はてなキーワード: 混浴とは
安田理央さんの「大きな胸はどう呼ばれてきたか」という文章が素晴らしい。是非読んでいただきたい。
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous01
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous02
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous03
安田さんの文章でも前提とされているし、知っている人も多い話だと思うけど、江戸時代の銭湯は混浴だった。昔の人はハダカを恥ずかしく感じなかったのか? 異性のハダカに欲情しなかったのか? という疑問が浮かぶが、どうもそうらしい。昔の銭湯のお湯は熱く、湯冷ましのため男女とも服を着ずにハダカで家に帰ったというから相当なものだ。また夏は道にタライをだして行水の習慣もあった。
明治時代になって、西洋人から男女がハダカで混浴したり、公共の場所にハダカでいることが破廉恥だと非難されたため、政府により街場の銭湯の混浴は禁止される。しかし田舎の温泉宿などは、いきなり浴場をもう一つ増やす財力が無いので、ロビー活動をして混浴という状況を許してもらう。その後世情により徐々に男湯女湯の区別が作られては行く。しかしガチの混浴の習慣はいつまで残っていたのか?
1961(昭和三十六)年、押田氏が栃木県の鬼怒川温泉に投宿したときのことである。同氏は同僚と飲んだ後に二度目 の入浴のため大浴場に向かう。時間も遅かったので先客は誰もいず、一人湯船につかっていると、やがて脱衣場の方から声がする。そして二十代から五十代 の女性七、八名が、浴場に入ってきたというのである。いずれも仕事がはねた 仲居さんたちである。人数的にも圧倒され、湯船から出るに出られなかったと押田氏は当時を述懐する。
1960年代まで田舎では、特に裸は恥ずかしくなかった可能性がある。観光旅館ではなく、地域の共同浴場なども混浴が残っているケースは多く、70年代のドキュメンタリー番組で「若い人は気まずい」という解説とともに紹介されていた記憶が自分にもある。
ハダカはともかく、ムネはいつから恥ずかしいのだろうか? 昔の海女さんや炭鉱で働く女性は、男性のように上半身ハダカだったらしい。これもどうやら1960年代、女性の間にブラジャーが普及するのと平行して、恥ずかしいという意識も広まっていったようだ。
しかし女性が一旦胸部にブラジャーをつけると単に美しく見せるだけではなく、それとは別の副次効果が現れる。先の井上章一氏の言葉を応用すると「ブラジャーをつけだしたその後に、女性は胸部により強い羞恥心をいだくようになった」と言える。こうして、従来は羞恥心の対象外だった女性の胸部が質的に変化する。昭和三十年代には普通に見られた、街頭で母乳をやる女性たちも、授乳室の中に隠れるようになる。
いずれにしても上記のことから、女性のハダカを見て男性が興奮するのは、決して本能などではないことは容易に推理できる。欲情する気持ちは、文化により形作られた、女性が羞恥心を感じている様子に引き出されるもの、あるいは国家権力に規定された禁忌を破ることによる興奮なのだ。そもそも男性が女性に欲情することが自然なのかどうかもわからない。橋本治さんの受け売りだけど、森鴎外の時代、男子大学生は硬派と軟派に分かれていたが、硬派とは下級生男子に欲情するもの、軟派は女性に欲情するもので、鴎外は性暴力の被害を恐れナイフを携帯して通学していたという。
先日癒しを求めてスーパー銭湯行ったんだけど、男湯に女性従業員入ってきて、本当不快だった話…。とりあえず、お客様の声があったから、男湯は男性スタッフに清掃して欲しい旨の記述を書いたんだけど、後日行ってみたら今度は20歳くらいのすごい若い女性が入ってきて、「ふざけんな」と思って、もうそこに行くのは止めたわ。それで、また別の日に今度は違う銭湯に行ったら、そこでも女性が入ってきて、日本は男性のスペースに女性が入って来れるのが許容されている社会だと痛感した。
医者や看護師が人の身体を見るのは専門的な知識・技術を身につけている訳だし、気にならないけど、銭湯の清掃なんてはっきり言って誰にでもできる単純作業でしょ。なぜ人が服を脱いで無防備になる空間にフローリングやタオル交換等を同性にやらせないのかが理解できない。ある施設では受付に男の人がいて、男湯に行ったら女性従業員が作業しているという施設もあったし…。
銭湯や温泉は日頃の疲れを取れたり、リラックスできたりする場所だと思う。だったら施設側も利用者に不快な思いをさせないで、しっかりとプライバシーに配慮して同性を雇って素敵な時間を過ごさせてあげようよ。
公衆浴場法って法律がるなら、国や自治体もしっかりと法整備しろよ。法整備されてるのは子どもの混浴の年齢制限くらいでしょ?浴室の清掃は同性が対応させるって追記するのに反対意見なんてほとんど出ないと思うよ。お店側はもしかしたら反対意見が出るかもしれないけど、それは利益を重視した主張であって、まずは利用者に配慮して欲しい。
男湯を清掃する女性スタッフに聞きたいが、お風呂に入ってる時に男性の従業員が清掃しに来たら、不快に感じるよね?ってこと。自分が嫌なことは人にはするなよ、そしてお店側もさせるなよ。女性は同性限定で男性はどっちでもいいだろというのは明らかに性差別だと思うし、現に不快に思っている人も知り合いを含め結構いると思う。
もちろん多くの施設は同性が対応していて、プライバシーに配慮しているわけだけど、残念ながら配慮の足りない施設があるのも事実。まずは浴室・脱衣所・トイレについては同性が対応するようにしようよ。それがマナーでしょ。
この際だから記載しておくけど、映画のレディースデーとかもマジで止めてほしい。「女性にオススメ」とかのキャッチコピーでみんなが利用できるなら良いけど、性別によって料金価格を変えるのは性差別だと思う。中学校の社会で習った「憲法第14条:すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は 門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」って条文は何なのか?男性であることでいろいろな面で差別されてるんですけど。
飲食店とかもレディースセットとか女子会プランとか女性優遇のサービスは多いし、ゲームセンターで男だけでプリクラNGってところも意外とあるよな。昔は仲良い男友達大勢で楽しくプリクラしたけど、それももうできないのか…。
男女の出会いをサポートする民間会社のイベントの参加料金とかも、男性の料金は女性の5倍とかもザラらしい。もちろん、食事を伴うなら男性の方が量を食べるから多少高いのは納得がいくけど、5倍はさすがに行き過ぎだと思う。
「男女平等」とかよく言われているけど、日本社会は男性が不利益を受け過ぎていると思う。本当に男性差別をするのは止めて欲しい。もちろん、男性差別だけではなくて同時に雇用とか女性特有の差別とかもなくなって、男性も女性も共に住みやすい日本になって欲しい。
とりとめのない文章かも知れないけど、そういう風に感じている人がいることを是非知ってもらいたいと思う。
トアル村の宿には公衆浴場があり、男湯、女湯、混浴、その他にも色々な専用浴場がある大規模なものであった。
ヴェノラ一行は様々な側面から考え、それらを秤にかけた結果、男女別で入ることを決めたのであった。
リ・イチとウロナは、何らかの効能があるかもしれないし、ないかもしれない温泉で旅の疲れを癒していた。
浴槽の湯が熱めなのか、外界との温度差なのか湯気がすごいことになっていて、あなたたち視聴者には湯気しか見えないかもしれないが。
なお、彼女たちはタオルを湯船につけてしまっているが、これは複数の公序良俗を秤にかけた結果であって、湯船にタオルをつけることを推奨した表現、演出ではございません。
「ウロナ、あなたはとても綺麗な肌ですね」
「それはどうも」
「触ってみてもよろしいですか?」
「そうですね。私が愚かでした。許してください」
「許しましょう」
何たる健全。
一方、ヴェノラたちは……
「隣の浴場から、仲間たちの声が聞こえるな」
「そうだな。周りに迷惑をかけるから、もう少し静かにするべきだ」
ヴェノラがふと辺りを見渡すと、疑わしい行動をする者がいた。
「む、そこのお前。何をしている」
「ノゾキだ」
不届き者の登場に二人は憤る。
「ノゾキはよくないことだぞ」
「なんだテメエ。如何にもノゾキしそうな顔をしているくせに、つまらない正論を吐きやがって」
何たる偏見。
「なんて奴だ。法の裁きを受けよ」
「残念だな。法はあっても、裁くものはなかろう」
「仕方がない、ならば俺がこらしめてやる。溜飲を下げさせてもらう」
改めて説明しなければならない。
「ジャストコーズ、オン!」
ヴェノラには独特のパワーが備わっており、彼は正当な理由があるとき目的を最大限遂行するための力を一時的にその身に宿すことができるのだ。
その正当なる拳の角度と熱さは45度。
「あっちいいいい」
旅館の料理はとても美味しくて、観光地も想像以上に楽しくて満足な旅行だったのだけど、ひとつ不満が残っている。
男児といっても小さな子供ではなく、声変わりの済んだ小学校高学年らしき少年だった。
母親らしき女性と2人で入ってきたのだが、小学生なんてひとりで風呂に入れるだろうに、何故他の女性客もいる女湯に連れてくるんだ。
私は入湯してからまだ5分ほどだったが、気持ち悪いのですぐにあがってしまった。
本当は母親の方に非常識ではないかと声をかけたかったのだが、家族水入らずの旅行に水を差すような真似はできなかった。
小さな子供なら微笑ましく見ていられるが、小学校高学年男児を受け入れることはできない。これは、私が自意識過剰だったのか?
障害を持っていてひとりで風呂に入れなかったのだろうか。それなら、父親は何をしているんだ?
どうしても母親なしで風呂に入れないのなら有料の貸切風呂があるだろう。そちらを使えばいいのに。
旅館も旅館で、何歳まで男児や女児が女湯、男湯に入っていいのかを明記していない。そもそも大浴場の入口に従業員がいないので確認もできない。
私は混浴風呂に入りたくてわざわざ群馬まで来たのではない。気分が悪かった。
差別表現ととられる部分があったようですのでまずお詫びします。
障害については、あるのなら保護者同伴であるべきだけれどそれなら父親と男湯に入れ という旨でした。
翌朝の朝食会場で父親がいることを確認したうえでの発言だと思っていただきたいです。説明不足でした。
そのうえで、母親同伴の必要があるのなら家族で貸切風呂を利用してほしいのです。
私自身、家族で過ごすために貸切風呂も利用しました。加えて、広い浴場でも寛ぎたかったので大浴場へと向かったところ男児も入ってきた次第です。
「背の高い低学年では」や「トランスジェンダーでは」とも言われておりますが、それなら尚更貸切風呂を利用すべきなのではないでしょうか。
何のための貸切風呂ですか。大浴場に入れない事情のある方や、家族で入るためのものでしょう。
また、本文では「声変わりの済んだ小学校高学年らしき少年」とのみ書いておりますが、下の毛も生えている子供でした。こんなことを書くと「しっかり見ているじゃないか」と言われそうで書きたくなかったのですが。
彼は、明らかに低学年ではないでしょう。嫌悪感をもってしまっても仕方のないことだと思っています。
これは差別なのでしょうか。
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kaiken-genjitsu
壇上のいちばん右に「日本の歴史・文化・伝統の香り高い憲法をつくろう」と書かれていることで、もうお里が知れているようなものだ。彼らが言う「日本の伝統」とは、たかだか100年ちょっと前の明治時代を指しているにすぎない。
実際、渡部昇一は「基本は明治憲法にかえること」と言って、その意図を隠していない。しかしそんな短期間(それも欧米列強に追いつこうと蒼白になっていた一時代)を取り戻そうなんて、イヤなこったというしかない。
彼らにとって明治時代が「日本」であって欲しい理由は、それがオッサンたちが大いばりできた時代であったからであり、さらに言えばお国のために有用な人材になれと励ましてくれた母親へのノスタルジーだ(偉大なるマザコン評論家・江藤淳のイデオロギーを信じ込んでいる人もいる)。
自民党の改憲PR誌に「この70年で女性の地位は向上した。でも個人の自由が強調されすぎて…」と書かれているように、改憲=オッサンの権力闘争という側面は否定できないだろう。
本当に「日本の歴史・文化・伝統」を学んだうえで言うのであれば、周りを海に囲まれた地理的条件を踏まえ、海外からの「舶来物」を換骨奪胎して取り込む融通無碍な日本を、その本来的な姿と考えるべきではないのか。
そういう節操のなさを日本の本質だと考えれば、アメリカから押し付けられた憲法をいつの間にか自分の都合のいいように玉虫色に解釈して使っている現状こそ、日本のお家芸を披露しているようなものだろう。
もしこの部分の矛盾を放置するのが難しいとしても、基本コンセプトとして「明治にかえれ」は戦略的にもお粗末だ。明治とはモーレツ社員以外を排除して成立したブラック企業であり、社畜の天国である。それは現代日本にも脈々と引き継がれているが、いずれ超克すべきものだ。
江戸以前に遡れば、混浴だの男色だのが謳歌されていた伝統が日本にはあり、LGBTどころの騒ぎではない多様なアジア的世界が展開されていた。そういう歴史や文化を学んだ上で、「伝統」という言葉を使ってもらいたいものだ。
今新人戦?でダンプしたから波紋って言われたけど自分で気づいてよかったねーってところ。
小林みたいに髪染めたりしてなくてよかった。
ほんと好き。
コナンのアニメの途中のCMで15秒アニメ?があったのを覚えてる。
帯をギュッとね!の作者とは知ってた(けど読んだことはない)し、とめはねっ!はぽつぽつ読んでて、女の子かわいいとは思ってた。
前にモリタイシの女の子がかわいいとも書いたけど、何気に小学館系列の漫画は地味にかわいい女の子が多い気がする。
時代を感じさせないかわいさ。
でもリアルだったら絶対付き合うどころか友達にもなれないだろうなってのが悲しい。
メジャー2ndの女の子もかわいい。ハイニーソショートパンツ黒髪ぱっつん。俺の性癖(ry
すげええええええ
師走の翁のヌーディスト・ビーチに修学旅行読んだばっかりだっつーのに!!!
こもりちゃんはやる気を出せも好きよ!
今思うとおおふりみたいに巨乳女監督と男子野球って構図だったな。
おっぱああああああああああああああああ
いいものいっぱい持ってるんだからもっと頑張れ!!!!!!!!!
子どものときはジャンプのギトギト濃い味が好きだけど、年取って疲れてきたらあっさりサンデーのよさがわかってくる、みたいな。
俺はそんな感じ。
素朴な萌えをくれ。
昨日相次いで青二才氏のブログやTogetterにブコメをしてたサイバーメガネ氏だったが、相次いでツッコミを食らっていた。
cyberglass 人類の歴史は500万年ですが、農耕の歴史は1万年なので、人体の構造は大量の炭水化物を摂取するようには出来ていないんですよね…。肥満は炭水化物が主因なので、主食がこんにゃくになると良いと思います。
locust0138 id:cyberglass それは違います。ヒトの主食はチンパンジーと同じく果物です。ヒトは糖分(炭水化物)に依存する生物です。http://www.asahibeer.co.jp/customer/tourui-toushitsu/ こんにゃくの主成分のグルコマンナンも炭水化物です。
http://b.hatena.ne.jp/entry/tm2501.hatenablog.com/entry/2015/07/18/235711
suzukidesu23 id:cyberglassさん、混浴と別浴を繰り返した認識ですが。また、入込湯についても触れておかないと意味が無いかと。
本人の自己紹介では高校時代にクイズ大会で全国大会に出た、弁論部でけっこう頭いい人らと絡んでたらしいが、時々彼の発言見てると雑な所がある。
んー、入浴場の男女別ってのは、平等を目指して別にしてるんじゃないからじゃないかな。
それでも平等以前に、混浴にしたら下卑たからかいをしたり、舐め回す様に視線を送ったり、理性を忘れて襲ったりする奴が出るじゃん?
性的嫌がらせや犯罪防止のための男女浴場別であって、平等より重視されてるんだよ。
で、人種は何故平等が重視されるてかって言うと、そこには理性が働くはずだ、と思われてるからじゃないのかな。
性的なことは本能に深く根ざし我慢できないバカが多数いるけど、種族的嫌悪はそれ程でもない(はずだ)。
つまり、
と言うのが感覚的に正しいと思われてるから、男女の入浴に関しては平等より安全が重視され、白人黒人の入浴では安全より平等が重視されてる。それが社会の現状、ってことじゃないかな。
うーん…
かつては混浴が成立していたことを踏まえるのだが、「では、現在と過去を隔てるものは何か」に答えが出ない。
もしブコメの主流意見みたいに「混浴が差別的であり、後世に出現した平等意識から分けるに至った」ならば、差別意識の方が根源的ということになってしまう。
最も有力だと思うのは、「入浴がプライベートからパブリックのものになった」説かなぁ。
これなら、より根源的状態であるプライベートでは平等意識があり、社会性が重視される段階において初めて壁が出来たということで、ジェンダーの理論にも合致している。
現代人は公の場では、行動だけでなく服によっても男女の違いを強調していて、それが希薄になる入浴時は、社会的特徴の維持のために明確に分ける必要がある、と。
私も短く。
>「規制されるべき」という考え(つまり精神活動)が規制を生んでいる
生んだのは誰?
○そういう決まりをつくったえらい人
○そういうものだと判断した人
どっちかであるか、どっちでもないかもしんない。
とりあえず今お話しているところでは「規制が存在する状況の話」だよね。
でも、肉体的構造について差がある故にその状況を分けるという規制があることが前提の話だよね。男湯女湯。
男女が入り混じるべきではないという構造が完成されている湯の分けは、身体的特徴以外に何で分けられているのかなと。
子供だったら女子でも男湯はいるぜとかそういう領域の話ではないよねと思って。
>男女の肉体構造を平滑にしなくても、人々が「男湯と女湯は分けるべき」と思わなくなるだけで、男湯女湯の区別は解消される
わたしも、バイオロジカル的に「生態的に性差がなくなれば」みたいな風な事いったみたいで変になっちゃったかも。
「そんな機能や構造の差、人間には差ではない」とか「そういう構造の部分差を今問う場面じゃない」となることが平滑な局面かなと。
まとめて
が
「規制の基準を身体的特徴にしなくなる」
だけで混浴は達成するとおもうし
の状況はあとからついてくるとおもうし、逆にその状況から身体的特徴を規制対象にしなくなるかもしれないかも。
「女子の裸みたいって思ってる人がいるから、混浴にならない」ってこと言いたかっただけで
「異性の裸なんてみたいとか思わないのに、なんで風呂は無意味にコストの高い分断をしてるんだ」とか言うのなら
黙ってみてたかもって。
うーん。
肉体構造上の差が区別を生んでるんじゃなくて、違うものという認識、だよね。
犬と人間が「ミナ オナジ イキモノ」という認識じゃなくて、犬と人間、という認識とか、「男と女」という区別の認識とか
その鼻が長いとか、体毛の濃さとかで、差がある、違うものだ、混ぜるか、わけるか、という方法、方法の構造化
構造化の一般化、文化というもので、それらが困難でも面倒でも機能的でなくても、利用するよう環境を整備することも
文化、じゃないかな。
「ニンゲン」というくくりで、オナジイキモノだとしたら、男女とか分ける「社会構造」を必要としない環境になるかもしれないかなと。
犬をつかって狩猟をすれば効率的なのに、都会の人は部屋から出さないとか意味不明とかみたいなこととか、文化で機能や構造の
だから「男女」って言っているうちは、分けることも差をつけることもあると思う。今回は肉体ということについて。
身体的特性から得意な状況とか苦手な条件はあるとおもうけど、それを忠実に優先する社会構造でないのはだれしも承知だよね。
スターシップトルーパーズとかでいうと「シャワーは混浴なのにテントで愛し合うのは異性なの?」というところは
「性差を問うのは身体の洗浄時ではない」という認識があってのこと、じゃないかな。
「バグパイプを吹くとき男性はスカートを履く」は外国では一般的だよと、スカート履いて山手線に乗ると「差を感じる」こともあるかもみたいな。
日本では、男女が衣服をまとわない状況で近接することは「規制されるべきこと」という状況にその肉体構造の差をもってしている文化がある
ってことに今現在なっているんじゃないかな。
環境構造と肉体とか、肉体的構造と環境とか、肉体同士の反応とかもふくめて、「男性と女性は、差があり状況により介入を要する状況になる」という文化構成。
男性かどうかを判断する社会的材料は、身体構造が男性をしているか、女性であるかどうかは身体構造がという基準を文化が持っていて
かつ、それを分けるということをセットにすると、身体構造に差があると分けられることになるという文化社会になるんじゃないかなと。
裸体でなければ男女が近接しても問題にならない環境もお風呂以外にならいくつかあるとおもうんだけど。
エスカレーターで男女が入り乱れても「性別がちがうので離すべき」とかいわれないけど「ペットは抱えて」とか差をつけたり。
なんというか、服ぬいだら男女になるのに、服きてたら平等なのみたいな感じというか。
じゃあ水着でプールでいいじゃんみたいな。温泉全裸とプールは「何の差があるの」って感じの人もいるかも。
男女って差があるのとか、温泉とプールの差とか、差といっている時点で「同じではない、構造上の違い」をもってして
区別をしてるんじゃないかな。
服きていても、みえなくても、実在してなくても、ハアハアできるし、目の前に裸体があってもしないこともできるじゃん。
わざわざ「混浴にすべき」と声をあげるまでもないんじゃないかな。
それこそ混浴できる状況が世界にあるなら、混浴に旅立てばよいわけだし。
声をあげる時点で、差があって埋めがたくて、離れている高嶺の花だからこそ摘みたいという、自分でハードルをあげて
自分でそこに達成しその感覚に恍惚とするひとりSMみたいな感じなんじゃないかな、と思ったの。
たぶん、お楽しみでされてる話だとおもったんだけど、男女ってそんなイメージしてるほど違わないよって感じも進言してみたくて。
その構造を同一視できたら、性差がなくなるので構造上の問題はなくなるんじゃないかな。
アカゲラとアリスイは同じ種類だけど、ぜんぜん別物だと思う人もいるだろうし
イルカと鯨は別物だ、という見解や同一視みたいな感じだったりして。
その多くをすべる環境や教育が構造の差を顕にするときに分別を必要とする差があるんじゃないかな。
男女は構造的にも平等という環境や教育があった文化と、そうではない文化とか。
男女の肉体や混浴の話だけど、肉体の様相と異なる性別の男女や同性に興味を持つ人などをあわせて
「分けよう」という文化にある状況で、肉体の差で分けていることについて
同性の肉体について興味のある人にとって同性との「混浴」は許容されている点について
「どういうものを差として感じ、その差どう扱うかという文化」で性差ができているところから
「構造の差がある」だと思ったの。
シュレディンガーとか観測者みたいな話になっちゃうけど、それを差と確認して認識するまでは
同一だろうし、確認してからは分けられる差かもしれないし、あえて封をあけず同一視することも
人知としてありえるところから、人知にて「男女別湯」になっているところがあるってことじゃないかな。
男性がスカートはく文化があっても、パンストはくことも、ルーズソックスはもともと中年男性むけだったとかも
大胸筋強制サポーターがブラウスから透ける男子がいたりすることも、許容される認識になると
「構造的差異」を同一視する環境がうまれるかもしれないかもと。
男性が下着を買いにいくのに「下着売り場」ではなく「男性用下着売り場」に行くのは
下着を買う以前にその差異を選択するのは「構造的差異に対応していない売り場」を選択しなくてはならないから
みたいな感じで。