はてなキーワード: 禁じ手とは
他国からの支援物資を横領する者達から物資を奪い返して貧しい人々に行き渡らせる。
海中のマイクロプラスチックを集めて陸に置いて人間に処理させる。
ゴミの中に混入している細かい金属部分を集めて分別して鉱山に埋める。
数百人の知能を1つの頭脳に詰め込んだニュータイプ人間を発生させて化石燃料に完全に取って代わるエネルギー技術の開発を加速させる。
雨が多くて困っているところから砂漠化が深刻な地域に雨雲を持ってくる。
琵琶湖に淡路島をはめ込んで四国とオーストラリア、九州とアフリカを入れ替えて日本の豪雨で砂漠地帯を回復させる。
「社会がそんな表現を許さなくなったから変わるのは当然だ」って左派系が言い始めててひっくり返った。
いや、それを言い出したら、そんなものは許されないと左派系表現全部焼かれるよ。
マジで。
しかも電凸や圧力をかけてる事例まで、「社会が変わったから表現も変わるんだ」なんて言うのは卑怯だよね。
「自然に変わった」ではなく「変えさせた」んだよ。
その価値観に合わせて自然に変わるのならばともかく、無理やり返させるように圧力や嫌がらせをしておいて、
勝手に変わったかのようにいうのなら、右翼が電凸して街宣車を出しても、なんの問題もなく社会的要請で変わったことになる。
この論法。
自滅するよ。
だって、数から見たら明らかに左派系論壇のほうが表現規制にさらされてるんだから。圧倒的に。
どうなるかなあ。
20代前半女性。生まれつきのADHDと軽度知的障害グレーゾーンを抱えている。WAIS-IIIでの全検査IQは79。
顔立ちは薄く面長、よくYouTuberのふくれなちゃんに似てると言われる。勉強はできない。運動もできない。
障害者手帳を取得しているので、仕事は一般企業の障害者雇用で働かせて頂いている。収入は高卒一年目の事務員女性、都市部在住と言われて想像できる額と言えば分かりやすいと思う。
好きなことは絵を描くことと化粧と空想すること。嫌いなことは家事。特に掃除。
人よりも取り柄が少なく無駄の多い私だが、数年前奇跡的に結婚することができた。
貧困育ちの私とは違って、モラルも育ちも整っている勤勉で努力家の夫。多分彼には貧困育ちとか中流育ちとか障害者とか健常者とかそういう発想がなくて、とにかく私が私だからという理由で好いてくれているようだ。
彼と過ごす毎日は楽しい。一緒に勉強をしたり本を読んだりだらだらNetflixを流し見したりしながら暮らす日々が愛おしい。別に彼がいなくてもできることではあるけど、彼がいると一人よりも何倍も楽しい。
だけど、彼との間に子供は生みたくない。
彼の完全な健常者遺伝子が私の出来損ないの遺伝子に混ざってほしくない。そもそも育てられない。今この暮らしに赤子を抱いて飛び込んだら、危機管理能力が薄い私は間違いなくその子を死なせてしまう。
私の実家にはヘビースモーカーがいるので里帰りはしたくない。子供を預けるとか手伝ってもらうとかも嫌。私自身、実家にあまり良い印象がなくあまり関わりたくない。
子供の意志とは関係なく、生まれたその瞬間から障害者の子供にさせてしまう。私にその気はなくても、自動的に将来私の世話をさせる可能性が健常者の子供よりも高くなってしまう。障害者であっても子供を生んで立派に育てられる人はいるけれど、残念ながら私にはその力も環境もない。
何より、夫婦二人+子供(兄弟の数は関係ない)という家庭に幸福なイメージがこれっぽっちとして持てない。
とにかく夫婦二人暮らしが幸せで楽しい生活の絶対的基盤なのだから何が何でも崩したくない。
幸い、夫も子供より勉学を極める人生を歩みたいらしいのでありがたい。
子供生まないの?なんで?コールに「障害者だから」が使えるのも幸いな話だったりする。子供はいいよ生みなよ女は子供生んでやっと一人前なんだよ国の人間に対して障害者という肩書きは禁じ手も禁じ手、最強のカードだから。
私は子供を生みたくない。本音を言うと障害者だから生みたくないんじゃなくて、色んな理由や都合がないまぜになって「生みたくない」という気持ちが固まってしまっている。
真面目な話をするとスレイヤーズ登場時点では当然ラノベというジャンルすら立ち上がっていなくて
ファンタジー小説というのは指輪物語、カジュアルなものでもドラゴンランスというような時代だった。
ファンジア大賞準入選だったわけだけど、そのときの選評としては一人称で魔法をイージーに
ガンガンぶっ放すようのは禁じ手で、これだけが例外、みたいなものだった。
ちょっと正確には思い出せないけど「神坂のあとに神坂無し」みたいなフレーズでこんなのは
もう通さねえぞみたいなこと言われていたわけ。
(まあそのあとオーフェンが選ばれてヒットしたわけですが)
その当時の価値観で生きてる人からするとスレイヤーズリスペクトしてます!とかはなかなか言い辛いってのはあるみたい。
けど実際のところそんな老人どのくらいいるのかね。
都合のいい反論は禁じ手にされたので反論にならないようにしますが、言葉というものは現在も変わらず使うための存在だけではなく、日本が通ってきた文化そのものを体現する存在でもあるのです。
女性の方と子供の方をそういう風に扱った(もしくは現在も一部存在する)ことを「女子供」という言葉が表しているわけで、この意味に対して怒りを抱くのはごもっともとは思います。
しかし、この言葉を拒絶し、否定し、呪詛を吐くのはいささかやりすぎかと思います。辞書から消してしまいなさい!と言わんばかりの勢いですが、現代の女性や子供も等しく対等にという発想・思想の良点を「女子供」と邪険に扱ってきた時代の存在が強力に補強するため、ある意味ではこの言葉はまだ必要とされるものです。また別に、文脈次第では否定的な部分が和らぎ「女子供には任せちゃおけない、危ない力仕事はこちらの出番だ!」というようによく扱うこともあります(そもそも使うな!とか、女性でも力仕事できます!と言われれば確かにそうではありますが、表現としては汎用的なものです)。
言葉の存在一つに短絡的に怒るのは少しお待ちいただいて…冷静に考えていただけると、もっと平等な社会に近づく道が見えるかと考えています。
これってスポーツ選手とかも同じだし、引退後のキャリアパスの問題だと思う。風俗業もそれなりのキャリアパスがあるんじゃないかな。まあ真っ先に思いつくのは「結婚」だが…。
どちらにしろ現役引退後の進路に不安があるのはスポーツ選手とか、あるいは漫画家とかも同じだが、そういう意味で「普通の仕事」ではないだろうが、野球選手になるとかサッカー選手になるとか親戚や同級生に気軽に話せる職業ではある。
風俗業もこれら社会的に認められた「普通でない仕事」の地位を得ることも理論上は可能ではないかな。
なんかツイッター上でセックスワーク上で受けた苦痛や性被害のエピソードを募ってたけど、こういう牽強付会な社会調査って禁じ手だよなあと思った。
(タイトルにそれほどの意味は有りません。一応中立的に書いているつもりですが、念のため立場を明確にしておいた方が良いかと)
(この手のニュースを見聞きする度に、考えをまとめておきたいなと思いつつ放置していましたが、ようやく行動に移すことができました。)
コロワイド「お騒がせ会長」が32億円の詐欺被害に 大戸屋買収に暗雲 | デイリー新潮
コロワイド会長が癖のある人物であることについては今更どうこう言う話ではないし、M資金詐欺に引っかかったという話も、真偽のほどを判断するほどの知見は私にはないが、「本当でも不思議ではない」と、私は思ってしまう。
企業法務に詳しい高橋弘泰弁護士は、この被害による大戸屋買収への影響をこう分析する。
「経営トップが詐欺に引っかかったと公にすれば、会社のイメージにとって決してプラスにはなりませんし、株価が上がる要素も全くない。となれば、大戸屋HDの株主が、コロワイドが呼び掛けているTOBに賛同するのでは難しくなるのでは」
である。
この手の話について最初に私が考えをまとめたいと思ったのは、ライブドアによるニッポン放送買収のゴタゴタがあったころなので、随分と昔のことになる。
が、今回上記記事のコメントを見る限り、TOBに関する誤解(と私の考えていること)は、10年以上前から全く変わっていないと言わざるを得ない。
端的に言うと、大戸屋の(大株主ではない)一般株主の立場で考えると、「株価が上がる要素も全くない」ことが真実であるなら、株主は「株式を市場で売却する」か「TOBに応じる」以外の選択肢は考えにくいという事である。
言うまでもなく、TOBは「対価を出すので、株式を売ってください」と宣言する行為であり、「TOBに応じた株主は株主ではなくなる」事が前提となる。
その前提で考えると、仮に大戸屋がコロワイドの子会社となり、「とてつもない企業価値の向上が見込まれる」とするならば、これはステークホルダーの多くにとって大変喜ばしいことである。では、一般株主はTOBに応じるべきであろうか。当然ながら答えは「NO」。TOBに応じた株主は、当然「元株主」となり、その後のTOB価格を大幅に上回って上昇を続ける大戸屋の株価を、指をくわえながら見るしかないからである。
多くの株主がそう考えるのであれば、TOBは成立しないことが予想される。だからと言って、TOBに応じれば企業価値の向上を享受することはできない。ましてや一般株主の立場では、自身がTOBに応じるか否かでTOBの成否が左右されるようなものではない。自身はTOBに応じず、他の株主の応募に期待をする、あるいはTOB価格が引き上げられるのを期待するのが自然な対応となる。
では逆に、大戸屋がコロワイドの子会社となり、「とてつもない企業価値の低下が見込まれる」とするならば、これは大戸屋経営陣、コロワイド、大戸屋及びコロワイド株主等にとって極めて望ましくないことである。
説明の必要はないと思うが、株主にとってそのような状況は避けたいところである。が、TOBに応じて「元株主」となるのであれば、話は全く変わってくる。
企業価値を大幅に落とすであろう大戸屋の姿を残念だと思いながらも、懐が痛むわけではなく、というかむしろ懐は温まったという事で、ちょっとおいしいものでも食べようかという気分にでもなってしまうのではないだろうか。
株主ががっしりとスクラムを組んでTOBを阻止できれば良い、が、失敗した場合は悲惨である。ましてや一般株主の立場では、自分一人の行動がTOBの成否にさしたる影響も与えないというのであれば、とりあえずTOBに応じておいて、脱出の道を確保しておくことを、道義的立場から非難できるものではないと私は考える。
TOBの成否の本質は、「買収された会社の将来が悲惨であればあるほど、TOBには応じざるを得ない」に集約されるといっても過言ではない。
つまり、経営権を巡って「プロキシー・ファイト」をするのであれば、双方で経営のビジョンと将来性を大いに語り合って戦いを交わせばよいのであるが、一度TOBとなれば、「TOBの対価」と「買収後の将来性」を天秤に掛ける以外に、一般株主にとって判断材料となるものなどなく、「TOBの対価」を所与とすると、「買収後の将来性」が低いほど、TOBは成立しやすく、将来のビジョンなど語っている場合ではないのである。
「企業法務に詳しい弁護士」の方は、別に株主へのアドバイスを求められているわけではないので上記のようなコメントでも良いのかもしれないが、私は大変的外れなものだと思うし、株主の方にアドバイスするのなら、「そんなやヴぁそうな人がトップの会社に狙われているのなら、悪くない価格でTOBを出してくれている間に逃げたほうがいいんじゃないの」と言うべきである。
だからこそ、「企業価値の向上」がM&Aのお題目であり、産業政策的にも実際に求められる成果であるのに対して、TOBに関してはその本質が企業価値を破壊する要素を併せ持つため、産業政策としてTOBが企業価値の向上に資するための適切なルールを構築することが求めらる。
(ご参考)
ジャンクボンドの帝王。1980年代のアメリカを吹き荒れたLBOの嵐の立役者の一人。
TOBの破壊的な側面を最も忠実に具現化し、大金持ちになった人。一度大金持ちになれば、一時収監されようと屁でもない。そんなアメリカンドリームの体現者。
随分長くなってしまったので、一旦この辺で。タイトルを「コロワイド株主が考える大戸屋TOBの顛末」としていたものの、顛末までたどり着けなかったので修正。
・TOBが成立してもTOBに応じた株主全ての株式が買い取ってもらえるわけではないというルールはすごくまずいという話
・大戸屋の経営陣がホワイトナイトを連れてくるのは難しそうだという話
・仮に大戸屋がホワイトナイトを連れてくることに成功した場合、コロワイドは急転直下ホワイトナイトに株を押し付ける可能性があるという話
・今後、大戸屋の株価はTOB価格を下回って推移し、TOBが成立する可能性が高い(と私が考えている)という話
・大戸屋経営陣や、従業員有志が「TOB反対」を株主にアピールするのであれば、MBO、EBO、MEBOを目指すのが筋であるという話
・大戸屋経営陣の最後の抵抗としては、「株主優待の異常な拡充」という禁じ手が、実現可能性は別として存在するという話
・「株主優待の異常な拡充」作戦は、コロワイドが先達であるという話(但し、守りではなく攻めに活用したという話)
確かにあちこちの台詞回しにナウシカっぽさが感じられるし、改心後のリルルの言動は明らかにナウシカをモデルにしていると感じられる。修理中のリルルとしずかちゃんのやり取りは、クシャナと風の谷のじいや達のやり取りを彷彿とさせるようでもある。
竜の騎士はキャラデザインや背景、BGMなどにナウシカっぽさが見えたが、鉄人兵団は心理描写にその影響が強く出ているなと思った。
トラバにもあるけど、私も竜の騎士、鉄人兵団、宇宙小戦争の三作がドラえもん劇場版の中で別格に好きです。
ストーリー展開にはアラやご都合主義もそりゃあるけど(ロボット達が鏡面世界に気づくの遅すぎだろ、とか、タイムマシンはさすがに禁じ手だろ、とか)子どもの心をあんなに惹きつける作品はやっぱりなかなかない。
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アマプラを物色していてふと目に入った「ドラえもん のび太と竜の騎士」、そういやこれ子どもの頃大好きで何度もビデオ見てたなーと思い出して30年ぶりぐらいに見てみたら、ものすごく「風の谷のナウシカ」でびっくりした。
検索してみたら、監督の芝山努氏と宮崎駿氏は東映の同期入社組なんですね。
さらに芝山氏は高畑勲氏と一緒に仕事をしたこともあるようで、それでなんとなく腑に落ちるところはあるのだけども。
にしても似方がすごい。
鎧と兜は土鬼(アニメではトルメキアの下級兵)、胸の紋章はペジテ。
乗用の小型竜はトリウマ。
地下世界の郊外には、ちょうど風の谷の郊外にもあるカッパドキアのような砂漠の光景が繰り返し描かれる。
ドラえもんの地下世界は高度に科学文明が発達した社会で、街並みは近世ヨーロッパに20世紀当時のSFっぽさを付け加えたような雰囲気だ。そこにトルコ的な何かは見えない。
未開の部族が住む秘境も点在しているが、それもアフリカや中南米の原住民文化がベースになって描かれているものだ。
すなわち、わざわざカッパドキア的モチーフをあんなに時間をかけて画面に出す必然性は何もない。にもかかわらず何度も出てくる。
ドラえもん一行が、地上人に脅威を知らせるべく竜の騎士の家からひそかにタケコプターで逃亡するときの情景は、BGMも含めてまるきりオマージュ。ナウシカが風の谷の住民達に脅威を知らせるためペジテのブリックからメーヴェで飛び立ったシーンのオマージュだ。これをオマージュと言わずして何を言うかというぐらい、立派なオマージュだ。
地上人を守りたいドラえもん一行と、地上の覇権を取り戻したい竜人達は最終的に全面戦争を始めることになる。
ここにも一瞬オマージュがある。
風雲ドラえもん城に竜人達が攻城櫓を運ぶシーンが、酸の海でクシャナがあの娘の帰りを待たないで進軍を始めたときと同じだ。これも状況がそっくり。BGMも。
そしてそこにクライマックスとなる天災(風の谷のナウシカのほうは人間が引き起こした天災なので本当は人災なのだけど)が訪れ、両軍ともに戦争どころではなくなる。
キャラデザインや風景、BGMのみならずストーン展開のこの重なりよう。
意図しないとここまでの重なり方はしないと思う。
ただ最後、ドラえもんは人類の科学技術の粋であるところのひみつ道具をバンバン使って本来なら絶滅していたはずの恐竜を安住の地へと導き、竜人達の始祖の神となってしまう。自然を破壊してるわけではないにしても自然の摂理に強く介入する行為であることに間違いはなく、人類が自然の営みを支配しコントロールすることの是非という点ではナウシカではなくクシャナ寄りの価値観と行動だ。ここがナウシカとは決定的に違うとこで、まあそこはドラえもんが『ドラえもん』というアニメ作品の主人公としての役割をきちんと果たしているということで、どちらが正解でどちらが間違いという話ではない。
この相似、たぶんいろんな人が言ってることだと思ったんだけど、ちょっとググった程度では見つけられなかった。
芝山氏は何を思ってこんな作風にしたのだろう。この作品だけでなく当時のアニメはみんなナウシカの二番煎じみたいな作風だったのだろうか(そんなこともなかったと思うのだけど)。
それが知りたいな、と思った。
そういや鳥山明氏も宮崎駿氏に影響を受けたって聞くよね。ドラクエ2の三人にはナウシカのデザインが色濃く反映されているという話は有名だと思う。
なんというか「みんなそれぞれ違っていて尊重されるべき」って価値観が出てきたら、そういうキャラの扱いって難しくなるんだよね。
つまり、最終的に敗者を引き受けさせなければならないんだけど、昔とちがって「厭味な奴だから幸せにならなくてもスカッとする」とはならないんで、基本的には
(1)違う価値観に生きるようになる
(2)違う相手を見つけるようになる
(3)退場する
の三通りのいずれかの手段をとることになる。でも(1)だとライバルキャラの人間性にゆがみが生じる(例としてはスラダンの流川(非人間的なまでにバスケ一筋))し、(2)だとライバルキャラの恋愛自体がヒロインからヒロイン以外に流れるため軽く見える弊害がある。ようするにただのチャラ男に成り下がり、主人公が越えるほどの目標ではなくなる。(めぞん一刻はそこをなんとかしようとはしていたが。)
そこで(3)の手段を使うわけだが、これは結構究極の一手というか禁じ手に近くて、劇的なだけに軽く真似をすると本当に作品が薄っぺらくなる。きわめて必然的でありつつ、でもまさかねと思わせないといけない。もっとも有名な例はやはり「タッチ」だ。まあそこで死なせるしかないわけだけど、ほんとに? みたいな。実は、「タッチ」より先にこれをやったのが多分「あしたのジョー」なのだろう。どちらの作品でも、「ライバルの死」自体が主人公というより物語にめちゃくちゃ大きな影響を与える構造をしているくらい重い出来事として扱われている。これを軽々しくやれば、ただの猿真似にしかならない。だから、簡単にはまねできない。大きな分類では、「ワンピース」のエースもこれにあたると言っていいんじゃないかと思う。
というわけで、こういう面倒なキャラはもう最初から出さないという方向になってきたのだろう。しかしそれでも主人公の周りに魅力的なキャラは配置したい。そこで、冨樫が「幽白」や「ハンター」でやったように、主人公の周りにいる同性の美形キャラは属性やトラウマによって最初っから全く方向性の違う存在と位置付ける、みたいな解決方法が昨今では普通になった。そもそも人間じゃないとか、非人間的なほど復讐に取りつかれた存在(クラピカ)や女性より微妙に主人公の方を見ている存在(キルア)みたいに。「進撃の巨人」なんかでもこの文法を使ってる(リヴァイとアルミン)。ちなみに、実写版の進撃はその狙いをまっっったく理解せずにミカサとシキシマ(リヴァイみたいな存在)のラインをつなげる…みたいなアホな設定にしてしまい、最後にシキシマをしょうもなく殺す安直な物語づくりにするしかなくなってめちゃくちゃ薄っぺらい「人間ドラマ(笑)」が顰蹙を買ってしまったのは皆さまご覧のとおり。関係者には猛省を望みたいね。
自分の意思でコントロールできない状態を依存症と見る場合、俺のオナニーは間違いなく依存症だと思う
朝起きてオナニー、飯食ってオナニー、夜寝る前にオナニーは当たり前
それに加えて日中ムラッときたら自然に手が陰部に向かってしまう
勿論野外オナニーは禁じ手だから衆人のいない屋内オナニーでその場を凌ぐ
これらのオナニーはまるで日常のルーティンの様になっているが別に俺が取り決めた計画に沿ったオナニーではなくあくまで衝動的なオナニー
もう二度とオナニーはしない……そう誓った日の夜には既にオナニーをしている俺がいる
このままでは俺はスペルマ欠乏症になって死なないまでも集中力の大幅な低下で日常活動に致命傷を負いかねない
誰か助けてください オナニーに殺される
最近同ジャンルの人でマシュマロを置いている人が多いので、自分も置こうかどうか迷っている。
というのは、交流苦手で、公言はしていないが苦手も多いのでTwitterは壁うちで、ジャンル者にははフォローをいただいても一律フォロー返しをしていない。
もともと自萌え気質なので感想があってもなくてもどんどんネタは浮かぶし毎日なにかしら書いている。
それなりに人口はいるので、壁打ち垢からでもふぁぼやリツイートはある程度伸びるので、ハートが増えるのを眺めたり、リツイートコメントを読んでスクショ取ったりなどしてこっそり励みにしている。
ですが
オフでイベント参加となると別で、やはり交流ゼロで行くのは本当に覚悟がいる。
先日のイベントは病んで申し込みをしなかった。
交流はメリットもあるが、一般社会よりかなり高い確率で変な人に当たってしまうリスクがあるので一切しないことにしたのは自分だ。
匿名フォームは、万一焼きマシュマロをもらってしまったらと思うと怖くてとてもじゃないが置けない。
リプの感想も嬉しいけど返信にこまる。あと、的外れなことを言う人もたまにいるのでそれと話をするのも疲れる。交流欲がチラチラ見える人だと、対応により高度のテクニックを要するので(できないわけではないが)一律感想を受けるフォームは置かない。
同人誌の最後には感想いただけると嬉しいみたいなことは書くことにしている。感想不要ではないということは公言しておいたほうがいいと思っているので。
でもここまですると当然感想なんてゼロなわけで、ゼロよりはあったほうがいいけど、まあ無くても書けるけど、
感想一個ももらわないまま次のイベントとか、とてもじゃないけど怖くて行けない。
交流怖いし変な感想に傷つきやすいけど、ジャンルでの自分の居場所がちゃんとあるかどうかを一個でも感想を頂くことによって確認し、安心して次のイベントを目指したい。
矛盾してるな、とは思うけど。
そこでマシュマロですよ。
別に同人誌がバカ売れしなくてもいいんだけど、ちょっとくらいはリアクション欲しいな。
またイベント前に病むんだろうな。
本はどんどんできてしまうから、自分用一冊とかにしてもいいけど、イベント出て勝負しないと何も得られない気もするし。
同人活動とはなんだったっけ?