はてなキーワード: ポルシェとは
森口博子のアルバム『GUNDAM SONG COVERS』が、2.5万枚を売り上げ、8/19付オリコン週間アルバムランキングで自己最高位の3位に初登場。『Eternal Songs』(1991年6月21日発売)が1991年7/1付で10位を獲得して以来、28年2ヶ月ぶりのTOP10入りとなった。
ですが、森口博子さんは歌手なので、モビルスーツを持っていません。
このままでは、悪のキングレコード星人と戦うときの武器がありません。
なので、森口博子専用Zガンダムを建造して、悪のキングレコード星人を倒しましょう。
悪のキングレコード星人はスターチャイルドでもあるので、スターをブレイカーするこの武器によって滅ぼされました。
森脇健児、森口博子、森且行の三人は夢がMORIMORIという面白番組で培った友情があります。
なので森口博子専用Zガンダムと森且行専用Gディフェンサーは合体して、スーパーZガンダムになれるに決まっています。
林原めぐみはヤーンバッシュなので、カイエンを乗りこなせるに決まっているし、
キングレコード星のことをよく知っているので道案内もしてもらえる。
(※いくらググっても、林原めぐみがヤーンバッシュ役で花の詩女に出てたことが書いてないのですが、これ僕の捏造記憶? あれ? まじで? 最後の方に出てきて、すえぞう(ラヴ)の方みて「いつかあの子も……」(受精卵の状態のカイエンのことを示唆する)みたいなこと言ってなかったけ? あれえ?)
かつらをプレゼントして宇宙世紀の神の髪に祈りを捧げましょう。
KはかつらのKです。
一流芸能人GACKTの歌声を聞けば悪のキングレコード星人もヤックデカルチャーし、敵のフォウ・ムラサメの声も変わってしまうに違いありません。
以上です。
森口博子専用Zガンダムは、悪のキングレコード星人が全員沖縄に引っ越してしまったので、戦えませんでした。
一流芸能人GACKTさんの手引きがあったのか!? と噂されていますが、そんなわけありません。
森口博子さんのサムライハートにビビって逃げ出してしまったのでしょう。
次回は、ランティスでやりたいです。
この話題について。
ネットに広まる「魔女っ子は放送禁止用語」説 調査して分かった「放送で扱いにくい理由」と「一般人が納得できない理由」 - ねとらぼ
先に結論から言えば「放送禁止用語」という言葉は放送局では使われていない。「使用を注意する言葉」というものがあるだけだ。言葉の言い換えかよ、というツッコミが入りそうだが、そういうことではないのだ。以下は、そのお話である。
まずはこれだ。最近はそれほどの差もなくなってきたが、それでもニュースでは絶対に使ってはいけない言葉、というのがある。例えばおおよその量を示す「約」。別に規制する理由もなく普通に使われている言葉だが、これを「やく」と読むニュースは稀だ。おおよその量を示す言葉のあとには必ず数字が来るが、どんなにいい滑舌でこれを読んでも「ひゃく」と聞き間違う人が出てくるから、必ず「およそ」と読むことになっているのだ。だから、訓練されたアナウンサーは完成された原稿でなく普通の文章を読むときもふりがななしで「約」が出てくると「およそ」と読んでしまう。ミステリーなんかの伏線に使えると思うので使いたい人は使って欲しい。
「ら抜き言葉」には気がついている人もいるかもしれない。別に放送禁止用語でもなんでもない言葉なので、街頭インタビューを受けた人でもそれを修正するよう言われた人はいないと思うが、文字起こしでは必ずら抜き言葉ではない表記に修正される。これはバラエティでもそう。お笑い芸人は言葉を使うプロではあるが言葉遣いのプロではないので、ら抜き言葉は時々登場するが、テロップ上では大体の場合ら抜き言葉ではない表記になっているはずだ。逆に訓練されたアナウンサーはら抜き言葉はまず使わない。
NHKが「テトラポッド」や「真っ赤なポルシェ」の出てくる歌詞を規制した、なんて話が過去に言われたことはあるし、NHKは商売抜きでの放送を強いられているのでそういうところに敏感だ、なんて話も聞くことがあるが、この辺実はNHKと民放で差が縮まっている部分ではある。民放は民放でスポンサー競合などを嫌うため、特定の商品紹介でない場面では番組内で商標を使うのを控える傾向にあるのだ。セロテープはそのいい例だろう。ちなみにガムテープも「粘着テープ」という言い換えがまま見られるが、実はその意味でのガムテープは今は商標登録されていない。明治がお菓子の名称として3年前に登録したきりなのだ。明治の「ガムテープ」ってお菓子を見たことはないがそういうアップデートが遅れているところはままあるものではある。余談ではあるが、最近テレビで「無化調」という言葉が特にラーメン紹介で使われているかは調べると面白いかもしれない。
マスコミ、特にテレビは少なくともニュースでは「東北本線」「国道4号線」とは言わない。「東北線」「国道4号」という。これは現場間の用語統一のために決められていることでまあ説得のために屁理屈は付いているのだが屁理屈以上のなにものでもないので記載は省略する。そもそも「東北本線」は他ならぬJRが使っている言葉なのだがマスコミはそれを何らかの事情で使わないことがある。またニュースではないが、商品紹介の際の形容詞まで決められていることもあったりするものもあり、例えばあるビールでは「すっきりしているのにうまみも十分」という表現しか出てこない((この表現で検索するとある1つのブランドしか出てこなくなる))。まあこの辺はまともな事情から大人の事情まで様々ありすぎて一言では言えない。近々近場では「岩手公園」が「盛岡城跡公園」に名称変更されたのだが、これがまた正式名称の変更ではなく愛称として別の名前をつける、という複雑な命名の仕方をされたためNHKと少なくとも地元民放1局は改名前のまま「岩手公園」として呼ぶという複雑なことになっている。ちなみに残念ながらかどうかはわからないが、本名能年玲奈さんはこの辺でも度々テレビに出ているのだが、その時は「のん」呼びされてはいる。仮に何かの犯罪で逮捕されたら「『のん』こと能年玲奈容疑者」呼びになるんだろうなと思うが未だ犯罪では逮捕されていないので蛇足でしかない。
ここまで挙げた例はおそらく一般の人が思い浮かべる「放送禁止用語」とは違っていると思う。だから「使用を注意する言葉」は「放送禁止用語」とは別物であると言ったのだが、「使用を注意する言葉」とみんなの思い浮かべる「放送禁止用語」が重なる部分は存在する。それが「蔑称」である。被差別階級や身体障害などに関わる話だけなら判断は簡単そうだが、何らかの職業の後に「屋」をつけて呼ぶような、後から蔑視の意味で使われるようになった言葉まで考えるとどこからどこまでが明らかな「放送禁止用語」かは言えず、だからこそ「放送禁止用語」ではなく「使用を注意する言葉」なのである、とも言える。
実際「魔女」が蔑称なのかと言われると確かにそういう場面もありそうだが日本ではまだそういう場面は少なそうでもあり、昨今は例えば百姓、みたいに自称の場合は問題ないんじゃないかとか、「めくら」みたいに過去許されても今許される表現ではないんじゃないかとか、有料視聴の場所なら但し書き付きでいけるんじゃないか、いや但し書きつけられるならどこでもいけるんじゃないかといろんな異説が生まれつつリアルタイムで揺れ動いている話題であり、個々の言葉ごとに注意度にもグラデーションがあり、少なくともこれらはなんの留保もない「禁止用語集」みたいなところでまとめられるものじゃない、ということは繰り返し言っておきたい。
『頭の悪い人しか自動車(マイカー)という負債を持たない』という現実
これは資産、負債という考えからしても刑務所懲役、実名、顔面公開リスク、自動車依存者は自転車利用者より短命という事実からしてももはや確定してる。
https://i.ytimg.com/vi/CH8CdUt_T6c/hqdefault.jpg
画像は経済のプロである上念司さんで、自動車は馬鹿しか買わない負債という事実を広めてくださっている著名人です。
ちなみに同じく資産1億円以上を有する堀江貴文、西村博之など自動車オタクや自動車カルトではない現代的な実業家ほど、車という馬鹿しか買わない負債は持たない現実があるようです。
https://i.imgur.com/SmAYYZt.png
https://i.imgur.com/ZGPRrdY.png
やはり、今後ますます合理性を重んじてオウム真理教みたいな自動車カルトに毒されていない真っ当な考えの人ほど車離れするのでしょうか? よろしくお願い致します。
そういえば自動車評論家の森野恭行さんが白いポルシェを暴走させて単独事故死したという記事をネットで見たことを思いだします。
自動車という凶器でテロみたいなことをするのが自動車オタク・自動車カルトだということです。
自動車はガソリン等危険な燃料を搭載している関係で衝突などのはずみで出火炎上し乗員が苦しみながら焼死する事例も相次いでいるようです。
自動車は減れば減るほど渋滞も重大事故も公害も肥満も減らせますよね。
特に自家用自動車=マイカーは邪魔で迷惑な公道の癌として各国の特に都市部で規制強化が進んでいるほどですから。
イギリスの首都ロンドンは自動車から通行課税を徴収し、それを元手に市街地における自転車専用道ネットワーク整備を進めているほど。
日本もそのように変わっていくのは自動車走行距離課税制度などの実施で改めて痛感しましたが、私たちは負債の処分も含めて利口な判断をしたいものですね。
「トヨタグループの御曹司にしてレーシングドライバーでもある」という自己イメージに陶酔し切っていて、(一時代前ならそれでも良かったのだが、)クルマを取り巻く状況が静かに変わりつつある今、具体的に言うと自動運転に切り替わろうとしている今、モリゾーがトヨタ最大の癌となるだろう。
自動運転の実用化。これは本当に世界を一変させるパラダイムシフトだ。クルマは運転するものではなくなり、所有するものでなくなり、ただ利用するものになる。
google様が自動運転車のハードウェアとして車を作ってくれとトヨタに打診した時、モリゾーの奴は「人と車との繋がりがなんちゃら」「それがTOYOTAの企業理念だのなんちゃら」とわけの分からない事を言って断った。俺はそのニュースを見た時、これは世紀の大失敗ではないかと思った。googleの自動運転車が今後世界を席巻することはほぼ間違いなくて、そのハードウェアとしての車部分を製造するというのは、IBMがPC/ATを製造する時にそのOSを作ったMicrosoftのような立場じゃないか。巨人の肩に乗るようなものだ。断る理由がない。
しかしそれをTOYOTAは断った。わけの分からない理由を並べ立てて。TOYOTAは仮にも日本最大の企業であり、考えも無しに断るわけがないと思っていた。つまりあれは日本的な修辞であり、本当の理由は別のところにあるのではないか(つまりTOYOTAも独自に自動運転車の計画を持っているとか、だ)なんて考えた。でも新型スープラの発表でメディアに露出したモリゾーを見て、これはひょっとするとひょっとするぞ…と思ってしまった。もしかして、本当にただのバカなのでは、と。
正直なところ、フェラーリやポルシェのような伝統ある会社が言うならともかく、TOYOTAのような大衆車を安く大量生産させてきたような会社のトップが、“人馬一体”だの、“運転する喜び”だのほざいてるのは悪い冗談でしかないと思う。
『頭の悪い人しか負債(自動車)を持たない』という現実について所感を伺いたく存じます。
画像は経済のプロである上念司さんで、自動車は馬鹿しか買わない負債という事実を広めてくださっている著名人です。
ちなみに同じく資産1億円以上を有する堀江貴文、西村博之など自動車オタクや自動車カルトではない現代的な実業家ほど、車という馬鹿しか買わない負債は持たない現実があるようです。
https://i.imgur.com/SmAYYZt.png
https://i.imgur.com/ZGPRrdY.png
やはり、今後ますます合理性を重んじてオウム真理教みたいな自動車カルトに毒されていない真っ当な考えの人ほど車離れするのでしょうか? よろしくお願い致します。
そういえば自動車評論家の森野恭行さんが白いポルシェを暴走させて単独事故死したという記事をネットで見たことを思いだします。
自動車という凶器でテロみたいなことをするのが自動車オタク・自動車カルトだということです。
自動車はガソリン等危険な燃料を搭載している関係で衝突などのはずみで出火炎上し乗員が苦しみながら焼死する事例も相次いでいるようです。
自動車は減れば減るほど渋滞も重大事故も公害も肥満も減らせますよね。
特に自家用自動車=マイカーは邪魔で迷惑な公道の癌として各国の特に都市部で規制強化が進んでいるほどですから。
イギリスの首都ロンドンは自動車から通行課税を徴収し、それを元手に市街地における自転車専用道ネットワーク整備を進めているほど。
日本もそのように変わっていくのは自動車走行距離課税制度などの実施で改めて痛感しましたが、私たちは負債の処分も含めて利口な判断をしたいものですね。
軽いしWifiも4G LTEも繋がるし、バッテリーはオレの使い方だと5営業日持つし、仕事捗るし、軽いし、良かった。
どこでも仕事できるし、とってもいい。
安くなったし、メイン回線と、PC用と安く2sim持てるし、よかった。
RIMOWAとかカッコイイよな~とか悩んだけど、軽くてタフで、安いし十分。ヘコんだりしないしね。
MTで、お出かけにも使えるし、なにより仕事で疲れた後に走らせると全てを忘れられる。
焼きたてウマ杉。
部屋の熱、逃げ無すぎて嬉しい。
軽くて最高に良い。
YAMAHAの。エレキと同じくらいの難易度かと手を伸ばしたけど、ポジションからして難しい。これはレッスンに行かないと、見に付かない。
今のところ、置物になってしまっている。
去年は、PUBGとかやりたい、仕事も家からやれるし!と息巻いていたが、我慢した。
結果的に、忙しくて遊んでる暇は無かったし、遊んでいたら色々な成長機会を失っていたと思う。目もこれ以上悪くできない。
(謎ではないので)
観客にはウリ坊が見えウリ坊の声が聞こえ、美陽(白ワンピ)が見え美陽の声が聞こえる。
こいのぼりにいたずらしているとき温泉郷で働くおとなたちに美陽のことが、クラスでいたずらをしているとき同級生たちに、ケーキを買いに行った夜カラオケスナックのおばちゃんに、ウリ坊のことが見えていないときであっても、織子が認識しているとき、観客は視覚的聴覚的に幽霊を認識している。
他の誰に見えていなくても、織子に見えているとき、画面に彼らは現れる。
逆に物語の途中まで、彼/彼女を織子が認識していないとき幽霊たちはそこにいても画面には存在しないのだ。
過換気発作をおこした織子がポルシェから降りたとき、ウリ坊は彼女に言う。「ずっとおった」と。観客が「おった」ことに気付けなかったのは織子が認識していなかった間である。
木瀬(山寺宏一)の息子が石を落してトカゲをいじめようとしているとき、幽霊(美陽)はそこにいて石に干渉しているが、画面には写らない=観客には見えないし、その場に織子はいない。
途中まで、と書いたのは、あるところでその原則が終わるからである。
クライマックス前、織子にはウリ坊と美陽の姿が見えなくなり、声も聞こえなくなる。
画面にウリ坊と美陽が描かれているのに、織子には見えていない。
織子が幽霊を認識していないのに、われわれには幽霊が見えている。
その時、われわれ観客は誰なのであろうか?
(あとで書き換えます)
「若おかみは小学生! 」の劇場版について、まだ見ていない人がいたのであれば今すぐこんなサイトを閉じて、最寄りの公開館を検索して1800円支払い予約しなければならない。
「歴史に残る」や「必ず泣く」というような強い言葉は使いたくないが、間違いなく傑作であるし大人が1800円を支払って見るには十分価値のある作品である。
さてそんな名作についてレビューのなかで悪しざまに語るレビューも存在する。それもかなり強い語調でだ。
(正直PVを渡すのも馬鹿らしいので出典元表記としてURLは末尾にだけ記載する)
本当に同じ映画を見たのか?と感じるほどひどい内容だ。
ただそれを感情的にコメントしていても仕方がない。そこで何が問題かについて引用しながらコメントしていく。
なお筆者もまだ一度しか映画を見れていない。原作もアニメも見ていないまったくのにわかである。
本編内容について誤解、誤読があれば指摘がほしい。
また、以下盛大にネタバレすることになるため、もしもまだみていなければ今すぐこんなサイトを閉じて、最寄りの公開館を検索して1800円支払い予約しなければならない。
純士 俺ら夫婦はまず、あの絵がダメなんですよ。神社とか旅館とかに代々伝わる霊的なものを題材に取り入れつつ、命の大切さや、別れは寂しいことじゃないんだよってことを描きたかった作品だと思うんだけど、そこにオタク要素の強いキャラが大集合して、絵がワチャワチャしすぎたせいで、なんだかよくわからなかった。着想はいいのに、それを生かせてなかったような気がします。こういうのは絶対、実写のほうがいいですよ。
純士 いや、できると思う。アニメでこういう神社とか旅館とか霊とかをテーマにするなら、宮崎駿みたいな絵じゃないとキツイ。それか『河童のクゥと夏休み』みたいな絵。やっぱ人を感動させたければ、それにふさわしい絵のタッチってもんがあるんですよ。特別きれいなわけでもない、古風な絵。そういうのだったら感動したかもしれない。この作品は、萌え系の絵ですべてを台無しにしちゃった感がある。
中略
純士 いや、それだけじゃないですね。自分が今YouTubeで動画配信を始めたから感じるんですけど、アニメであれ実写であれ、人って、ただ道を歩いてるだけの映像じゃ楽しめないんですよ。転んだり立ち上がったり、知り合いに会ったり音が入ったり。そういう変化やアクシデントがあるから楽しめるんだけど、この作品に関しては、常に一定のリズムで進んでる感じがあって、どこがサビなのかもわかりづらかった。ハッとしたのは、最初の事故だけ。事故のときは、「あ、なるほど。ただのワチャワチャしたアニメじゃないんだな。結構ヘビーな話を放り込んできて、ここからいい話になるんだろうな」と思ったんですよ。ところが、全然そうじゃなかった。つまらないだけならまだしも、看過できない部分もあったし。
絵柄の問題点について。古風な絵 = ふさわしい絵という観点には根拠が不明。「萌え系の絵ですべてを台無しにしちゃった」ということで、後述のように趣味に合わなかっただけ、と考えられる。インタビュアーが趣味に合わなかっただけでは?という質問に対しての返しが、絵柄から動き・アニメーションの話にシフトしていて話がずれている。
ここからは想像だが、萌え絵であるという前提の時点で彼らの嗜好から外れたため、後半部分はそれを強化するための言い訳になっているのではないか。
純士 おっこの勤務体系は、ほとんど労働基準法違反だろ! と思いました(笑)。家業を手伝う場合は労基法に触れないみたいだけど、あのハードワークは手伝いの域を超えてるでしょ。小学生の女の子が、両親が死んだショックを抱えたまま旅館に行ったら、紫メッシュのババアにまるめこまれて、奴隷のように働かされるなんて……。
例えば旅館自体が潰れる寸前で主人公がハードワークすることでそれが建て直されるようなストーリーであれば、直接的にハードワークな描写がなかったとしてもそう感じるかもしれない。
しかし主人公が旅館の仕事に関わる前、旅館に到着したタイミングで来客が来ていることからも、冒頭時点で旅館は女将、中居、板前の三名で運営は回っていて、閑古鳥が鳴いているわけではない事がわかる。旅館のメンバーがハードワークさせる動機がない。
冒頭、父親も「忙しそうで挨拶できなかった」みたいなことを言っている。(はず。この点うろ覚えなので間違っていれば削除します)
逆に、旅館が経済的に困窮しているような描写はない。途中、ピンフリが春の屋旅館の問題点を指摘するが、そこでも潰れそうといった話はない。
ハードワークについても、例えば家に帰ったおっこが自室で疲れている姿をみせるといった描写があればそれも想像されうるが、なかったはず。
主人公は小学校に通い学生生活に支障をきたしているわけではない。放課後に友人たちと遊びにでかけてすらいる。
「紫メッシュのババア」と悪しざまに語っているが、それは旅館の女将であると同時に娘と義理の息子をなくした母親である。その忘れ形見であり、同じそれ以上の痛みを抱えた孫を家族として迎え入れた女将に対して、なぜそのような悪意を持った視点を向けられるのか。
麗子 しかもあのおばあちゃん、おっこの頑張りを褒めたったらええのに、ずっとイビっとったやろ。あれが可哀想で、可哀想で。そりゃ精神的に追い込まれて、お化けも見るわと思ったわ。
女将はおっこのおばあちゃんであると同時に自分の仕事に対してプライドをもっている。おっこに対して強めの言葉をかけるのは仕事に関わる部分だけだ。
ただ、おっこの立ち振舞が上手になっていくことについてコメントするようなシーンはなかったので、全体の印象として女将がフォローをしていないようにみえ、それが「ずっとイビっとった」というように記憶される可能性は考えられるかもしれない。しかし、女将がおっこへの気遣いがないわけではない。裾の長さや、温泉プリンの差し入れなど、おっこに対して明確に気遣いを見せるシーンが存在する。
なにゆえこの夫婦が女将に対して悪印象を持つか意味がわからない。
純士 若おかみとして旅館の看板を背負って成長していく感動の物語……って言うけど、そもそもあの子が望んだ職業じゃないでしょ。最初はいやがってたわけだし、あの子には選択権もなかったわけだから。
嫌がっている描写はない。
つぶやきが誤解され若女将の仕事が始まるわけだが、誤解される途中驚く描写はあるが、否定したり嫌がったりしている描写はない。
選択権がない、というのものどの描写をもって言っているのか不明。旅館に引っ越すための条件として手伝いことを強制されるといった、それこそこの夫婦が想像するような鬼畜じみた人間性の描写があれば別だが、そのような描写はない。ここでもないシーンを勝手に想像して自ら悪印象を植え付けている。
親が死んだばかりで弱ってる少女を、お化けを使って洗脳して、勝手に人格まで形成しちゃう。あの調子だと、おっこは旅館が潰れるまでおかみじゃないですか。可哀想に。
前述の通り、旅館が経済的に困窮している描写はない。おそらく、潰れた旅館を立て直すというステロタイプなストーリーに誤読していると思われる。
お化けを使って、というのも意味がわからない。うりぼうたちは自発的におっこに対して働きかえけこそすれ、旅館側は幽霊については一貫して認識していない。
純士 おまけにやたらと界隈で人が死ぬし。
麗子 命を軽視しすぎやねん。ああいうのは、子供が真に受けて見てしまう恐れがある。「死んでもまた会える」と思ったら命を軽視するから、あれはアカン。
作中での死者は、
で、大半が作中ですでに故人であり、冒頭の事故以外に死者が出るわけではない。本当の同じ映画を見ていたのだろうか。それを受けての「命を軽視しすぎる」発言も何を見ていっているのが不明。
おっこは死者すべてをみえるわけではなく、うりぼうと美陽の二人だけがみえるだけ(それも能力自体が徐々に弱まって、最後にはなくなる)。
うりぼうと美陽が見えることで、たとえばそれを女将やピンフリにつたえ、死者と伝えられなかった思いなどを相互にやりとりするようなことができたかもしれない。そんなシーンはおそらく女将やピンフリの感情を強く揺れ動かすことができる、感動的なシーンになるだろう。感動的ではあるが、それこそ死後また会えるというような誤解を生む安易に感動に走ったストーリーだ。
そしそてそんなシーンは存在しない。
おっこが両親に会えるのは幽霊が見える能力のためではないと思われる。おっこが両親を見えるのは夢と、本人にはそのように見えているというレベルでしかない。(他の幽霊たちがおっこの両親とやりとりするようなシーンはないため、そのように想定される)また、両親の姿を幻視することも、その死をうけいれることで無くなることが示唆されている。
亡くなった人のことを思うこと、それを受け入れることは命を軽視することにあたるのか
純士 いや、作者は決して命を軽視してないと思うよ。「死を暗いものにしないように」と考えて、子ども向けに「愛と希望」に持っていこうとしただけでしょう。ただ、おひよ(妻の愛称)みたいに揚げ足を取る人間が出てくるのも仕方がない作りではありました。
前半主人公が両親の死に対してのリアクションする描写を見せなかったことが抑圧から爆発のメリハリになっていたと感じたし、その爆発によって、主人公もしっかりと暗い死の影を感じていて、それをいかに受け入れ乗り越えるかが最大の見せ場だった、と筆者は感じた。
つまり十分に死が暗いものであるという認識ができる作りになっているし、むしろ”子ども向けに「愛と希望」” というのが一体どの部分をみてそう思ったのか本当に意味がわからない。
純士 占い師の女がポルシェを走らせてるときに、謎のアニソンがかかったじゃないですか。あれを聴いて、殺意が芽生えましたよ(笑)。
――えっ? そうですか? あの曲、キャッチーでとてもいいし、オープンカーの開放感とのマッチングも最高だと思ったのですが。
純士 てことは、お前も作者側の人間なんだな。髪をかき上げて、サングラスをかけて、ストローを使わずにお酒を飲んで、オープンカーに乗って外へ連れ出してくれて、高級な服やらなんやらを買い与えてくれる。そういうお姉さんがいたら格好いいだろうな……という作者の価値観、作者のオタク脳を、俺は許せない。実際あんなことをできるのは、歌舞伎町の風俗嬢ぐらいのもんですよ。それを勝手に美化しやがって。気持ち悪い。
宮崎駿作品は持ち上げるが、現実にありえない理想化されたキャラクター像をもってこの作品を腐すというのはダブルスタンダードではないか。
また「実際あんなことをできるのは、歌舞伎町の風俗嬢ぐらいのもんですよ。それを勝手に美化しやがって。気持ち悪い」に至っては本人の露骨な職業差別意識がでていて目も当てられない。
以上、はっきり妄言の類といって差し支えない内容だと思うが、この内容を本気で受け取って映画を見ない選択をしてしまう人がいたらそれは大きな損失である。今すぐこんなサイトは閉じて(略