はてなキーワード: 背中とは
布団の中では俺も裸だった。
俺が右横向きで横になっているところに、
俺は腕枕をしてあげるように右手を伸ばしてた。
右腕にはベ○キーの首が乗る。
両肘を床に立てて起き上がろうとした。
俺は何もしていないが、乳房の先端が右腕を翳めた。
俺は変わらず全く動いていない、全く喋っていないのに、
ベ○キーは「暖めてよって言ったのに。」と、布団から出ていく。
俺は何をすれば良かったのだろう?
眼が覚めた時、首から下が見えれば良かったのに見えなかった事が悔しかった。
更に悔しい事に、ベ○キーの顔は妖艶な顔つきでとても綺麗だった。
追記
□ □□■□□▲□□■□□ ←列 ○○○○○○○○○
事前に品揃えを把握しておかないとスムーズに注文できない。
真ん中に置いてあるのは両方のレジから取りやすいようにだと思うけど、
そして、レジの前に平行に棚が置いてあると、すごく商品を取りづらい。
商品を選んでいるあいだ間近で背中を見られるのも落ち着かないし、
通路が狭いうえに人の出入りも激しい。
あと、奥の方(図で言えば左の方)のレジがだいぶ遠いので、
そちらが空いているのに客が気付かないことがあり、
店員が身を乗り出して呼ばなければいけないのが大変。
□ □□■□□▲□□■□□ ○ ○↑○ ○ ○ ○列○ ○ ○ ○ ○ ○
レジに対して垂直に棚が並んでいて、その棚と棚のあいだに列を形成させる。
素晴らしい。
個人的には垂直レイアウトを義務付けて欲しいくらいなんだけど、
ただ、わりと新しい店舗でも平行レイアウトをけっこう見かけるので、
これだけでも売上めちゃくちゃ違いそうだけど。
この記事は過去二つの記事を前提としていることを、最初にお断りしておく。
https://anond.hatelabo.jp/20170315161240
https://anond.hatelabo.jp/20180403003916
うつの揺り戻しの勢いで後日談を投稿した後、自分で読み返して「これ書いた人相当病んでるな」と他人事のように引いてしまった。
可哀想な元派遣社員が身も心もすり潰されて不幸のドン底にいる、という筋書きの方が読み物としては面白いのだろうが、実際はそうでもないので、もう一つの後日談を綴っておく。「同情や心配して損した!」と思って頂ければ幸いである。
仕事を辞め、諸々の手続きを終えて少し経った頃、タンポポを堀りに行った。
子供の頃使っていた植物図鑑を見つけたのだ。野草を使った遊びが色々書かれており、ほとんどは試したことがあるのだが、大きな刃物を使うもの、食べるものは母が許してくれなかった。
で、そこに書かれていた「タンポポの根のコーヒー」を大人の力で作ってみようと思い立ち、近所の土手でタンポポを探した。長い根を掘り出して、洗って晒して刻んで炒って煮出す、二日がかりの大仕事である。
手間暇かけてようやく出来上がった飲み物は、格別に美味しいわけではないが、喫茶店で「そういうブレンドです」と言われれば納得するような、中途半端な味がした。いっそまずい方が、ネタ的に美味しかった。
この話を友人にしたところ、「そんなにお金に困ってるの?」と心配された。好奇心ゆえとの主張も空しく、彼女からは誕生日プレゼントとしてコーヒーチケットを頂戴した。
同じ野草を食す行為でも、「山菜狩りに行きました」「自分で摘んできて七草粥を炊きました」はSNSのイイネを集めたというのに。美しい言葉には、現実を捻じ曲げる力がある。
粥に使ったお米は、親戚の田植えを手伝ったお礼として貰ったものだ。
手伝いと言っても、PC仕事にしか携わったことのない私の貢献度は、その辺で虫取り網を振っていた子供たちと大差なかったと思われる。だがお婆ちゃんは「遠いところを来てくれただけで嬉しい」と、後日お米を送ってくれた。
親戚の家の最寄り駅までは、着替えと文庫本を鞄に詰めて、特急料金の掛からない電車を乗り継いで行った。
大学生の頃、そうした小旅行を何度かした。本を読みながら電車に揺られ、行ける所まで行って、適当な店で夜を明かす。知らない街を少し見て回って、また本を読みながら帰ってくる。あれは結構楽しかった。
貧乏旅行は年を取ると辛いというのが一般的見解だろうが、今の私は完全インドアだった学生時代よりも体力がある。
働き始めてすぐの頃、背中が痛むようになった。病院で「体の前面の筋力不足で背面にばかり負担がかかっている」と指摘され、ジム通いとジョギングを始めた。
以前は多くて週二回だった運動が、最近は三回に増えている。体組成計の表示はもちろん、筋肉が補修材を欲するらしく、味覚まで変わってしまった。豆腐や卵がすごく美味しい。こういう時は肉を食べたがるのが普通じゃないか、とは思うのだが、安上りなので助かっている。
先日、桜吹雪の中を走るのは気持ちいいに違いないと思って川沿いのコースを選んだら、花びらと同じくらい大量のトビケラが舞っていて閉口した。文字通り、という納得と、しょうもねぇ、というツッコミが交錯して、一人でフフッと笑ってしまった。
この調子なら仕事も出来そうな気がして、求職活動に挑戦する度に泣いたりゲロ吐いたりするものの、生活自体は概ね楽しい。
あなたの「頑張れば必ず良くなる」は、視野狭窄と思考停止だ。「雇用主はそんなに悪い人じゃない」も同様である。そう考えているのは既に危険な兆候なので、転職先を探すか、休職も視野に入れた方がいい。
嫌だと思ったら、それは表明しておくこと。この人は多少薄暗くても嫌がらない、周囲がうるさくても集中出来る、汚れた場所なら掃除をする。そうした自他からの評価の積み重ねは、あなたの労働環境を改善するどころか、より暗く、うるさく、汚い場所へ連れて行く。
安心して逃げていい。収入はないし夢見は悪いし、揺り戻しで病んだ文章を垂れ流す夜もあるが、一年後も生きている。
逃げるタイミングの判断を誤ったのは自分のくせに悲劇の主人公気取ってバカじゃねーの?とか、そういう自責、全然要らない。ズタボロのメンタルに自分でトドメを刺すのはやめろ。自己憐憫も陶酔も、心の麻酔としてはすごく効くから、痛みが引くまでは好きに使え。中毒や廃人化の危険を伴うのは体の麻酔と同じだから、そこだけは気を付けような。
まだどうにかなりそうなら、上記を参考にして欲しい。
自殺を考えるほど追い詰められている場合、別に死んでもいいと思う。「生きてて良かった」は文字通りの生存バイアスに過ぎない。
ただ、私は「この世から消えたい」という感情のピークに文章を書く作業で手が塞がっていたため、なんとなく死に損なった。結果、なんとなく生きている。
そういう風に、死ぬことは確定だが今は保留にしておく、という選択肢もあることは覚えておいて欲しい。私は近々好きな作家の新刊が出るし、友人の誕生日も祝いたいので、少なくともその間は保留だ。たぶん自ら死ぬより先に、事故か病気か寿命で死ぬ。
当時の私は、「死にたくない」と「消えたい」の間でグラグラしていた。今でもよくする。生き延びて良かったのか怪しいとも思っている。
それでもやり直しの利く方を選び続けて来られたのは、あなたのお陰だ。厚くお礼を申し上げたい。
一週間前の自分へ。
いいから早く寝ろ。もう少し暖かくなったらザリガニ釣りに行くんだろうが。
野草食ったりザリガニ釣ったり、心の病とは別の意味で可哀想で心配されるかも知れないが、私自身は割と楽しい。さすがに用水路で釣ったザリガニを食べる勇気はない。
皆様、
今年も春が来て桜が咲きました。
おめでとう。
生きていてくれてありがとう。
どんな人たちなんだろう。
この手記を贈ります。
内容は、
誰かに似ているということ、
友達を作ること
についてです。
薄くて追いづらいかも知れませんが、
どうにか線をつないで行くので
寛い心で眺めていて下さい。
周りの目には奇異あるいは攻撃的に映って
発話の前提を共有することは、
酷く手間を要することです。
そこまで楽しくないよ落ち着くだけ、とか
君は人生辛くないんでしょ楽しくないの?とか
マスタベーションと同じ構造でごめんね、とか
言うの
面倒だから
もちろん何も考えずにうたってるときも多いけど。
また、無自覚な心優しい人と一緒にいると
発していないだろうかと、
もう一つ例を。
現か夢か忘れたくらい幼い頃、
あるいは繰り返すメロディーの話。
とりとめもない会話をして
なんだか僕は楽しくなって、
それで上手く周りが見えなくなって窮屈で
ビニール袋を外して、
誰も悪くはないのに僕がずれているだけで
年を取るにつれ、
2、誰かの一部に似ているということ
にはおんなじところがたくさんあります。
例えば手足が四本生えているとか、
眠くなるとあくびが出るとか。
意識されない作りになっていて、
痛いくらい慣れた僕にとって、
https://anond.hatelabo.jp/20171227003911
僕の場合、
増田のこの人と、
すごく似てて記事読みながら笑ってた。
それでも自分が真ん中にいることに困って抜けちゃいました。
https://m3myk.hatenablog.com/entry/2018/03/25/232219
小説の中や、伝記の中で、
自分と同じ人がいるというのは気付いていたけど、
快感がありました。
この文章を書いているのも
あるいはそう期待しているからです。
3、完璧ではない友だちを作ること
愚かで愛らしい僕たちは、
サン=テグジュペリが書いた「星の王子さま」という小説があります。
ヒツジの絵を描いてもらいます。
だけど、王子さまにはどのヒツジも気に入らず、
「このヒツジったら、病気で、いまにも死にそうじゃないか。かきなおしてくれよ」
「そうだな......これあたりまえのヒツジじゃなくって、ツノが生えてるもの......」
「これ、ヨボヨボじゃないか。ぼく長生きするヒツジがほしいんだよ」
飛行士はがまんならなくなり、
「こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ」
すると王子さまはそのヒツジを大層気に入りました。
人間の最も素晴らしい性質の一つであり、最も残酷なそれでもあります。
夢見ることは素敵だけど、たぶん僕らにとって
星の王子さまは箱のヒツジといっしょに死にました。
具体的な未来なんて軽く捨てちゃえるくらい美しくとも、
僕らはたぶん生きていけない。
僕たちと環境は
どうやって見るかという意味でも
どのように働きかけるかという意味でも、
たぶん影同士になっていて、
その相互作用を愛してくれ。
4、まとめ
それは只管に美しいです。
ただ、自分に周りに厳しくなりすぎませんように。
もがきすぎて疲れてしまって、
どうにもならなかった。
きっとだれも貴方のことを
救ってはくれませんが、
祝福はあります。
環境は変わりるけど、
これまできみを喜ばせてきてくれた
なにかを大切にしてほしい。
そして万が一、途方に暮れた時。
先人の勇気やら愛やら
点字ブロックを見れば思い出せるかもしれない。
春がきました。
過ごせる友が出来ますように。
どんな君でも
生きていることがとても嬉しい。
祈っています。
それでは、また。
私の母は異常だった。
物心ついたときには背中にタバコを押し付けられ、水風呂に無理やり入らされ、裸でベランダに放置された。
父はそれを見てみぬふりをした。思えば、彼に名前を呼んでもらった記憶がない。父は仕事が娘だった。
小学生のときに私に暴力的だった母は、私が中学生の年になると暴力を振るわなくなった。
だが私に対する暴言はやめなかった。
「死ね。消えろ。ブス。お前なんて産まなきゃよかった」
私が中学生になると、当時父の浮気相手をしていた母方の叔母が私を哀れに思ったのか、よく一万円をくれた。
月に数回貰える一万円を母にバレない場所に隠して貯めた。
別に何をしようってわけでもなかった。この家を出ていこうとか、そんなことは頭になかった。
痛いのも汚いのも嫌いだし、これ以上辛かったらどうするのか。そういった考えが頭にこびりついて離れなかった。
高校に入った。
母はもはや何も言わなくなっていた。年単位で見て、家にいる日数よりも病院にいる日数のほうが遥かに多かった。
私は現実から逃れるように本にのめり込んだ。高校から文芸部に入り熱中した。
父が私の口座に振り込む朝昼夜食代をすべて本の購入に当てたりして参ったりもした。
恥ずかしい話だけど、私は高校生にして初めて恋を知った。
バイト先の数十歳歳上の先輩だった。
好意を見抜かれたのか、デートに誘われ流れで付き合ってもいないのに関係を持った。
ズルズルとその関係が続いたが私は満足だった。
「なんで俺が怒ってるのかわかる?」
彼は親の同意不要で中絶手術ができる病院のURLを貼って、それからは何も言わなかった。
翌日も同じ職場でバイトするが何もなかったかのように振る舞った。
向日葵の顔がポトリと地面に落ちるかのように、恋愛感情は消えた。
その後私は普通に大学生活を過ごし、今年の春にやっと就職した。
一人暮らしを初めてやっと私の家庭が異常だったんだな、と気づいた。
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20180404/1522818510
このブログを読んで気になったので。
はてブでは「やぎぺーついに飛行機代も払えない位落ちぶれたのか」や「月収を誇っている人がこういう姿を見せるのは、どういう了見なのか確かにわかんない」というコメントがある。
確かに謎だ。わからない。一連の行動から受ける印象は、「怒り」じゃなく、「不可解」だ。
一般常識から考えると、「お金がないから小銭をたかった」と考えるのが妥当だが、やぎペーさんにお金がないことは非常に考えられにくい。
やぎペーさんは非常に賢い。自己啓発家としても優秀だが、情報商材屋としての立ち振る舞いも堂に入っている。現在の収入について探ってみたが、非常にうまくやっている以外の感想はない。やぎペーさんがチケット代の約6万円を即座に用意できないわけがない。
やぎペーさんが今回集金に利用したpolcaというサービスをブログに取り上げたいために事に及んだのかなと思ったが、すでにブログで紹介済み(https://www.jimpei.net/entry/post-7646)だ。
金がないわけでもない、サービスを紹介したいわけでもない。だとしたら動機はなんだ。
PCのキーボードを前に小一時間ほど唸ってみた。やぎペーさんのTwitterを覗いてみた。自分の頭で考えない取り巻きどものヨイショが空を飛ぶ。僕はそれを唖然として眺める。
やぎペーさんはアンチの攻撃にも動ぜず、僕にはよくわからない言葉で反論する。おそらくだけど、旧約の一節でも引用しているのだろう。名字がヤギ(スケープゴート)だし。信心薄い仏教徒の家に生まれた僕には理解すらできないけど。
「人生を楽しんではいけない病」ってなんだ? かかったら背中が痒くなるのかな? 「支援してもらった分だけ、人に感謝してもらえるようなことをしようと思う」って言ってるけど、今回のお返しは笑顔で帰国することだけだぞ? 「僕に支援すれば直接支援する以上の価値を最終的に与えてくれると期待して支援してくれたんだと思います」ってどういうこと? トートロジー?
いくらネットを泳いでみても、僕の頭上のハテナマークは宙ぶらりんのままだ。わからない、わからない、やぎの気持ちがわからない……。
最初から最後までほぼ泣いてたかもしれない。いい最終回だった。
終始笑顔で、それを見ただけで胸がいっぱいになる。まず髪切るときの報瀬。12話では、3人の前で躊躇していたときの報瀬は本当に曇った顔で「もういいから、じゅうぶんだから…」って言っていたのとは裏腹にすっごい良い笑顔になっていて、12→13における報瀬の成長が端的に現れている大好きなシーン。その後隊長とかなえさんに見せた笑顔はとても貴子に似ていて、「ああ、カーチャンがいた頃は、こんな感じに感情豊かな女の子だったのかな」とか「12話を経て報瀬がようやく本来の報瀬らしさを取り戻したのかな」とか思わずにはいられなかった。その、カーチャンの亡霊を象徴するノートPCを隊長に託す報瀬は本当に清々しく、12話で夢から醒めた彼女が悲しみではなく幸せで満たされていることが端的に現れてて「良かった・・・本当に良かった・・・」ってなった。その後カーチャンからメールが返ってきたときも、それまでの報瀬だったらどうなっていたのか分からないけれど、13話の報瀬は「知ってる!」と鼻にもかけず笑い飛ばした姿はすっかりカーチャンの背中に追いついていて、むしろ追い越している。どんだけ成長してんねん…。
加えて、今までの報瀬はどんな風景を見てもボケーっとしたようなシケた顔だったのだけれど、最後に満面の笑みでオーロラを見る姿はもう最高すぎた。
観測隊としての生活は相変わらず忙しそうなのだけれど、4人が「なんとなく、うまくやっている」という姿に感動した。報瀬も言っていたけれど、南極での生活はむき出しの感情がぶつかることもあるわけで、それでも4人は仲良くやっているので「何も大きなトラブルが起きない」ことで彼女たちの成長を表すという演出が最高すぎた。個人的にアイスオペレーション中のゆづ「死にますFOOOOOOOO↑↑↑↑↑」がツボだった。自分のことをネタに出来るって結構すごいことなんだよね。これだけでゆづが大きく成長していることが分かる。アドリブなんだろうけれど。
ラスト30秒。ここだけでずっと語れそう。
キマリが「帰ったよー」を送ったとき一瞬で既読がついてて、「ああ、めぐっちゃんは家族あたりからキマリの帰国日を事前に聞いていて、今か今かと待っていたのかな」とか「10話でキマリが「既読付くタイミングだけでめぐっちゃんが今何してるのか分かるんだよ」って言ってたし、キマリはめぐっちゃんの心情に気づいてるのかな」とか。
また、行き先が北極だった件について。10話における「南極にいるんだけど、SNSを通じてなんとなく(日本にいる)めぐっちゃんの気持ちがわかるキマリ」と立場が逆になっていて、かつてキマリが「めぐっちゃんの庇護のもとぬるくやってないで、自分の力で強くならなければ」と思ったように、めぐっちゃんも6~13話でキマリが日本→南極で経験した様々な出来事を、キマリのこと考えながら裏でこっそり通ってきたのかな、と思わせる。
めぐっちゃんから送られてきた写真には綺麗なオーロラが写っていたのだけれど、オーロラはその仕様上南極と北極同時に出現するので、キマリたちが南極付近でオーロラを見ていたちょうどその時、めぐっちゃんが北極でオーロラを見ていた可能性がある。そう考えると色々シンクロして考えちゃって、胸がいっぱいになった。
一方キマリのメッセージに速攻で反応するめぐっちゃんは、5話でキマリが絶交無効したあと(一方的に?)めぐっちゃんのことを親友だと思っていたように、めぐっちゃんもまたキマリのことを大切に思い続けていたんだろうなぁということまで伝わってきて、5話における2人の想いが両方とも叶った最高のハッピーエンドだった。締めのセリフ「なんでーーーーーーーーー!!!」も、5話にあった同じセリフとのニュアンスの違いにグッと来た。
「もし続編があったら~」という発言を各所で見るけれど、めぐっちゃんの旅を見たい、という人が多くて嬉しかった。最後の写真「オーロラをバックにめぐっちゃんがカメラを覗き込む構図」は公式のキービジュアル「4人がオーロラをバックにカメラを覗き込む構図」と対になっていて、つくり手がめぐっちゃんのことをもうひとりの主人公として描いてくれていたのかな。
主人公たちの成長を描く物語では、どのキャラクターに(精神的な)導き手の役割をもたせるのか、というのが重要なのだけれど、本作では(子どもたちだけで完結せず)大人たちが多かれ少なかれ寄与している。私はこういう「かっこいい大人」が描かれる作品がとても好きなので、本作もそういう意味で大好きだ。特に隊長とかなえさんはすごい良いキャラクターだった。何が最高って、13話で「実は大人組も4人の心意気に背中を押されてここまでこれたんやで」っていう心の変化が描かれてて、大人組も4人と同じ人間味あるキャラクターになっていたこと。物語におけるメンターが、物語の中で自身も成長するとか最高すぎる。
観ながらアホほど笑って泣いた作品だった。こんな経験は殆ど無かったのでとても新鮮だ。「病めるときも、健やかなるときも変わらず泣き笑いすることを誓う作品」っていうとちょっと大げさだけれど、私は疲れているほど自発的に笑ったり泣くことが出来なかったりしていく人間なので、こういう「心を奪われる作品」を大事にしていきたい。
以前ツイッター界隈で「各話において、クレジットされる作画監督の人数が多いほど現場は火の車になっている可能性が高い」という言説を見た。たまたま知り合った元アニメーターの方に聞いた限りあながち間違いではないらしい。そこで本作なのだけれど、グロス回で作監が3人クレジットされるくらいで基本1人か2人という感じだった。終始作画も安定していて、スケジュール的にうまく行っていたのではないだろうか。
また、公式ラジオで言っていたのだけれど、本作のアフレコでは完成された映像を見ながら声を入れていたらしく(最近は絵コンテ段階の映像で声を入れることのほうが多いそうな)、その点でも本作はある程度余裕を持って作られていた可能性が高い。
要は無理せず良いものを作って欲しいよね、という話。