はてなキーワード: 矮小化とは
※あくまで個人の感想であり、実際のところはよく分かりません。
→「40字で答えなさい」の著者に巨大ブーメラン直撃
「(裏は取ったんですか?の問いに)はい。ずっと取材してます。」
(ちなみにこの件で坂本弁護士事件の例を出すのは全く見当違い。オジキと氏はこの時点で利害対立ない。)
ソースを摘示されると「それは○○の編集者が勝手に書いた」等とその場にいない人のせいにして帰結をペンディングする
あずまんの感想みて思ったけど、巨悪と戦うイメージ戦略こそが彼のビジネスの核なんだね。
そのイメージさえ植えつけられれば、氏に都合悪いことも信者的には矮小化できる。
逆に言えば氏にとって一番怖いのは、巨悪が実はわら人形だったとバレることだったと。
だから経歴詐称なんかはあっさり(というには長々語って)認めた代わりに、降板理由では絶対譲らず
様々な圧力にTBSが屈したという構図を訳分からん理屈こねて、オジキを悪者にまでして死守したんだね。
だから勝ち負けで言えば負けてない。今後大勝するのが難しくなっただけで。
等々といろいろ感じましたが、今回のハイライトはオジキが嘘言ったんじゃね?(意訳)のくだり。
背筋にぞわぞわ~~~っと来ましたよ。
この人は都合が悪くなると関係者との人間関係ごととかげのしっぽの如く切り捨てるんだ、と。
(裏では必死で縫い合わせているのかも知れないけどね)
そこに痛みを感じないところが彼の才能の源泉なんだろうね。
<結論>博士は苫米地氏にマインドコントロールを解いてもらうべき
親の年収であれ知性であれ教養であれ「親によって子供の人生が決定される」という言説だけが流れるのはまずかろう、と思ったんだけどね。
教育って、貧困層の子供観点で見ると、低所得者層の親を持ちつつも社会的に成功するチャンスでもある、と私は思っていたかった。
どの話?
http://anond.hatelabo.jp/20120107215519
この話。
そうだね。負の再生産はあるね。 確かに東大に入る子の親は経済的にも恵まれてる子が多いようだ。
子供は生まれてくる親を選べない。
どの話?
それぐらい高学歴ならすぐ見つけられるだろうに、あえて聞くってことは質問攻めにしてやり込めてやりたいようにしか見えないんだよなあ
ネットイナゴの攻撃から身を守るための対策を考えてみた。ここでのネットイナゴというのは、揚げ足の取りプロで矮小化の天才で炎上の愛好者で、でもあんまり賢くないので劣等感を抱えている人間を想定してみる。いるのかそんなやつ。
まずは、真っ白で格式が高い権威。格式が高いのが必要で真っ白が条件。脱税とかセクハラした経歴があるともうダメ。 噂でもアウト。そういうはひたすら突っ込まれる。主張がいくら論理性・妥当性の点で堅牢だとしても、人間的欠陥がある時点で却下される。そういうのあまりにもバカっぽいけど考えないためには便利な方法。というか、最強の詭弁の一つだと思う。権威に関しては、東大アレルギーの人間がちょこちょこいるので、海外の大学や東大以外の高学歴だとなおさら良い。「海外の大学」とかいってる時点で俺の知性が疑われてしまう。マカチューセッチュ……そういうのしらねーもん。自分で頭髪を整えているという茂木さんは典型的な被害者。美容室にいこうよ。まあ煙が立っているだけでも推定有罪で突っ込まれるから、むしろ有名人はネットイナゴを飼い馴らす遊びを覚えた方が楽しそう。その気持ちは百鬼久作。ケサランパサランなんていなかったんや!
次に 、主張が分かりやすくないこと、隙のある大ざっぱなフレーズを使用しないこと。普通、本質さえ押さえていれば分かりやすいことに越したことはないし、例えちょっと粗雑でも核心を突いたフレーズは良いことだと思うんだけど、ネットイナゴはそういった脆い部分を狙ってくる。「○○○だってよww」と説明がないと誤読されるような主張、三行以内でまとめられるな主張はダメ。ひたすら論拠と長文と数値とソースを読めで埋める。岩石の巨兵のように攻撃力を捨ててまで防御に徹するのだ。ゴブリンの突撃兵の出番はない。例えが懐かしいですね。
おまけに、はてなダイアリーか個人ホームページなどに引っ込む。匿名でのコメント欄は廃止する。でも、Facebookの社交的なコメントは目立つように表示する。twitterはちょっとダメ。うかつに発言するとtogetterが容赦なく編集してくる。晒される。石を投げられる。しかも、あそこはみんなと一緒ならデマでも踊れる愉快な人間が多い。赤信号は渡れないくせに! しかも、中にはフォロワー数を戦闘力として判断する過激な戦闘民がいたりするし良いことない。はてブは俺にとってはトラウマなので論外。由来、ネットでの論争は観客の「なんとなく」の印象で決まってしまうから、その印象を(俺にとっては)頭が良い人ばかりのはてな民に任せるのが良いだろう。大型掲示板の原住民や話題に飢えているついったらーよりかは幾分かは公平な審判を下してもらえると思う。ピエルルイジ・コッリーナさんほどのジャッジは期待できないとしても。
それと、あんま露出しない。露出するなら身だしなみに気を付ける。人間像は浮びあがらせてはいけない。ハゲてもいけない。仮想敵にすらなり得ないようにする。facebookは活用してもfacebookに登録するな。あんなのリア充の巣窟だ。全く批判されないような美男美女とかガッキーとか佐々木望とか向井理以外にはありえない。俺はというと、伊東遥が好きなのですがね。お世話になっています。
しかし、この防御策は大手まとめブログに扇情的にまとめられたら意味ない。そもそも扇情的にまとめられないことはあんまりない。だから、敬愛する岩崎夏海さんはもう僕たちだけのハックル先生ではなくなった。まとめブログのサーチライトに照らされてしまうと、ネットイナゴが呼吸ができないほどに周囲を覆い尽して、可愛い顔したハムスターが美しくない溝鼠を総動員させてくるから、そのときはパソコンをそっと閉じてコーヒーでも淹れて飲むことにしよう。窓を擦る夕日はいつでも綺麗でその美しさを奪うような虫はそこにはいない。
【ルール策定は政治力で決まる 米韓FTAより酷いTPP】中野剛志
http://www.youtube.com/watch?v=NEf6bzEe1R8
http://www.youtube.com/watch?v=O9ghcF_M2CI
http://www.youtube.com/watch?v=-Qmac-tclMM
の要点を文章でまとめてみた。
どうも反市場主義者の偏見みたいな部分もあって、すべての意見に賛成できたわけではないけれども、実際の事例などを元に具体的に問題点を解説されており、概ね説得力はある。
もしも、TPPがよいものであると言うのであれば、ここで掲げられている問題点が杞憂であることを示し、同等かそれ以上に説得力のある意見を提示しなければ、単なる妄言としか受け止められないであろう。
TPP推進論者には、個々の間違いや重箱の隅への反論ではなく、これらを問題視することが根本的に間違っており、TPP受け入れにより大変なメリットを享受できることを、実例を交えてご紹介いただきたいものだ。
TPPに日本が加わったとしても、全体のうち(GDPが?)アメリカが7割、日本が2割と日米で9割である。実質、日米の貿易協定といえる。さらに、アメリカは輸出倍増戦略をとっている。TPPは日本にものを売りつけるためのものといえる。
米韓FTAや、アメリカ、カナダ、メキシコによる北米自由貿易協定(NAFTA)と似ており、アメリカに都合いいルールを押し付けられ、搾取される。
一般的には、関税の撤廃で物を自由に行き来できるようにし、公平な競争を促す協定であると捉えられている。しかし、かつてはそうであったが、70年代くらいからは意味が変わってきた。
それまでは各国の関税が高かったため、関税の撤廃が主眼に置かれていたが、70年代くらいからは関税が低くなり、農業以外の大抵の製品で関税は低くなった。そのため、関税の撤廃による自由競争よりも非関税障壁の撤廃、すなわち各国の制度を変更することが主眼に置かれるようになった。
各国の制度を変更するということは、相手の国の制度を自国企業に有利なように変更させることを意味する。そして、どのように制度を変更できるかは、その国の政治力によって決まる。
また、アメリカ企業は70年代以前よりも競争力が低くなり、公平な自由競争では他国企業に負けることも多くなった。そこで、アメリカの強大な政治力を利用して、他国の制度をアメリカ企業に有利になるよう変更させることで競争力を高める手段がとられ始めた。自由貿易協定の対象となる領域の範囲が広まったのも、70~80年代のことである。
80年代後半からは、日本はアメリカに頻繁に制度変更を強いられている。日本企業の努力は、勝手な制度変更によって台無しになる。オリンピックで浅田真央が苦しんだのと同じ構図だ。
現在、TPPの議論では、農業vsその他の産業といった形でしか情報が出ていないが、問題はそればかりではない。
韓国はコメ以外の農作物に関して、猶予はあるものの実質関税撤廃とする。また、アメリカの関税も撤廃してもらった。そして、関税撤廃を理由に、いくつもの不利な条件を飲まされることになったが、そもそも関税撤廃は韓国にとってそれほど大きな効果をもたらさない。
例えば韓国が得意とする輸出品である、自動車の関税は2.5%、テレビは5%と、もともと関税率は低かった。また日本企業もそうだが、韓国企業もアメリカでの現地生産を積極的に行っており、当然その場合に関税はかからない。このように、グローバル化を行うとそもそも関税はあまり重要でなくなってくる。また、さらに悪いことに自動車の関税は、アメリカの自動車メーカーが「脅かされている」と感じたら復活させることができる。
アメリカは韓国の自動車市場に参入しやすくするため、韓国に対し排ガス規制をアメリカと同じにすること、安全基準や排ガス関係の装置の設置義務をアメリカに一時的に猶予するよう要求した。また、小型車が有利な韓国に対し、アメリカは大型車が有利であるため、税制を大型車に有利になるよう変更させる。
農協、漁協など協同組合の共済保険や、郵便局の保険サービス、つまり日本で言うところの簡保をFTA発効3年以内に解体させ、アメリカの保険会社が参入しやすいようにする。
また、韓国で薬価が安く設定された場合に、アメリカの医薬品メーカーが韓国政府に不服を申し立てできるよう、第三者機関を設置する。
その他、法律・会計・税務事務所をアメリカ人が開設できるようになり、放送局の外資規制も緩和される。
これらのように、環境や安全に関する基準や共済保険のような相互扶助の仕組みなどを、アメリカ企業に有利にするために踏みにじられる。
また、もし韓国が他の国と貿易協定を結び、米韓FTAよりも市場開放した場合は同じ条件を自動的に適用できる制度も導入される。
さらに、ラチェット規定や投資家と国の紛争解決手続き(ISD)といった、問題の大きい制度も受け入れることとなった。
ラチェットとは、爪のついた、決まった方向にしか回せず、逆回転ができない歯車を言う。ラチェット規定とは、一旦、自由化や市場開放を認めると、今後は元に戻せないとする規定である。
例えば、アメリカに対して牛肉の自由化を認めた場合、仮にアメリカで狂牛病が発生したとしても、輸入を禁止することができない。
NAFTAで導入された、非常に問題の多い制度である。外国の投資家が、例えば韓国やカナダで、国の政策によって損害を受けたとき、世界銀行傘下の国際投資紛争解決センターに訴えることができる。国際投資紛争解決センターは、その規制が必要であったかは考慮せず、単に規制のせいで受けた損害のみを考慮する。また、非公開で、判例に拘束されず、上訴できない。圧倒的に投資家に有利な制度で、国家主権を制限してグローバル化を推し進めるための協定である。以下に、これまでにカナダ、メキシコ政府が訴えられたときの判例を紹介する。
こういった事例が頻発している。
米韓FTAでは、韓国はこのISD条項を受け入れた。ただし、アメリカが韓国を訴えることはできるが、韓国がアメリカを訴えることはできない。
また、仮に、双方に訴えることができるとしても、投資、訴訟はアメリカが得意とする分野である。アメリカは、自国に有利な分野に戦いを持ち込もうとしている。
このISD条項は、TPPでも導入が議論される。
TPP推進論者は、話し合いの場には参加して、合意できなかったら離脱すればいいと言う。ところが、そういったことをすると国際関係や日米関係を損なう恐れがある。
また、米韓FTAについて、韓国にもメリットがあるから合意したと言う者もいるが、そんなに単純な話ではない。合意したから双方にとってよいものであるならば、不平等条約や詐欺など存在しない。
力で押し切られるか、契約の当事者がバカだった場合、メリットの無い条約を結んでしまう。日本の場合、力はないし、当事者はバカだ。
韓国の場合は、アメリカに押しきられた。アメリカの要求があまりにひどいので、昨年11月までは抵抗しており、一旦決裂した。ところが12月に突然合意。その間に何があったかというと、北朝鮮の砲撃があった。米韓FTAに関して、国民には内容はほとんど知らされていなかった。
民主党の資料によると、ISD条項は、拒否したいルールではなく、導入したいルールに含まれていた。その理由は、日本企業が海外に進出したとき海外の政策によって不利益を被ったら問題を解決できるから。日本政府が訴えられる可能性を一切考慮していないし、地下水を汚染されても何も言えなくなる可能性も考慮していない。日本政府やTPP推進論者には、日本にとって有利になるルールとは何か、国益とは何か、それが全く分かっていない。
韓国の前大統領秘書官は「主要な争点において我々が得た物は何もない。アメリカの要求はほとんどすべて一つ残らず譲歩した」と述べており、官僚は責任をとらないと付け加えている。
TPP推進論者はTPPに対する不安を煽るなと言ってるが、この状況を羨ましいと思うのか。
もう手遅れで、抵抗しても99%無駄だろう。
管前首相が交渉参加の検討を表明し、マスコミはそれに賛成した。その時点で賛成してしまったので、今更反対に回れなくなっている。
マスコミが賛成したことに気をよくした政府は、国民の支持を得るため、開国フォーラムと称した説明会を行ったところ、騒ぎになった。この開国フォーラムは震災を機会に中止され、国民への説明は行われなくなった。
国民を説得することができなくなったので、現在は「交渉だけならいいじゃないか」と主張して、説明責任を放棄している。
米韓FTA締結でオバマがセレモニーを行うので、それに対し日本も遅れるなと煽る。反対の声は矮小化する。
TPPが結ばれることは、既に決まりきっている。TPPは条約なので、締結は国会の承認が必要だが、交渉参加表明は政府の専権事項で阻止できない。そしてその後は日米関係、国際関係から抜けられない。阻止する手段がなかった。
私はこれまで反対しつづけていたが、もう無理だ。どうしようもない。
農業が壊滅すれば、農林水産省はダメだ、構造改革しないといけない。俺たちならもっとうまくやっていたと嘯くだろう。
何かがダメになれば、グローバルな流れに乗り遅れて淘汰されたのだから、仕方ないと言うだろう。
TPP推進論者は、自己責任と他人に責任を押し付けて、自身は絶対に責任をとらない、新自由主義者である。
新自由主義者による政権として、サッチャー政権、レーガン政権、小泉政権があるが、敵が多いのに長命政権であった。負けたものの面倒を政府が見るのはおかしい、自己責任だ、と責任逃れをして、長期政権になる。
もうどうにもならん。植民地への道を。
http://blog.livedoor.jp/honkinohonyomi/archives/52529848.html
余力のある社会は強い//『働かないアリに意義がある』長谷川英祐 « 本気の本読み―グループで書評・本のまとめブログ
http://news.nicovideo.jp/watch/nw127033
ブラック企業の“大手”社員が激白「すでに社畜化してますね」 | 日刊SPA!
最近良く聞かれるようになった「働きアリの中にも怠けた蟻がいて、それは集団のためになっている。これは人間における労働者とニートの関係と同じだ。だから働かない人がいることは悪いことではない」という主張。これはまこと見るべきものを見ない唾棄すべき愚論である。
単純に言えば、アリ社会は
それにひきかえ日本人は、
端的に言えば一番最後こそが両者を分かつもっとも重要なファクターなのだが、こういった還元主義的発想は共通項ばかりを論って差異に無頓着である。
ましてや仮にこの言説が一定以上の信頼性を持ち得たとしても、この手の大局的主張は個を幸せにすることはない。幸せになるためには物質的、精神的な満足こそが大事なのであり、それは様々な方法こそあれ、多くは労働によって達成されるのだ。
資産家の御曹司で余生も安泰だという若年層にとっては、それでもいいだろうが、多くはそうではない。そしてこの主張はそうでない「溜めも役割もない」人々に向けているのだから、どのみち的はずれである。
ちなみに、「アリとキリギリス」などを引き合いに出して現代の「労働者とニート」問題に置き換える言説はこれより以前から見られたが、これはそれ以上に愚論である。そもそもキリギリスはまともに働こうが最初の冬には死ぬのだから、ニートをキリギリスに当てはめるという事自体が残念な考えである。もちろん、この話が成立した時代においては仕方がない事情もあろうが、21世紀にもなってこのような話をしたり顔で振りかざしていては恥知らずとしかいいようがない。
われら人類のニートの問題はこれら以上に複雑なのだから、このようなバカでも知った気になれるような矮小化に振り回されてはいけない。
まずは、よく調べてまとめられていると言わせて頂きます。
ただ、数カ所、客観的ではない恣意的なまとめ方をされているように見受けられてしまいますので、せっかくのまとめが誤解を生まないように指摘をさせて頂きたいと思います。
まず、カオスラウンジ問題が、著作権だけの問題であるかのように見えてしまいますので、これについては訂正すべきではないでしょうか。
彼らの問題は、「他人から借りた作品を返却しない」などのごく一般的に見て常識の無い行動に起因するものです。
コラージュそのものは技法としてずっと存在するものですし、それについての是非は問題にはなっていないと思います。
その通りですが、私が見る限りでは特に誰も私刑を行っていないと思うのですが、何をご覧になられているのでしょう?
問題について言及している人は皆、「常識のない行動で平気で他者に迷惑をかける」カオスラウンジが「正しく裁かれる」ことを望んで情報を拡散していると私は感じております。
私見ですので、あまりあれこれ指摘するのもどうかと思いますが、勘違いされている部分が見られますので敢えて。
私はふたばちゃんねるを閲覧しているわけではないのであまり細かい指摘はできませんが、「ふたばちゃんねる」においていろいろなコラージュや画像の改変が行われているということは聞き及んでおります。
その内容について、不適切なものも含まれるであろうことは容易に予想できます。
ただ、あの場を「無法地帯」と断ずるのはあまりに思慮を欠いてはいないでしょうか。
ふたばちゃんねるにも法はありますよね?だれも逆らえない絶対的な法。
これがある故に、著作権問題は「とりあえず見逃されている」というのがふたばちゃんねるという場所だと私は思います。
ここを無視して、「ネットも無法地帯、カオスラウンジへの批判がただの私怨である」と読み取れるような記述されているのは表現の仕方に少し問題があるのではないかと思われます。
カオスラウンジは「ネット上の画像はすべてフリー素材」と断言して活動していますので、彼らが「無法地帯」を作りだそうとしているのは明らかです。
カオスラウンジが批判されるのはそういう姿勢が問題だからです。
カオスラウンジの制作物が、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなどの顔写真を使用した、「肖像権の侵害」「名誉毀損罪」に該当する可能性があるということはご存じないのでしょうか?
それを考慮せず、問題が「著作権の侵害でしかない」というのは間違っているとしか言えません。
この事実があるからこそ、「カオスラウンジを許すならばお前や家族や友人の顔写真をコラ素材にする、それを認めないならばダブルスタンダートだ」という言い分が成り立っているのです。(些か暴論ではありますが)
コラージュという手法を否定している人は私が見た限りではいないようなのですが、貴方は何と戦っているのでしょう?
問題を矮小化しようという意図にも見れてしまい、せっかくのまとめが誤解を生んでしまいそうなので、訂正をされた方が良いかと思います。
偽札の販売まで行った犯罪者集団をそこまで寛容に受け入れられるというのは素晴らしいですが、犯罪は犯罪として裁かれるのが公平な世の中ではないかと狭量な私は思わざるを得ません。
以上、少し長くなってしまいましたが、私なりに疑問に感じた点を挙げさせて頂きました。
セキュリティ上の問題が設立当初からずっとあったことに対して何の公式発表もないのですから、我々が何を言おうと意味のないことです。
何にしても、まとめ作業ご苦労様でした。
もう少し公平で客観的なまとめになっているとさらに良かったと思います。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
人を無視して国で括る(例:チョン、シナ)
そこの国にどんな人がいようとも包括的に論じる。
発展形としては仮想敵企業は社員無視して例外なく罵倒、民主党員は徹底的に罵倒、被差別地域は徹底的に罵倒。文系は徹底的に罵倒。ニコ厨は徹底的に罵倒。
発展形としてはいろんな人に同じようなことをする。きっこを罵倒したり誰とも分からぬIDを罵倒したり。
どっちが、というような問題ではない。どちらも脳みその酷使を抑えるためのようなものであり、究極としてはどっちも悪い。
様相としては「社会⊃個人⊃言説」のレイヤー分けがされており、やってることにさしたる違いはない。
まあ、どっちもムラ社会みたいなもんです。「日本SUGEEEEEEEEEE」か「俺SUGEEEEEEEEEE」の違いしかありません。
まあ、見た目の悪さで言えば、より包括的に扱っている分大なるケースの方が悪そうには見えますよね。後者はとりあえず、人を分断することには成功していますから。
めんどくさくてもそうすることが望ましい。
たとえばはてブのお気に入りに、よくブクマでバカにされてる人のエントリが上がってきたとする。
で、案の定ブコメはバカにしている。
でも、記事をよく見ると特に間違ったことは主張していない。
そんな時はムラ社会の空気に負けず、しっかりブコメで「間違ってないでしょ」と書きましょう。
たまにIDコールで堂々と、矢印でこっそりと、矢印も付けずに罵倒されますが、グッと堪えましょう。
彼らにとっては「こんなやつが日本にいるなんて恥ずかしい!とっちめてやる!」とか「こんなやつをやっつけられないなんてどいつもこいつも恥ずかしい!俺がとっちめてやる!」とか思ってるので、どっちにしても辛抱です。
まあ、構わないのが勝ちですよ。
この文章のこと? 「知ってるはず」=「知ってる」と確定出来るのは、リーダーとの関係を熟知している元増田だけなんですけど。という、本筋と関係ないツッコミは置いといて。
ボランティアはムズカシイですなあ。「この仕事で、これこれこういう業績を上げてますが」と自己紹介して効率化の提案をすればリーダー交代するしかないからね。そこまで時間取れないし、面子潰したくないし、困ったね。
いきなり話を矮小化、日常化して、申し訳ないんだけど、日本全国のPTAや町内会では、似たようなことが起こってるんですよ。プロなら3日間で出来ることを3カ月(実質作業時間は2週間)掛けたりね。
今回の場合は緊急性があるから、ボランティアが組織化されて、効率的に被災地のお手伝いが出来るようになることをせつに祈るよ。