はてなキーワード: マーケティングとは
※実際日本人はクソですよ!とかそういう話ではなく、この指数謎じゃない?というシンプルな疑問
競馬で思ったより勝ったから日本財団にちょっと投げた。その時にホームページ見てたら謎な記事発見した。
「世界の人助け指数でワースト2位。なぜ日本は寄付文化が広まらない?専門家に聞いた」
https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2023/90766/social_contributions
そりゃあひどい、というかどうやって調べたんだろう?困ってる人がいたら助けるかとかの社会実験?それとも寄付の金額?と思ったら
『「寄付をしたか?」「ボランティア活動をしたか?」「見知らぬ人を助けたか?」などの質問に対する回答を国ごとに集計したもの』
そんなんさ、「道案内した」という同じ行為に対する受け止め方でも「俺は素晴らしい人間だ、神に認められるべき」と思う人もいれば「いや当たり前だろそんなん人助けなんて大袈裟だわ」と思う人もいるわけだし
ボランティアをしたか?寄付をしたか?も、ボランティアや寄付というものが身近にあるかないか、その時間が与えられているかどうかでも違う
そもそも「助けを求めるような人がたくさんいるか、その支援を国がしてるか」にもよるし…日本はまだマシなほうっすよ
俺は小銭が出たら財布軽くするために必ずコンビニやスーパーの募金箱に入れたりギャンブルで多めに勝ったら運を調整するためにあしながとか日本財団とかに投げたりするけど「寄付してますか?」って質問されたら「寄付…?あれは寄付なのか…?寄付してるって堂々と言える基準とは?」ってなるし
まあ何が言いたいかと言うとさ、こういうわけわからん指数出して「な、なんだってー!🤯それは恥だなあ!急いで寄付しなきゃ!」ってなると思ってんならやべえよなって話
逆効果どころの話じゃないし寄付への抵抗感強まるだろ そんなわけわからん話してくる団体に金預けられないと思う人もいそう
あとさ
俺、家庭環境に恵まれなかったから大人になってから子供の教育・支援とか大人の人生のやり直し的なこと支援してる団体の毎月サポーターになったりしてんだけど
こんなこと書くとアレだけど、そもそもまともな人が少ない
これはある意味仕方ない事で、よく言われるように「助けを求めてる人は助けたい姿をしていない」っていうのはガチなので、まとも(繊細)な人ってNPOを長く続けられない 俺は支援側にいたこともあるから分かる
クセ強メンタル強者or割り切りすぎてる人or自分の中で自分をヒーロー・ヒロインに仕立て上げて突き進む人がほとんど
そしてビジネスにも疎い人が多く、特にマーケティング・ライティングあたりがなってないからいい事やってんのに全然伝わってないとかよくある せめてHPは真面目に作れよ…というか、HPなどを真面目に作ることが活動の一部だということすら理解してない人も多い
あとネットリテラシーも酷くて、NPO法人の代表がX(Twitter)で政治のフェイクニュースに向かって吠えてたり一般人と口汚くレスバしたりしている 普通に嘘つくやつとかもいる(多分自覚なし)
あと、「日本にはこんな問題があります。日本は酷い国です。でもこんなゴミみたいな現状を変えたいのです。ゴミ日本人の中でもまだマシなみなさん金お願いします」みたいなノリのNPO法人多いんだけどさ
まともなNPO法人はデザインにも文章にもイラストや写真にもこだわって誰にでもわかりやすいように「日本にはこんな問題があります。こういう人が困っています。でも、このような支援があればこのように改善されます。そして改善されるとあなたにはこのようなメリットがあります。ぜひ寄付お願いします。あなたは素晴らしい優しい人です。」くらいの感じでやってんのよ 海外の有名NPOもそう
いくら優しい気持ちを持った人でも、寄付する人を尊重しないとこには金落とせねえのよ それは当然のことなんだよ
カスみたいなNPO法人がまともなNPO法人の邪魔をし、日本人のNPO法人アレルギーを生み出してる=人助け指数がなんちゃらとか言われるハメになるんじゃないかと
ほとんど悪いところはない。恋愛とか婚活のマーケティングがただ単に良くなさそう。周りに女性いない職場とか、理系にありがち。
もし実家暮らしなら家出よう。年収1000万あって実家暮らしは相当きもい。
あと童貞なら、とっとと店で捨てよう。女性に幻想持ってるのは良くないし、35の童貞はマイナスポイントすぎる。挙動や言動にも無意識だけど、かなり影響してる。
オレオレFCの野河田彰信監督が4日、オンライン取材に応じた。この日は6日のホーム・北海道コンサドーレ札幌戦に向けて、オレフィールドで非公開で調整した。
2日の天皇杯4回戦は昨年王者・ヴァンフォーレ甲府との厳しい戦いを逆転で勝利し、2年ぶりの8強進出。指揮官は「よう走れていたし、当たり前やけど、挑戦者として、戦う姿勢を持って、やるべきことを頭において戦ってくれたとは思いますね」とたたえた。
注目は今夏加入したMFヤゴ・リカルド、2年ぶりにオレオレFCへ復帰したMF藤崎、FW植村の起用だ。21日に登録はされたものの、戦術面などの兼ね合いで22日のFC東京戦(味スタ)、2日もベンチ外だった。野河田監督は「最終的な決断は明日やから」としながらも「3人ともベンチには入るとは思いますよ」と明かした。ただ「天皇杯で前田らがアピールしたんでね」と、いきなりのスタメンとはならない見通し。それでも「それぞれが違うスタイルやから、そこでどんな化学反応が起きるかは楽しみなところですね」と期待する。
ホーム3連戦の初戦。札幌は攻撃の中心だったMF金子拓郎がクロアチアのディナモ・ザグレブに移籍したが「そんなん、誰がいないとかで自分たちに自信がつくことはないやん」と油断はなく、「嫌な事をする選手がおるから」と菅大輝、浅野雄也らの名前を挙げながら「プレッシング言うても、この暑さやから、体力無駄に減らしてもしゃーないんでね。この時期はメリハリ良く戦えるかが重要」。攻撃的に出つつも、時間帯によっては我慢しながら相手の隙を突く。そういう戦い方を指揮官は描く。
チームはリーグ戦4試合未勝利。天皇杯でまず悪い流れを食い止めた。「ホーム3連戦なんで、当然勝利は目指さなアカンところ。選手はみんな分かってるし、こちらからは何も言う必要ない」。信頼する選手と新たな戦力を加え、共に残り試合を戦い抜く。
天皇杯準々決勝の組み合わせが4日に行われ、オレオレFCはヴィッセル神戸と8月30日にロイスタで対戦する事が決まった。
また、天皇杯実施委員会の中野雄二委員長が4日、都内で浦和サポーター暴走事件の現状を説明した。2日に名古屋VS浦和で試合後、100人以上の浦和サポーターが暴走。名古屋の応援エリアに侵入して警備員や職員ともみ合いに。最後は愛知県警も出場する事態となった。
中野雄二委員長は「現時点では調査中」と前置きし「警備がどうであったかなど今後の検討課題がある。二度と起きないように、クラブまたはサポーター、運営している都道府県協会の方も含めて協力して、安心で安全な大会を作っていく」としながらも「今後の進捗次第では厳正な処分もある」と話した。
浦和はすでに3日に処分を発表。侵入を主導したサポーター31人に、浦和の出場する9試合への入場を禁止。リーダー1人を16試合の入場禁止。侵入したサポーター45人を厳重注意とした。また、4日には田口誠代表取締役社長と須藤伸樹マーケティング本部長が明日5日に会見を開くことも発表した。
政治社会経済文化がどのように動くのか、については、分析的一般論の体系は数学や物理学のレベルではまだ存在しないと思う。
「〇〇政府でクーデターを起こす前提条件は、▢▢の定理の前提条件をみたすよう「メディア掌握率が90%以上」「将軍のカリスマ性がレベル4以上」「米国か中国かロシアとの関係性が4以上」みたいなゲーム的な数値化可視化もないし、前提条件を満たせば必ずそうなるという因果性も低い。
でも解析的な歴史学というのはシミュレーションやデータ分析手法の進んだ今日では可能性はあると思うし、マーケティングなどにも活かせる可能性はあるかもしれないな。
結局この類の問題は、「本人は真面目にダンスをやっていくつもりだけど運営側は乳揺れを想定したマーケティングをしている(意図せずグラビア的な売り方をさせられている)」ということに尽きると思う。本人は真面目にゲームをしたがっていても運営の企画とかは明らかに異性リスナーの目線を意識したものしかない。
勉強できない人は他の仕事やれって言ってるけど、こいつら無意識に他の職業の人は勉強してないと見下してるんやろうな。
本当に視野が狭いと思う。
コイツラはプログラミングやらなんやらの知識を身につけることしか勉強と考えてない (あえて技術とは言わない)。
英語や資格の勉強はもちろん勉強だし、経理であれば会計分野の法律改正、医療であれば新しい治療•診断•薬剤、接客業やコールセンターであれば新商品の知識。
企画やマーケティングであればここ数年サブスクビジネスの書籍読んでる人も多いだろうし、自己啓発で本読んでるのだってそれも勉強。
そして新しい機器、システム、オペレーションなんかはどんな職種でもある。
こういうのはさ、ITエンジニアが「我々は勉強してるんだ!」なんて主張する以前に他の職種では呼吸するくらい自然にやってるんですわ。
日本人にはお気持ち長文の方が響くから、その方が効果あることによる結果論だと思う。
ロジカルに客観的な立ち位置で書くと、その問題が深刻でないとの印象につながるようだ。
さらに筆者にえらそう云々と反感を持つ読者も少なくなかった。
過去も、悲劇的な事件(幼児や家族複数の犠牲など)→世論の盛り上がり→法制化という流れが多かった。
ロジカルに考えてあるべき論を考える人も、世論や実現性のために、お気持ちマーケティング方法論を取らざるを得ない。
普通に自由競争やった結果、日本市場ではお気持ち長文が勝ち残って来たんだ。
しかし義務教育でライティングはこうあるべき、議論はこうあるべきと教育したら、
今度は逆に、鬼の首を取ったように、お気持ちマーケティングが批判対象になるかもしれん。
多数派の日本人は、同調圧力に耐性がなく、白い目で見られないようにする=世間体。
日本人は挑戦しなさすぎだし、真面目に問題解決しようとしません。
日本人の学生は、「自分は創造性ある」と思っている人がとても少ないらしいです。
挙句の果てには、小泉政権に「B層」という言葉を使ってマーケティングのターゲットにされています。
趣味や娯楽にばかり使っていませんか?
何故なら、B層の多い日本をもっと有意義な国にできるからです。
一緒に出し合ってみましょう。
・Twitterの姉妹サイトとして、例外的に13歳未満でも親の許可があれば使える社会問題を議論する場所を用意する
・コミケに社会問題を解決するための同人誌(社会問題をテーマにした同人誌)を置くコーナーをつくる
皆さんの意見を聞かせてください。
理由は簡単で、お絵かきという単調な繰り返し作業で人生の多くの時間を浪費した結果、
普通は身につけるはずの知識やリテラシーをインプットしておらず、論理的に物事を考える習慣も失っているから
要は学校にもろくに行かず引きこもってたネトゲ廃人みたいなものなんで
そのネトゲがサ終しそうになって癇癪を起こしているというのが実態
生成AIの浸透はそういった視野の狭いお絵かき廃人から脱出して冷静になるきっかけを与えられると思うし、
絵師さん達はお絵かき作業を省略しつつ、マーケティングなどより創造的で思考を要する仕事に注力出来るので
クリエイティブのレベルが大きく跳ね上がり結果的に全員が前向きになれると予想している
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も非公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。