はてなキーワード: 自画像とは
実際に問題は起きた。
黒人の活動家で黒人研究の大学講師でもあり、全米黒人地位向上協会(NAACP)の支部⾧をも務めたレイチェル・ドレザルが、実は黒人ではなく白人であることが地元のテレビ局によって暴露された。
両親は白人で黒人の祖先が一人もいないドレザルが本当の自分は黒人であると主張し、⾧年、黒人として生活していた。
地毛が金髪で肌の白いドレザルは肌を褐色にし、黒人のヘアスタイルを真似、「黒人」に変身していた。
秘密が暴露された後、ドレザルはメディアの取材に対し自分のことを black (黒人)、biracial (混血)や transracialと呼称し、幼い時から自分が黒人であると思い、自画像を描く際、自分の顔色に「brown」(茶色)のクレヨンを塗っていたと述べている 。
つまり、彼女は自分の「本当の姿」、自分の精神というか魂が黒人であり、自分が認識する人種と自分の身体的な人種あるいは社会から割り当てられた人種が一致していないと感じ、自分はいわゆる「トランスレイシャル」の人間であると主張した。
https://www.huffingtonpost.jp/2015/06/14/rachel-dolezal-naacp_n_7582132.html
2016年にキズナアイさんに出会い、2018年からはにじさんじとホロライブを熱心に追って今に至ります。基本的にずっとにじホロを追ってきたのですが、最近、個人や中小規模運営のVTuberが面白いと聞いて、ここ数か月そこそこ熱心に個人/中小規模運営のVTuberの方々を追ってみました。2018年初期からVTuberの認識があまり進歩していなかった増田による、最近のVTuberはすごい! と思ったところをまとめました。ずっとにじホロ以外もウォッチしていた方には何をいまさらと思う内容ばかりかもしれませんが。
個人や中所規模運営の方が好んで使う、Live2Dアバターを動かすVTube Studioというソフトがあり、これがすごく動きが綺麗に見える。大手企業の内部開発と思われるLive2Dを動かすソフトよりも動きが綺麗に見える(主観です)。
また、パーツごとにレイヤーを重ねる機能があるようで、通常衣装の上にかぶせる形で、首から下の部分に別衣装を乗せることで、衣装替えも簡単にできるようになっています。同様に、髪飾りをつけたり眼鏡をかけたりも自由自在。
boothを見ると、このVTube Studioで使うことを想定している、Live2Dパーツがたくさん販売されています。VTube Studioを使いこなすことで、高い表現力を得ている印象です。また、おそらく、Live2Dモデラーも、VTube Studioで動かすことを想定したモデル作りのノウハウが高まっているんだろうなと思いました。
Live2Dを動かして配信するのならば、個人でも高いクオリティを実現できるようになっていてすごいと思いました。
音響のことはよくわかりませんが、音が綺麗で聞きやすい方が多くて、このセッティングを個人でやっていらっしゃることがすごいなと感じています。うまく表現できないのですが、普通の音が球面のように広がるのだとしたら、セッティングの上手い方は平面で音がドーンと飛んでくるようなイメージでしょうか。それがすごく聞きやすくて心地よい。伸びている人は、音のセッティングが上手い印象があります(主観です)。
TikTokの使い方が上手いVTuberといえばはっかさん。会社の若手の、普段は全くVTuberは観ない、TwitterよりもインスタやTikTokを観ている女子も、はっかさんのことは知っていました。とても凝ったTikTok動画を投稿されていて、彼女の動画がTikTokのミームの源になっていることもありました。音と字幕のタイミングがばっちり合っていて、編集に手間をかけていることが推察されます。
歌が上手いVTuberのnahさんは、YouTube Shortsの使い方が上手いなと思っています。nahさんの魅力は歌声の良さにあり、ほとんどのShortsでは開始0秒でいきなり歌が始まります。これがすごく相性が良くて、サクサクとスキップされていくYouTube Shortsの中で、思わず止まって観てしまう魅力があります。
新しく出てきた機能の特性をちゃんと理解して使いこなせるのはすごいなと思いました。
活動休止されてしまいましたが唯恋ひなさんは、デビュー前にTikTokで「100日後にデビューするVTuber」として、アバターができる過程などを毎日投稿されていました。唯恋ひなさんの後から、デビュー前から〇日後にデビューするVTuberをやる人が増えた気がします。100日後手法ではなくても、YouTubeでの初配信の1~2か月前からTikTokやTwitterを熱心に更新し、初配信に向けて人を集める手法は珍しくなくなりました。こういうことを個人で分析して動けるのはすごいなと思っています。
イラストレーターや歌手がVTuberとしてデビューするのは珍しくなくなりましたが、ほかにも一芸に秀でた方が多くいました。
特に衝撃的だったのは、バイオリンの生演奏を披露するStar☆Ringの天羽音みらんさん。YouTubeのコメントでリクエストを受け、その場で見事に引きこなしています。めっちゃ上手い。Live2Dにもバイオリンを弾いている姿があり、本人としてもバイオリンを売りにしていこうとしているようです。もちろん歌も上手く、話し方も品があります。
専門知識がしっかりしていて、ついにはJAXAのH3ロケット応援サポーターとなった宇推くりあさんもすごい。各国のロケット打ち上げを生実況し、英語の実況をその場で日本語に訳して解説してくれます。ほかにもH3ロケットの報道用の資料を読み解く配信をしたり、H3ロケットについて先日の記者会見の内容を詳細に解説したりと、とにかく知識がすごい。おまけに声がとても可愛く、工学系オタク(含む筆者)の妄想が具現化したかのようです。ちなみにラブライバーであり歌配信もやっています。
趣味の電子工作の配信が多いライヴラリの図月つくるさんも面白い。電子工作系YouTuberのおじおじジャパンや熊五郎お兄さんのDIYを観ている人ならハマると思います。赤月ゆにさん・餅月ひまりさんと同じ事務所の方で、先輩か学んだと思われるテンポの良い構成も見どころです。
最近、多くの配信で、YouTubeライブのアンケート機能を使って「高評価押してくれた?」のように聞かれることが多いです。選択肢は
・した!
・もちろん!
みたいな、意味のない2択なのですが、これはいい手だなと感じています。
iPhoneでYouTubeを観ていると、配信に入ってから高評価を押すまで、まずチャットをいったん閉じて、それから高評価ボタンを押すという手順になります。実はこれが地味に面倒で、高評価を押し忘れることも多いです。ところが、ここでアンケートという形で画面をタップする動きを促されると、せっかくだから高評価も押しておくかという気分になるわけです。ユーザーの行動心理のハックと言ってもいい。こういうノウハウに気づいて取り入れてくのは下手なプロマーケッターより上手いのではないでしょうか。
動画やライブ配信のアーカイブにコメントが増えると、YouTubeのおすすめに乗りやすいらしいという話がまことしやかに囁かれています。真偽のほどはYouTubeのみぞ知るところではありますが、アーカイブにコメントをしてもらいやすくするように促すのが上手い方は多いです。
よく見られる手法としては、ライブ配信直後だけでなく、数時間後にも「今日もありがとうございました。〇〇なことが起こって面白かったですね。アーカイブで見た人もぜひ、こちらにコメント残していってください」といった感じで、TwitterやYouTubeのコミュニティ機能を使って告知することです。数時間の間を開けることで、リアルタイム視聴はできなかった人にも呼びかけることができ、コメント数が増えているようです。
こういうちょっとしたテクニックをとくに誰かに教わるわけでもなく駆使できるのはすごいなと思っています。
YouTube登録者数が伸びているVTuberさんを見ていると、YouTubeは万単位の登録者がいるのに、Twitterは3000人くらいしかフォロワーがいない、という人が散見されます。こういった方々は、YouTubeのおすすめの仕組みをよく理解していて、いわば「YouTubeのAIに働かせる」ことが上手い。YouTubeのおすすめに上手く乗っているからYouTube内でどんどん登録者が増えていき、結果としてTwitterのフォロワー数との乖離が生じているのだと思います。
逆に、キャリアが長いわりにあまり伸びていない人は、ファンに「Twitterでの拡散をよろしくお願いします」というのが口癖になっている気がします。Twitterでバズることが必ずしもYouTubeにつながるわけではないところ、そこがあんまり分離できていないのかもしれません。
ただ、これって割とよくある話で、マーケッターの人と話しているとぼんやりとした企画でとにかくSNSでバズりたいのである、みたいな話になることがあります。ところが、一口にSNSといってもユーザー行動や数字の取り方はサービスごとに全然違います。だけど、そこを分離して議論できない。その辺、VTuberさんのほうがよっぽど理解している印象です。
そのYouTubeを伸ばす方法として、先述の高評価を押させることや、アーカイブへのコメントをしやすくすることなどがあるのかもしれません。ほかにもきっと、様々なノウハウがあるのでしょう。そこへの探求心がしっかりしている人が多そうで、感心するばかりです。
5年前に比べると、少なくとも筆者のTwitter周りでは、明らかにリスナーが「こんな面白いVTuberがいた! みんな見て」みたいな投稿をすることが減った気がします。理由の一つとして、オタクという生き物は悲しいかな「その人は〇年前から活動しているのに何をいまさら」とか「それはすでに〇年前にxxさんがやっていた」という知識マウントをやりあってしまうところがあります。筆者はそういう突っ込みを受けるのが割と面倒に感じるタイプで、最近は「こんな人を見つけた」「こんな面白い配信をやっているぞ」という投稿はあまりしなくなりました。
また、社会全体ではVTuber応援はまだまだマイナーな趣味ではあります。自分のTwitterはリアル交友関係の人もいますから、マイナーで同じ話題ばかりつぶやいていても鬱陶しがられてしまいそうという心理もあります。誰だって、話題豊富な人と思われたい欲望はありますから。
つまり、昔ほど、ファンがTwitterで拡散してくれるということに期待しにくくなった、とも言えるのかもしれません。同時に、最近はTwitterは時系列ではないホーム表示を出すようにもなりました。
こうした変化にも、対応が上手い人は多いです。よく見られるのが、デビュー時期が近いVTuber同士でフォローしあい、リプを飛ばしあったりすること。すると、今のTwitterのおすすめには、フォローしてなくても、フォローしている人への返信として表示されたり、関連する人物として表示されたりします。筆者もTwitterのおすすめ欄で新しいVTuberを知ることが多いです。なにかと評判が微妙な最近のTwitterではありますが、そうした変化を積極的に活用しているようです。
また、ちょっとしたハッシュタグ企画にも積極的に参加しているようです。昨日はエリス・レアリィゼさんが発起人となったと思われる、#私はダイヤの原石VTuber というハッシュタグ企画が流行っていました。自画像をはめ込む枠が配布されており、この画像を使うだけで手軽にハッシュタグ企画に参加できます。こういう企画は毎日のようにどこかで誕生しており、そういうのに乗っていくことで、結果としてTwitterのおすすめにも出やすくなっているのかもしれません。
個人活動でありながら、プロのイラストレーターに自身のLive2Dだけでなく、サムネイルイラストやグッズイラストを積極的に発注しているようで、イラストが豪華な人がたくさんいます。そんなに発注して収支は大丈夫なのか心配になる人もいるくらい。
どんなイラストレーターにどんなイラストを発注し、それを活用してどうやって収支を成立させるかというのはまさにプロデューサーの仕事です。自身がコンテンツでありプロデューサーでもあることを成立させているのはかなりすごいことだと思います。
B2Bならぬ、V2Vともいえる市場が成立しているような気がします。にじさんじの家長むぎさんや黒井しばさんが同じ事務所の仲間の動画制作を担当したり、のりプロの鬼灯わらべさんのようにそもそも動画編集を得意としていらっしゃるVTuberさんもいたので今更な話かもしれませんが、個人VTuberが別の個人VTuberに編集やデザインを依頼しているシーンをしばしば見かけるようになりました。
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
10代男女のSNSのアイコンでアニメアイコンとは違う少女漫画みたいなド爽やかな似顔絵使ってるやつあるやん
投資詐欺とか意識高い系サロン運営者みたいな自画像の美化できっしょ、実物はチビ猿やんけ
まだ自撮り使ってる陽キャDQNの方がマシやんと思う事がままあったんやが
物心ついた頃からSNSが身近にある10代にとってはネットにキラキラした美しい自分を載せることって自然な事なんやな
ワイらみたいな年寄りは自分を美化しすぎると恥ずかしいと卑屈になってちょっとふざけたアイコンで自我を保ったりするが