はてなキーワード: 小田嶋隆とは
id:dmekaricomposite です。id:gryphonさんとちょっと論争をしたのでそのまとめを書きます。ブックマークだと整理しにくいので。
まず発端は小田嶋隆さんのコラム「招待客1万人の口を封じることはムリ」https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00044/
その中にこんな一節がある。
「メディアは3日で飽きるだろうし、野党が粘ったところで国民の関心はどうせ1週間ももたない。われわれは匙を投げるだろう」
「桜が1週間で散るのは、われら日本人が飽きっぽいからだ。それほど、この国で暮らす人々の思考は持久力を欠いている」
これに対しid:gryphonさんはこんなブクマを書いた。
gryphon この問題に関し「われら日本人が飽きっぽいからだ」と全体の民族性を論じられるならGSOMIA破棄に関して「韓国の人は感情が高ぶった時に何をするか分からない」(武藤正敏・元駐韓大使)も許容される?
これに対し私は
dmekaricomposite id:gryphonどちらも言うべきではない言葉ですが、自責と他責とでは基準が違うのが礼儀というものでしょう。もちろん自責の基準の方を厳しくする。相変らずリベラルへの逆張りがお好きですね。
と書いた。その後の応酬は次の通り。
gryphon id:dmekaricomposite さん、言論評価をその国籍や血筋で変えるって”リベラル”から遠い話では/そしてその前提に立つと例えば「小田嶋氏は日本人?」ってのが正当な問いになる/ブクマを書く私や貴方の血筋・国籍も含め…
dmekaricomposite id:gryphon「どちらも言うべきではない」というのがリベラルとしての私の答えですよ。しかし私はリベラルだけで成り立つわけではない。「自分への評価は他人より厳しくすべきだ」というのが保守としての私の答えで(続
dmekaricomposite 続)私の中のリベラルと保守が葛藤した結果「どちらも言うべきではないが自責が他責より重い場合は情状酌量の余地があり、あまり強く責めない」という折衷案に落ち着くわけです。人の属性を問う社会は望みません。
この後二日間応答はなし。
補足すると、小田嶋さんが国籍をごまかし自責のふりして他責をしている可能性については「信用するしかない」というのが答え。人の属性をむやみに問う社会はまっぴらごめんだから。だまされているかもしれないがそれはリスクとして抱え込むしかない。
優先順位としては「属性であれこれ言わない」が最善、「属性であれこれ言った場合も自責なら基準を甘くする」が次善、「属性であれこれ言った場合全て厳しく糾弾する」は原理的には理想だが現実的にはあまり推奨しない。「属性であれこれ言い、他人の属性も問う」は最悪、というのがとりあえずの私の答え。
以上で今回の件は終了ですが私が「相変らずリベラルへの逆張りがお好きですね」と言ったのは以前にも論争したことがあるから。ついでにそれもまとめます。
2018年にid:gryphonさんが「サウジアラビアとカナダの紛争が、派手に拡大中〜人権問題巡り投資凍結や大使追放まで」というTogetterまとめを作った。
dmekaricomposite gryphonさんの行動原理って「リベラルへの逆張り」なんだな、そこはdadaさんと似てるな、と感じさせるまとめ方。これを「どっちもどっち」に落としこんじゃいかんでしょう。民主主義国家の建前は守らないと。
その後の応酬は次の通り。
gryphon 地味な話題のように見えて重要(というかおおごと)になるかもしれん/id:dmekaricomposite id:el-condor両氏、基本今回は当時の『サウジ/カナダ』等の検索をほぼ全収録の結果。見る人の傾向で『偏向してる』と感じるのかな
dmekaricomposite id:gryphon https://twitter.com/sakuranomchi/status/1027138236311695362 https://twitter.com/syuugoro2/status/1026296676330266624 https://twitter.com/buvery/status/1026932083388637184 https://twitter.com/fj197099/status/1026780230625648642 等は?かなり偏りがあると思います。(増田注:現在は追加済)
gryphon id:dmekaricomposite まとめ検索時でそのへん実際見つからずだだが、例えばBurveyさんは https://twitter.com/buvery/status/1026825595492003843 てな論者。当方の収録でもサウジを「自滅」「首をかしげる」「テロリスト量産国」とかあり
dmekaricomposite id:gryphon Burveyさんが偏った問題ある論者なのは同意です。私も与しません。しかしでは「カナダのような思い上がった白人国家主導の国際人権秩序を崩壊に導いて欲しい」は問題ないのでしょうか?選別の基準が疑問です。
gryphon id:dmekaricomposite ああ、問題あって収録せず、の意ではなく氏を入れてもそのままサウジ批判には傾かない、との意/ というか紹介頂いた論者は皆面白く、全部追加したい(※入れたらフリーメーソン云々…って人もいた!)
応酬は以上。しかし「サウジ カナダ since:2018-08-06 until:2018-08-11」で検索すると私が二階で指摘したツイートは普通に見つかるので「まとめ検索時でその辺見つからず」というのはおかしな話だなと思う。やはりid:gryphonさんの行動原理はリベラルへの逆張りで、人権重視のカナダへの印象を悪くさせるためにツイートの取捨選択をしたのではないかという疑念が拭えない。
いろいろ書いたけど私はid:gryphonさん好きなところも多いです。藤子不二雄の小話、様々な物事の起源調べ、等々。勉強になることが多々あり感謝してます。どうして去年からTogetterをOOEDO4というサブアカウント(ですよね?)でまとめるようになったのか地味に気になっています。
津田氏は、ITライターのような事をやっていたが、別にITに造詣が深い訳では無く、本人に言わせれば「食うため」とはいえ、犯罪指南のような記事を書いて糊口をしのぐような仕事をしていた人物だ。溝口敦がいくらヤクザノンフィクションを書いていると言っても「ヤクザの成り方」「ヤクザのような金儲け方法」みたいな記事は書いていなかったろうから、根本的に作家としても何段も落ちるような仕事をしてきた人間だと思う。
どうして大学教授で大規模現代アート展のトップとかやっているんだ?本当に意味が解らない。
小田嶋隆だって、ITに詳しくない暇ねたIT方面ライターとして、その方面で知識を伸ばす事も無く、埋め草のような与太記事を書いてきた作家だと思うが、なんで世間に物申すオジサン知識人みたいな顔しているんだ?そもそも、良識左翼なんて心底バカにしたような記事を書いてたと思うんだが…これが老いるという事なのかも知れないが、本当に不思議。
今回の件は間違いなく、「左翼の言論弾圧」ではなく「新潮社の卑怯な逃げ」
各種月刊総合誌のなかでも、新潮社と文藝春秋社は、文学系出版社だけあり
政治的な議論にとどまらずサブカルチャー的視点も大きいのが特徴
今はなき文藝春秋社の『諸君!』での坪内祐三の「1972」みたいな連載は
産経新聞社の『正論』みたいな政治論偏重のマジメ右派論壇誌ではありえない
『新潮45』は小田嶋隆だの古市憲寿だの単純なウヨではない論客も多く起用していた
少なくとも『新潮45』には、杉田論文について賛否両論併記で再論する
これが週刊文春だったら、以前に朝日新聞とモメた池上彰がみずから
朝日新聞を一方的に非難する文藝春秋社に疑義を唱える記事も書いてた
柔軟性とか自浄作用だったんじゃねえかと思うんだがなあ
NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20180807_734722.html
アンケート結果はリンク先を見てもらうとして、どういう識者がどの総理を選んだのかをまとめてみる
(※ただし、それぞれの識者がどの順位にしたのかは表記されていないので不明)
(※あと3人選んだ人がいないように見えるんで、全部列挙されていないのかもしれない)
あんなサンデーモーニングにでも出れそうな、眠い関口宏みたいな事を言いまくる人になるとは思わなかった。
そりゃ元々文系でコンピューターの突っ込んだ話を書ける訳じゃないから「パソコンライター」みたいな路線で突き進む事が出来ないのは判っていたけど。今はサッカー観戦がご専門なのかな?
あれで何となく支持者みたいな人もいて文筆家としてやっていけているんだから、それなりに需要はあるんだろう。ただ、私にとっては何の魅力も感じないというだけ。たまにRTとかで回ってきてがっかりするのがイヤなだけ。ラジオのコメンテーターとしても精彩に欠くよ。位置的には近いえのきどいちろうさんあたりと比べると本当に。
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって / 前田拓也 / 社会学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2
小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。
近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。
「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。
引用されている部分以外で小田嶋というひとがどういうことを言ってるのかは本がないので知らないが、
ここで「『学級委員長』的言説」といわれているものはいわゆる「心にもない綺麗事(上の引用部では『建前』)」というやつだろう。
「心にもない」という部分が重要だ。
「綺麗事」の脆弱性は、まさに「本人が心にも思っていない」点にある。
だから、露悪的な『本音』トークが『建前』に勝つのは当たり前だ。信じていないものと信じているものが衝突したときに、残るのはかならず後者だ。
『聲の形』という漫画がある。映画化されて、昨日公開されたばかりの作品だ。
この漫画にはまさに「委員長」である川井という少女が出てくる。彼女のキャラを一言で説明すると、偽善者だ。
小学校のクラス内のいじめに消極的に加担し、しかしそのいじめが糾弾されるようになると「わたしは止めようとした」と一転して自己保身に走る。高校生になると入院したクラスメイトのために「千羽鶴を作って贈ろう」とクラスで提案する。自分の容姿の優位性や「涙は女の武器」であることを巧みに利用して周囲を操り、それでいていかにも私は良い人ですという面で歩いている。
しかし彼女は自分自身を偽善者だとは思っていない。「私はいじめに加担してない」と本気で思っているし、「千羽鶴を折ることが良いこと」だとも本心で信じている。
メタ認知になれたネット民からすれば「浅い」人間に思われるだろう。漫画で後半、彼女は自分の無意識の計算高さに勘付く展開になる。それは置いといて、現実にも「千羽鶴を折って送ることがいいことだ」と何の留保もなしに信じている人間はいっぱいいる。
それをネットでは「自己満足にひたりたいだけの偽善者」と呼ぶ。でも本当にそうした人々は「自己満足」なんだろうか。
こと千羽鶴に関しては「ごみ処理する手間がかかる」「送られる本人は千羽鶴なんかより欲しいケアがあるはず」などといった「送られる相手を慮れ」問題が絡んでくるので一概には言えないが、「良くなって欲しい」と虚心坦懐に、千羽鶴にまるでまじないでもかかっているかのように信じている人は一定数いる。
素朴な人々、とネット民なら言うだろう。
だがその浅薄な思いやりはかつては「本音」だった。今だってそうだろう。
それが、「建前」や「心にもない綺麗事」であると、いつのころからか批判されるようになった。
思いやりには相手の事情を勘案しない「浅い思いやり」と相手に寄り添った「深い思いやり」があって、後者だけが本当の「親切」であると、いつのころから、そういうことになった。
単に「こう言えば賢いように思われる」「こう言えば周囲の仲間たちにデキるやつだと思われる」という、昔からよくある付和雷同的な同調圧力の結果なんじゃないんだろうか。
「反知性主義」だの「本音主義」だの言ってる人々は、自分の「本音」が何で、どういう部分が「建前」なのか、一回も考えたことのない人たちなんじゃないのか?
日本代表戦、私はこう見た 4氏に聞く サッカーW杯(朝日新聞 2014年6月26日付39面)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11209795.html
サッカーファンで知られるコラムニスト・小田嶋隆さん(57)は「サッカーは進歩しているが、メディアが成長していない」と指摘。「テレビ番組は、サッカーと縁の薄いアイドルや芸人を呼んで応援報道を繰り返し、期待感だけをあおるものが多かった。日本サッカーの将来につながる番組づくりを」と求めた。4年間の強化の方向性は間違っていなかったとみる。「短期決戦に運・不運は付きもの。一喜一憂せずに『たかがサッカー』ぐらいに受け止め、粛々と強化を進めることも、サッカー強国への道だ」
小田嶋隆が発する床屋政談・テレビ批評・サッカー論議については低レベルなものが多いが、このコメントも輪にかけて酷い。だいたい、このオッサンが本当にサッカーのことをわかっているのかどうか甚だ疑問だし、そんな小田嶋にW杯の識者コメントを求める朝日新聞もどうかしている。
まず「メディアが成長していない」と書く。まるで『サッカーに無知なマスコミどもはサッカー通の俺様に跪け』と言わんばかりの上から目線である。そもそも、日本サッカー不毛の時代であった1960年代で世間の話題になったのはメキシコ五輪での銅メダルくらいで、海外サッカーの試合もテレビ東京が細々と中継録画で放送してたのだから、そういう時代と比べると新聞やテレビはもちろん、インターネットとかエル・ゴラッソみたいなサッカー専門紙まで創刊したのだから、メディアは少なからず成長しているのがわかる。
だからと言って、サッカーが日本の国民的スポーツになったかといえば、答えはNoだ。プロ野球人気が陰りを見せ始めた1990年代にJリーグが発足しサッカー人気が高まるかと思いきや、テニス、バレーボール、水泳、ラグビーなどそれまでプロ野球の陰に隠れがちだった競技もスター選手の登場で人気に花が咲いた。こうして起こったのが『趣味の細分化』である。もちろん競技人口においてはサッカーのほうに分があるが、これほど趣味が細分化した現在においてサッカーを国民的スポーツと決めつけるのは無理があり過ぎる。ましてや欧州や南米みたいに“文化”としてのサッカーが日本には根付いていないから尚更だ。
ひとつ、例え話をしよう。企業が新商品を世に送り出すとき、如何にして巧妙な宣伝をおこない自分たちの商品を世間に浸透させるのか。最も手っ取り早いのが「有名人の起用」だ。宣伝効果は絶大だし、有名人側も名前は売れてイメージ向上にもつながるから一石二鳥だ。しかもライバル企業も違う有名人を起用して対抗してくるから、宣伝・広告費は各企業において重要な支出のひとつになってくる。これと全く同じことをやっているのが、日本のスポーツ界である。日本のスポーツ中継やスポーツ番組には必ずと言っていいほど有名人やその競技の元スター選手などが解説者として登場して、世間の注目を集めようと努めている。サッカーも例外ではない。世間的に“広く浅い”層にいる人たちは、有名人の出ないスポーツ中継には関心を持たないし見向きもしない。コアなファンたちはとっくの昔にBSやCSの“専門的な”番組に見入っている。答えは明白なのだ。