はてなキーワード: 差別者とは
トゥギャッター読んだけど転売にモラルがないって言ってる人全然「オタク」じゃねえなぁ
おまえ自分が嫌いなやつのことオタクってラベリングしてる差別者ってことになるんだけど
あと「転売目的の買い占め」のことも結局するんだから「転売」っていったってかまわねえだろ
言葉狩り罪も上乗せだな
はてなブックマークばかり眺めていたので知らなかった。
令和三年にもなって未だにこんなことを言ってる人がいようとは。
レズビアンの筆者に向かって、
長い、長い… ため息が出た。
「ホモセクシャルは存在しない。彼らには男女の交友が足りてないだけだ」式の典型的で古典的な、博物館に展示してありそうな
The・性差別。
ワザワザ他人の性に首を突っ込んでまでひとこと物申したくなる彼らの動機は、自分の男性性を否定されたように感じるから、だと知られている。同性愛が存在するだけで異性愛が否定されたのように感じるのは、実はそれだけジェンダー規範への圧力が強かったということだ。理不尽な同調圧力でアイデンティティを押し付けられたとき、人はそれを正当化する理屈を自分の中で作り出してしまう。そうすれば「本当は勇気を出して戦うべきなんじゃないか?」って悩みから解放されるから。この現象を “規範の内面化” という。差別者さん、あなたは社会に対して腹をたてるべきだったんですよ。彼らに迎合して LGBT を殴るのはやめてください。未来に価値観をアップデートできたとしても、加害したって記憶はずっと残る。歯茎に刺さる抜けない魚のホネになる。でも被害を受ける方は——想像もつかないだろうけど——もっとずっとくるしいんだよ。
やっぱり案の定
『こうした経験をしていないまま男尊左翼になった人たちは「自分は女性蔑視をしていないし、女性への差別はいけない」と思い込んでいますが、実際に大事にしているのは「女性を搾取・支配しながら運動を続ける有害な男同士の絆」だったりします。
「男同士の絆」が社会運動の場で、その中でのヘゲモニー争いに興じることが何より大切なので、口では女性への差別を無くそうと言いながらトランスジェンダリズムに肩入れしてしまうんでしょうね。
なので「山谷えり子でもツッコミを入れられるガバガバな思想」という理解ができず、山谷えり子が反対しているということはこれは守らなくては!とかになっちゃうんですね。
そして自分が女性への差別者であることを開陳してしまう男尊左翼の出来上がりです。』
『この人はネトウヨと親和性あるけどこの発言自体は何一つ間違えてない
党派性だけで全否定する左翼は消えてほしい 』みたいな発言が出てきた。
女尊右翼の出来上がりだ
自民・山谷の「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとか、ばかげたことはいろいろ起きている」発言に当然はてなでは「この差別者が」という趣旨のブコメが大半。
極限に鍛えた女性の体と極限に鍛えた男性の体だったら大半のスポーツで後者の方が絶対に強い。
人類最強と呼ばれた女性アスリートだって、男性アスリートと戦ったらオリンピックレベルどころか国内のそこそこレベルの選手に負ける。
競技によっては男子高校生にも負けるし、なんなら男子中学生といい勝負をする。
はてなーはキーボードをカタカタやってるだけだから自民党のおばちゃんにはそりゃ好き放題言えるだろうけど、
その競技に人生を賭けていたのにトランスジェンダー女性に大敗した女性のトップアスリートが「こんなのおかしい、あんなのただの男じゃないか、馬鹿げている、自分のこれまでの努力はなんだったんだ」と泣き喚いていたらはてなーはなんて声をかけるの?
ラノベより120パ―セント面白いという長編小説をいつでも書く用意があるのだが、私にその場所を用意できないほど活字界は衰弱しているのだろうか。
noteで書いて稼げばいいじゃん。
有料noteでよくない?
ブログやnoteもありますし、どうしても書籍化したいなら自費出版という手もありますよ。
慈悲深くて金持ってる誰かが場を用意してくれるのを文句垂れながら待つ、大変フェミニズム的で宜しいかと思います。
この方は何故「私の場所は用意されて然るべきもの」と考えられてるんでしょうか?
書けばいいじゃん。場所なんていくらでもあるでしょ。お金貰わなくてもいいのならインターネット上にはいくらでもね。
書けるものなら是非書いてください今すぐ。このTwitterで。
ポリシーとかないから提灯記事書けるけど、金くれる人がいないと書けないのでお仕事プリーズって事かな?
お金が発生しないのに石川優実さんの擁護をするのはキツいという意味になりそうな。
無償で書くほどは支持してないって事かな?
この人の言ってることって既存の作品とか創作を見てバカにしながら「自分ならこれ以上のものできる!」と言い、この時代いくらでも発表する場所はあるのに1文字も描かない自称絵描きや自称もの書きと変わらん。
これフェミの時の勝部先生も「お金がもらえないから発言して助けたりしない」って言ってましたね。
誰かに用意して貰えると思ってるところがいつでも他力本願のフェミらしくて実に笑える。その辺のblogなりnoteなり幾らでも書くとこあるのにこういうとこさえも甘ったれないとなんにもできないし石川氏を庇うこともできないんだねえ
正しさなんてもの100%を超えることは無い基準値次第(立ち位置や視点)で移ろうものが道義的正しさだから超える表現をしたことで、盛ってる嘘がどこかにあると自白してるようなものなので、その正しさは80%如何だろうな
この人はアイヌ民族へのヘイト扇動をおこない、それを糾弾されたのに、説明なく沈黙したままの差別者。活字界の衰弱はしらないが、切通の人権意識が衰弱しているのはまちがいない。差別やヘイトについてなにか書くなら、まずこの6年前の公開質問状への回答文であるべき
「アイヌ民族をめぐる問題」での発言以降信用していない。危うさしか感じない。 https://togetter.com/li/805440
弱者男性論争について、どうも噛み合っていないと感じる。俺は弱者男子でもあるが、自分には弱者男性側がいくつか誤解している点があると感じた。
まず最初に「彼女が出来なくて辛い」という非モテ男性の訴えを散見した。「この辛さは女性に選ばれない虚無感、孤独である」と彼らは言う。この気持ちはよくわかるし、多くの人から善意の助言が集まっていた。
助言1「モテるための努力をすべき。見た目に気を配る、コミュニケーション能力を上げる、等々」 → 弱者男性「そんな努力はとっくにしたが、持って生まれたモノはどうにもならない」「コミュ障はそう簡単に治らない」「弱者男性にだけ自助を求めるのかよ。弱者男性差別だろ」
助言2「ならば、女性以外で心を満たしては?友人とか趣味とか」 → 弱者男性「女性を求めてるのに他のモノで満足しろってか。マリーアントワネットかよ!」
ここで助言側はこう考える。彼女は欲しいけど、自助は嫌(or無理) で 女性以外じゃ満たされない なら、女性をあてがえって事か? と。彼らの主張を統合すると自然とこの答えに行きつく。
ところが 弱者男性は「あてがえなんて言ってないのに邪推しやがって!これこそ弱者男性差別!」と猛反発する。
何を提示しても全て否定され、いよいよ困ってしまう。もはや選択肢は残っていないのだ。「じゃあ、どうしてほしいのか具体的に言って」 → 弱者男性「差別しないでほしい。それだけ」
助言側はこの回答に戸惑う。「彼女がいないのが辛い」を解消することが彼らの願いじゃなかったのか?それとも差別解消をすれば先の悩みは解決するのか?
しかし差別したつもりはないので、どうしたら良いのかわからない。「何が差別なのか具体的に言ってほしい」 → 弱者男性「さんざん差別しておいてそれを言うか?自分で考えろ。本当に無自覚差別者ばっかだな!」「差別しないでほしいだけなのに、『女をあてがえって事だろ』とか邪推するのが差別なんだよ!」「同じ弱者なのに弱者男性だけに自助を求めるのが差別だ」
明確にしておきたい。
男性の貧困を自助でやれと言っている人はいない。 だが非モテに関しては自助アドバイスは差別などではない。正しいアプローチだ。経済弱者にはお金をあてがうことはできるが、モテ弱者に異性をあてがうことは許されないからだ。
たとえ女性でもそれは変わらない。もし非モテ女性への"自助以外"のアドバイスが存在すると言うならぜひ教えてほしい。
「男性差別」「独身差別」「ルッキズム」「イジメ」などは間違いなく存在している。だがそれらは個別に論じた方がこんな無駄な混乱は避けられる。
弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください
https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8
上記のnoteについて「何故女性やフェミニストに言うのか」「強者男性に言うべきでは」との意見がある様なので、何故なのか、読解してみようと思います。
予め断っておくとこれは女性やフェミニストへの攻撃の意図はありません、また件のnoteについても敵意は(受け止められている程には)大きくはないと判断しますが、それについても最後に触れます。
ではどのように読解すればいいでしょうか?いい方法があります。
以下の様に、国語のテストだと思って読解してみてはどうでしょうか?
このように国語のテストだと思えば、noteを読み込んで該当箇所を抽出するのも楽になる人も居る筈です。難しい問題や複雑な問題もゲームやテストだと思えば簡単に解けてしまう人はいるものです。
(これを「ゲーミフィケーション」という言葉に倣って「国語の期末テスティフィケーション」と呼ぶ(「国語の中間テスティフィケーション」でも可))
以下、幾つかのパートに分けて女性やフェミニストに向けられている理由と解釈できる箇所を抜き出します。
上記箇所の様に、このnoteでは女性も抑圧者・加害者になり得る事を繰り返し強調しています。
これがこのnoteの目的だとすると、明らかに女性に向けた方が効率的です。強者男性に向けて「実は女性も抑圧者になり得るんだ」と言っても「お、おう」と成るだけですし、むしろ告げ口に似てしまいます。だから女性本人に言う必要があると言えます。
また、男性が強者側に位置付けられたり、「抑圧者=男性」という図式が前提とされがちな現代では、そうでない側を殊更に強調する必要があり、そこに女性を対象にする必然性もあると言えます
(ただしその様な前提はテキストの外部から読み取る事なので、テキスト内で論理的に完結する必要のある国語のテストとしては回答に出せない部分になります)
上記箇所の様に、noteでは差別そのものに負けず劣らず、差別を否認し、正当化する事への非難に紙幅が割かれます。
例えば、
未婚男性の寿命の短さは無視される上男性の女性虐待の証拠になり、男性のメンタルの悪化と低すぎる幸福度は無意識化された特権意識のせいにされ、ホームレスと引きこもりさえも女性に厳しい差別的構造の例だとされます。
の様に、男性の差別的な境遇を問題化しようとしたときに、それが女性差別の問題へとすり替えられる様子が描かれます。
弱者男性差別そのものは強者男性・女性・フェミニスト共に加害者に成り得ますが、「弱者男性差別→女性差別」の様な差別の主題のスライドは、女性差別を取り沙汰したいフェミニストにしか動機がありません。
従ってこのような差別のスライドを問題にする限りでは、フェミニストの方々に向ける理由があるという事に成ります。
こうなるとフェミニストはもはや、「女性差別は気にするけど男性差別は気にしない」だけではなく、「女性差別は気にするけど男性差別は積極的に口を塞いで透明化する」というセクシストに見えます。
という箇所も同様でしょう。差別のスライドによって「男性差別は積極的に口を塞いで透明化する」という積極的な加害行動が問題化されます。
関連して、
フェミニストの方に考えてほしいのは、「男性差別はない」「あったとしても大きな声で言うのは女性の口をつぐむことだからいけない」という考えはこの時点でかなり人権軽視であったり、性差別的な言葉ということです
という箇所もありました。
ここについてもやはり、「男性差別はない」「あったとしても大きな声で言うのは女性の口をつぐむことだからいけない」といった発言をする動機が大きいのは女性やフェミニストです。対して強者男性にその様な発言をする動機は大してありません。
(例外としてフェミニストかつ強者男性の場合、女性フェミニストと同じ動機を持ち得ますが、当然その場合「フェミニスト」に重なっています)
似た箇所として、以下の部分も上げられます。
なぜ弱者男性が、ジェンダー平等を望む仲間のはずのフェミニストを攻撃してしまうのか、それは一部のフェミニストがジョージ・ワシントンだからということもあるでしょう。
ここでジョージ・ワシントンは「世界で最初の人権を宣言した憲法を書き上げながら、ネイティブ・アメリカンへの虐殺を差別だと認識できなかった」人物として言及されます。
この文意は「一部のフェミニスト」がジョージ・ワシントンと同様の構造(つまり、女性の人権を保護しながら、弱者男性への差別を認識できなかった)を持っている、だと解釈できます。その上で、
自分たちも白人も平等に殺す無法者より、人権を高らかに謳い上げるがお前たちは人間じゃないから殺されてOKと言う、ジョージ・ワシントンの方が憎く見えたでしょう。
という様に加害そのものより、差別の正当化や、「人権を謳い上げる」正義側に無視される事の苦痛が強調されます。
この点に着目した時、フェミニストは(時に露悪的な)強者男性よりも正義を僭称する機会が多く、正義側としての側面が濃い為、強者男性よりも対象にする動機が大きいと言えます。
この箇所では明確に、差別的な度合いが強者男性より女性全般のほうが大きい可能性を検討しています。
女性はこの差別の抑圧者として大きな存在です。上記の差別では明確に女性の影があります。私自身、街を歩いていて嫌悪や指をさして笑う行為、吐き気をするようなジェスチャー、そういったことを度々経験していましたが、すべて女性でした。
以上の様に、女性による直接的な差別や加害もnoteでは幾つか言及されます。
「彼女も作れない人間はセクシストで、そのような人間の悲鳴はすべてミソジニー」というような意見をフェミニストが多くするのが原因です。男らしくならなければジェンダー平等を訴える人たちの間でさえ人間扱いされないどころか、セクシスト扱いされるのです。
これに対して、女性は異性の「点数が低い人達(先程の結果からみると本来は平均的な人たち)」を排除したり、嫌がったり嘲ったりする形で攻撃します。
例えば「女は黙って朝飯作って帰りは正座で待ってくれてないと」のような差別的な言葉と「無職の男とか絶対無理キモい」のような差別的な言葉は同じくらい重い、そう言えます。
こうした直接的な加害は恐らく女性やフェミニストの方々の中でも一部の方がしている事で、女性やフェミニスト全体がしている事ではありません。
従って女性やフェミニスト全体へ向けてこれらの事を直接の告発として言うのは(丁度一部の男性が行った加害を男性全体に向けて非難するという、弱者男性問題の主要な問題の一つと同様)間違っていますが、
「ぶつかりおじさん」の様に、女性側からは見えにくい一部の女性の加害を知って貰う、という可視化としては意味を持ち得ます。
そしてこれらが女性側からは見えにくいのであれば、特に女性に向けて周知する意味があると言えます。
特にその中でも、
最も弱者男性が差別的なことを言っていて、かんたんに論破できるような「女をあてがえ理論」に対するフェミニストたちの反応を見てください。「弱者男性とかキモい無理。女性の人権を侵害している。」、「その考えが差別的。特権意識から降りろ。」、その他諸々。なぜ、「女性が誰と結婚するかは個人の自由なので社会や国家が介入するな。」とだけ言えないんですか??
フェミニストが差別を糾弾する際、「キモい」「特権意識から降りろ」等の余計であったり部分的に適合しない侮蔑を含めてしまうケースが上げられています。
この箇所を「差別を糾弾する際に、別の差別意識が表面化し易い」という意味だと解釈すると、差別を糾弾する機会の多いフェミニストの方々に特に向ける意味があると言えます。
この貧しい家庭に生まれていじめで苦しむことも多い一生弱者男性(これは実際に統計的に全部正しいんです)は、下駄を脱げと言われても脱げる下駄がありません。むしろ、脱出できる可能性、助けてくれるまわりや、ケアしてくれる行政や団体の偏りを考えると、この層においては女性が下駄を履いていると言っても嘘になりません。この層に「下駄を脱げ」というのは、レイシストが「在日コリアンは特権を捨てろ、社会を牛耳ってる支配者のくせに弱者のフリをするな。孫正義を見てみろ。」というような最悪な言葉と大差ないのです。
この箇所はフェミニズムの文脈で男性に向けられがちな「下駄を脱げ」といった言説が、弱者男性の場合には適合せず(脱げる下駄が無い)、「在日特権」の様な存在しない特権の糾弾という、深刻な差別に成ってしまうケースが扱われています。
このようなフェミニズム言説への応答の箇所は、当然フェミニストへ向ける意味を持ちます。
また、
障害や貧困や差別で苦しんでいる中で、誰か一人にでも愛されたくても無理で絶望して今も首をを吊っていってる人たちに、無理とかキモいとかお前の孤独感さえ差別の証だだとか、それはもう加害欲求が暴走している、差別が楽しくてやめられない、としか言えないじゃないですか。
ゲイも、トランスジェンダーも、在日コリアンも、ハーフも、黒人も、障害者も、相手を「キモい」と言って正義の名のもとに糾弾する光景をあまり見ないですが、フェミニストだけは例外です。
の箇所の様に、フェミニズム的な批判に伴って加害欲求が暴走する可能性についても警告しています。ここもやはり強者男性に向ける意味はあまりなく、フェミニストへ向けて初めて意味がある箇所になります。
件のnoteを読み返しながら、国語のテストのつもりで関連しそうな箇所を抜き出してみましたが、結構あるものですね。
ただこれで全部ではないと思います。もしできれば、これを読んでいるあなたも国語のテストのつもりで挑んでみてはいかがでしょうか?
最後に、これまで追ってきたようにあのnoteは女性やフェミニストへ向けて書かれたものですが、「向ける」ということが「攻撃」や「批判」とイコールではない事は強調しておいた方が良さそうです。
現に彼自身、
だから、一部のフェミニストの方がしてしまったことも、不幸なすれ違いだと思うんです。「ただそんな人達がいると知らなかった」だけだと思うんです。なので、ジェンダーで苦しんでいる人間たちは一緒に戦っていける、そう思っています。理想主義的ですが、理想がないと進歩もありませんから。
と書いています。
この増田に付いても女性やフェミニストへの攻撃や批判の意図ではなく、あくまで彼の文章が女性やフェミニストへ「向け」られていた理由を読解する為に書いたものです。
もし彼のnoteやこの増田を読んで自分を責めている女性やフェミニストの方が居たら、自分を責め過ぎないようにしてください、責める事が目的なのではなく、知って貰う事が目的ですから。
彼のnoteは女性やフェミニストへ向けられていますが、それに応答するために女性やフェミニストの方がするべき事は、実はそれほど大きくはない、というのが私の解釈です。まずは「知る」「存在を認める」「積極的な加害はしない」ただそれだけの事で達成できる、ささやかなものなのです。(当然ですが、同様の事を私は女性差別に対しても行います)
そして私が言うまでも無く、彼のnoteへの反応の中で既にそれをしている女性が何人か居た事は知って居ます。そのような方々に尊敬と感謝を申し上げると共に、そうした方々が今後増える事を祈ります。
今回の主題からはズレますが、何故「弱者男性」を取り上げるのか?と疑問を抱いている方も居たので、ごく簡単にですが、ここにも読解を加えておきます。
私は「男性」という属性は、「ヘテロセクシャル」「健常者」といった単純に「強者」とみなしてもあまり問題が発生しないものではなく、特定の属性とつながるととても悪い影響をもたらす属性だと思っています。
「男性」に「障害者」、「貧困者」、「外見が悪い」などが付くと、「女性」にそれをつけた時より状態が悪化するということがあります。これが「弱者男性差別」です。
この箇所で言及されている通り、「障害者」、「貧困者」、「外見が悪い」等の弱者属性と「男性」が組み合わさった場合に特に悪化・深刻化するとすれば、
それは「弱者」単独でも「男性」単独でもなく、「弱者」+「男性」という組み合わせをわざわざ取り上げる強い動機を生む事になります。何故ならそのような悪化・深刻化は組み合わせないと発現せず、見えないからです。
「足を踏まれたら踏み返せ!」という古典的な対差別ムーブをアップデートするだけ
インターネットがない二十世紀では、差別行動にはなりふりかまわず声をあげることが大事とされてたのはわかる。
でも今は踏み返した足で、まきこんで別の弱者を踏んでたら可視化されるわけじゃん。
というか、人として認識すらされてるか怪しい。
巻き込まれて踏まれた雑草が声をあげるのが聞こえるようになったくらい言うべき?
そして意図しなくてもダメージは弱いとこに集中し蓄積していく。
なぜか?
弱者男性が「かわいそうランキング」や「共感ランキング」圏外だから。
もうひとつ。
はてサ的な人が「正義の剣をふるう自分」という立場を手放したくないから
「踏み返した足で弱者を意図せず巻き込んでたらどうすればいいか?」
これは小学生でもわかる。
でもはてサ的な人たちはそれができない。
かつて自分たちが攻撃していた差別者とまったく同じ言動をしてる
男性のサガを理性で封じ込めて
去勢されたように、牙をぬかれたように、存在感消して社会の歯車としてすり潰されてろ」
なんてことよく平気で言えるなーと関心してる
「うまく踏み返せ」が弱者の封じ込めに機能してしまうのもわかる。
でももうこれだけ可視化されてるのに、他の弱者を踏みにじって平然としてるのは流石にないでしょ?
難しいけどアップデートしてこ
「あてがえ」問題もさ。
仮に「30代40代女性や少数民族が、国の施策のせいで結婚できず独身率が高い」って問題があったら
でもランキング圏外のパブリック・エネミー認定すらされてる弱者男性に対しては
自殺者数的にもさ、
いまだ「弱者男性問題はフェミを攻撃するためのでっちあげ」とか言ってる人がいるのウケるよね
当事者でもないのに、正義の剣をふりかざしてたつもりの人たちが
差別(a.k.a.区別)にまつわる空中戦を見ていると、まだそんなレベルの議論してるの?としか思えんのだが
なんかSNSの人ってまるで差別を「堕ちてしまう暗黒面」みたいな認識をしているように見える。
鬼滅の刃で登場人物が鬼堕ちするような、普通の人間じゃない、特別に穢れた者だけが持ってしまう悪性、それが「差別」。みたいな。
そんなんじゃ全然ないんですよね。
普通の人間が全員持ってる認知なんですけど・・・。
なに「自分は持っていない、悪の他人だけがもっていて、それをやっつけてやる」みたいな態度とってるんですか? えんがちょできるとでもお思いで?
おまえもしかしてまだ 自分が差別者じゃないとでも思っているんじゃないかね?
人類皆差別者よ。
全員持っているものなのに、さも「特別な悪人しか持っていない性質である」という誤った認識にしてしまうことで、「自分は善人だからそんな差別心などは持っていない」、しかしメタ認知能力で「差別に該当する認識を実際自分もしていることに気づくことがある」という認知的不協和が発生したとき「差別じゃない、区別だ」とかいう迷言が出るんですわな。
「俺の気に入らない種類の差別」だけを選択的にポリコレ棒で殴り続ける鬼のような人間が表通りを闊歩するのだから、それから逃れるために認知がおかしくなってしまうのも仕方がないのですが。もちろんポリコレ棒をもった鬼にも差別心はあるのですが、それに気づくだけのメタ認知力があれば棒は持たないですね。
誰しもが持っている差別の心理・認知バイアスを
開き直るでもなく、良心の呵責に苛まれすぎるでもなく、
自覚し、瞑想的に付き合っていく方法を探る。
それが哲学とか仏教の説法だと思うよ。