はてなキーワード: 論述とは
流石司法試験の問題は、ゴチャゴチャに絡み合った問題を扱いつつも
http://www.moj.go.jp/content/000123137.pdf
つーか、この民事の論述なら、大体の人が
「あー大体知ってるけど詳しくはわかんねー」くらいに知識あるだろ。
供託しとくか、せめて本人が妥当と思ってる金額だけでも払っとけば良かったのに
負けるなーこれ」くらいはわかるだろ。
文章を書くのがめちゃくちゃ遅くて、授業後に400字のコメペ書くのに1時間以上かかったりする。(オンライン提出の場合)
レポート2枚に丸3日くらいかかるし、教場テストで長文の論述が出た日には大抵最後まで書ききれなくて絶望する。
(予告されてたら下書きをして挑むようにしている)
大量にESを書いた就活を経てちょっとはマシになったがまだまだ遅い。
タイピングはかなり早いほうだし、文字を書くのが遅いわけではない。
まず、書くことが見つけるまでにやたら時間がかかる。
メモやマインドマップをぐちゃぐちゃ書いて話の筋道を見つけていく過程は楽しいけど、
書いた後も構成や表現に違和感があることが多いから推敲しまくっている。
パパーっと長文を書ける人が本当に羨ましい。
ちなみにこれを書くのには20分くらいかかった。
★よく「鯖江はメガネの街」「燕は食器の街」「今治はタオルの街」という表現がなされる。
例えば、鯖江市で、メガネ製造業(含下請)に従事する勤労者というのは、
「市内全勤労者のせいぜい1~2割程度」でしかないが、それでも十分「眼鏡の街」なのである。
★では、鯖江市の他の勤労者は何をしているのか?
市内の勤労者(眼鏡産業勤労者+それ以外)のための小売業だったり、飲食業だったり、食品加工業だったり、
建設業だったり、郵便局員だったり、公務員だったり、教師だったり、警察官だったり・・・。
そういう産業で、8~9割が占められている。
★でも、鯖江市の8~9割の勤労者は、根っこのところでは、鯖江の眼鏡産業に依存している。
「眼鏡産業が鯖江市以外の日本からカネを稼ぎ、それで鯖江市内の他の産業に回している」構図。
「農業県」(例:宮崎県)でも、県内GDPに農業が占める割合は、せいぜい1割。
「農業はどうせ宮崎県の1割のGDPしか占めていないんだから、農業がTPPで壊滅しても宮崎の9割は生き残る」
とうそぶく
★こういう経済評論家は、
「地方において基幹産業は全勤労者の1~2割だが、そのおかげで他の8~9割の経済が回っている」
先述の「鯖江の眼鏡産業」「宮崎県の農業」みたいな役割を担うようになりつつある。
地方圏においては、「日本政府(≒都市圏)からの年金支給は、立派な『経済のエンジン』になりつつある。」
★さらに、年金受給者が介護を受けたり、医療サービスを受けると、
日本政府(=都市圏)から介護報酬・医療報酬が地方に支出される。
これによって、介護報酬・医療報酬で食べていく若者(介護士・医師・看護師・薬剤師・事務員)が
「今後、都市部では超高齢化が進行する一方で、地方では高齢者が逝去して少なくなっていく」
「となると、今後折角地方に存立している介護産業医療産業が、都市部に移動してしまう」
★先ほどの「1割の基幹産業が、9割の他産業を支えている」理論でいけば、
「介護産業・医療産業が、高齢者の逝去で失われてしまう地方」は、
「一気に他の9割の産業も崩壊し、地域崩壊する」というロジックになる。
「さすがは増田氏」と感心する一方、
「1割の基幹産業が他の9割を支えている、というロジックを理解できる人は世間に少ないだろうから、
果たして増田氏の論述は、どこまで世間に理解されるかな?」と心配にも感じた。
試験の攻略方法は色々あるが、その中で自分が最も嫌いなのは過去問の活用だったりする。
これ、受験勉強ならまだ諦めがつくが、仕事に関係する資格試験にまで持ち出されると、それだけでもう辟易してしまう。
とはいえ、論述式かつ実際の仕事で直面しそうな問題を解く、即ち問題文や図表から当たりを付け、それを言語化するような問題はさほど苦にならない。
嫌なのは重箱の隅をつつく的な、広範な知識を問う問題で、しかもマークシート方式とかの場合。
普通に正攻法で挑んだらとても網羅しきれないので、極端な話、過去問とその正解の紐付けだけを暗記するのが最も効率良いのは、頭では理解している。
「言語化は得意」といったそばから言うのも何だが、上手く言い表せないけど反射的に拒絶感があるというか、どうしても「なんでこんなこと覚えなきゃなんねーの、バカバカしい」というのが先に立ってしまう感じ。
それに、そんな暗記前提でやり過ごすみたいなテクニックを心得ていることが、果たしてその資格に必要な能力を問うていることになるのか?という疑問もあったり。
『咲-Saki-』界隈からホモフォビアをなくそう - Danas je lep dan.
僕は自分のブログにさえ自分がゲイであることを書けないヘタレなゲイで、カジュアルなホモフォビックな言動には本当に悩まされいて、見るたびにされるたびに「つらいなぁ」「もぅマヂ無理。アンフォローしょ・・・/エンきろ・・・」ぐらいな生き方をしています。それやめてよって言えない、うまく伝える自信がないので、見過ごしてきた。そしたら今回のid:Mukkeさんの記事があって、ホモフォビアを「ネタ」であるとしてスルーしてはいけないって丁寧に論述していて、とても驚きました。なにに驚いたかって恐らくLGBT当事者ではないMukkeさんが、『咲-Saki-』という作品に限った話をしているのに本当に丁寧になぜダメか、どうしていくべきかを書いていて、この問題に関することを過不足無く書かれていて、なんというか助かったんですね。
LGBT当事者としてこのような記事を自分が書くべきだったと思わずにはいられないくらい良い記事なのですが、一方で当事者としては色んなエピソードを盛り込みすぎてこんなにうまくまとまった記事にならないと思うんです。本当に僕は豆腐メンタルなので、腐女子がホモってツイートするのを見てうわって傷つくし、僕の言動がオネェっぽいみたいなからかいかたをしてくる人がいた日には1週間ぐらいくらーい顔して、「偉くなったらあいつからの仕事絶対断ってやる」みたいなくらーい発想を温めながら傷が癒えるのを待ちます。ほぼ初対面の人間に「君、彼氏いるの?笑」みたいなことを聞かれた日には、「えー、なんでそんなこと聞くんですかぁ?セクハラですよ〜笑(たとえいたとして、誰がお前のような無神経な人間に教えるか!死ね!!)」ってなりますし。・・・とまぁ、こんな感じになってしまうので、今回の記事で救われました。ありがとうございます。
出来たら恩返しをしたいのですが、他のマイノリティが似たような被害にあった時にそれは駄目って言えるようになることだと思うので精進していきたい所存です。
あ、増田だったらLGBT関係のこと書いたことありました。割と喧嘩腰ですね。
@**********様
以前の人権規定の私人間効力について、思ったことを書きます。(メールやツイッターだとアレだし、他にいい手段を思いつかないので、ここを使う次第です。)
初めにお断りしておくと、僕はことの発端となったその本(図書館学に関する本?)を読んでいません。
また、学がないので、憲法学の体系や諸学説の展開を十分踏まえた上での論述ができていません。
完全に自己満足のため、頼まれてもいないのに、自分の思ったことを適当に書いたものですので、当然スルーしていただいて結構ですが、
もし、気が向いたら、的外れであったり、誤りがあったりする点などについて、ご指摘いただけるとご幸甚です。
以下、本題
結論から言うと、
(よく聞く言葉である割に、実は、定義がきちんと定まっておらず、話者によって使い方がバラバラであり、時には話者自身も自分が何を意味するものとしてその言葉を使っているのか分かっていないような言葉)
「人権」と聞けば、まずは、憲法的な意味での「人権」を思い浮かべますが、
そうでない人達は、社会規範上の「個人は人格的に尊重されるべきという前提に立った場合に当然にその個人に認められる権利」くらいに思っているんじゃないかな、
という感触を持っています。
しかし、彼らの中でも、具体的にどんな場合に保障されるどんな権利なのかという話になると、人によって言うことバラバラで、
その原因として、「それが権利とされる根拠」「憲法との関係性についての考え方」「権利としての保護の強度」などについての考え方の違いが背景にあるじゃないか、と考えます。
(2)そういう権利が認められるべきだ、という社会的合意がある
(3)社会政策として、そういうことにした方がより良い社会になるので、そういうことにしておくべきである(思想家的確信犯)
彼らは高校の地歴・公民で「人権」なる概念に触れますし、まあ、こんなもんじゃないかと。
・(1)(2)の立場だと
(ア) 憲法の規定は上記の自然権または社会的合意を単に明文化したものに過ぎない
(ア-2)上記自然権・社会的合意は素晴らしいものなので、当然、憲法か法律かで明文化されていないはずがない。
(イ) 憲法の規定(およびそれについての裁判所の解釈)はどのような自然権・社会的合意があるのかということの間接的な証拠である
(ウ) 日本国憲法は国家の在り方だけでなく社会の在り方をも定めるものであり、社会的合意そのものである(直接適用説?)
くらいでしょうか
・(3)の立場だと
(エ)偉い人が考えてつくった憲法にもそう書いてある(or賢い人である裁判官もそう言っている) → だから、自分の政策提案は正しい
という感じなのかなぁ、と。まあ、(ア)~(ウ)もありうるかもなぁ。
・彼らの統一見解
(あ)社会のある成員は別の成員の「人権」を侵害してはならないし、第三者はそれに加担するべきではない。
(い)だから、人権侵害にあたる行為は全て禁止するべきであり、侵害したものは必ず法的制裁を受けるべきである。
(う)法律のことはよく知らないし、法的制裁云々はよく分からないけど、社会的な非難は受けるべきorはず。
(え)その他
行政官としては法治主義の建前から法実証主義的な立場を取らざるを得ず、
行政が他人の権利・利益を制限・侵害する根拠として別の人の「人権」を持ち出す場合においては、
その「人権」は日本国憲法上保障されているものとして解釈できる範囲を越えてはいけないのではないか。
但し、勿論、他人の権利・利益の侵害とならない範囲で社会規範としての「人権」を尊重する方法がないか、十分、意を用いるべきである、と考える。
また、それ以外の場合では、社会的規範としての「人権」の尊重は心にとめておきながら、施策を進めていくべきである。
(が、そもそも、別に「人権」とかそういう話ではなく、法規範だけでなく社会規範にも従うことを心がけるべきであるという話に過ぎない。)
○一個人として思うこと
(3)みたいな「僕が考えたすごい人権」みたいなものに付き合わされるのは勘弁してほしい、と思ってます。
人は本来自由なのですから(というか自由じゃないと不満を持つ生き物なのですから)、その自由の制限は最小限であるべきです。
「○○した方がいい」というマナー・社会道徳のレベルで済む話まで、無理に「人権」という概念に取り込んで、それを「守るべき」という価値観を押し付けたり、法的に強制することには反対です。
また、マナー・社会道徳を越えて、法的保護に値する権利と言えるものであっても、「どんな場合でも他人の言動を縛るための根拠として使えるもの」とすることにも反対です。
まあ、結局、みんな「人権」という言葉をよく分からないまま使いすぎ。
もっと、意味内容を限定的にしてくれないと、聞いている方が訳わかめ。
少なくとも「基本的人権」なんて言葉は憲法上の意味に限定して、それ以外のものは別の言葉で説明してくれた方が議論が捗るのに。
(多分、意図的に混同している人もいるんだろうな、とも)
いや、まさに、アメリカ政府が誤った判断をした時はまずは
というのは、正しい見解だと思うぞ。
その理論は 論理的に合法的に選挙によってアメリカを制御する事が大前提であるという、アメリカの大前提が抜けている。
当然 アメリカ国民がアメリカ政府に対して武力を行使していいというのは、あらゆる理性的な手段を行使したあとに、それでも、アメリカ政府が誤っていると、全アメリカ国民が判断するなら武力を持ってでも抵抗する。
というのが、アメリカの考え方だろ?
たとえば、言い方を変えれば。政府が国民の権利を停止し、議会を停止し、独裁体制を宣言した場合、国民はどうすればいいんだ?という議論と同じだ。
議会が停止されない限り、国民は議会を通じて政府と対話するのが、法治国家の常道だ。
ただし、政府が国民の権利を停止し、議会を停止し、独裁体制を宣言した場合、つまり、先に国家が国民に対して武力を行使した場合はこの限りではないといっているのだが?
それに これは、あくまでもディベートであり、例だ。本論は 日本が封建制度かどうかなのだから、日本が封建制度ではないと論述してくれ。
アメリカに対して銃社会どうのこうのというやつはいない。増田が言ったから反論したに過ぎぬ。それは議論がそれすぎる。
女の話に論理?が乏しいのはもう諦めたけど
話に構成というかオチもないのは勘弁して欲しい。
せめて喋りだす前に何の話かぐらいは言って欲しい。
話のアウトラインが欲しい。
じゃないと「あわせるための相槌」を打つのすら難しくて苦痛だ。
最近ガキの相手する機会があるんだけど
ガキのほうが結論述べてから喋り始める気がする。男でも女でも。
「何についての話題で」「自分はそれについてどう思っておるか」ぐらいのザックリした情報は最初に示される。
女の子も「ねーねー〇〇ってさー」みたいに最初に自分の関心の中心をはっきり言う。
つまり大人の女のあの聞くに堪えない、
だらだらだらだらとなかなか主題の見えない喋り方は
後天的に身につけられてる可能性が高い。
特に文系と理系を融合したような研究科ではそれはひどい有様です。文系でも理系でも中途半端な人材が集まります。ロンダ目的の学生のいいターゲットです。入試も、文理双方に配慮するので、問題のレベルが下がります。
元増田が言う東大の文系と理系を融合したような研究科を少し前に修了した人が通りますよ。
・コースによってバラつきはあるが、各コース10~30人くらいが修士に入学。
・同期は学部卒3割、社会人3割、留学生3割(中国・韓国・台湾等アジア系が多い)、その他1割くらい。
・入試倍率は毎年3~5倍。文系寄りコースの方が倍率高めの傾向。
昨夜、おとなしく地に座している鳥を発見した。体のどこかしかを負傷したらしく、上手く飛べなくなっているようだった。特に気にする必要も無いし、そのまま放っておいても問題なかったのだが恐らくの垂れ死ぬのだろうと思い、気まぐれで連れ帰ることにした。動機としては、私の心に内在する少量の善意や同情なる心理的情動機能がものが作用した為だろう。半日程度世話を焼いてみたが、どうやら餌を食べられないようで、何を与えても口に入らない。このままでは外でも中でも関係無く死ぬと判断し、結局野に放して自由にさせてやることにした。飼育が困難なのも理由の一つではあったが、何より鳥自身が外に出たがっていたことが最大の理由となった。やはり空を飛び、空を愛する存在にとって建築物のような閉鎖的な空間は息苦しく感じるのだろう。この鳥の行動を見た時、私は判断を誤ったと感じた。そもそも動物を保護しようとする行為自体、偽善行為なのである。普段我々は鳥はもちろん、牛や豚の命を殺し、料理の材料として扱っている。それは、我々にとって生き物ではあるが、食べ物としても認識しているからだ。何かを食べる時、その食べられる物質に命が宿っている場合は、その命を殺傷しなければならない。人はこうした殺伐とした生存的事情から、生き延びるために生物の命を原始時代から狩り続けてきた。命を弄ぶ魔の手は陸上の生物だけでは飽き足らず、海上の生物の命まで奪い、無惨に横たわった肉を調理し、欲の限り貪ろうとする。猟師は自らの殺傷行為を職業として正当化し、身を隠しながら己の飢餓を満たしてくれる野生の動物を虎視眈々と付け狙う。漁師は海上に捕獲用の網というトラップを張り巡らし、獲物が引っ掛かって人間の為の供物と成り果てることを満面の笑みで待ち構えている。動物園では野生から拉致してきた動物を見世物として扱い、サーカスでは人間を喜ばせるために動物自身の意志とは無関心に芸を仕込み、ペットショップでは金銭的価値を付加し、奴隷扱いする。このような半ば常識とされている事態を直視すれば、動物を保護するということが如何に欺瞞に満ちたものであるかは周知の事実であろう。まして動物愛護など所詮個人的な自己満足である。鯨を保護し、鮪を保護しない愛護団体にどれほどの善意が存在するのだろうか。そんなものは個人的劣情に基づいた偽善だと気付く筈である。ひとたび鯨が致死性の高い病原菌に感染すれば、愛護団体は彼らの愛する鯨達を鳥インフルエンザにかかった鶏の如く、容赦無く殺処分し捨てるだろう。まして愛護する対象が百獣の王とまで呼称されているライオンともなれば、恐怖に支配されてムツゴロウでもない限り近寄ることすら困難だろう。利己的な彼らの心に愛などという高尚な成分は含まれていない。愛という概念は常に利他的、自己犠牲的であり、決して個人的欲求のみを満足させるものではない。特定の動物を愛し、保護しようとする彼らの行為はまさに個人的欲求が反映された結果であろう。愛とは、生きとし生ける全生物に反映されるファクターでなければならない。人は、偽愛をもって動物の命を弄んでいるのである。この観点で進めると、私の行為も所詮は偽善ということになる。結論として私は判断を誤った、ということだ。全てではないかも知れないが、人間が語る愛とは、大抵が自身の身の安全保障が約束された、ご都合主義に則ったものだと言えるのではないか。現実に存在する人間の心は、ドラマや映画のように美化できるものではない。しかし、「やらない偽善よりやる偽善」ということわざが存在するように、時と場合によっては同情に駆られて衝動的な行動を形成することもあるし、何より人の善意が全て偽善だと一蹴するのも暴論だろう。それでは救われないし、そうした偽善で命が救われるのも確かである。従って全否定するスタンスまでは取れないが、「善意が如何なる成分で構成されているか」を吟味しようとする姿勢ぐらいは覚えておきたいものである。この論述は非常に理想的である。現実的でもなければ実存的でもない。この文章はただ自身の体験を交えて、安定を求めて嘘や欺瞞をバラ蒔きたがる人間の心理という厄介なものに少々メスを入れてみただけである。
そろそろ大学も始まるころ。
新入生勧誘活動の時期においては、なかには履修相談をやるサークルもある。
私は勉強のことくらいしか助言もなにもできないんで、とりあえずここに履修相談の草稿のようなものを。
理系のおはなしもいろいろ聞いてはいるけれど、私自身は文系私大生。
とくに1年生の前期くらいはまじめにやっておいたほうがいい。
手の抜き方を誤ると進級等々にかかわるので。
ゼミナールがある場合、GPAなどの成績評価を用いるところもあるので、そのあたりも念頭おいておく。
勉強会を開くなら、ちゃんと講義に出ていたひと人、頭の切れる人とやるべき。
新歓期の履修相談では、楽な講義を紹介することも多々ある。それはそれで悪くないのかもしれない。
個人的には、興味の持てる講義を受けたほうがいい。
試験が難しいと噂されていても、面白ければ講義に集中できて、結果良い成績を得られたりする。
単位の取得が楽でも、講義そのものがつまらないとサボることになる。もともとサボるつもりなら問題ない。
この先生の下で指導を受けてためになるか?楽しいか?面白いか?よく考える。
決めて入ったあとは、自分の選んだゼミがいちばん、と思いこむ…
もちろん文献資料にあたらなければならないので読む力も必要だけど。
作文できないと話にならないから、読み<書き、という重要度だと思う。
レポート論文の書き方、といったhowto本は1冊持っていてもいい。
ぜんぜん違う。
向き不向き、好き嫌いがはっきり現れるので分野の選択が重要。
私はIT系専門学校に通っている。わかりやすく言うとプログラマ養成校だ。これからそういう学校に行こうと思ってる奴、考えている奴らに、長所短所をシェアしようと思う。
・良いところ
基本情報がとれること。あえてあげるならこれであろう。今のシステム開発業界はリーマンショック以来の冷え込みがつづいている。昔ならプログラム未経験でもホイホイやとってくれたものが、今ではベテランでもどんどん切られる。そういう時代である。私も面接時に基本情報をもっていることが評価された。大学などでは基本的に資格取得のための授業をしてくれない。そのため独学でやる必要がある。もちろん独学で取れない資格ではないし、独学がのぞましい。しかしこれは全ての情報系検定の基礎になるものである。できるならば誰かに教えてもらうのが好ましいと思う。私は今はプロジェクトマネージャ試験という、試験の勉強をしている。これは情報系国家試験の中で”Level4”に区分される高度試験である。(ちなみに基本情報はLevel2)実はこのプロマネ試験、基本を取っていれば以外と独学でいけるのだ。これは他のLevel4試験にも言えることだと思う。基本的な知識は基本情報で勉強し、高度試験ではそれの読解、論述が出題されるイメージだ。高度試験取得のためにも、基本情報はしっかりと教師に教わったほうがよいと私は考える。
・悪いところ
企業側からの専門学校の評価が低い。これにつきる。正直そのへんの大学よりは授業内容も深く、仕事に活かしやすい。しかし、最低学歴として大卒を設定している企業が非常に多い。とくに中堅・大手にはその色が強い。そのため、それまでITとは無縁だった文系大学生にも追い抜かれてしまうのだ。ただこれについては本人のやる気しだいだといえる。yahooやドワンゴなどの一部の企業は専門からでも採用している。そういった大手を狙うならば、入学したその日からそれに向けて努力すべきである。情報知識などは正直ほどほど。求められるのは圧倒的自主性とコミュ力。例えば自分でサーバつくっちゃったよ~とか、クラスメイト巻き込んでサイトたちあげたったなど、クリエイティブな活動が評価される。
結論から言うと、純粋にプログラマを目指したいならこれほどよい教育環境はないだろう。短期間で資格習得することができ、実務に近い授業を受けられる。しかし大企業などを目指したいなら専門学校に来るべきではない。3流でも4流でもいいから大学に行くべきである。そして目標が曖昧な奴な絶対に来ないほうがいい。そのへんの専門とは違い、ほとんどの授業が座学である。それに耐え切れずに挫折したクラスメイトも普通にいる。適当に遊びたいならファッション系か3流大学にいくべきだ。この記事が、未来ある若者のためにならんことを
俺はどうとでもなる、何て一言も言った覚えはないがなぁ
多分俺が途中から割り込んで、そこから舞台俳優の増田とツリーが別れたから色々混同してるか、最初から俺や舞台俳優増田を「そういう人間」と決め付けてもの言ってるだけだろ?
俺は最初の時点で顔のデカさをどうやって目立たせなくするかって部分について
つまり手の施しようが無いってことだ
言わせんな恥ずかしい
というところから始めてるんだが、忘れたのか?
それについてはお前も次のレスで
だろ?
とまで書いてたはずなんだがなぁ(流れを見る限り、この時点じゃ俺を舞台俳優増田だと思ってるようだが)
で、論点について
どうやって目立たせなくするのか言ってみれ。
顔がデカい人間に関する話に食いついてたからお前がそうなんだろうと思ったが、違うというのは完全に後だしだよな
ついでに言えば、ファッションに関する話をしている元増田に対し、ハンディキャップに関する話を今からしますよ、っていう主張がはっきりしていない
この程度の論述しかしていないのに、あとからグダグダ言っても論点の摩り替えとしか思われんわな
ファッションの話の上でお前らの主張がグズグズであることは既に示した。
話の区別も出来ないみたいだが。
俺の主張は最初から変わらんし、別に崩れようもない
さっきも言ったが
・顔がデカいのはどうしようもない
・誤魔化したいならこうすればいいんじゃね?
この二点なんだから
「どうしようもない」についてはお前も既に同意していたはずだし、「こうすればいいんじゃね」については、お前も認識しているとおり俺の考えるデカい顔の誤魔化し方の提示でしかないんだから気に入らんのなら仕方ない、で終わり
さて、俺が言った「どうしようもない」「こうすればいいんじゃね?」の二つ、何か崩れたか?
もう一回俺がここまでに言ったことを繰り返すぞ
「手の施しようがない」「どうしようもない」
まさに、今のお前だよ
Togetter - 「高校世界史レベルの知識を即成でインストールする方法」 http://togetter.com/li/69858
ここに書かれた学習法が絶賛を受けているが、ちょっと待てよと言いたい。
まず、総論。「高校レベルの世界史に通暁するとはどういうことか?」という問いに応えましょう。教材研究した結果から言えば、これは三段階の学習を行ったかどうか、になります。レベル1:〈通史〉。レベル2:〈テーマ史〉。レベル3:〈論述〉。この段階で世界史を頭にインストールすればよい。
とあるが、このレベル1からしてすごいものだ。
「善くできた新書のように」読めというが、実際の山川教科書はこのような感じだ。
ナイル下流域のメンフィスを中心に栄えた古王国では、クフ王らが自分の墓として巨大なピラミッドを築かせた。これは神である王の絶対な権力を示している。中王国時代には、中心は上エジプトのテーベに移ったが、その末期にシリアから遊牧民ヒクソスが侵入し、国は一時混乱した。しかし前16世紀に新王国がおこってヒクソスを追放し、さらにシリアへと進出した。(P.25「エジプトの統一国家」)
これを「善くできた新書のように」興味を持って読めるのか?
このあたりは元から興味がある人も多いのでまだ読める方だろう。
イスラム世界での国家の興亡など、教科書のあの記述で興味を持って読めるというのか。
教科書は350ページ以上ある。
大半が「~した。~した。~した。」の羅列でできた文章だ。
「私も実践しよう」と言っている方も多いが、断言しよう、一周さえ読み切る人間はその1割もいない。
なお、あの学習法には、通読が厳しいという人のためのヒントも添えられている。
読むのがしんどい、なぜだろう? と思ったら、山川世界史のリンク誘導を適当にネットサーフィン感覚で飛んでみてください。そのうち、「なぜ山川世界史は電子教科書ではないのだろう?」と疑問に思うほどの学習効果を得られるはずです。そして、現代史まで辿り着けばよいです。
これは実にいい意見だと思う。リンクをつなげるようにして歴史をつかむのは非常に重要だ。
現役の高校生には「別ページのリンク誘導」に意識をして読むことを強く勧める。
しかし、そのリンク誘導が「読むしんどさ」をどのように解消するのか?
ネットサーフィン感覚があれば、読むのが楽になると本当に思っているのか?
この「別ページのリンク誘導」は何も山川教科書だけの専売特許ではない。
「リンク誘導を意識する」という指摘は大切だが、それは決して教科書がよいことにはつながらない。
あと、第2のテーマ史の実践だが、
さて、通史を終えたら、好きな世界史用の演習問題本を一冊、買ってきましょう。これはなんでもいいです。たとえば山川の『私大・二次対策世界史B問題集』http://amzn.to/9vBJI7 とかは、僕が今言っている話に応用しやすいものになっています。
高校教師、家庭教師、塾講師なら仕事にもつながるが、他の社会人には非常に厳しい行為だと容易に想像つくだろう。
これを「素晴らしい方法だ、やってみよう」と書いている多くの人たちは、どこまで本気なのだろうか。
と、ここまで文句を書いてきたが、この学習法を書いた人を批判したいわけではない。
書き手は家庭教師をされているようで、これは実践の伴った学習法なのだろう。
「論述」までも視野に入れていることから、国公立クラスの受験生を指導されているのが分かる。
と言っても、善し悪しは別として納得はできる。
偏差値35から70までの高校生の相手をしてきた自分の目では、この勉強法は偏差値55以上の実力が必要だと感じられる。
ここで強調すべきなのは、「実力の足りない人間が安易な気持ちでやれば確実に挫折する方法論」だということだ。
で、どうしてそのことを誰も指摘しないのだろうか?
それどころか、どうして「すばらしい」「私もやろう」と絶賛できるのか?
教科書を最低二周通読するなどわけもない意欲の高い人たちだらけなのだろうか。
てかさ、「賢く見える意見」にうなずいてるだけじゃねえのか?
腹が立つのは、学習法の書き手さんではなく、周囲の「教科書礼賛」の姿勢だ。
教科書礼賛。教科書万歳。「教科書を読めばいい」という教師とその指導法を安易に認める人たちだ。
教科書を読むだけで理解できる人に、「教科書を読め」というのは構わない。
けれど、教科書は万能なんかじゃない。
だが、そこには絶対に「指導者の解説」が必要だ。
「なぜそれが起きて、どのようになったのか」の流れの説明を加える必要がある。
なのに、「教科書を読めば分かるはずだ」と工夫のない授業をする指導者が多すぎる。
それを助長しているのは、「教科書があれば大丈夫」という安易な考えだ。
そう、これを深く考えず絶賛している人たちの考えだ。
教科書を音読するだけ。
黒板に事実の羅列を書くだけ。
用語に線を引かせて覚えさせるだけ。
そんな授業でどれだけの世界史嫌いを産んできたのか分かってんのか?
「高校世界史をやり直したい人は、まず教科書を通読しましょう」
そんな学習法で本当に世界史をやり直せる大人がいったいどれだけ生まれるんだ?
教科書を買ったはいいが、待っているのは事柄の羅列だ。
それを前にすれば、「世界史は難しい。無理だ」と思う人間を増やすだけじゃないのか?
「教科書を読めばいい」なんて発言が出る人は、きっとすごく賢いんだろう。
俺にはその気持ちが分からん。
工夫のない指導で世界史を苦痛としか思えなくなった生徒たちを俺は何人も見てきた。
解説なしで教科書を読める人間は、上位の限られた層だけなんだ。
えー、あまり自信のない方向けに、簡単な学習法を書きます。
そこで買うのは、あの学習法の方も書かれていましたが、まず「用語集」と「資料集」です。
あの学習法は、「教科書を利用する」という点以外は、非常に参考になる学習法だと思います。
地図を手書きで書いてみるとか、ものすごい大切なことだと思いますよ。
社会人なら、通読が終わった後は興味のある個別の歴史をどんどんのぞいてみましょう。
そっちの方が楽しくて身につきます。
で、あとは通読用の教材を買いましょう。
まずは実際に山川の教科書をじっくり見て、読めるかどうかを確かめてください。
教科書だけですむのであれば、本当にそれが手っ取り早いです。
無理だなと思ったら、高校生用の学習参考書を眺めてみましょう。
そこには生徒に理解してもらうための工夫であふれた書籍が多くあります。
その中から、「背伸びせずに吸収できそうなもの」を自分の目で選んでください。
簡単にできそうなところから一歩ずつ。
歴史を最初から最後まで眺めた――それだけでも大きな財産になるはずです。
書いてもらったコメントを見て思いましたが、
「教科書じゃなく参考書を読め」という自分の意見も、たいして変わりませんね。
漫画でも新書でもゲームでも、何でもいいから歴史に親しめる入り口をまず作る方が大切。
それで興味を深めてから、教科書や参考書で通史の知識をつかむのがいいですね。
通読だって「漫画・世界の歴史シリーズ」から始めて、教科書につなげてもいい。何だってありなんですよ。
自分は参考書が大好きなので楽しめますが、あれでも無理って人はいっぱいいますし。
とにかく、「教科書を通読がベスト」って意見が気にくわないだけで、親しめるところからまず始めるべきなんでしょう。
と、「背伸びをせず吸収できる」とか「親しめるところ」とか、具体的な意見を言わずすみません。
人それぞれいろんな形があると思って、言いづらくなってしまうですよね。ごめんなさい……。
難関と評判の国家公務員試験I種(国I)を受験してみたのでそのときの体験記のようなもの。
誰だか分かる人もいるかもしれないけど黙っててね。
落ちていた場合、これを書く気になっていたのかどうか気になる。