25年前のおれよ。お前はよく頑張った。
お前のその経験は、お前の心を豊かにして、お前を優しい大人に育ててくれた。あの時よくそこで踏みとどまった。他の誰も知らないことだけど、おれが一番良く知っている。
だからおれが誰よりも褒めてやる。
家から一歩も家を出ず辞書を読むのが好きだったお前だからできたことだ。それが「柳に雪折れなし」という言葉だ。
この言葉が、世の中に負けまいとがむしゃらに理論武装してますます自分を追い込んでしまったお前を救ってくる。
流れに流されるでもなく流れを押し返すでもなく、受け入れて受け流す。柔軟なもののほうが剛直なものより耐える力があるということを知るんだ。
逆を返せば、剛直なものがいつ割れるかもわからない危うい存在であることも知る。いじめる側の人間も、実は弱い人間だということを知るんだ。
その後しばらくして、もう一つの言葉、「水は高きより低きに流れ」という言葉にも出会う。上善如水といったほうが馴染みがあるかもしれない。
物事は全て下へ下へと流れてくる。低きにいることは決して悪いことではないのだ。高くに上り詰めることに疑問をもっていたお前に、それが間違いではなかったことを気づかせてくれた言葉だ。
水はすごいぞ。
どんな姿にも形を変え、人の生活を豊かにする。その実、一度暴れ始めれば人の力ではどうすることもできないほどの力を持っている。
固く閉じこもる必要はない。そのことがむしろ自らを危うい存在に追い込んでいるとしたら、お前はもっといい加減でいいんだ。
それでもお前は、そのあともいやというほどの苦労をする。
あの頃のお前は選んでいるようで流される生き方をして後悔をしていた。良からぬ方向に知らず知らずのうちに進んでいたんだ。
でも心配するな。それがあったからこそ、お前は「中道」という言葉の意味を正しく理解することができる。「中道」とは、何事も偏りがないことが理想だということだ。あの頃のお前は、生まれた環境が特異だったせいで、この言葉を信じ普通でいよう努力していたはずだ。
ところで、平均台の上を歩くことを想像してみてほしい。両の手を閉じて歩くのと、広げて歩くのとではどちらがバランスを取りやすいだろうか。
当然手を広げたほうがバランスは取りやすいのだ。つまりは、狭い見識や経験ではバランスよく歩くことは難しいということだ。
極端な考えや生き方は悪いものではない。極端だと感じたら戻ってくればいいのだ。そうして極端な考えや生き方をしたもののみが、両の手を広く広げるかのように安定したバランスを養うことができるのだ。
誰に遠慮する必要もない。お前はもっと大胆に、もっといい加減に生きていいんだ。
他人は自分の都合に合わせて人を褒めてくるから気をつけろ。褒められなくても気にするな。褒められても喜ぶのはほどほどでいい。
つまらぬ衝動で人を傷つけてしまうだろう。それを許してもらえなくても気にするな。最善を尽くしたなら、あとは相手に事情があるんだ。
疲れたら休め。少しくらい逃げでもいい。それで力がたまったらまた頑張ればいい。
そうして頑張ったなら他でもないおれが褒めてやる。
大丈夫だ。諦めずに探していればいつか必ず見つけられる。
努力全てが実るとは限らないが、今のおれは少なくともお前の努力の結果でここに立っている。
心配するな。あの時のお前は今のおれにこれほどまでに愛されている。