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「美白=黄色人種の肌色のままシミソバカスのみ消したいだけ」って、そんなわけないでしょ。
実際の美白商品はシミソバカス消しだけではなく「肌色を明るくする」と宣伝しまくってるし、
「色の白いは七難隠す」ってのも、シミソバカスがないだけではなく肌色自体が白い事が良い事であるという価値観を示す言葉だし
昔から白い粉塗って真っ白にするのが美しいとされてきたわけで。
「黄色人種らしい」イエベより白人に近いブルべの方が美しいというブルべマウント風潮もあるし。
白人なんて身近にいない時代からそうだったわけだから、白人は関係ないと言えばそうだが
日本人の伝統的な美意識が「肌は白いほど美しい」というもので、実際に肌を白くしたがっている人が山ほどいるのは事実。
それとも素で美容の世界のことなんて知らなくて「美白=シミソバカスを消すだけ、肌色そのものは変えたがってない」という意味だと思ってる人がこんなにいるのか?
それはそれで知識なさすぎじゃね?
近年、ニホンウナギをはじめとする数種のウナギが絶滅の危機にある。
それにも関わらず、日本では土用の丑の日などと言うもはや現代人に顧みられない陋習のために、ウナギを獲り、売っている。商売のために、生物の種を絶滅に追いやっているのである。
しかも、スーパーの店頭に並べられたウナギのほとんどは、買われずに棄てられているのである。これは、生命に対する冒涜にほかならない。
土用の丑の日などには何の意味もない。今や、伝統的な暦や干支などを知っている日本人はほとんどいないし、言うまでもなく、丑の日に「う」のつくものを食べると良いなどという科学的な根拠もない。
そのような無意味な風習のために、生物の種を絶滅に追いやることは、野蛮以外の何者でもなく、国際的な非難を免れない。
一部のネトウヨなどは、「ウナギを乱獲しているのは中国である」などと論点をすり替えようとするが、みっともないことこの上ない。
全国各地にある。いろんな人がいろんな気持ちで倒しそう。
伊東博文像打倒の歴史は古い。銅像はなんと生前から造られ、そして生前から銅像は暴徒によりボコボコにされていた。
そのうち急進派の奈良県民により打倒されるだろうと思っている。
俺は奈良の大仏を日本史の奈良時代で習うのはおかしいと思っている。
奈良の大仏は源平合戦の頃平重衡により、戦国時代ではおなじみ松永久秀によりぶっ壊された。
奈良の大仏は日本史のぶっ壊しの伝統を今に伝え、そして再建の歴史を今に伝える。ありがとう重源! ありがとう公慶!
これをまたぶっ壊す!! なんと爽快だろうか。
「遠くに仰ぎ見る尊敬できる対象」と「身近で常に支えてくれる大好きな対象」は、子供にとってどちらも有益な大人ロールモデルらしくて、それが両方あることが精神的な成長には望ましいらしいね。だから、親は、前者の役割と後者の役割をある程度分担した方がいいのかもしれないとは少し思う。後者が二人いるだけだと「理想」とか「あこがれ」の対象となる大人モデルを得られなくて、割とつまんない現実的な子供になっちゃうんじゃないかな。
…と聞いて「ホラ伝統的親父ロールをやってる俺様には存在価値ガー」と安心する人には一応言っておくけど、前者は不在であってもいいらしいからね? いわゆる「死んだとーちゃんはねぇ…」という物語でも、子供は「理想としての大人モデル」を形成できるそう。だから、上手にハンドリングさえできれば、現実の家庭内に父親の存在ってのは、子育て上は必要ないわけでもあるんだよ。
と、ここまで書いてボクシングを題材とした漫画で〈両親の不在〉「あしたのジョー」、〈父親のみ存在〉「がんばれ元気」、〈母親のみ存在〉「はじめの一歩」のうち、一番人格が破綻してないのは一歩だよなあ、やっぱり「とーちゃんは偉大だった」と言いながらかーちゃんが育てたからかなあ、と思った。
ただまあ、伝統芸能や工芸品は世代を通じて同じものを提供する厳密性を要求されるから、自由に発想させるなんてやらせたくないんだろうけど。
でもねえ、個人的にすげー使える後輩が先輩を顎で使ってたら見てるほうがキツくなるな。
大正の浪漫主義と言われるのがどういう思想であり、人々の行動や伝統、その影響を一切調べもせずに、単に和洋折衷のファッション的なもの程度の理解で「大正ロマンはギルティ」とか言ってるその愚行、滑稽を通り越して有害なのでやめてほしい。女給という存在やそのファッションスタイルも、全て「女性の社会進出」の一環であり、明治政府が押さえつけてきた「大衆」の力の高まりの象徴なんだよ。それを否定するのは、日本におけるフェミニズムの誕生、民主主義の勃興、社会主義と労働者の闘争など、20世紀の日本の民衆運動史を全否定するのと同じだ。
とりあえず、せめてこれでも読んでおくように。https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/information/doc/web_exhib201302_chapter2.pdf
あの愚かしい「掛け算の順番」論を小学校2年生で教えるように文部科学省からの「解説」が出たのは,平成29年7月のことであった。学習指導要領は平成28年12月の中央教育審議会答申を踏まえて平成29年3月31日に改訂され,文部省による「解説」が平成29年7月に公開されたのである。
「掛け算の順番」は,中央教育審議会の答申で加わったものなのか,それとも「解説」で加わったものなのか。後者である。
中央教育審議会や,その初等中等教育分科会,さらにその中の教育課程部会小学校部会や教育課程部会算数・数学ワーキンググループの議事録は,国立国会図書館が保存している。
中央教育審議会: https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/index.htm
初等中等教育分科会: https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/index.htm
議事録をそれぞれ開いて検索しても,「乗法」「かける数」の順番についての言及は無い。
ところが,学習指導要領の「解説」113頁以下で突如として,「被乗数と乗数の順序が…本質的な役割を果たしている」などという言葉が出てくるのである。
もっとも,この「解説」が,中央教育審議会での検討結果を適切に踏まえて作成された可能性もある。
したがって,掛け算の順番を指導すべきか否かについて,確認すべき点が2点ある。
第一に,中央教育審議会教育課程部会算数・数学ワーキンググループの委員ら( https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/1370594.htm )は,掛け算の順番を指導することを意図していたか。第二に,「解説」113頁以下の執筆過程である。
もっとも,「解説」が中央教育審議会の真意を反映していないと推認させる事情がある。「解説」対象としているはずの表現が,指導要領の文言と異なっているのだ。以下は「解説」113頁以下の抜粋である(二重引用は,解説中で引用されている指導要領である。)。
A(3)乗法
(3)乗法に関わる数学的活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
(ア) 乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知ること。
(イ) 乗法が用いられる場面を式に表したり,式を読み取ったりすること。
(ウ) 乗法に関して成り立つ簡単な性質について理解すること。
(エ) 乗法九九について知り,1位数と1位数との乗法の計算が確実にできること。
(オ) 簡単な場合について,2位数と1位数との乗法の計算の仕方を知ること。
(ア) 数量の関係に着目し,計算の意味や計算の仕方を考えたり計算に関して成り立つ性質を見いだしたりするとともに,その性質を活用して,計算を工夫したり計算の確かめをしたりすること。
(内容の取扱い)
(4) 内容の「A数と計算」の(3)のアの(ウ)については,主に乗数が1ずつ増えるときの積の増え方や交換法則を取り扱うものとする。
第1学年では,加法の意味について理解することや,その計算の仕方を考えることを指導してきた。また,第2学年では,数のまとまりに着目し,数を2ずつ,5 ずつなどの同じ大きさの集まりにまとめて数えることを指導してきている。
第2学年では,乗法が用いられる実際の場面を通して,乗法の意味について理解できるようにする。また,この意味に基づいて乗法九九を構成したり,その過程で乗法九九について成り立つ性質に着目したりするなどして,乗法九九を身に付け,1位数と1位数との乗法の計算が確実にできるようにするとともに,計算を生活や学習に活用する態度を養うことをねらいとしている。
なお,ここでの学習の内容は,第3学年の多数桁の乗法や除法の学習の素地となるものである。
乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられる。
例えば,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を求めることについて式で表現することを考える。
「5個のまとまり」の4皿分を加法で表現する場合,5+5+5+5と表現することができる。また,各々の皿から1個ずつ数えると,1回の操作で4個数えるこ とができ,全てのみかんを数えるために5回の操作が必要であることから,4+4 +4+4+4という表現も可能ではある。しかし,5個のまとまりをそのまま書き 表す方が自然である。そこで,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を 乗法を用いて表そうとして,一つ分の大きさである5を先に書く場合5× 4と表 す。このように乗法は,同じ数を何回も加える加法,すなわち累加の簡潔な表現と も捉えることができる。言い換えると,(一つ分の大きさ)×(幾つ分)=(幾つ 分かに当たる大きさ)と捉えることができる。
また乗法は,幾つ分といったことを何倍とみて,一つ分の大きさの何倍かに当たる大きさを求めることであるという意味も,併せて指導する。このときも,一つ分 に当たる大きさを先に,倍を表す数を後に表す場合,「2mのテープの3倍の長さ」 であれば2× 3と表す。
なお,海外在住経験の長い児童などへの指導に当たっては,「4×100 mリレー」 のように,表す順序を日本と逆にする言語圏があることに留意する。
ここで述べた被乗数と乗数の順序は,「一つ分の大きさの幾つ分かに当たる大き さを求める」という日常生活などの問題の場面を式で表現する場合に大切にすべきことである。一方,乗法の計算の結果を求める場合には,交換法則を必要に応じて活用し,被乗数と乗数を逆にして計算してもよい。
乗法による表現は,単に表現として簡潔性があるばかりでなく,我が国で古くか ら伝統的に受け継がれている乗法九九の唱え方を記憶することによって,その結果 を容易に求めることができるという特徴がある。
「(ア) 乗法が用いられる場合とその意味」という見出しが付されていることから,「解説」を執筆した文部科学省初等中等教育局長髙橋道和およびその部下たちは,学習指導要領における「乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知ること」を「乗法が用いられる場合とその意味」と読み替えた上で,後者について解説してることが分かる。
そして文科省初等中等部教育局は,「用いられる場合」のあり方について縷々説明をする。「その意味」が「乗法の意味」ではなく「乗法が用いられる場合の意味」を指すように,意味が変更されたことの現れである。順序が本質的な役割を果たすとして交換を拒む彼らが,表現の順序を交換しているのは皮肉であるが,そこでは交換法則が成立していない。
学習指導要領は,「乗法の意味」には「理解」を求め,「それが用いられる場合」は「知ること」を求めている。後者は知るだけで良いのであって,深い分析の如きは求められていない。そこには,文科省の官僚が言うような「被乗数と乗数の順序に関する約束が必要であることやそのよさを児童が理解することが重要である」というような視点はなかったのである。
ふとmeets系ラノベみたいなタイトル思い付いたので書くことにした。(自称)拗らせフェミ(私)が(年下)女装男子と出会ったら(勝手に救われた話)。
**拗らせた
所謂フェミニズム的な考え自体は中学生くらいの頃から持っていて、伝統的な考えを持つ父が「結婚して子供を産まなければ女は幸せになれない」と言うのに違和感を覚えるなどしていた。
中学生のときに社会学に興味があってフェミニズムについても色々と調べた時期があったけど、このときは男女比1:5~6くらいの部活で朝から晩まで音楽のことを考えていたのであまり自分の問題として捉えられず、「そりゃプリキュアも好きだけど仮面ライダーも観たいわな」くらいの気持ちだった。その後進学して男女比が13:1になっても多少不便はあるものの、学校では特に問題なく過ごしてた。
フェミニズムに向き合うきっかけになった出来事はいくつかあって、
①ある機械部品メーカーにインターンに男の子2人と私で行ったら現場/現場/事務の3コースあり、私は勝手に事務にされていた。男の子2人はそれぞれ好きなコースを選んで良くて、私も現場が良かったけれど言い出せなかった。
②自分が着るスーツにアイロンをかけていたら父に「将来は旦那のをやらなあかんからよう練習しとけよ」と声を掛けられた。
③重機メーカーのインターンに行って、後日その内容をポスターセッションで発表していたら「女の子は重機に興味ないでしょ」と繰り返し言われ話を聞いてもらえなかった
④祖母に「大学入ったらいい企業入るいい旦那さん探さなねぇ」と言われた。ややいい大学だったので喜んでくれているのは分かるが、私は私が勉強するために大学に行くのであって稼ぐ夫を見つけるために大学に入ったんじゃない、と思った。
そんなこんなあってTwitterで #metoo だとか#ツイッターでウィメンズマーチ だとかのタグを見るようになった。最近は見てないので分からないけど、当時の日本の#metooはミソジニーが女叩き、フェミ叩きをしているのが目立っていた。
実際、Twitterでフェミニストを名乗る人の中には過剰な女尊男卑を掲げる人もいるし、そういう人と一括りでフェミニストを丸ごと叩いている人は多くて、そういう人のお気持ちを素直に読んでしまったのが拗らせた原因だと思う。
私は元来所謂「女の子らしい」ものが好きな質で、レースやフリルのついた服、小さくて丸くてピンク色をした雑貨、高くて細いヒール、どれも好き。でも同時に「利便性こそ美しさ」という気持ちも持っていて、動きにくいスカート、使い所のない雑貨、機動の下がるヒール、という気もする。
ここにミソジニーが「女が着飾るのは男によく見られたいから」「男尊女卑やめろと言うくせに男に媚びるな」などと言っているのを見て「本来の好みは利便性のほうなのに男に媚びる気持ちから可愛いものを選んでいたのか…?」と思ってしまった。純粋かよ。
多感な時期だったので整ってもいない顔でオシャレをするのはみっともない、みたいな考えにも侵され、複合的に可愛らしい服装に苦手意識を持つようになり、友人にはよく「喪服」と言われてた。
**出会った
件の男の子とは2019年にあるイベントで会ってTwitterで繋がって、何となく仲良くなって数ヵ月後に2人で出掛けることになった。ここだけ聞くとすごい出会い厨っぽいな。
女装することを知ったのは何時だったか覚えてないけど一緒に出掛けたときにはもう知っていて、自然と服を買いに行くことに。
ちょっと都会のショッピングモールを一周して辿り着いたのがaxes femme。女の私ですら入るのを躊躇うというかここの服を着そうな格好してないよ今日、などとといいつつ(いつもの喪女スタイルだった)こそこそと入店。結局店員さんに捕まってしまいめちゃくちゃ良くして貰って2万ちょっとお買い上げしてるのを横で見ていた。
彼はシスジェンダーでヘテロの男の子でただ「可愛いもの」が好き。好きな服を着ていると楽しいし自分が可愛いと嬉しい。好きな服を選んだら女物だったとも言ってた。骨格やサイズ的に着られない服もあるし、1人では買いにいけないし、家族には隠しているし、それでも自分が楽しいから人にも見せないのにお金と時間をかけて家の中だけで着ている。
私は彼が女装していても男装?していても一緒に隣を歩くし、彼が楽しそうに服を選んでいるのを見るのが好き。
それなのに「可愛い服が男に媚びるためのもの」であるわけがあるだろうか、とふと気がついた。その気付きは劇的で、彼は全く意図していなかっただろうけど、私はすっかり救われてしまった。
女らしい格好をすることに対する強迫観念みたいなものがなくなって、好きな服だけを選んでいたらクローゼットは見事にワンピースだらけになった。
可愛らしいものと共に忌避していた女性性を受け入れられるようになり、生理不順を治療した。
「無意識に男性に媚びているかもしれない」という恐怖感がなくなって、自己主張もしやすくなった。父や祖父母とは衝突もするけど、前よりずっと生きやすい。
あんまり感情が大きいので彼にはあまり言わないけれど、本当に感謝してる。何をした訳でもないと思ってるだろうけど、君が君を貫いていてくれたお陰で、今わたしはわたしを貫いていられる。ありがとう。
握手会ににきたひと そう だれ?1回も来てないはないdろう だましたひと だr?
のギザkは たとえ冗談でも 人を騙す伝統と文化ですか?ありがとう。だますことが文化なんだよな。だまさないとだめなんだよな。
「本朝」はいま「朝廷」と言われて想起するものよりは「王朝」に近いんじゃないかな。
天皇がいる具体的な場所および機関としての「朝廷」ではなく「国の歴史」のイメージだよ。
「本朝の美女といえば…」というと「我が国の歴史において美女といえば…」という感じ。
あとは「中国の王朝」に対しての「我が国の王朝」というニュアンスもあるよね。
「本朝通鑑」は中国の資治通鑑を真似た「日本版の資治通鑑」みたいな意味だし。
ただ現代では「いかにも持って回った感じ」「皮肉めいた感じ」を出したいとかで使われてると思うよ。
「これが我が国の伝統ですよ」なんて言うのと同じような皮肉っぽさがある。
でも何で気持ちいいんだ?
何でなんだと調べたら、整体師が教えてくれる、神経とかそういう説明はあまり信用できない。エビデンスとしては怪しい
中には、気とか東洋医学の伝統的な説明をしているところもあって、眉唾ものだ
僕は整体とか大好きだけれども、代替医療ということはわかっている。
なんか、生理学的に調べている人いないのかな。
詳しい人教えて
マルキストとケインジアンを混同するつもりはないけど、ルーズベルト政権内に多数のマルキスト・シンパが入り込んでいたのは間違いないと思っている。のちにレッドパージされるけど。
新自由主義下で労働者の立場が弱くなるというけど、労働者を十把一絡げに扱うのはさすがにもう無理なんじゃないか?
かつてブルジョワ階級が、王権や宗教的権威のくびきから脱したように、知的労働者は資本家とも伝統的労働者とも異なる独自の利害を追求するべきだ。