最近のネット見てると、よく「コイツは非論理的非合理的な思考のお気持ち野郎だ」とか、そんな求められてもいないであろう説教をかます人間を多々見る。
それは裏返せばオレはそういう奴らとは違ってロジカルな人間なんだぜという自負を掲げているのではないかと邪推してしまうけれど。
感情を一切排して論理的に言ったら人間に生きる意味も価値もない。
読書をし、運動に励み、賃金労働や金稼ぎに繋がるスキルを身に着け、家庭を持つ。感情を一切無視して論理だけで言えば、それは不快を避け快楽を最大化するという「お気持ち」ベースの全くもって無駄な行いということになる。
ハサミはモノを切るという使命を帯びて作り出されるが、生物にそういった意味はない。自我を持ち動き回るという点を除いてその辺の石ころと何も変わらない。
サルトルだかの実存主義やウェーバーの資本主義の精神みたいな、前世紀からされてる話。
感情論と善悪を区別しろみたいな事言う人いるけど、論理という道具を使って既存のそれを顧みる事はあっても、詰めていけば快不快の多数決だろって思うけどね。
人をブチ殺して回りたいというのは社会的にあまり良しとされないお気持ち。それが良しとされないのはどこからかポップした善悪や規範、まして論理でもなく「殺されたくない」というまた別のお気持ち。
そのお気持ちの多数決をまとめてちょっと論理で整えてやったものを善悪と呼ぶのではないかと思う。
まあこの程度の話、お気持ちを非難するインターネットの聡明な皆さんがまさか通っていないはずはないと思うけれど、ではお気持ちを捨てた生き方とはどのようなものでいらっしゃるので?って思う。
とても論理的でいらっしゃる皆さんも恐らく寝食に労力を割き労働に励んでいるのだろうけれど、なぜそんな無駄な真似を?
わざわざ自殺する道理もないけれど、わざわざ生きる道理もないよね。
でなければ合理性や論理を極めて、「無」を受け入れて、涅槃の境地を目指すような生き方しかないと思うんだけど、そんな人を見かけた事はない。
今日はそんな事を考えてました。