はてなキーワード: 上りとは
サイコパスは4%もいるらしい。25人に1人だ。そのことを知った俺は、あー俺の親ってサイコパスだったんだなーとすんなりと思えた。
昔からちょっと変だなと思っていた。感情の機敏に疎いというか、母のことを泣かせてもしらんぷりだし、俺と仲良くしようなんて素振りも見せなかったし。でもまあ昭和生まれの父親なんてどこもこんなもんだろと思ってた。
それにしたってさすがにヤバすぎだろ、と思ったのは最近。
ウチには半ひきこもり半浪人の妹(18)がいるんだが、その妹を養子に出すと言い出したのだ。おいおいちょっと待ってくれよ、と思っている間に母が決死の演説をしたらしく、しぶしぶ家から追い出しに変わっていた。今から思えばむしろ養子に出したほうが妹にとっても幸せだったんじゃないかと思うんだが、まあそれはそれとして、とにかく、俺は親父のことが信じられなかった。
妹は仮面浪人中で塾に通っているが最近は家に引きこもっている。話を聞いてみると、「よい大学に行け」という幼少期からの親父の刷り込みのせいで仮面浪人をしているらしく、本人はそもそも大学にはあんまり行きたくないらしい。そんな健気な妹に対してほんの3ヶ月人生に迷ってるだけでウチの名字を名乗らせるなとわめき散らす親父はマジモンのキチガイなんじゃないかと思った。だが親父は昭和生まれの頑固者だ。妹への愛情がネジ曲がってそんな言葉になってしまった可能性もある、いやそのはずだ。そう信じ、親父に聞いてみた。
「なあなんで妹を家から追い出すなんて言ったんだよ」
「俺が嫌だからだ」
「なんで嫌なんだよ」
「あいつは穀潰しだろ。俺は俺の財産があんな怠け者に食いつぶされるのが嫌なんだよ」
「身内としての愛情とかはないわけ?」
「昔は好きだったよ。だった、だけどな」
「…………」
サイコパスは、自分の物が損なわれることが普通の人よりかなり嫌らしい。普通の人は、それを愛情だ、と勘違いすることが多いんじゃないだろうか。なぜかって、俺がその一員だったからだ。
親父は昔、俺が交通事故にあったときに相手に怒り散らしていたが(俺はそれに少し感動していた、今思うとかなりアホだが)、それは自分の所有物だったからだ。今は所有物ではないから、これだけ冷酷な判断が下せるんだ。
到底普通の人間にできることじゃない。人間は、なんだかんだいって、どうしようもない愛情とか引きずってもしかたない感情に振り回されてしまうものだと思う。親父にはそれがないんだ。元々欠落しているんだ。愛情とか、罪悪感とか、そういうのが。
サイコパスは頭がいいので、通常の人間の仕草をよく勉強する。出世など自分の利益になることを第一に考えるため、外面はかなりいい。他のサイコパスの例に漏れず、親父も幼少期は万引きなどを繰り返していたらしいが、今や中企業の大社長様だ。ここまで上り詰める間にも、上司に媚を売ったりなんだりしてたんだろう。サイコパスってのは、感情はたしかに無いが、コミュ力が無いってわけじゃない。愛情とか罪悪感とか利益を出すことに邪魔な感情だけが存在しないロボットみたいなもん、なんだろう。きっと。
今、図書館のアレコレで不登校がちょっと話題になっている。それに関連して「親の理解が云々」なんて文面もチラホラ見る。そんな文章糞食らえだ。俺の親父はどんな文章を見たって何にも感じないだろう。
今存在しているサイコパスは、そのほとんどが結婚しているはずだ。「一人前の男は子どもを持っている」のが常識であるうちは、当然のように子どもを持つだろう。そんで俺の家みたいな家庭をどんどん作る。母が泣いてようが妹が苦しんでようがしらんぷりだ。罪悪感も共感もないんだからそりゃ当然だよな。
サイコパスは4%いるらしい。それが多いと思うか少ないと思うかは人によるだろう。多くのサイコパスは、日常生活に紛れて、普通の人間として暮らしている。俺の親父みたいに。
25年前のおれよ。お前はよく頑張った。
お前のその経験は、お前の心を豊かにして、お前を優しい大人に育ててくれた。あの時よくそこで踏みとどまった。他の誰も知らないことだけど、おれが一番良く知っている。
だからおれが誰よりも褒めてやる。
家から一歩も家を出ず辞書を読むのが好きだったお前だからできたことだ。それが「柳に雪折れなし」という言葉だ。
この言葉が、世の中に負けまいとがむしゃらに理論武装してますます自分を追い込んでしまったお前を救ってくる。
流れに流されるでもなく流れを押し返すでもなく、受け入れて受け流す。柔軟なもののほうが剛直なものより耐える力があるということを知るんだ。
逆を返せば、剛直なものがいつ割れるかもわからない危うい存在であることも知る。いじめる側の人間も、実は弱い人間だということを知るんだ。
その後しばらくして、もう一つの言葉、「水は高きより低きに流れ」という言葉にも出会う。上善如水といったほうが馴染みがあるかもしれない。
物事は全て下へ下へと流れてくる。低きにいることは決して悪いことではないのだ。高くに上り詰めることに疑問をもっていたお前に、それが間違いではなかったことを気づかせてくれた言葉だ。
水はすごいぞ。
どんな姿にも形を変え、人の生活を豊かにする。その実、一度暴れ始めれば人の力ではどうすることもできないほどの力を持っている。
固く閉じこもる必要はない。そのことがむしろ自らを危うい存在に追い込んでいるとしたら、お前はもっといい加減でいいんだ。
それでもお前は、そのあともいやというほどの苦労をする。
あの頃のお前は選んでいるようで流される生き方をして後悔をしていた。良からぬ方向に知らず知らずのうちに進んでいたんだ。
でも心配するな。それがあったからこそ、お前は「中道」という言葉の意味を正しく理解することができる。「中道」とは、何事も偏りがないことが理想だということだ。あの頃のお前は、生まれた環境が特異だったせいで、この言葉を信じ普通でいよう努力していたはずだ。
ところで、平均台の上を歩くことを想像してみてほしい。両の手を閉じて歩くのと、広げて歩くのとではどちらがバランスを取りやすいだろうか。
当然手を広げたほうがバランスは取りやすいのだ。つまりは、狭い見識や経験ではバランスよく歩くことは難しいということだ。
極端な考えや生き方は悪いものではない。極端だと感じたら戻ってくればいいのだ。そうして極端な考えや生き方をしたもののみが、両の手を広く広げるかのように安定したバランスを養うことができるのだ。
誰に遠慮する必要もない。お前はもっと大胆に、もっといい加減に生きていいんだ。
他人は自分の都合に合わせて人を褒めてくるから気をつけろ。褒められなくても気にするな。褒められても喜ぶのはほどほどでいい。
つまらぬ衝動で人を傷つけてしまうだろう。それを許してもらえなくても気にするな。最善を尽くしたなら、あとは相手に事情があるんだ。
疲れたら休め。少しくらい逃げでもいい。それで力がたまったらまた頑張ればいい。
そうして頑張ったなら他でもないおれが褒めてやる。
大丈夫だ。諦めずに探していればいつか必ず見つけられる。
努力全てが実るとは限らないが、今のおれは少なくともお前の努力の結果でここに立っている。
心配するな。あの時のお前は今のおれにこれほどまでに愛されている。
6年間通っていた地元の小学校から電車で1時間ほどの私立女子中学校は、公立中学校よりも設備が整っていて、清潔だった。お手洗いの掃除も生徒がやる必要はないし、体育館なんて3つも4つもあった。そこに、数百人の女の子たちがかわいいセーラー服に身を包み通っていた。私もその一人だった。
どうしてうまくいかなかったのかはわからない。もう10年も前の話だ。私が悪い、周囲が悪い、と簡単に言えることでもないと思う。そのときの私は、周囲と馴染んだり友人を作ることにみじめなほどに必死で、空回っていたのだと思う。私のことを分かってくれる友人が欲しいと思えば思うほど、周りから人は消えていった。
最後の思い出は、体育祭だ。あまり練習に参加していなかった私は、リレーのアンカーだったように覚えている。アンカーは2週走らなければならない、と思い込んでいた私は、見事自分のクラスを最下位へと落とし込んだ。周囲からは笑いが漏れていて、私も情けない顔で笑っていた。体操服から制服に着替えている教室で、私の陰口を言う声が聞こえた。
夏休みに入ると、通学していたときの暗澹な気持ちが嘘かのように、気楽だった。ほとんどの時間をインターネットに費やしていたと思う。でも、その一方で、私は自分のことを冷静に観察していた。今気楽なのは学校に通っていないからで、通学が再開したらまたあの地獄のような気持ちを持て余す日々に逆戻りだ、と、そうわかっていながらも、私には何もすることができなかった。
夏休みが始まる前の時点でさみだれ登校ぎみであった私に、父母は何もしてくれなかった。初めての不登校経験で、どうしたらよかったのかわからなかったのだろう。父は、今でもあの時のことに触れるたびに、お前は頭の病気だから、と侮蔑するように言い捨てる。
父の存在は大きかった。そもそも成績の良いときくらいしか”良い父”でなかった人に、学校に行きたくないと言ったらどう反応するかなんて、想像するまでもなかった。不機嫌な父はその存在だけでも恐怖だった。父に許されない行動を取るということが、13歳だった私にとって、どれだけ勇気のいることだったのか、今ではもう思い出せない。
夏休みの終わりに、私は、足がなければどれだけ良いだろう、と考えた。電車で1時間、その後も10分ほどの上り坂があり、さらに長い階段を上らなければたどり着けない私の学校は、足がなければとても通うことなんかできない。私は、足がなければよかったのに、と願った。
2階の私の部屋から見る空は、夏らしい青色をしていて、どこまでも自由に見えた。2階の窓は下から見上げるとそう高くなく見えたが、上から見下すと遥か遠くに地面があるようだった。そこを凝視する私は、一瞬の勇気だから、と自分に言い聞かせた。一瞬、ここで一瞬だけ勇気を出せば、学校になんていかなくてすむんだから。
数秒後、私は今自分がどこにいて何をしているのかわからなかった。目からはぼろぼろと涙が出ていて、顔の横には地面があった。そしてようやく、私は、あの2階から飛び降りたんだ、とわかった。
見上げると、開けっ放しの窓から白いカーテンがひらひらと風になびいていた。ぼんやりとそこを見ていると、私の部屋に入ってきた母が、不安げに私の名前を呼ぶのが聞こえた。
今思うと、あのときの私には逃げ場がなかったのだと思う。今話題になっている図書館も、小学校から卒業したばかりの私では、一人で行くだなんて思いつきもしなかっただろう。親に相談はできなかったし、学校の先生もまともに連絡を取ってくれなかった。でも、もしあの時の私が、あのツイートを見ていたのならば、きっと、逃げ場に図書館を選んでいただろう。過去に当事者であった私にとって、あのツイートはそう悪いものには思えない。もちろん、もろもろの問題はあるのだろうが、きっと、少なくとも、過去の私を救えたのだろうから。
「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろのゲージ場が、もうまるでいちめん、局所変換にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹ふきながら一生けん命延びあがって、その天の川の繰り込み群の流れを、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりもニュートリノよりもすきとおって、ときどき正則化の加減か、ちらちら赤いろのこまかな波をたてたり、紫外発散にぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の固定点が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは自由場、或いは漸近的自由性、あるいは一次相転移や臨界指数の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく固定点も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。
最近話題のデザイナ関連の話題でよく出てる話なんだけどそういう集まってくるのを批判したりしてどうするの?
どうしたいのかがよくわかんない
すごくいい内容なのになんでみんな批判的なのとか一流の仕事なのに全員わかってないとか披露してみたら害虫しかあつまってこないとかそういうことが言いたいのかな
大好きな食べ物がテーブルにでてきたら「おいしそう!」と大歓迎だけどそれが路上に置かれていたらだれが食べるのかなーわくわくとはならずに虫しか寄ってこない結果になるよね
場所的に立地的にはてながそうだとか他の掲示板がどうだとかは言いたいこともあるとおもう
インターネットインフラにおけるコンテンツの配置と顧客誘導のデザインだよね
そこでさ
会員登録の方法とか会員ランクの設定とかリンクの誘導範囲とか風説の調整とか多数派の獲得方法とか情報戦の戦術が試されるんだろうけど
ときどきそこに動員されてる顧客の質について顧客が疑問におもったり批判したりしだすことがあるよね
それ環境全体のデザインからみて末端の最終結果の微量調整分で結果の一部だよね
働く人頑張る人働かない人だめな人のうち幾分か含まれてる動かない部分の人数だよね
環境デザインで大きく割り振られた分岐から構造デザインで取捨選択される客層や方向性や商品の最終消費場面で全てわかったと唱えているその姿はどう遡ってももう集客の根本にすら戻れない位置にいるよね
それってどこまで体力がもつかわからないけどどんどん遡っていってインラフの根源部分まで上り詰めたとしても何一つ問題解決にも繋がらないよね
だったらだまって自分が望む先へ誘導されるがままに移行していったらいいんじゃないかな?
じゃあねさようならぼくはこっちに行くから と言い残して自分の賛同者をいくらか引き抜いて移動しようとしたりもしなくていいんじゃないかな?
あなたが思っているほどあなたの正論には体力がないし威力をもって破壊できる障害はそんなに大きいものではないし風車と戦っても余計に疲弊するだけだと思うのでやめればと思うのだけど
人にはその無力感のために疲弊する消耗感覚と汗が快感や実感につながる趣味もあると思うのでどちらにせよそういう楽しみ方があるならよかったねとしか言えない
ただあなたが鞭を差し出してこれでぶってくれと言われてもあなたが望んで流れ着いた先だからだれしもが打ってくれるはずだと考えるのは早計だと思うよ
午後8時50分頃に我が家の真上の空を北から南に向かって通過する飛行機がある。
それに気付いたのは、一昨年の夏の夜だった。
お風呂上りに暑いので家の外に出て認知症の母と一緒に椅子に座って涼んでいたときに気付いたのだった。
北の空を見ていたら、小さな光の点滅が段々こちらに向かって近づいて来る。
そしてその光の点滅は次第に大きくなり、飛行機の形が確認できるころには腹の部分を真下に向けて
我が家の上空を通過して行くのだ。
そのころはまだ母の認知症は軽かったので、俺が飛行機を指さして
「あっ、飛行機が家の真上を飛んでいるね」
と言うと
と嬉しそうに笑っていた。
暑い日が続いて毎日、俺たちはふたり一緒に夜空を見上げてその見事な真上ぶりに感心していた。
「びっくりするくらい真上だね」って笑い合った。
そんなことをすっかり忘れていた今日、施設の母の面会から帰って家の車庫から出てきたときに上空に飛行機の音がした。
見上げたら見事に我が家の真上を通過しているところだった。
腕時計を見たら午後8時51分。
あの時の記憶がパーーっとよみがえって来て胸がキュンとした。
数年前、GREEの『探検ドリランド』という携帯ゲームに熱中しており、多少、絵心のある私は、ゲームとは全く別の部分、コミュニティーのなかで似顔絵をドリランド風に描くよ、といってゲーム内通貨で商売し、それを元手に値上りしそうなカードを購入。値上り前に買い占めては転売、値下がりの気配を察知したら少し価格を下げて素早く売り抜けるなどを繰り返して莫大な資産を形成した。
ゲームの本筋を一切無視して資産を拡大することのみに注力した結果、およそ二ヶ月程で当時ヤフオクで数万円で取引されていたようなカードを大量に入手し、ゲーム内通貨も最早使い切れぬほど貯まった。
飽きてくると「初心者さん限定です☆」など言って高価なカードを二束三文で売りに出したが、決まって欲の皮の突っ張った中学生が、自らの熟練具合を偽って我先にと群がってくるので、床にばら撒いた小銭を拾わせるような腐った優越感に浸った。
山岸なんとかってアナウンサーの結婚騒動の記事ではじめてしったんだけど、彼女ってTV局のアナウンサーじゃないの?
サイトみにいったら色んなテレビ局の看板アナウンサーだと思ってた顔が沢山並んでて軽くパニックになってるんだけど。
wikipediaにも設立の経緯とかあんまり書いてないし、毎日のように見てる顔なのにこういう事実ってあんまり知られてなくない?
なんかこれ闇が深すぎるんだけど。。。
追記
お天気キャスターがメインパーソナリティーにいじられるのはアナウンサーとしての知名度をあげる登竜門だと思ってたのにタレントの売り出しだったなんて。
スーパーで幼女が母親に魚肉ソーセージをねだるだろうなと思って店内一周して売り場に戻ってきたらやっぱりねだっていた。
でもガン見するのもおかしいので店内もう一周してきてまたさりげなく眺めた。
場面転換。
山の中腹にある自然教室っぽい建物で起きると水道がちょろちょろ出っぱなしになってて、あー水道代もったいなかったなーでも水道代なんて大したことないから大丈夫かと思った。
ふと窓を見ると自然観察?にきてるっぽい体操着(ブルマではなく赤いクォーターパンツ)の女子中学生が3人いるのが見えた。
みんなそんなに可愛くはなかった(でも明晰夢だったら何かすることを即座に考えるレベルではある)。
でもせっかくだからと自分が見ていることがばれないように隠れながら彼女たちを見ていた。
ほどなくして彼女たちが帰り始めた。
帰る先は建物の表側の上り坂になっている山の上の方っぽかった。
今度は自分も建物から出て体勢を低くして彼女たちを追っかけていった。
でも途中でバレて、3人の中で一番マシな顔の女の子がこっちにきて、怒った顔で俺に「これ以上ついてきて変なことしたら通報するよ」と言ってきた。
場面転換。
ボートだか車だかが女子につっこんできてその女子は死んだ。スイーツ(笑)←ほんとにこういう感じがした。ネタではなく。体感としてスイーツ(笑)を感じた。
東京スカトロ:エスカレーター「みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施します。
だと。
これ、クソキャンペーンな。
田舎くさいマッチョな男がこのキャンペーンのことを、これまたイカレポンチな女に
「エスカレーターは片方に寄って乗らなくていいんだよ」と、朝のラッシュ時の
当然、エスカレーターを歩くのを常とするリーマン、OLは、片方が開いているエスカレーターを見上げながら
心の中では怒りで一杯だった、だろう。
しかし、すぐ前のDQNなアホカップルの男が繰り返す「エスカレーターは片方に寄って乗らなくていいんだよ。アブね~からな。ポスターに書いてあるんだからいいんだよ」
という、クソ発言を繰り返す。
げんなりしながら、新宿三丁目の長い長い上りのエスカレーターで1分ほど聞き続けたわけよ。
エスカレーターの正しいのり方?
安全にご利用いただく?
じゃあ、あんたらが制服で、右側を塞いみやがれ。体をはって、あんたらがそのキャンペーンを実行しろや。
怒号が飛び交うに決まってんだろ!
制服じゃできない?
なら、私服でいいや。
http://anond.hatelabo.jp/20150722060929
炊飯器や鍋はまったく関係ないんだけどさ、これはよーーーーっく分かる。
まあこんなもんか、と思ってる。
問題はテンプレのアナウンス。3分くらい遅れるとテンプレのアナウンスが入る。
機械音声「列車の遅れをお知らせします、××本線上り方面はどうたらこうたら」
事務員「本日はお急ぎのところ電車が遅れまして、お客様には大変ご迷惑をおかけしております。お詫び申し上げます」
これ、すんげえイラッ、とするんだよね。
時間通りに来ないのをあえて見過ごしてあげてるのに、いつもいつも同じこと聞かされる方の身にもなってほしい。
うるせえよ。
改善する気もないならいっそ黙ってろと言いたくなる。
流行りのゲームの例に漏れず、BOTや中華プレイヤー、RMTerがはびこっていた。
「ご不便をおかけして申し訳ありません。貴重なご意見ありがとうございます。
●●オンラインではユーザー様よりたまわりましたご意見を元に改善につとめうんぬんかんぬん…」
うるせえよ。
現状はこれこれであり、我々の認識はこうであり、いついつまでに、このようにします(あるいはしません)、と返答しろ。
対称的に思い出されるのが、とある日、嫁の実家に帰省したときのこと。
天候が悪く、高速バスが高速道を通れないことがあった。
どうせテンプレアナウンスでもするんだろう、と思っていたところ、
運転士は「あー、皆様、ふーっ」とため息をつき、やや間をおいて話しはじめた。
「えぇーっと、たまにあるんですよねえ、こういうことが」
「〇〇高速は一度通行止めになると、大丈夫そうでもなかなか開けてくれないんです」
「我々も困ってます」
「とりあえず、無線によると△△方面が空いてるということなので、迂回してみます」
「皆さんもうしばらくおつきあいくださーい」
それまで乗客の間に漂っていた、どこかピリピリとした空気が和らいだのを覚えている。
結局1時間遅れで着き、みなほっとした様子で降りていった。
こういう話なんだよ、俺が聞きたいのは。
一方的にテンプレ、コピペ投下、はい終わり、だと蔑ろにされてると感じる。
実際のところどうなの、あ、そうなんだ、それじゃあしょうがねえなあ、って気になる話をもっとしてくれよ。
カスタマーセンターや現場の下っ端が発言に責任負えないってのは分かる。
でもこっちはさ、ナマの人間として、そいつがどういう思ってるのかを聞きたいところもある。
でも、ホンネを言えばいうほど、なにを不真面目な、と抗議する人がきっといるのだろうね。
大阪に行く度羨ましく思う。地下鉄網が必要な場所にしっかり整備されているからだ。
中之島辺りはまだ改良の余地があるし今里筋線は無駄だったかもしれないが、なにわ筋線という「本当に必要とされる線路」を具体化できるあたり京都とは違う。
京都市会議員ときたら「東西線の乗客が少ないから太秦天神川から洛西NT~長岡京と延伸し、六地蔵からも延伸して環状化しよう」などと宣うような連中である。
アホだと思いますか?そうアホなんです!
本当に必要なのは西大路・北大路・東大路・京都駅を繋ぐ地下鉄環状線なのに。
京都駅から出て東大路通を上り清水寺や祇園を通る206系統には朝っぱらから外国人観光客が並んでいる。積み残しなど日常茶飯事。
金閣寺・立命館大学方面の205系統も混雑が酷い。西大路通には阪急西院駅、地下鉄西大路御池駅、JR円町駅などがありそこから通学者や観光客が雪崩れ込んでくる。
にもかかわらず交通局は対策をほとんど諦めている状態で、むしろ東大路に至っては四条通のように一車線化する予定らしい。
その四条通は視界に5台のバスが常に映っているような状態でオンシーズンには完全に麻痺する。救いようがない。
京都観光をしたことのある人ならあの不快極まりないバスに恐らく一度は乗ったことがあるだろう。
運転は荒く道路状態は悪く愛想という概念が無い。扉が閉まらないうちに発車することすらある。時刻表っておいしいの?
内容は中年のおっさんが地下アイドル(売れてない)を追っかけてるって話。
そのアイドル達は普段ある場所で肩揉みアイドルとしても活動してるんだよ。
追っかけのおっさん達はそこへ行きお金を払い肩を揉んでもらったり話したりするんだよ。
そんで1回2万とか払ってんの、娘くらいでもおかしくない子に。
挙げ句の果てはその中に所属してるアイドルに本当は肩なんて揉みたくないとか言われてんの。
そりゃみじめでしょうがなかったよ。
でもなんでこのおっさんは決して結ばれる事ない自分の娘程のアイドルにこんなに入れ込んでるのだろうと考えたんだよね。
ようはおっさんは自分が叶えられなかった明るい未来への希望を勝手にその子へ託してるんだよね。
その子が上り詰めていくのを自分と重ね合わせてもう一度人生をやり直そうとしてるんだよね。
それはおっさんが自分の人生が今後明るい道のりを辿らないだろうと悟っている証だとも言える。
本来はその愛情や希望は自分の子供達へ注がれる物のはずだった。
でも子供のいないそのおっさんはこうする事でしか生きられないんだよね。
自分は結婚しなくてもいいという人も増えてると思うけど、自分の為だけに一生を生きるのなんて恐らく無理。
もう見ていないかもしれないけれども、何十年も前に大学で合唱をやっていたおっさんとして書いておこうかと思う。
ぼくは元増田よりも遥かに音楽に疎いのに合唱を始めてしまった。高校での選択は美術だったし、合唱団に入った時点では音符の読み方すら怪しかった。
それでも4年間続けたのは、合唱団の技術志向が弱かったことに加えて、大学での人間関係の中心が合唱団になってしまったからだ。さすがに音符は読めるようにはなったものの、音感とリズム感が悪いままでも引退まで居座ってしまった。
とはいえ、さすがに居心地が悪くなった時期はあった。技術的にはお話にならないレベルなので、運営のほうに回ろうとしたのだが、人間関係をこじらせてしまい、結局は平団員として4年間を過ごした。技術もない、人間関係も良くないということになれば、さすがにこのまま合唱団に居続けてよいものか悩むことになる。後輩からすれば、存在価値のない先輩という位置づけになっていたかもしれない。
なので、元増田の
辞めたらサークルの人達には何と思われるのだろう。あいつらは口では「いなくなってさびしい」などと言うのだろうが、本心ではきっと「お前みたいなやる気のない奴はさっさと辞めてくれ」と思うに違いない。少なくとも俺の本心を知られたらそうなることには間違いない。友達を失うのは怖い。なんで上手くなる義務があるんだ。俺は歌うのが好きなだけなのに。
という心情はわからないでもない。ぼくも「自分なんてサークルからいなくなったほうが、みんなが喜ぶに違いない」「自分は合唱団にとっての癌だ」とかよく思っていた。
けれども、おっさんになって思うことは、それはそれで自意識過剰だったということだ。周囲の人は元増田がいようが、いなくなろうがたいして気にしない(と思う)。企業のような営利組織であれば話は別だが、大学のサークルで「いなくなってほしい」と思われるためには憎悪の対象にまで上り詰めなくてはならない。そこまで至っていないのなら「いても、いなくても構わない」だろうし、ステージのチケット負担などを考えれば「いてくれたほうが助かる」というのが本音に近いところだろう。
あと一つ言えば、元増田は合唱団をやめる必要はないが、どこか別のところに居場所をつくったほうがいい。合唱団にしか居場所がないから、なんとかしてそれにすがりつこうとする。だが、その必死さがかえって合唱団に居続けることを難しくしてしまう。ぼくの場合には大学のゼミだった。ゼミでも大して馴染めていたわけではないが、ゼミが駄目ならサークルが、サークルが駄目ならゼミがあると思えるだけで、ずいぶんと心理的に楽になる。そうなれば、合唱団の友人たちとも余裕をもって付き合えるようになるのではないかと思う。
もちろん、元増田の状況はぼくの状況とは違うかもしれないが、もうちょっと気楽に考えて良いと思う。良くも悪くも、周囲の人間は元増田のことをそこまで気にかけて生きているわけではない。
は、一応自他共に認める事実だとは思うが、それはことさら自慢するモノでもなく、ただ自分がそうありたかったからしたことなのだ。
当然自分よりも更なる努力をして、その人のありたい地位まで上り詰めた人もいるだろう。
内心羨ましく思うこともあるが、それはその人が見合う努力をしただけのことなので、凄いですね、や、見習いたいです、くらいは言葉にするだろうが、ソレ以外の羨む言葉を口にするのは憚られる。
しかし、自分自身がそう思っているだけで、努力がまだまだ足りないくせに人を羨む発言をする人も中にはいる。
むしろ必要な努力を怠っているからそんなよこしまな発言が出てくるんだろうか?
自分の人生において、そういった人と関わりを持ってもプラスにならないと思っているので、極力関わりたくないのだが、ついつい苛立ち嫌みを言ってしまう自分がいる。
どんな人でもある程度鍛練すれば道が開けると思っているせいなのか、単にそういった人を見下しバカにしているからなのか?
バカにするのも、自分が少しでも怠ければ、彼らと何も変わりはないからだろうか?
いずれにせよ、今後は「へえそうですか頑張って」と返すのみにして、関わらないでいられるようになりたい。
近所のデパートのエスカレーターなんだけど、上りと下りが逆に設置されてるんだよね。
何を言ってるかというと、メインの入り口からエスカレーターに辿り着くと、上の階に上がるエスカレーターと、地下に降りるエスカレーターがある。
逆側に回ると、上の階から下ってくるエスカレーターと、地下から上がってくるエスカレーターがある。
つまり、地下から3階まで上がろうとしたら、1階で逆側のエスカレーターに回らないとダメ。
問題は、上の階からエスカレーターで降りてきた人が、流れで逆(上り)エスカレーターに乗ろうとするって事。
特に年配の人など、すぐに気が付かずに躓きそうになる人をよく見かける。