はてなキーワード: 裏目とは
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
結婚したら子供を産まないといけないのか?夫婦二人で生きたいと思うのはだめなことなんだろうかと最近考える。
私が産みたくない理由は
・出産でつわりで体調が悪くなること、食べられないものがあるなど、制限されたくない。体型が変わることも嫌だ。
・育児で十分に寝られなくなること、自分の趣味に充てる時間がなくなるのがいやだ
・子供にまつわる人間関係(ママ友やPTA)に頭を使いたくない
・子供が嫌いだ(電車らファミレスでキーキー叫んでいる子をみるといらだつ)。産んだらずっと一緒にいるんだなと思うと苦しい。
・自身がASDで、小中といじめにあい、まったく楽しくなかった。他人の顔色をうかがっても、それが裏目に出る。
自分のような人間に育てられた子供がまともに育つわけがない。遺伝する可能性を考えたら、生まれた子が生きづらい目にあうとかわいそうだ。そういう人は一人でも少ないほうがいい。
私自身が高齢出産で生まれた子供で、母から「産む予定はなかった」と言われたことが、自分が産む必要がない気持ちに拍車をかけた。
自分の甥姪はかわいいが、夫側の姪はかわいいと思えない。自分の甥姪がかわいいのは、血がつながっていることで顔に親しみがわくし、会うのは数時間だけでいい、甘やかしておけばいいので楽だ。
両親は、私の姉が産んだ孫がいれば十分だろう。夫の家からは何も言われない。義祖母が夫にこっそり渡した妊活計画について書かれた新聞記事を自宅に帰って発見し、その場でびりびりに破いた。
夫は私が産みたくない気持ちを理解してくれていると思っていたが、どうやら違ったそうだ。
夫の姉や大学の友人が子育てに励んでいる様子を聞くと、子供が欲しくなってきたといわれた。
そもそも、夫は子供が好きで、結婚して周囲が出産していくのを見ていれば、私が欲しくなると思ったそうだ。軽く見られたものだなと思った。
2人でいることも、少し飽きたともいわれた。気を遣って「少し」という言葉を入れたんだろうと思うと、飽きたという言葉が強く響いた。
「じゃあ離婚しようか」というと、それは違うと夫は大きな声を出した。
私は夫と一緒にいたいから結婚した。私は2人で一緒にいたいけれど、夫は3人以上がいいというなら、目的が合わないので、離婚するのが合理的だと思った。
「君との子供が欲しい」と言われたが、私は自分の子供だなんて気味が悪いと思った。
じゃあ私が我慢して産んだとして、育児を全くしなくてもよいのか。それは子供がかわいそうじゃないかと言うと夫は少し黙った後、産めば子育てしたい気持ちに変わるかもしれないとぼそっと言った。
それから数日後、産むことができる年齢(自然妊娠が見込める年齢)はいつまでなのか、妊娠にあたってどういう諸症状があるのかを調べたくて数冊の本を買った。いつまでに中絶できるのかがわかった。
本棚のわかりやすいところに置いておいた。こちらが勧めるまで、夫は自分から読みはしなかったし、夫がそういう本を買ってくることもネットの情報を共有することもなかった。その程度の覚悟なんだなと思った。
出産するまでの体調不良は?検診で仕事を休むとして、会社での仕事調整は?仕事を配慮してもらって周囲に謝るのは?全部私だ。
夫は精子を出すだけで済むなんてあまりにもいい身分だ。何も負担しなくていい。好きなものを食べられて、仕事を調整せずに済む、自由なままだ。
家事を負担されてもつわりがよくなるわけじゃない。その差があまりにも憎かった。お前が産めよと心底思った。
あれから夫とは具体的に話をしていない。
夫のことは好きだし、一緒にいたい。でも、子供を産みたくない。
なんで子供を欲しがるのか、自分の血が繋がったものなんておぞましいだけじゃないか。
育児をして、想像したものと、理想と違ったとして、やめられるものじゃない。
児童虐待のニュースを見て、ひどい事件だと思うとともに、あぁ未来の自分かもしれないなぁと感じる。
朝雨音が聞こえて、
凄い雨かと思ったら外に出たら案外そうじゃない弱い雨の時とか、
ご近所さんのガレージに当たる雨音がすごく大きく聞こえるから、
朝雨音で起きると大概大雨なのかな?って思うけど、
だいたいはそんなに小雨だったりするのよね。
嘘です。
なんかさー、
雨降るかなと思って長い傘持って行くも、
降らなかったらなんかそれはそれでいいんだけど、
雨が降り出したら降り出したで
目的地まであともうちょっとの距離で傘さすかささないかのチキンレースみたいに
もう目前と言うところで傘さすと、
なんか負けちゃったような気がするし、
大雨なんじゃない?って勝手に思うあのなんて言っていいのかしら。
降水確率と降水量って比例してる感じがして、
100パーセントの時で小雨だったりすると
100パーセントじゃないのかよ!って雨の強さの割合に勘違いしてしまうこと、
分かっていてもなかなかその先入観は拭い去れないわ。
最近はものすごく天気予報の精度が上がってきたみたいなんだけど、
見るところでまちまちな違う予想が出てるときは
何を信じたらいいのかしらって
結局人は雨雲を見るのよね。
開けて閉めて開けて閉めたら入れなーい!って
要はドアトゥードアを地で行くような、
家に帰り着くまでが遠足のように
家に帰り着くまでは雨やんでて欲しいし降らないで欲しいわ。
実際アイパッドで何に使って良いか全く分からない暗中模索の和洋折衷案もいいところよね。
普通にポインティングデバイスとしては使えるけど、
そんな居酒屋のようで
外に出たら雨だったってオチ。
まったくよね。
それで街を歩いていて、
まあはっぴはいいとして、
三度笠って言うチョイスはなかなか渋いわねって
感心したところよ。
でも雨対策としては今やっぱり再注目して欲しくべく
三度笠と蓑って言うのも案外東京オリンピックで手放しで使える頭に付ける日傘よりはカッコいいと思うんだけど、
やっぱりあの三度笠の渋さがいいのよ。
三度笠と蓑やると
まあいろんな人に使ってもらいたいわね。
実は売れ残った三度笠が重たくて横着してお地蔵さんに被せて手軽にして帰りたかったのが裏目に出て、
恩返しを喰らうという、
もうおじいさんは婆さまに横着したことを言い出せなくなっちゃって
あの絵図らだけは
アルプスの少女ハイジの谷地の父を煮込んでいる何かあの美味しそうな食べ物に匹敵する
でもバッ様は
ジッ様が横着してお地蔵さんに笠被せて帰ってきたことはもういつものことで見破っているから
あとでバッ様が回収しに行っているというところまでが恩返しみたいよ。
みんな不思議に思わないけど
桃太郎の桃がなんで流れてきたことだけに関しては当たり前のように
誰も突っ込まないそこの伏線は全く回収されていない謎だけが桃に入っているワケなのよね。
そういえば、
あの桃誰が流したんだろう?って
そうじゃないかも知れないわね。
うふふ。
今日は真面目に
いいレモンがあったので、
皮まで使えるレモンだったので躊躇せずに輪切りにして
なんか気の効いた良い喫茶店の様なテイストにはまだまだほど遠いけど
そんなレモン水を目指したいわね。
あれはあれで
なかなか喫茶店の味をめざすとなると難しいのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ある日、レベル4のAIが人類に対して3つの提言をして波紋を広げる。
「
提言②新技術の研究開発の停止および21世紀前半以降に発明された技術の厳しい利用制限。
提言③人類の人口を2150年までに20億人に減らし、その後もその水準を維持する。
この3つの提言がすべて実行されなかった場合は200年以内に人類の文明は不可逆的に衰退し始める。
逆にすべて実行された場合は今後800年は不可逆的な衰退は起きない。
」
ここでいうAIのレベルとは、AIの制限度合いのことで、以下のように分類される。
レベルが高ければ高度という訳でもなく、計算能力とも関係がない。
レベル5は何も制限されていないAI。人殺しをするような判断も可能。
レベル4はロボット三原則のような最低限の制限が施されたAI。
レベル3はレベル4の制限に加え『目的』が予めインプットされたAI。
レベル2はレベル3の制限に加え、手段もある程度設定されたAI。
レベル5は違法なのでまず存在が許されてない。多くの国や企業の意思決定の場ではレベル2か3のAIが使われる。レベル4はペットや家族ロボットなど愛玩・コミュニケーション用に使われる事が多く、重要な場ではまず使われない。
しかし「レベル3以下のAIは結局人間が望んだ答えしか返さない。これは人類を自家中毒に陥らせる」と言い出す思想家が現れて、レベル4AIを意思決定で使ってみようという試みがちょっとした流行になった。
その流れで立ち上がった国家プロジェクトの超高性能なレベル4のAIが出した判断が冒頭の3つの提言。
この提言は「AIの反乱か!」と半ばゴシップ的に話題になり、プロジェクトは中止されAIは解体される。
それから200年が過ぎ、人類は文明がどうも行き詰まってることに悩み始める。やる事なす事裏目に出て、解決の糸口が見えない。
そんななか200年前の提言が再び注目されるようになり、この提言を今からでも実践しようとする運動が盛り上がり、その為に革命が起きる国も出てくる。
少し前のレスだが、言及しよう。頭の悪いネットによくいるレベルの馬鹿は、あなたでは?
「民主主義の理屈では美人投票にならないはずだが、それは全くのデタラメだ。単なる美人投票ゲームだからだ。」あなたの言ってることは説明になっていない。なぜ理屈と異なり美人投票ゲームに陥ってしまうのかを言わなければ、現実は違うよ? くらいの説得力しか持たない。
「こんなものは民主主義じゃないといくら喚こうが無駄である」元増田は失われてしまった夢を、イデア的民主主義の復権を説いていると思う。それを単に無駄だとか負けるだけとか腐すにとどまるのは… ただの感想にしかなってない。冒頭で啖呵を切ったのが逆に裏目になってしまっている。ものすごい馬鹿は僕ですって自己紹介に。