笑えばいいのだと自然体でいられる。
何より本人たちが演ってて楽しそうで、なんかこう、癒やされる。
鳥取もいいところだ。
だからこそアルファロスの「ダイセン!」という大山PRギャグは流行ってほしい。
リズムよく「ダイセン!」と言いながら、頭の上で両腕を付け大きく大山を描くのである。
両手を上げると、人間なんだか元気とかやる気が出てくる。
一気にブレイクすると変なこじらせ方をしたり、忙しすぎてネタが作れなくなったりするので、
どうかどうか実力と愛ある芸人が余計な心配なく活躍できるエンターテイメント界になりますように!
メガネでスーツの里山くんと、カジュアルな格好につんつん頭のズッケロ佐藤くん。
スタンダードでクラシックな漫才から、リズム芸が含まれたコントまで
彼らが目指すのは、昔ながらの誰かを貶めながらとる笑いではない。
かといって人を傷つけないことに配慮しまくった結果ぬるくなってしまった人肌の温度の芸でもない。
気のおけない友人たちとお酒を適度に飲みながらやる宴会みたいな雰囲気。
こんなにルールとコンプライアンスとマウンティングでがんじがらめになってしまった世の中にあって、
彼らの漫才を聞いている間は、何も気にせず笑えばいいのだと自然体でいられる。
何より本人たちが演ってて楽しそうで、なんかこう、癒やされる。
鳥取もいいところだ。
だからこそアルファロスの「ダイセン!」という大山PRギャグは流行ってほしい。
リズムよく「ダイセン!」と言いながら、頭の上で両腕を付け大きく大山を描くのである。
両手を上げると、人間なんだか元気とかやる気が出てくる。
まず「今」を描いて、次に、描いた今をリフレインする中で「今」に含まれた未来への光を照らそうという、帯同の表明としてはクラシックなほどクラシックな構造だと思うけど、どうやら「今」を描くこと自体がたくさんの人のPTSDに触れる上に社会的なタブーでもあるらしくて多方面から不理解の表明が挙がるの、さすがに不憫。
(おかげでこの件では「下手くそ」とかみたいな表現論にはあまり触れられずそれはまあ別の機会に期待だな。もっと巧い人から見たら厨二的な「自分は正解側にいる」という稚拙な部分がある表現かもしれないけど、社会としては表現の裾野を広げていかないとらならない差し迫ってさえいる段階だと思うので、方法論はもっとつみ重ねられて欲しい。今まで通りの日本だとすると、少しの天才と凡人ばかりの裾野、みたいな構図に慣れすぎているわけだから、社会が巧くなるということが本当に可能かどうか分からないままだけれど。)
https://twitter.com/cristoforou/status/1080371407328927744?s=21
【追記2】まとめられてはいたけど、部分への反応が多くて作品全体を見失わないままで批判しているものがあまり多くない印象で、そういう意味では別ジャンル。
https://togetter.com/li/1304848
【追記3】
こちらが一番うまく言い表していた感じを受けたのでメモ(追記2の反応が多かった説明でもあり)。
https://twitter.com/masayachiba/status/1080737066730774531?s=21
どこでもいいから書きたかった。何か残るところにと、考えもせず書き殴っている。保険をかけておくと、文章を書くなんて何年もしていないししかも最後に書いたのは必死こいてやった卒論だ。私的で深夜テンションで酒も入っているしちょっと無気力な気分だし句読点は正直苦手だからきっと中々入ってこないけれど、それでも書きたかったのだ。そして文章の癖として自分に酔っているような文になる。よし、ここら辺でいいだろう。
今日は久しぶりに昔の曲を引っ張り出して聴いていた。ごちゃまぜのプレイリストから昔に聞いた曲が流れ、青春のようなものを思い起こしては消えてしまいたい欲に駆られていた。ああ好きだったなと曲を聴いては曲名とアーティスト名を検索してもいた。そのなかに、約3年前に亡くなった人がいた。
情報には疎いほうなので当時死んだということを知るのに時間がかかったが何ヶ月経っても新曲の情報が流れてこなかったり急激にカバーが多くなったりとうすうすは感じていたのだと思う。ああ、死んだのか。死ぬということにあまり感情が動かない、というよりその他諸々の感情も中々動かないのだが、実際その程度だった。皆が悲しんでいるのを見て、ああ人が死んだら悲しむのが正解なのかと葬式に参加しなければならないときはいつも感じていたしその時もそう感じていたのだと思う、多分。よく覚えていないや。酒を追加する。
そして今日、ツイッターで名前を検索してみたら多くの人が悲しんでいてさようならとありがとうが溢れていた。各々故人を悼んでいるのだろう、絵や歌詞が呟かれRTやいいねが沢山ついていた。一番多い言葉は「大好きでした」だ。本人最後のツイには多くのリプが来ていたが、今年のものは少なかった。死んだことを忘れたのか、それが日常になったのか。プロフィール画面から遡っていくと、確かにそこに存在し生きていた。
インターネットを検索すると、様々な情報がわかる。その信憑性はまちまちだが話半分で聞いているぶんには面白く、そして時々胸を穿つものが現れる。目を引いたのは「大人になりたくなかったのですね、だから大人になる前にと」
大人になりたくなかった、だから死んだのか。その真偽はどうでもいい。その文が目に入ったとき考えたのは「置いていかれた」だった。
実際には置いていかれるほどこんな一個人ましてやちょっとファンであったやつのことを置いていったとも思ってはいないだろう。ただ単に、大人になりたくなかった自分が絶望しただけだ。
何が言いたいのかわからない。まってろ酒を追加する。
言えるのは、それでちょっと悲しくなって自分は何をしているんだろうとこんなのうのうと死んでいないだけで食料を無駄にして電気を無駄にして物語を終わらせたくないからとゲームを積んでエンディングを見ず作り手の意思を反故にしてまた新しいゲームを買っては通帳の数値を気にして積んで自分が死んだらこの数字は銀行に吸収されるのだろうなとか中学生の時に親に自分の好きな曲を否定されたことを思い出して好きなことを話題に出しては否定されるか変にプレッシャーをかけてきては自分が間違っている気になってしまって親に好きなことについて話すこともなくなって文章を褒めてくれた教授は40も下の男にも女にもなりたくなかったあの子を性的対象と見ていたことを卒業してから言外に伝えることに成功したただの勘違い人間だったし中学生の時友人とみていいのか分からなかった人をフィクションとして書いてどうしてそんなことするのと失望されてひとりになって成人してもなお好きなことや煙草を吸っていることすら周りの人間に秘密にして死にたいという願いを込めて書いた文章は生きたがっているようにみえると言われ学年が上がることに不安になって受験も就職も推薦やらなんやらで周りの大人がなんとかしてくれて本当に自分は資源を無駄にするだけの人間なんだと、改めて思ったということだ。
希望を持ったこともある。二十歳になる前に死ぬと天啓のように思っていて近づくにつれて身辺整理というものをしてみたしどんどん清々しい気分にもなっていたが、後に残ったのは妙に片付かれた部屋と成長しきれない心だけだった。
死にたかった。誰の記憶にも残りたくなかった。でも自殺する勇気も行動力もなくて生命保険のこととか考えてしまって結局布団の中で静かに首に手を当て某児童書の「死ぬとは長い一日の終わりに眠りにつくようなものだ」という言葉に望みを抱いて朝が来ないように祈りながら眠りにつくしかなかった。そして結局ハッピーエンドの物語のように朝は来る。
夢の中では知らない誰かが何度も殺しに来てくれて血の流れる感触を覚えているのにそのまま眠りにつくことすら許されず眩しさに目を開けるしかないのだ。
最悪だ。
いっそ死ぬような病気だったのならと何度考えたことか。きっと物語のように生きたいと願いながら死ぬことができるのだろう。それが羨ましくて仕方がない。社会不適合者であるという点を除いては全くの健康体であるのがもったいない。もったいないおばけがでるぞ。
そうだ、この際気に入っているものを全て言ってしまおう。今は酒の力で無敵である。
ありとあらゆるものが好きだ。人間の感情にぶれぶれな所が好きだ。腐が好きだ。百合も好きだ。じれったいのも好きだし万人と同じくエロも好きだ。あれは感情の振れ幅が大きくて理解しやすい。推理小説は昔から好きだし切なく終わるものも好きだ。つまりメリバというやつだな。バッドエンドだって好きだし魔法学校の物語も好きだしジャンプも好きだ。悪魔や妖怪が出てくるものもすきだ。転生しちゃったりトリップも好きだ。アイドルや魔法少女もしゃべるぬいぐるみだってゴミを固め続けるロボットだってすきだ。国も刀も艦隊も人造人間もヒーローも好きだしグロも好きだ。Rー20なんて足りないくらいだし食人だって好きだ。いいぞ、もっとやれ状態である。ギャグも日常系もそれに人外も好きだ。異形頭は一等気に入っているし一つ目も多目も分け隔てなくすきだ。それにケモナーでもあると言っていい。ベースがきいているものが好きだ。前にしていた部活の影響か裏打ちが好きだ。ジャズもクラシックもすきだ。エレクトロニカも好きだしポップもきく。ボカロは青春と言ってもいいし洋楽は夢の塊だった。歌舞伎も能も好きだ。落語の入り込む時が一等好きだしミュージカルも好きだ。舞台に立つ喜びも知っているからか演劇も好きだ。格闘ゲームはゲーセンでもやるくらい好きだし音ゲーもゲーセンでやるくらい好きだ。パズルゲームも好きだし脱出ゲームなんてやり続けてるしRPGも好きだ。その影響かTRPGも好きだしものを作るゲームも好きだ。ほかにももっともっと好きだと言えなかったものが沢山ある。
つまり、何でも好きなのだ。何でも好きと言うことは何も好きではないことと同義だと考えてしまう。そして、何も好きなことがないということと同じなのだ。
お酒を追加したい。
あのアーティストでさえ死んだことが死んでいると言うことが日常になる日がくる。日々は誰かが死んで出来ている。乗り越えるとかそういうことじゃない、ただそうであるということを受け入れて日々を浪費していくしかない。他人を完全に理解することは難しいしきっと一生無理なことは分かっているが、それでも親に「ちょっとぽっちゃりしたね」と言われて密かに筋トレを始めるような自分とはおさらばしたいし、何か誇れるものがあれば死にたいと思うことは少なくなるのではと少し希望を持ってはいる。大人になんてなりたくなかったけれど過去に戻りたいかと言われれば戻りたくない。温室のような過去に戻りたくはないが砂漠に雪を降らすことも出来ないので、きっと死神の目には見えている寿命を全うするしかない。
3年前に亡くなったアーティストの曲を聴いて勝手に悲しくなってその感情をどうすることもできずにただ書き殴るしかできない酔っ払いの今までを消化できるようお祈りし、悼辞の言葉と代えさせていただきます。おーい!誰もおまえのことなんて覚えていないし考えてもいないからお前が死んでもただ数値が1減るだけだぞー!じゃあな。
すいません。日本語警察ですが、それは説明として少し不完全であると思います。
その説明なら、「ふざけろ」は「お前がふざけても私は意にも介しないぞ(平気だ)」という意味になるのでしょうか? あるいは「お前がふざけたら私はただではおかないぞ(脅し)」でしょうか? どちらにせよ「ふざけろっっ……!」と口走る福本マンガの主人公たちの雰囲気と整合しにくい気がします。(彼のマンガで「ふざけろっっ……!」という台詞は、たいてい弱者が口惜しまぎれに口走っているように思います。それなら「平静を装う」というのもおかしいですし「脅している」というのも状況に合いません。)
私個人の語感で言えば、「ふざけろ」「ふざけるな」どちらの言い方にも聞き覚えがある気がしております。その感覚で申し上げるのも恐縮なのですが、ご説明のような「~してみろよ(ただではおかないぞ)」の意味で使うとき「ふざけろ」は「ふ↑ざ↑け↑ろ↓」であり、福本マンガのようなケースでは「ふ↓ざ↓け↑ろ↑」と発音されるように思います(分かりにくくて済みません)。両者に込められたニュアンスはやはり異なっているのではないでしょうか。では、後者のように発音する場合、どういう意味が込められているのでしょうか。
この件については、まだ学者の方でも完全に説明されているわけではないことをお断りしておきます。
(たとえば
この論文では「(嘘と思われる発言をした相手に対して)嘘をつけ!」という事例をあげ、「反語命令」と呼ばれて、これが議論されてきた過程に触れています。)
したがって確固としたご説明を申し上げることはできません。とりあえず、「既に起きた事柄についての言及であり通常の命令文ではない」「起きてほしいことの反対の意を込めているので反語的な用法か」等と論じられてきているようです。しかしながら、これらの説明でも、私個人の語感を十分には説明してくれていないように感じます。
個人的には、このような例(たとえば「嘘をつけ」)の場合、あまり命令のニュアンスを感じないのです。どちらかと言えば「(お前は)嘘をついているよな」と確認するような意味と感じられますし、それは古語の係り結びの形から来て、そういう用法ができたのではないかと感じています。つまり、
「嘘をこそつけ(「つけ」は已然形)」=嘘をついているよな、嘘だと分かっているぞ、の意。
↓
ということで、個人的な語感としてはこちらの説明の方がしっくりきます。この説でいくなら、福本マンガの例「ふざけろ」も、「お前、ふざけているだろう。そんな理屈は通らないぞ」というニュアンスになり、これなら、欺かれようとする弱者が口惜し紛れに口走る台詞としてまだ理解できる気がします。つまり、これはややクラシックな言い回しであり、その語感にはかなり世代間の差があるのではないかと想像されます。
なお、同様の事例として、愚かな発言をした人間に対する軽い罵倒語「馬鹿言え(a)」があります。これも、「馬鹿(を言うなら休み休み)言え(b)」からの連想で、(a)に仮定の意味を読み取る向きがあるようですが、(a)の意味するところを率直に考えるなら「お前の言っているのは馬鹿な話だ」「お前は馬鹿を言っているよな」という断定であって、(b)とは少し異なるものだと思います。
BS258 Dlife (月) 21:00 (金) 24:00で放送してるドラマなんですけど。
映画「シャーロック・ホームズ」のクリエイターが贈る、良質なミステリードラマ!というのがおススメ文句らしいです。
私はシャーロック・ホームズの方観てないんでよくわかりませんけど。
主人公のDr.モーガンは不老不死になって200年くらい生きています、外見は30代くらい。
DlifeのHPでは親友と紹介されてるエイブは、孤児だったのですがモーガンに引き取ってもらって現在も生活を共にしています。
エイブは60代くらい?
見た目は逆転してるけど、まあ二人の関係は親子ですね。
この!!見た目逆転親子の関係が!!いいんですよ!!
血のつながりはないけど、その辺に関する鬱屈みたいなのはあんまない感じですね、アメリカドラマだから?
この親子がお互いを心配したり、昔のことをほじくりかえしてまだ怒ってるから!!ってなったり、
ジェネレーションギャップとか趣味の違いですれ違ったりしながらも歩み寄ったりするのが、もうすごくいいの!!
子供の立場でありながら、自分の方が先に死んでしまうであろうことを考えてモーガンのことを心配するエイブとか。
歴史に残る野球の試合を、モーガンの仕事のせいで見られなかったことを未だに根に持って話しながら思い出して怒りだしてしまうエイブ。
ピアノが弾けるモーガンが、幼いエイブにクラシックを指南しようとするも、ジャズに傾倒してしまったエイブ。
親子の間には音楽のへだたりができるが、関わった事件をきっかけにして、長い時を経てジャズに興味をもったモーガンはエイブに指南を頼む。
おっさん&おっさんがさ~~、二人でぎゅうぎゅうになってピアノの前に並んでんのとか、心温まらずにはいられないでしょ~~~?
ほぼ毎話、親子エピソードはさんできますので、このドラマのテーマといっても過言ではないです。
シーズン2とかに続いていかないらしいので、さくっと観終わりますよ!
不老不死モノとか親子愛モノがお好きな人にぜひ観て頂きたい!!
そんなこみいった筋はないので途中参加でも楽しめる!
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065398724573179905
昨日の件。「ミッキー(クラシック・ミッキー)は日本では著作権切れなのか」というお尋ねがあったが、これにはいくつか説がある。
まず、①「既に日本ではPD」説で、映画公開の1928年に、以前の映画の保護期間である「公表後50年プラス戦時加算」で1989年には切れた、という神をも恐れぬ意見^^;→
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065399465526214656
次いで、映画の著作物ではなく当初のミッキー原画の保護として考えつつ、②「その著作名義はディズニー社なので、映画と同様に既に著作権消滅」説。(①②とも旧著作権法を加味してもPDの結論は恐らく変わらず。)→
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065400827836166144
③「ミッキー原画の著作者はウォルトなのでその死後50年プラス戦時加算で、2027年に切れる予定だったが今回の延長で更に20年」説。④「原画の著作者は相棒のアイワークスなので死後50年プラス戦時加算だと2032年で、やはり今回の延長で当分切れない」説、など。さあ、どれを取るか^^
クラシック・ミッキーの著作権は日本ではいつまで有効か。次の通りらしい。
3.2047年に切れる。
4.2032年に切れる。
なお、仮に商標として登録されても、商標権では著作権を延期したり、切れた著作権を復活させる効果は無い。商標権は、「商標」としての役割を持った使い方にしか権利が及ばない(商標的使用論参照)。
https://www.kottolaw.com/column/000042.html
つまりは、保護期間が切れて新訳ブームを起こした『星の王子さま』と同じ原則が働くのだ。商標として主張したところで、一度切れた著作権を復活させたり、無限に延命させる効果は、当然ない。
こんな意見もあった。
https://twitter.com/eggmanpat/status/1065423525689737216
ディズニーに日本国内での実施許諾を願い出て対価を聞けば、少なくともディスニー側の見解はわかるのではありませんか? 著作権が切れているとの認識であれば対価は要求しないと思いますが。
当事者の見解は分かるので、それも一つのアイデアだ。しかし、パブリックドメインに対して金のやり取りをするおかしなケースもあるらしい。ディズニーがそうだとは言わないが。
https://www.kottolaw.com/column/000042.html
しかし日本では、時に延命できてしまうのである。一見「知財権のような」もっともらしい権利主張に出くわすと、特にその者が欧米の権利者で複雑そうな警告表示をしていたり、強い後ろ盾があったりすると、とりあえず権利があるかのように許可を申請し、高額な使用料すら払う。ライセンス契約にはしばしば、こちらを将来まで拘束するような条件が記載されている。ライセンスを受けたという前例が既成事実化して、自分たち自身をしばる不思議な業界秩序ができあがる。
このサイトみれば全ての情報が載っている!みたいなサイトないじゃない。
東京 美術館 で検索すれば今やってる情報はでてくるんだけど、通知することもできないし、RSSも使えないし。
Twitterなりのアカウントじゃ情報を見逃す場合もあるだろうし。
趣味があまりないので、美術館とか舞台とかクラシックコンサートとかジャズのライブとかシルクドソレイユとか少しだけでも体験しようかなと思ったんだけど、
つーか、結構値段するのなー美術館もクラシック、舞台なり演劇とかも普通に一回一万二万飛んで行くのね。
新しいコンサートなり展示なり舞台の情報が入ったら通知してくれたり、たとえば安めの舞台をたくさん見に行っていたらあなたにおすすめの舞台はこれですって通知くれたり。
通知くれるなら、Twitterでもアプリの通知でもメールで通知でもなんでもいいんだけど、毎度毎度能動的に情報を集めなくても受動的に情報を取れる方法があれば知りたい。