はてなキーワード: 敵対とは
「避難所で、夜になると男の人が毛布の中に入ってくる。仮設住宅にいる男の人もだんだんおかしくなって、女の人をつかまえて暗い所に連れて行って裸にする。周りの女性も『若いから仕方ないね』と見て見ぬふりをして助けてくれない」(20 代女性)
東日本大震災から10年――。上記は、「東日本大震災女性支援ネットワーク」(2014年より「減災と男女共同参画 研修推進センター」)による『東日本大震災「災害・復興時における女性と子どもへの暴力」に関する調査報告書』で報告された被災者女性の悲痛な叫びである。
「避難所での強姦、強姦未遂も報告されていますが、それ以外では例えば授乳するところをジッと見られた、ストーカー行為をされたという話もありました。
また、避難所に来ていた看護師の女性が、血圧測定の際に胸を触られたり、ボランティアの女性が後ろから繰り返し抱きつかれたケースも。注意したところ、ボランティアのリーダーから“ボランティアが被災者を叱って指導するとはもってのほかだ!”という声を向けられてしまったというのです。
私たちの調査でわかったのは、被害者の年齢層が、未就学の子どもから60代までと、非常に幅広いということ。子どもの被害の中には男児がわいせつな行為をされた事例もありました。被害者と加害者の関係が被災者同士、支援者同士などパターン化されてなかったのも特徴です」
「避難所で深夜、強姦未遂。“やめて”と叫んだので、周囲が気づき未遂に防いだ。加害者も被害者も被災者だった。110 番通報したので、警察官が事情聴取したが、被害女性が被害届を出さなかった」(50 代女性)
この女性のように、当時は被害届を出さない人も多かった。その理由について池田さんは、
「まずは、加害者も同じ地域の人という場合も多い。今後も同じコミュニティーで生きていかなければならず、性被害を受けたことが地域の人に知れ渡ったり、加害者と正面から敵対したりするようなことは、できれば避けたかったんだと思います」
こういった被害があると、避難所では当然、環境改善を求める声があがると思うのだが、被災者にとってはそう簡単なことではないという。
「避難所の運営ってすごく大変なんです。自主運営の避難所は、地域の方が寝ないで目を回しながらやってる。しかも、東日本大震災は大災害でしたから、運営する側の人たちも、家族を亡くしながら頑張っているかもしれない。
そんな中で、みんなのために物資のことや避難所のことで走り回ってる姿を見てしまったら、安全の問題まで対応してくださいとは、言い出しにくかった。ましてや、責任者が男性ばかりだと、ますます言い出しにくい」
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
「ハマスは1987年に初めて登場し、パレスチナ解放機構(PLO)から分離して独自の組織となりました。この時期には、ハマスの台頭につながる要因として、パレスチナ地域の政治的混乱や、パレスチナ人の反イスラエル感情が大きな役割を果たしました。
イスラエルは長い間、ハマスをテロリスト組織として認識しており、ハマスとの敵対関係にあります。ハマスはイスラエルに対する攻撃を行ってきた組織の一つであり、イスラエル政府がハマスを支援したという具体的な証拠はありません。
ハマスの成立や台頭は単一の要因に帰せることは難しく、多くの要因が複雑に絡み合った結果として生じました。ハマスの成立について責任を負う証拠はありません。」
このご時世だからこそ杉並区防災無線ジャック事件のWikipediaを読んでみる
1985年(昭和60年)6月22日21時45分頃[1]、杉並区内の小中学校など公共施設104か所[1]に設置された防災行政無線屋外拡声子局のスピーカーから突然、1985年東京都議会議員選挙に立候補を表明していた人物を中傷する内容[1]の女の声[2]が大音量で流れ出した。
でもなんでそんなことを…
中傷演説で言及された長谷川英憲は、1967年以来中核派の支援を受けて杉並区議会議員を務めており、当時は東京都議会への鞍替えを表明していた。中核派と敵対する革マル派は、本事件以前も長谷川の選挙ポスターを破ったり、宣伝カーを盗んで放火したりするなどの政治活動の妨害を繰り返していた。対する中核派も鉄パイプなどで武装し、選挙妨害を繰り返す革マル派との乱闘騒ぎを区内各所で起こしていた[要出典
世紀末か。流石に盛りすぎだろと読む度思うけどほんとに起きた出来事なんだよなぁこれ
内容は以下の通りであった[要出典]。
「こんなひどい男を都議にしてはならない」
語彙力よ…ここまで壮大な迷惑行為の割に誹謗中傷が小学生レベルって
あまりの音量に、区民はあわてて外に飛び出したという。区ではスピーカーの電源を切るための閉局電波を発信したが音声は止まず[1]、そのまま約20分間[1]ないし25分間[3]にわたって流れ続けた。区民からの苦情が区役所や警察署に殺到し、110番が不通となった[1]。
いやいや、大事件じゃないですか
当時の防災無線は音声に特定の周波数を重畳させることでスピーカーが作動する単純な仕組み(トーンスケルチ)だったため、伝送使用周波数とキーとなる重畳音声周波数が割り出せればジャックすることが可能であった。当時の杉並区では毎日18時に「夕焼小焼」のメロディを流しており、この際の開局電波を解析され、周波数を割り出されたとみられている[1]。
区側が発信した閉局電波が利かなかったのは、妨害電波のほうが強い出力であったためと考えられている[1]。犯人は当日、防災無線と同じ周波数に設定した強力な送信機を用意し、自動車に乗せて移動しながら[3]か、区内のどこかに基地局を設置[1]して妨害電波を流したとみられている
もうこんなんテロ事件だろ。長谷川英憲ひとりのためにここまでするならそのエネルギーを別のことに使えって…みんな同じこというからなぁ
まあ山上みたいにならなくて良かった…のか?
ChatGPTやBingには、聞き方を工夫するべきなのよ。
Bingに聞いてみた。
「25年くらい前にエースコンバットをやっとったときにアライとフォーの意味を理解した」という人がいるのですが、この「アライ」や「フォー」とはどんな意味なのでしょうか?
Bingの回答:
「アライ」とは、味方機に対して「こちらはアライ(ALLY)」と伝えるために使用される言葉で、「フォー」とは、味方機に対して「こちらはフォー(FOUR)」と伝えるために使用される言葉です。
追記:
ってドヤ顔で書いてて気づいたが、Bingの「バランスよく」モードめ、嘘書いてるやんけ!
「フォー」とは、英語で「敵」や「反対者」を意味する「foe」のカタカナ表記です。ゲームでは、自分に敵対する機体や国家を「フォー」と呼びます。
こういうのでいいんだよこういうので。
下に引用した増田だけでなく、Xやnoteで、トランス支持はウヨ!と主張しているTERFをよく見かけるが、この認識はどこから来たんだろうね?
現実の右派は、「自民党・女性を守る議連」に集まった保守政治家だったり、この議連や「女性スペースを守る会」のデモを好意的に取り上げる産経新聞だったりと、反トランスで動いていて、
逆に左派は、『あの子もトランスジェンダーになった』はトランスヘイト本だと批判するリベラルな出版関係者だったり、「女性スペースを守る会」にカウンターデモをかけたしばき隊だったりと、トランス支持で動いているのだが。
どうしてTERFはトランス支持=右派というひっくり返った世界で生きているのだろうか?
「身体的に優れたトランス女をぶつければ女に"わからせ"ができる」「いわゆる女枠は身体男性に占めさせ、シス女は生む機械に専念すれば良い」として右派とトランス支持の強固な結びつきが発生していたりする
なんでこうなるのか、TERFの奇妙な頭の中を自分なりに一生懸命シミュレーションしてみた。
・TERFは元々がウヨ嫌い・自民党嫌いのリベサヨで、共産党や社民党がトランス支持になり失望した今でも、大嫌いなウヨ(自民党)の側には付きたくないので、現実の方を歪めてウヨがトランス支持ということにしている。
・TERFがXで敵対しているネトウヨ兼女叩きアルファアカウントが「女性差別には反対するのに、シス女性よりもマイノリティのトランス女性差別には賛成するフェミw」と当て擦りをしてくるのがムカツク。トランス支持はやっぱりネトウヨでトランス女性はミソジニーの先兵!とエコーチェインバーの中で凝り固まった。
増田にいるTERFは実際のところ、どう思ってるの?
炎上したり、X(ツイッター)でレスバが趣味みたいな輩が、よく受ける被害「悪戯メール被害」
数百件も登録した覚えの無い求人サイト等から届いて、仕事に支障をきたすのだという。
これ以外にも「勝手に旅行サイトに予約された(キャンセル可能な日程で)」、「勝手に出前注文された(1~2人前)」という、類似の被害もある。
何故かリベラル界隈にいる人やフェミニストを自称している人に起こりがち。
不思議な事に被害者となるのは、何故か左翼やリベラルやフェミニスト、及び彼女らに親和性が高い人間が多い。
「警察に行け」という指摘は何故かほぼ無視して、妨害されて辛い、アンチの仕業だ、精神的に追い詰められている、
こんな事は許せないとお気持ち構文を連発する。
申し訳程度に「捜査機関には連絡しています」というが、不思議と逮捕まで至ったケースはほぼ無い。
これだけ被害報告があったら、当然単独犯じゃ無いだろうし、著名人に悪戯メールする様なバカが身元完全に隠し切れてる訳でも無かろうに
何故か捜査は進まず、逮捕もされない。肝心の被害もメール削除や予約キャンセルで対応可能な軽微なもの。
ところで前から疑問なんだけど、「メールがいっぱい来た」「頼んでないものが届いた」
みたいな被害報告をツイッターでする意味が正直分からなかったりする。
犯人がただの愉快犯でもガチのアンチでも、相手の反応が見れて嬉しいだけだろう。
本当に被害にあって大変ならまずツイートする気も起きない人も多いだろうし、しても「被害があったのでこれこれこうこう対応しました」事後報告だろう。
荒らしに反応するのは基本NG、というネットの定石を知らぬ者ばかりでもあるまい。
「同情を集めたい」若しくは「誰かを犯人に仕立て上げたい」以外の意味があるのだろうか?
合理的な説明が欲しい所だが、さすがに自称被害者達には期待が出来ない。
一方で、左翼やしばき隊、フェミニストと敵対した人間には、玄関に汚物をばら撒かれたり、職場に押しかけられ嫌がらせをされたり
基本的にコラボ側も暇側もツイートが目に余る人間が多いので基本ミュートしているのだけど
やはり一都民としては疑惑が真実か否か、団体及び団体周辺の人物の活動に対する疑問に対しての答えが
東京都側が最終的にどう回答するのか、裁判でどう判決が下るのかは気になる所ではある。
なので住民訴訟の進捗については都度見守るしか無いのだが、どうにも暇アノンアノンというかリベラルサイドは相変わらず戦うのが下手だよね。
単純に信頼を失って彼らにとっての「敵」を増やし続けているのが寧ろ見てて歯痒くなるレベル。
住民訴訟及び暇空の活動・言動に対し「信頼が置けない」「裁判には勝てない」というのは「議論」「論評」の範囲だと思うのよ。
寧ろ議論はどんどんやれって話だしそこまでに至らない感想だって自由だろう。
しかし「絶対に裁判には勝てない」とか「敗北を続けている」とか言うのは、議論というよりは「願望」では無いだろうか?
人格がどうだの言動がどうだのオウムだの余命だの、レッテルを貼って貶めるのは(左翼の常套手段ではあるものの)もはや「誹謗中傷」の域だろう。
「暇空は住民訴訟をやる気が無い、興味を失った」とまで言うのは、もう「嘘・デマ」ですらある。
「そういう事にしたいんでしょうね」という、リベラル側の人間の願望が見え隠れ(隠れてない)しているのである。
怒らないで下さいね、まだ住民訴訟すら全然終わって無いじゃないですか。せめて結果が出るまで待ちましょうよ。
堪え性の無い犬じゃあるまいし。
よっぽど後ろ暗い所があるのか、逆張りアンチ精神で騒いでいるのか、などと邪推してしまいます。
(裁判の進捗については寧ろこのぐらいが普通だろう。通常のしょうもない裁判ですら
数ヶ月~一年以上かかるのは当たり前。せめて一般的な法的知識を学んでおいて欲しいものである)
左翼は「議論」「論評」や「感想」と「誹謗中傷」「レッテル」「嘘・デマ」を巧妙に織り交ぜて世論を誘導しようとし続けている。
一昔前からネトウヨネトウヨ、昨今では統一教会認定、壷壷🏺🏺連呼し続けている左翼の常套手段ではあるのだが
陳腐かした党派性運動を飽きもせずやり続けた結果、大衆からの支持を失った事実にいい加減向き合うべきでは無いだろうか?
人間は、「こいつは自分を騙そうとしている」「(騙す気で)悪意を向けられている」と感じた時に、他者への信頼を失う。
左翼やリベラルやフェミニストは、一般市民の大半を愚民だと見下し、口汚い罵倒と薄汚いレッテル貼りとしつつ
都合の良い「事実」とやらを突きつければ、一般市民は嫌々ながらも従い支持するのだと思い込み常套手段を繰り返してきた。
しかしいくらDVしながらオルグをしようとしても、殴られてる方がいい加減「こいつ(左翼)はヤバい、信頼できないし関わり合いになりたくない」と思う様になる。
自分が殴られなくても、他人が殴られながらオルグされているのを客観的に見ると、どちらがより「社会的に正しい」かは余程の馬鹿でも無い限り自ずと理解するのである。
左翼によるDVオルグは少数の味方とその他多数の「敵」を生み出した。
実際には敵対しているというよりは、暴力的な癖に知的を気取っている自称リベラルの事が信頼出来ずに嫌悪しているだけなのだが。
暇アノン(とされる)連中は、時代に適応・アップデートし、従来の左翼やフェミの闘争手法を取り入れながら大衆からの支持を集めようとしている。
けれど左翼はどうだろうか?
暇アノンアノンに代表される様に、相変わらず昔ながらの思想的暴力を振るって世間にアピールしているだけでは無いだろうか?
結果、デマも含めた誹謗中傷や個人に対する暴力も否定しない姿勢が、より左翼やリベラル界隈への信頼を地の底の更に底まで貶めてはいないだろうか?
余命事件をあげつらい愚弄する連中がやってるのは、結局余命カルトと大差無い手法(嫌がらせ)を繰り返すのは
もはや笑えないブラックジョークとでも表現すべきなのだろうか?
暇空が信頼出来ない以上に、暇アノンアノンの方が余程信用出来ないので、相対的にマシに見える。
自ら勝手に野蛮を晒し評判を下げていくのだから、数と権力の圧力にさえ負けなければ、これ程戦い易い相手も無いだろう。
進化も出来ずに寧ろ退化している左翼・リベラル(暇アノンアノン)が、既得権力の差を見せつけるのか
「ネトウヨ」(とされてきた人間・集団)のアップデートされた戦い方が勝つのか。