はてなキーワード: 実存とは
『七月七日展 ― 衣服造形/コンセプチュアル・クローズ』を見た。
眞田岳彦氏の弟子(?)の作品が中心らしい。
それほど期待しないで行ったのだけど、なかなか良かった。
宮園夕加さんの、ボタンとボタンホールの距離を天の川に見立てて、
伝説では、天の川の橋渡しをするのはカササギの役目なんだそうだ。
テーマの「針仕事」と「七夕」が無理なく融合されてて、それを一番うまく表現してる作品だったと思う。
単純に、見た目がかわいいのも良い。
今回のベスト!
奥村絵美さんの作品も良かった。これも一見してとてもかわいい。
人間を一本の「まち針」として捉えるというコンセプト。
粘土と針でつくられたたくさんの小さな人間が、それぞれに環境を仮止めしている。
「針を自分自身の比喩とする、っていうアイディアはありだな」って私自身展示を見る前に
考えていたのだけど、縫い物をやらない私にはそこで「まち針」という発想は出なかった。
でも言われてみれば納得、でした。
仮止めされる「環境」の部分を何かもっと表現できそうかも、とも思ったけど。
良かったとストレートに言えるタイプの作品ではないけど、好きだ。「コンセプチュアル」。
糸が縫い付けられている。タイトルは『誰でもない肖像』。
写真の上から縫う技法は、有名な清川あさみさんを思い出させる。
けど、写真の女性が制作者の針仕事によって「誰でもなく」されてしまうことには一体
どういう意味があるのか。あるいは針仕事で加工される前から、彼女は誰でもないのか。
…写真に写る私は、そこに縫い付けられている限りでの人間であって、無限のあり方を
可能的にもつ自由な実存としての私ではない、だから「誰でもない」…?
制作者はこの展示のチラシで、針仕事について、「私たちの存在を露にし、生き生きとさせる」と書いてる。
こんなことを言われると、私としては、ハイデガーの技術論を持ち出して、その中に「針仕事」の
ポジティブな位置づけを探して色々言いたくなってしまうけど、結局のところ、その言葉と、
制作者自身の作品との関連はよく見えない。
う~ん。
…写真に写っているのは過去の私である。それは過去のその時点に縫い付けられている限りでの
私であって、現在の私とは異なっているし、通時的な無限定の私とも異なっている。だから、
過去において確かにそれは私だったが、いまや「誰でもない」…?
あと2つくらい気になる作品はあったけど、作者名も作品名も覚えてないので割愛。
帰りにブリジストン美術館に寄ろうと思ったら展示替え中で休館だった。
(エス)
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7月7日展 -針仕事に願いをこめた37名のデザイン&アート小作品展-
会期 7月4日(月)~7月9日(土) 10.:30~18:30(最終日のみ17:00まで)
入場無料
TEL 03-3281-0320 FAX 03-3281-0366
出展作家:
大江よう 今村滋男 藤谷さやか 末延晋太郎 久保田玲奈 関美来 飯田亜希子 土井直也
永井俊平 山口真代 宮田明日鹿 山中周子 宮園夕加 佐藤綾 松田かや 三上司 加藤ゆき子
桑田麻弓 後藤有紀 奥村絵美 平尾菜美 アーヴィン=ヒバ=アリ 小平由実 西村洵子 平井幸恵
盧暎雅 島田彩子 池田のぞみ 山本佳那 長鶴司 林凡乃 大八木富士奈
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Sanada Studio Inc. (サナダスタジオ)-眞田岳彦のデザイン事務所
京橋「千疋屋ギャラリー」で「七月七日展」を観る。 - マスヒロ食時記
デモを「手段」ではなく「居場所」とか「晴れの舞台」にしてるクズが多すぎる。
彼等はその病的な自意識ゆえに、一市民としての淡々とした日常など1日も送ることができない。
常に政治闘争の文脈に身を置き、当今であれば一日中ネットで闘争案件にアクセスしている。
仕事や学業はおろそかであり、あやしい身分で馬齢を重ねて一層堅気でなくなっていく。
右と左に分かれて罵り合うが、一般人から見れば等しく社会の負け犬に過ぎない。
彼等とは違うまっとうな一般市民が、何か問題意識を持ってデモ参加を志したとする。
だが、デモに出かけていくと、例の社会の負け犬どもが先輩面で居座っているのである。
一般市民には全く通じないオタク用語で会話し、オタク文脈の諍いや喧嘩を自重せず、
更にはデモの名目とは全く違うのぼりを掲げたり、集まった頭数を「流用」しようとしたりする。
わかるだろうか。
まともな生活も送っていないオタクが、本来「手段」であるデモという場に「住み着き」、
先日の原発デモ関連のツイッターも、見ていると本当に吐き気がする。
オタク文脈のオタク言葉の、一般人の関心には全くアクセスしないくだらないオタク喧嘩を延々やっている。
本人達は大変重要なことをやっているつもりで終始深刻なツラである。
だがこいつらはまともな人達の政治参加を阻害するただの害虫であり
長年のだらしない実存処理の報いとして、目が覚めている間中発作が起きてる単なる精神病患者である。
デモに10回以上参加している人間はほぼ全員この精神病の害虫なので
もしこいつらがいなくなれば日本の政治シーンは劇的に風通しが良くなるだろう。
だが、そんな殺虫剤もないので、今後もデモは彼等精神病のオタクどものおもちゃであり続ける。
それがいつまでも続く。
心理学化する社会 http://www.amazon.co.jp/dp/4309409423/
思想・文学がリアリティを失い、自らの実存を仮託するリアリティがなくなった現代では、薄められ一般人にも利用可能なものにされた、お手軽な心理学・精神医学の言葉がその欠落を埋めている、つまり社会が心理学化している、というのが本書のアウトライン
単行本出版時から5年経ち、社会の変化に伴って本書での筆者の考えにも微妙に変化が生じていることに注意する必要がある。筆者は「心理学化」というアイデアは過去のものになってしまっていると思っているようで、いまや個人は社会学の「個人の内面に介入しない言葉」が心理学の代替になってきている、つまり「社会の心理学化」から「社会の社会学化」になりつつあるという。
えらい面白かった。
趣旨は、yutakiokaは別に悪い人間じゃないよ、ただただ、人より優れていることを求め、ずいぶんと頭がいいけれど、その頭がいいことを力に変えることが出来ず、特別な人間になれないことを悩むという、どこまでもありふれた普通の子供だよって流れです。
掘り下げが足りない人が出す結論は大体「相手の自意識過剰」になるという俺の持論がまた立証されてしまった。
ひとつ言っておくと、自分の頭でちゃんと論理を手放さずに考えて続けられる人は、そう簡単には循環論法には陥らない。
なる場合でも、大きな円を描く。その円の大きさがその人の思考力であると思う。
逆に自意識過剰、などという根拠がない仮定を使って空白を埋めることで循環論法を作り出す人間は思考能力が全くないのと同じ。
童貞disねたは煽りなんだけど、それに脊髄反射して感情的に反応しちゃってる人を見ると、ああだから童貞なのかと極めて納得がいく。
別にその人の事を言ってるわけじゃないのに反応してるというのはかなり自意識過剰だと思う。
うん、前から思っていたけれど彼には思考の発展性が全くない。
「なぜ童貞は自意識過剰なのか」という問いに対して「自意識過剰な人間は嫌われるから誰にも相手にされないから」。
では「なぜ自意識過剰な人は嫌われるのか」「なぜ自意識過剰ではいけないのか」「自意識過剰とはなにか」という問いがない。
逆のことがすべてカチッとはまっちゃってて議論の余地がない。
「自意識過剰はいけないこと」「自意識過剰は女に相手にされない」「誰かに相手にされているから自分は自意識過剰ではない」。
何から何までお約束で出来上がってしまっていて、そのお約束を超えるともう会話ができない。思考もできない。
もちろん頑張ってたくさんのお約束を頭に詰め込んだ努力は評価したいのだが、それに思考が固定されるならまだ無知な方がいい。
よく知らないけどこの人、「なぜ」という問いが1段階で終わっちゃう人なのだと思う。
その問いに対する答えも、自分で考えたというよりは、他人が出した答えを拾ってくるやり方なのだな。
そして、教科書に答えがのってないものについてなにか自分なりに考えようとすると極めてチープな「自意識過剰」とかそういう意味を成さない言葉に落ち着いてしまう。
この人、なにか「自分の手でつかんだ」という実感のあるモノってあるのだろうか。
「だからあなたも生き抜いてという言葉」の方があなたの「死ね屑」よりも暴力的と言うことですか?
思い込みですね。
最後に余談。この人がtwitterというメディアを選択している理由について推測する。
twitterで人間について語るとか無理とは言わないが、それでもイロイロ制約がかかっておすすめできないと思う。
無理やり語ろうとするとテストの答案しか作れなくなる。 例えば彼の「答案」を見てみるとこんな感じ。
自己否定ナルシズムの極地は自殺。ドストエフスキーは「悪霊」で、キリーロフの自殺という形でそれを示している、あの自殺理論で語られている「神」はもちろん「存在」の隠喩。存在の不安という問いに対して、実存的に思考したキルケゴールとドストエフスキーが異なる解を与えているのが興味深い。
とか
存在の耐えられない「軽さ」から逃れるために国家と自らの存在を同一化して存在意義を個人ではなくて国家の権威や伝統に求めるというのは、存在の「重さ」を得るための一つの方法ではある。ただそれが「自由からの逃走」である、というアイロニカルな視点がほしい。
しかも教科書のまえがき部分であって、帯の部分でありWikipediaでも読める部分。
そこから先が大事であり、さらにそこから自分の意見をもつことが大事。なのに、これが結論。笑える。
でもこれは本人の資質の問題ではない。こうなってしまうのは、140字制限だと、引用だけで記述が限界であり、引用ですら140字となるとかなり制限がかかってしまう。
しかし、本人はずっとそのtwitter「でこそ」こういう話を続けていきたいように見える。
となると、この人は「なぜ自分はtwitterを選択しているか」「自分は何に依存しているか」について自覚があるのだろうか。
私は別に自分が論理的な人間だとは思っていないし、論理的でなければいけないという縛りを自分にも他人にも課すつもりはないので
露骨に話をすっ飛ばして結論だけ書く。相手の主観を勝手に推測もしまくる。いちいち検証するだけの価値のある人物ではないわけだしね。
私には、この人がtwitterに求めているのは「教科書の知識の共有」「教科書的お約束の確認」であって、それ以上でも以下でもないと見える。
最初から思考する気などない。むしろ本業である思考の場で戦うことがどん詰まりであるからこそ、
下々の場に降りて行って、自己を確認せずにはおれない、テクノクラートのなりそこねというのが彼のイメージである。
そして、この人物に共感する人間が多いということは、それだけ「報われない文系エリートが多い」ということをも意味する。
せっかく勉強して、知識も蓄えて、いい大学にいった、留学もした。でもそれは社会的には何一つ報われることがない。
普通なら下々の人間など気にせず一心不乱に上を目指しているであろうはずのエリート候補生が、在学途中から下を向いて過ごしている。
この人は童貞ではないかもしれない。客観的に見たらエリートかもしれない、でも、主観では負け組である。実存を失っている。
しかし、この人は教科書にしたがって生きているのに、教科書にはどこにも「負け犬として実存を保つ方法」が載ってない。
だから彼は自分の実存を得るために、こういうちゃちなゲームを始め、いつまでも続けなければいけない。
彼はよくある普通の一学生である。特別ではない。本当に平凡な小市民にすぎない。
本来は普通に大学に行って、普通に彼女ができて、普通にセックスして、普通に就職して、普通に家庭を持って、普通に老いて、普通に死ぬ。
その程度がお似合いの少人物である。そして、その事実こそが、彼にとって絶対に認められないことなのだ。
彼は普段のツイートから見るに、多分日本の教授には優越感か同程度の知的レベルにあるという自覚を持っている。
それでも大した思い上がりなのだが、その思い上がりを持ってすらなお満たされないのだ。そのくらい彼は自己の尊厳に飢えている。
彼は、自己イメージを損なうよりは、ドヤ顔のアイコンをさらし、他人を挑発することで「嫌われ」「叩かれ」ることで自分は特別な存在だと思っていたいのだ。
こういう奇特な行いも、まったくもってオリジナルではなく、アイデンティティクライシスに陥った人間を救う手段としてのSMは
自らを鞭打つ修道女の例からアラビアのロレンスの虚言までいくらでも例がある。
彼はもはや、自らが見下している無知な人間に嘲られ、叩かれることでしか、もはや自分の本当の居場所を確信できない。
何があったか知らないが、そのくらいかつての彼の自己プライドは高く、そして、それに見合った実体をついぞ得ることがなかった。
日本では誰よりも賢く、知識もある特別な人間だったのに、向こうに行ったら普通の人であることに変身させられてしまった。
しかし今更それを認めることは出来ない。追い詰められた彼が取った手段が今の有様、ということです。苦悩だねー。青春だねー。毎日吐いてるかー?
でもね、こういうのって今やふつうなんだよ。昔なら特別な人間のイメージだったかもしれないけど今じゃこういう行動をとることそのものが平凡の証だよ。
最初見た時から、ああーこういう奴よくいるわー2年前にみたわーって思ってた。 かわいそうだなーって思ってた。かまってらんねーと思ってた。
でも、いい加減うざい。 さすがに自分がかまってちゃんである自覚がないのはtwitterへの依存が強すぎるだと思ったので、指摘しておく。
これは彼が実際にどうであるかは全く関係がない。むしろ事実と違うほうが効果的だと思ってる。私の目的は彼を理解することじゃなく、彼が他の人にやってることをそのまんま彼自身に返すことだからね。もちろん私は自覚してやってるよ。それこそわざとらしいくらいにねちねちと、いやらしく、冗長なくらい、お涙たっぷりのベタベタなストーリーとして彼を「理解」してあげる。そしてこの気持ち悪さを是非体感してもらいたい。彼と彼の取り巻きがやってることがどれほど他人にとって気持ち悪いか、ってのを自覚してもらえればいい。
彼がやってるのは、他人を対象化するという遊びなんだよね。正常な人間であれば小学生低学年くらいで卒業する遊び。
自分が特別でありたいと信じるあまりに、他人を過剰に普通とか普通以下に押し込めようとする幼稚な差別行為。
2それに反論も許さず
これが対象化される側からしたらどれほど不愉快かは、年がら年中オタとかはてな村とか言われてる人間にはよくわかるよね。
個であることを圧殺され、ただ一括りの集団としてしか認識されないのだから。
もっとも、これを2ちゃんでいうならともかく、twitterでリプライをつけて言っちゃうあたり、むしろ彼の対人認知能力の低さが忍ばれるけどね。
要するに彼は、テレビのワイドショーを全部自分の脳内でやってしまってる。
テレビで毎日のように繰り広げられているコメンテーターの批評の劣化版をやってる。
検事と裁判官と手抜きした弁護士のセットをすべて自分でやるという脳内裁判ごっこ。
それをひとり寂しくやっている。いや、今では同じような寂しい人間が寄り集まってプチテレビ局、プチワイドショーになってるか。
みんな、力の感覚が欲しいんだね。よっぽど現実で報われてないと感じてるんだろう。
でも、力の感覚をどうやって得るかって時に、まだ社会人になって仕事もしたことがないガキなので、そのモデルをテレビくらいしか持ってない。
部活(特に体育会系)とかで皆と一緒に頑張って何かを成し遂げたことがあるなら話は別だが、
どう考えてもこの人、万年部屋に閉じこもって本読んでた口だろう。要するにそっちの方法で自己実現ができない。
多分彼らはテレビのコンテンツの内容は見下してるだろう。それでいてテレビのワイドショーで好き勝手語ってる奴らに憧れずには居られないわけ。
彼のイメージでは、彼自身はテレビの司会者であり出演者、賛同者が共演者で、オタクとか童貞はスクリーンの向こうのトピックに過ぎないのだよね。
テレビの司会者が、スクリーンの向こうのトピックから話しかけられることはないはずなのよ。
だから、相手には反論も許さない。彼自身について評価することも許さない。他人に自分を解釈する自由を与えたくない。自分はそうするけど相手には許さない。もし許してしまうと、自分がそうしたであると同じように、自分が好き勝手に解釈され、じぶんがコレだと思っていたアイデンティティが溶けてしまうから。だから、話を聞けない。聞いてしまったら彼の幻想が壊れてしまうから。そういう状態なわけですよ。
彼は自分には他人を裁く特権があると、信じてなくてはいけない。しかしその反撃に常に怯えている。
これが、ネタとして薄められ、表に出すことが出来ない真性の厨二病、真性のディスコミュニケーションというやつです。
そんな彼でも、就職とかして、自分が特別でないことを理解し、自分を集団の中で活かす道を見つけられればこういう幼稚なテレビのマネッコはすぐ卒業できる。
でも、今自分がやってることの恥ずかしさに気づけなかったら、何時まで経ってもアマチュアのテレビワイドショーごっこを続けることになるかもしれない。
なまじ頭がいいし、同士が多いものだから、それで結構充足感得られちゃうのが危険なんだよね。
他人に妥協するって事に耐えられなくなっちゃうかもしれない。個人的にはそのほうがおいし・・・いやいや、なんとか抜けだして欲しいものです。
90年代に「ぼくのかんがえたじせだいのあるべきすがた」が挫折して臆病になった人たちが日常ものに依存し、今度は00年代の人たちが考えたいろいろなものを否定する。「ぼくのかんがえたありかたですらだめだったのに、自分たちより若いヤツが考えたものが正解だなんて認めないぞ」と下の人間に嫌がらせを続ける。しらんけど80年代にもそういうのがあったかもしれん。悲しい連鎖よのう。
そんなことを思ったのがこの記事でのやりとり。
まおゆう批判の話。批判の内容は結構納得行く話だった。実際突込みどころは沢山あるからね。
でも、そうやってやれ特権少数の支配肯定だとかエリート様だけ実存回復はずるいとか言ってる人が
自分の解決策として挙げたのがコレか。
インキュベータに搾取されないためには、向上心なんてものは一旦よけて、まず、ありのままの自分を肯定することから始めるべきだと思うのです
すごい違和感。いや、ガッカリ感。同時にとても納得。
この人の主張は結局「ゼロ年代的なるもの」が嫌い、ってそれだけだったわけだ。
ああこの人90年代のオタクなんだなと思い、実際にブログを確認したらドンピシャだった。
その思想はさ、精神的に搾取されないことだけを考えていればよい物理面が最低限満たされている人間の話だよね。精神守るために物理面での搾取はある程度受け入れる余裕があるってのが前提じゃない?それこそ90年代の悩みという気がする。00年代そのものに否定的なのは、単純に90年代の夢が忘れられないって事じゃないの?
この人の立ち位置はすごく気に食わない。 インキュベーターと直に向き合いながら頑張ってる人をインキュベーターの手先であるとして批判している一方で、インキュベーターそのものとは敵対しようとしない(というかちゃんと見えてない、理解できてない、突っ込んでも無駄と諦めている)ような卑怯さを感じる。「ゆとりがあるからこその潔癖さ」「他人に都合の悪いところを押し付けての正論」にすぎないのでは。自分がテクノクラートだったらどうするか、を示していただきたい。ああいや、そういうのから降りた人たちが90年代のオタクでしたっけね。失礼失礼。
こういう卑怯な人な立ち位置にいないと安心出来ない人のために、まどマギの世界の主人公が少女じゃないといけなかったんだなとわかる。インキュベーターと対峙するもの、特別な力を持つものが、オタク以下の存在じゃないと納得できない人達がいるんだ。自分より上の存在が肯定され、生き残るのが怖いんだ。そういやまおゆう批判してたkagamiがまどマギ全肯定しててびっくりした。お前はまどマギにすくってもらう資格ねーだろが、と突っ込みたい。私はamamakoのことが嫌いだが、それでもまおゆうもまどマギ双方を否定した彼の一貫性は評価したい。
別に爺さんのように「戦時中の苦しさをしらないやつらが贅沢言うな」とまで言う気はない。昔の物理面が絶対だって考え方ね。「誰が養ってやってると思ってる」の傲慢さは私も死ぬほど嫌い。けれども、さっきの解決策はちょっと00年代の若い人の苦しさに対してあまりに鈍感すぎるのではないか。のんびり過ぎるのではないか。私も90年代のにんげんだから正確には理解できてないけども、彼らの不安や苦悩を軽視して今までの日常を維持しようじゃないか、ハーレム最高だよ、幻想に閉じこもり続けようよってなんだそれ。空気読めないオッサンにも程がある。もうオッサン時代遅れだからブヒ系のアニメ以外についてくちだすなよと言いたい気分。
もちろんゼロ年代の発想が90年代より優れているとは言わないよ。個人的にはゼロ年代の発想ってやっぱり問題が大きい、より病的で余裕がなくて、貧しいカンジがするのであんまり好きじゃない。でも、それに対してただ「近頃の若いもんは」と言い続け「90年代にもどってこい」というメッセージしか出せないのでは、ただの老害であると私は思う。(さっき年寄りたちの話しを持ち出したのは、老害にはさらなる老害を持って、老害の何たるかを理解していただきたいという趣旨)。少なくともゼロ年代の人間が「貴族的な人間」「特権階級とか特殊な力を持った人間」を中心としたファンタジーを求めなければいけなかったのかって考えもしなかったなら、オタクとしてダメダメでしょう。良し悪しだけで考え、「なぜ」をすっとばすような人間が、オタク評論をする資格などないと私は思うね。
ただし、このあとで同じ人が
って言ってるアタリが、もしかしてこれからのオタとオッサンオタクとの理解の架け橋になりそうな気はする。 本当に地震って、すでに変わりつつ合った認識の変化を後押しする大きな事件になるような気がする。もう90年代は終わったんだよ。00年代の決断主義も違うってことになったよ。90年代回帰論も、00年代のエリート正当化もやめて次考えようよって話になるんじゃないのかな。
最後になりますが。お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、わたくし、まおゆう読んでおりません。読まずにここまで偉そうなことを書いたことを深くお詫びいたします。
それは失礼。こっち側とやらがどこにあるのか存じませんが、ずいぶん壮大なお考えがあるようですね。はやく体系だった形としてまとまるよう応援しております。
そうでないと無視されたというかあなたが求めてる物がまずどこにあるのかわからんので
せっかくの崇高な思想も、今回のように表面部分だけを見て個別の叩きというか、コレジャナイ病の人と同じだと判断してしまいそうです。それは勿体無い。
ところでそれって、エロゲや今のアニメに求めるよりは、もっと昔のアニメや手塚治虫や一部の少女漫画に求めたほうが早いものだと思いますよ。
あずま ひろき風を感ずる
全然意識してないけど多分それあなたの勘違いだと思う。全部が東風に見えるとか、モルダーあなた東さんに恋してるのよ。。
話変わるけどあんまり東先生バカにすんなよ。別に信者じゃないけどとりあえずベースとなってる物くらい読んでから批判しろよ、とはいつも思ってる。
信者が本買って無批判にマンセーする一方で、批判する側が著書の一冊も読まないとか、この今のねじれ構造はどないなっとんねん。
本の一冊読む程度の興味もないなら、放っておけばいいのに。どんだけ暇なの。
誰も整理なんかしようとか思ってねーし。なんでそこ基準で評価されなきゃいけねーんだよ。別の店行け。シロクマさんにでも頼め。
整理しようと思ったらそれこそ90年代をまた数個に分割しなきゃいけねーじゃん。誰がやるかそんなめんどいこと。
どんだけ整理されてあとは召し上がるだけのメニューを期待してんだよ。そう言う学術的のが欲しかったらプロの仕事にもっとちゃんと金払え。
「〜年代」っていう、10年単位で区切ってその間の大多数のムーブメントを指す言葉を「私も90年代のにんげんだから」とか使うところからして既に間違っているよねw
言葉の使い方は大事だよね。確かに私が間違いですすすみません。できればタイポ的な問題以外も指摘してくれると嬉しいけど。
上のと合わせて、この言葉を使うと、どういう内容を想像されるか始めて知った。童貞とかオタクとかと同じくらいイロイロな意味がくっついてるのな。
これは単に私の無知。普段はこういう言葉を使って会話してないんで知らんかったわ。
おまけ。ゼロ年代には元気だったけど次の世代に対して老害として振舞う可能性が高い人達一覧はここね。
自分の手持ちのものさしでしか人を測れなくなったら(評論する相手の中に新しいものを発見しようとする気概を失ったら)それはもう寿命だろ。
元ネタ:モテる女子力を磨くための4つの心得 http://youpouch.com/2011/04/26/162331/
こんにちは、現代思想系文芸批評を専攻しているエス嬢です。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、現代思想に関してはファッショナブル。今回は、モテる現代思想系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前の人間観を持つようにしましょう。そして飲み会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく主体を過剰に根拠化してみましょう。そして「あ~ん!この主体本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「主体性とか詳しくなくてぇ~! ずっとコギト信じてるんですけどぉ~! 自律してるんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は生=政治を批判したがる習性があるので、古かったとしても構造主義的な人間観を持っているはずです。
そこで男が「近代的人間主義の客体化しないの?」と言ってくるはず(言ってこない実直な実証研究系の男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近アガンベンが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 本質としての主体欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなモダニスト★」と返します。すると男は「潜在性としての実存でしょ? 例外状態に集約されない共同体はまだ到来してないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんな<主体>幻想が欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでデカルト以降的人間観の脱構築に行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が文学における作者の死も宣言してくれるかも!?
「人間理性の限界」とか「理系コンプレックス」などを表現する「不完全性定理」をテクスト批評に入れると、男性ポストモダニストは「なんかこの子アカデミズムに回収されないなぁ」や「対象aかも」と思ってくれます。現代思想上では数学基礎論のイメージだけが都合よく曲解されて相手に伝わるので 「不完全性定理」 を多用することによって、男性はあなたをポストモダニストらしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対に自然科学者・数学者・論理学者・分析系哲学者に嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
飲み会などで男が女性に話すことといえばポストコロニアリズムやフェミニズムの話ばかり。よって、女性にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーそうなんですかぁ~?」とか「よくわかんないですけどすごいんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女伝統的な古典文学研究志向だな」と気がついてしまいます。学究の徒だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「脱構築は正義で、テクストの外には何も無いんですね! 覚えたぞぉ! エクリチュールでメモメモ!」とコメントすれば常にあらかじめ差延が発生。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「デコンデコンデコン! デコンデコンデコン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のロゴス中心主義をデコンストリュクシオンしているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「この子脱構築そのものをも脱構築し続ける運動を動的に受容してるのかも!?」と思ってくれます。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、こういうテクニックを使えば知識を持たない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
4. レストランではレディースセットを食べられない娘をアピールせよ
男とレストランに入ったら、真っ先にレディースセットなどの女性限定のメニューを探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、セクシャルマイノリティを排除するマッチョの論理じゃないですかぁっ! LGBTかわいそうですぅ! ジェンダーは社会的に構成されるのにぃぃ~(悲)。わたし実は男の娘なんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しい天使のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の男の娘だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけレディースセットを食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「差別の暴露がむしろ差別を固定化/再生産する」、「男の娘はネット上では既に市民権を得た」と言っておけばOKです。
関係各分野の皆さんごめんなさい
「例外状態を実現する共同体はまだ到来してないよ」はおかしいのでは、という指摘がtwitterでありました。
円高だから輸出が伸びないのではなく、輸出先に購買力が無いから、輸出が伸びないのである。
円安にする為に、去年の9月に円売り介入をしたが、その結果、どうなったか。輸出したくても、相手先では食料や燃料の高騰によって可処分所得が食われ、工業製品の購入・更新は先送りになっていて、輸出は大幅に減ってしまっている。せっかく円安に誘導したのに、輸出先の在庫がだぶついていて、出荷したくても受け入れてくれない状態となっている。
つまり、通貨の切り下げ競争をやっている相手国に、輸出をする為に同じように通貨の切下げで付き合っても、相手国の消費者はエンゲル係数が上昇している為に購買力が減少し、輸出しても在庫が積み上がるだけで、利益に繋がらないのである。
通貨の切り下げで輸出が伸びて相手国の産業を空洞化させる事ができるのであれば、国際的経済戦争の手法としては有効であるが、相手国に購買力が無い場合や、相手国の国内産業が生産する製品よりも高性能で安価な製品を作り出せない状態では、通貨の切り下げは間違った政策となる。
後進国・中進国は、この間違いを実行してしまい、輸入物資の高騰を発生させ、国内経済を疲弊させてしまい、政情不安を招いている。
食料や燃料といった生活必需品のコストが高騰していて、工業製品に対してお金が回らない状態は、当分続くであろう。工業立国を続けるには、少なくなったお金を吸い取れるだけの信頼性と利便性を実現した製品を供給する事でしか、成立しないわけで、かつ、後進国・中進国に出て行った工場ではコピーできないような製品でなければならない。そういう製品を生産し、そして、国外に余計なお金が流れていかないように、低レベルな製品も国内生産に戻す事が必要となる。
購買力が小さくなっている市場においては、営業マンを送り込み、その国内のメディアに宣伝を流して製品を売るというやり方は、通用しない。市場規模が小さすぎて、営業所や支店を置けるだけの売り上げが維持できないのである。宣伝はインターネットで行い、個人輸入の形で購入して貰うという手法へとならざるを得ない。
宣伝は個別の製品の宣伝だけでなく、企業の信用度を上げる宣伝も同時に行わなければならない。個別の製品の宣伝については、過去の手法が使えるが、企業の信用度を上げる宣伝については、過去の手法は使えない。親戚が従業員になっているとか、本社ビルや工場といった物件が目の前にあるといった信用創造が通用しない顧客に信用してもらうにはどうすれば良いかというと、その企業を支えている株主やユーザーといったソーシャルネットワークの広さ、実存を、その企業のwebにおいてアピールするとなる。インターネット上の既存コンテンツをミラーして、投票によって入れ替えを行っていくという手法は、その手段の中の一つである。
リストラによって親戚が解雇されたとか、工場が廃止されて海外に出て行ったといったことで、社会の中における存在感が希薄になっていくと、外資と信用度に差が無くなり、余計に過酷な競争に巻き込まれるというのが、日本の産業が陥っている失敗の原因の一つと言える。
対策は、企業側だけではなく、政治の側においても、行う必要がある。食料や燃料を生産する方が、はるかに楽なように見えるが、それらで養っていける人員の量には限界がある。日本にとって、工業立国は、当面は過大な人員を食べさせていく為に必要な選択であり、特許権や著作権等の知的財産権や、懲罰的賠償制度、許認可、立地制限といった制度を改廃し、起業を行いえて、しかも、競争が活発化するような産業育成が必要となる。
実存ってなんでしょうね
それはね、人と人との間にあるものなんですよ
それで、システムってなんでしょうね
ところで、話は変わりますが、何かに操られていることに、人間は気付くことができません
また、人間には、自分自身の意志で行っていることと、コントロールされていることの区別ができません
実存というのは、結局のところ個人意志でもあり、システムそのものでもあるのです
人間には、自分の意志で行っていることと、コントロールされていることの区別ができないんです
しかし、仮に自らの意志だけで全てが支配できたとすれば
システムと意志
表裏一体の二つの要素
この二つが合わさったものこそが、自由なんです
完全に操られていることと、完全に操られていないことは、同じことなんですよ
さあ今日も出かけよう
マンガは~ただの空想、娯楽
漫画というものの本質を、ただの空想や娯楽としてだけ捉えるのは、些か問題があるのではないでしょうか。そして、某御老体も、漫画をただの空想や娯楽としてだけにおいて捉えていないからこそ、あのような発言をなさっているという側面を持たれていると私は思うのです。
端的に(本質的に)言いまして、漫画とは一種の芸術である限りにおいて、自己表現の手段と言う『べき』だと思います。つまり、他人に対して、自らの思想や何やら、そういうものを伝える為の手段と言う『べき』でしょうね。
(『べき』と強調しましたのは、現実において必ずしも、漫画がそのような位置づけに無いということの表現です)
無論、娯楽的な側面や空想的な側面もまた、漫画においては存在しますが、しかしそれは本質的ではない。というのも、娯楽的な側面を持っているモノは、漫画だけではないし、それこそ芸術だけでもないからです。その他の様々なものが娯楽的側面を持っています。ですから、漫画を娯楽性や空想性という側面からだけを以て表象するのは、漫画の本質を捉え損ねるところの行為だと言えましょう。
で、要するに私が言いたいのは『こんにち議論されているような規制問題において、漫画の問題点として指摘されているのは、いわば漫画が本質として自己表現性を持っているということであり、また、そのような自己表現において問題のある表現が存在する、ということなのだ』ということなのです。
――話が少し変わります。
それで、実際にどのような表現が問題にされているかと言えば、性表現です。
何故性表現が問題にされているかとすれば、そのような表現が『ある種の氾濫』を起こす可能性があるからでしょう。
そう『ある種の氾濫が起こる可能性がある』。
これこそが、こんにちの議論における重要な問題でもあるのです。
性能力がやたらと強調されている漫画の類は――そのような漫画を書いた人間の自己を表象しています。少なくとも、表象している、と言う『べき』です。
逆に言えば、性表現が強調されているところの表現は、ある種の自己を含んでいると言うべきです。
こんにち議論されている規制問題において、本質的に問題とされているのは、恐らくその『ある種の自己』でしょう。そして、その『ある種の自己』は、影響力のあるアプローチを、周囲に対して行うことが、恐らく、あります。
そのようなアプローチの結果として、周囲の人々に、ある種の指向性が生まれることがあるのではないでしょうか。
つまり、『ある種の氾濫』というものが生まれる可能性があるのではないでしょうか。
そのような重要な問題がある為に、『ある種の自己』を含むような表現は、規制されるべきである、と言われているのではないでしょうか。
――話が戻ります。
漫画には、ある種の問題があって、そのことが、議論されています。それは、上記の通りです。
何故議論されているのかということについて、具体的に例えを言うならば、性『能力』を強調するような表現を含んだ漫画があることによって、と言えるでしょう。
さてここからが本題なのですが、我々の考えているところの『能力』の構成要素(O氏の言葉を借りれば因子)は、ほとんどの場合有限的なものです。
私が結果として思うに、このような有限性が、漫画を含む、ある種の自己表現において、余りに強調され過ぎることは、問題なのです。
このことは、上において『ある種の自己が、ある種の氾濫を生む可能性がある』とありますが、そのことに繋がっていきます。
ここにおいて私が言いたいのは、『ある種の自己』は、有限的な能力をあまりに含み過ぎる自己表現を為すところの自己を含む、ということです。
我々一般が持つところの有限的な能力というものには、一定の限界があります。性能力(ポテンツ)、筋力、計算力、思考力――このどれもが、歳を取るにつれ、衰えていくところの能力です……つまりは、有限的な能力です。
しかし、昨今において『ある種の自己』には、これらの有限的な能力について、あまりにも、強調し過ぎるという傾向があります。『ある種の自己』らの、自己表現においては、これらの有限的な能力が、あまりにも、強調され過ぎているのです。
いずれ年老いては、消えていくだけの、有限的な能力が、強調され過ぎているのです。
同じような絶望を、周囲にもたらすだけなのではないでしょうか。
能力など、消えていくだけなのに。それを敢えて強調することによって、彼らは一体何を表現しようとしているのでしょうか?
それは、結果として、彼らの絶望そのものなのではないでしょうか?
そして、そのような彼らの絶望は、周囲を絶望に陥らせようとしているのでは、ないでしょうか。
私が思うに、こんにち議論されている問題の本質は、そこにあるのです。
有限的な能力、年老いていくにつれ消える能力、宇宙の中で、消えては生まれるところの、その能力。
我々は想像力や表象力を持っているし、あるいは、与えられている。それにも関わらず、そのことを、無視するようなその能力、絶望を誘うところの能力。
そのような能力を、自己表現としての漫画において過度に強調すること、それは、避けるべきことなのではないでしょうか。
なんで君はこんな遅くになって、こんな手紙をよこすのか、そう君は思うのだろうね。理由は単純だ。君が自己満足の為に僕に書いて、僕によこしたように、僕も自己満足の為に書いて、君に送る事にするよ。それにあたって、ただ一つお願いがある。どうか返事を書かないで欲しい。僕にとって君との関係はキラキラとした美化され、風化された思い出というよりはむしろ、呪いや呪縛に近いのかもしれない。僕は君との関係を思い出す度、罪悪感に苛まれるんだ。この行為は別の言葉に変えるならば、償いに近いものかもしれないと思う。無論、こんな自己満足の手紙を送った程度で、僕の行いは贖われるとは思わない。
最初に謝っておきたい。僕が非常識な行いを行ったのは重々に承知しているし、そのことを忘れた事なんて一度もない。あれは責められるべき事だったと思うし、君がそう判断するのももっともだと思う。君は疑問に思うだろう。なぜ何もしなかったのかって。率直に言うと、君の中に抱いている僕と、実際の僕自身の落差に驚き、その砂上の楼閣を維持すべきか逡巡したあげく、何も選び取ろうとしなかった、つまりは自分が傷つきたくなかった、そして君に対して臆病だった。
僕は確かに、友情以上の意味を込めて、好きだ、と言った。そんな言葉を言ったのは生まれて初めてだった。その時の君の表情の移り変わり、春の穏やかな周りの風景、部屋のオブジェ、机に彩られた食事。全てを色鮮やかに思い出すことができる。君の手を握ったときの、ちょっとひんやりとして、僕よりも小さな、可愛らしい手の形や、僕の一挙一動にあたふたしてこじんまりとした小動物のようにコミカルでコケティッシュな君の仕草は、今でもまるでそこでの一部始終が8ミリビデオで撮られていたかのようにを鮮やかに思い出すことができる。そこで僕は確かに好きだと言った。しかし、本心では無かった。僕はしばしばそういった必要もないのに、そういった類の愚かな過ちを犯す事がある。しばしば、僕は人に嫌われたくないと思う余り、本心から乖離した行動をとってしまう事がある。そしていつも後悔する。学習しないのだ、僕は。それにしても僕はあまりにも軽率だったと思う。
君との関係を継続していく気がなかったと責められていても仕方がない。僕は君が思うほどに倫理的な人間でもない。君が思うほどに、自分が何か価値のある人間だなんて今の際まで思ったことは一度もない。世界からある日突然僕が消え去ったとしても、多分何の変哲もなく世界というものはそれまでと変わらぬ歩みを続けるのだろう。君はそんなことないって言ってくれたのは、とっても嬉しかった。それでもこの考えは変わらない。でも、あんなにたった一人の人について想いを巡らせたのは、初めてだったと思う。僕の周りの人間は、喩えて言うのであれば旅の途中にふとすれ違う、街角の風景みたいなもので、人生の短い時間を共有しては、時間という川の流れに押し流されるような、刹那的な存在だった。僕はそのまま、生涯孤独のままに生きていくのだろう、そう思っていたし、君に会うまではその考えは揺らぎすらしなかったんだ。それは僕の土壌の中に大きく根を張って、巨大な木へと成長していた。
君みたいな人間は初めてだった。君とのメールでのやりとりはとても楽しかった。君からメールが来る度に、思わず口笛を口ずさむほどに嬉しかったし、この時間が永遠につづけば、なんて今考え直すと陳腐な事を考えた。傍から見たら馬鹿げているのかもしれない。でも僕にとって君と僕との関係は、それこそ実存をかけた問題だったし、真剣だったし、真摯にとりくまねばならないことだった。君みたいな素晴らしい理解者を得られた事は、多分神様の贈り物だったんだって心から思うんだ。なんでそんな得難い関係を保っていた君から僕は離れていったのだろうか。聞くに耐えぬ理由だと思う。君はそれを聞いたら怒るどころか呆れるだろうから。無論、なんの矛盾も抱えていない人間は世の中にはいないだろうけど、それにしたって限度がある。僕は矛盾した人間だとこの時ほど思ったことはない。
僕はあれほどまでに苦しめた僕に対する過剰な信頼と、敬意と好意と愛情を・・・失うのが怖かったんだ。だから僕は結局言うに言えなかった。だってあんなに手酷い別れになったにも関わらず、最後にこんな綺麗で美し過ぎる手紙を受け取っては、返そうにも返事が出来なかった。それを行う事は、恐ろしく酷いことのように思えたんだ。知らなくて良い事もある。もちろん、率直な想いを打ち明けるという選択肢もあったけれど、僕はそれを選べなかった。これが君に対するせめてもの償いなのか、それとも病的な利己心のなせる業なのか、僕には分からない。ただ君はとても悲しんでいるに違いないだろうし、その上に辛辣な言葉を浴びせる事は、もはや暴力であり、君に対する最大級の冒涜なんじゃないかと躊躇してしまったんだ。
君の言動に違和感があったわけじゃないんだ。君はメールのやり取りを介して、僕が想像した以上に君らしかった。どこか、違うだなんて違和感を感じた事は一度たりとて無かった。ああやっぱり、まさか君はそんなことで僕が君を諦める、なんて思わなかったんだろうね。だからこそこの言葉を言うのが辛い。一年以上もの間、君に返事の一通さえも出せなかったのは、とりかえしの無い事をしてしまったという罪悪感と、なんて空疎な事に時間を費やしてしまったんだろうという虚無感から逃れるためだった。
誤解しないで欲しい。君が空疎だとか、薄っぺらいとかそういう意味じゃない。むしろ逆だ。無邪気で純粋な君に接しているうちに自分のどうしようもなく矮小な部分や目を覆い隠したくなるような恥部を覗かれる恐怖に怯えて、逃避しただけの哀れな男なんだ。
恐ろしく動物的で、独善的で醜い。僕は自分自身のそういったどうしようも無く、醜くて矮小な自分自信を受け入れることができなかったんだ。だから僕は君との関係を拒否した。逃避した。切断した。逃げ出した。
僕は君と付き合う、その可能性ももちろん考えた。それは一見とても素晴らしい事のように見えた。だって僕の短い人生の中で、これほどまでに心を通わせる人なんていなかったから。君を失ってしまう事はとても辛いことのように思えた。でもそれは出来なかった。僕の心が拒否していた。君は僕といつまでも過ごしていたかった、そう言ったね。でも僕はそうじゃなかった。あの空間がとても-そう、とても重苦しいものに思えたんだ。心に重石が乗っかったようだった。いつまでこの狂った芝居を演じなければならないんだろうといっぱいいっぱいだった。帰りの電車の中では今までに経験したことのないほどの疲労感が襲った。
君がセクシャルマイノリティであることや、君の家庭環境とかに、違和感を感じていたわけじゃない。そういう人間がいたって可笑しくないとは思うし、僕はそこまで差別的思想に凝り固まっているわけではない、と信じたい。理由はもっと別のところだ。多分、僕がもっと思慮深く、善良でもっと本質的に物事を考えられるのであればこんなことにはならなかったと思う。しかしながら実際の僕は君が考えているほどには素晴らしい人間ではなかった。
しかしながら、結局のところ差別主義者と誤解されざるを得ないような酷い最後になってしまった事については、釈明のしようもないと思う。君を尊重すべきと考えるならば、それは絶対やってはならない類の行動であったし、今でももっといいやり方があったんじゃないかって思ってる。結果が似たようなものであれ、それに至るまでの課程が全く違うものであれば、たぶん、君もこんなに傷つくことは無かっただろう。
君がとても辛い人生だったのは察するに余りある。出来ることなら傍らにいて、君といつまでも一緒にいられれば良かったのだけれど、恐らく僕では分不相応だったのだろう。あのときは悲しみに暮れていたかもしれないけれど、僕なんかよりきっと素晴らしい伴侶が見つかる事を確信している。君の本質に触れれば、君ほど繊細でピュアな心を持ち、尚且つ魅力的で素敵な人間なんて早々いるものではないということを理解できるだろうから。この手紙が自己満足なのは言うまでもないが、君の幸福を祈る気持ちだけはどうか理解してもらえたらと思う。君の存在は唯一無二のもので、僕にとって特別であることはこれからもずっと変わらない。これからの君の人生が幸溢れるものでありますように。
俺も言いたいことがある。
「実際にそういう友達や彼氏を連れてきて親に面罵されてカッとなった」っていうなら
俺はこの元増田の激昂もわかるんだけどさ、
自慢の親への親愛より勝って親への汚い言葉になるんだろう。
それが本当に気持ち悪い、俺は。
俺がサヨクって奴等に対して不信感や嫌悪感を抱くのもここでさ。
差別反対はいいさ。勿論だ。
俺の婆さんは90近くて誰もがそういうぐらい穏やかで善良で平和な人格だが
テレビでオカマが出てくると唖然とした顔になって「精神的な障害じゃないかしら」って言う。
でも俺は婆さんが好きだし、テレビの前でオカマを拒絶してたって
いきり立って説教なんかしないし直せとも言わないし婆さんに対する印象なんか代わらない。
むしろそこでいきりたつって人間のその憤り自体を俺は疑う。
それは本当にそいつの生活や切実な実存から出た怒りなのかな?
俺は絶対違うと思ってるけどね。
そこでの怒りは多分に演技的な怒りであって
その意見の開陳て言うのは、
子供が最近学校で習ったことを親が知らないのに気付いて得意気に自慢を始める心情であり、
普段にないぐらい攻撃的になるのは
そういうことを一度やってみるいい口実が出来たことに自分で興奮してるだけだろうが?
精神的に未熟な人間、つまりそこそこ歳の行った子供って言うのは
「正義の立場から倫理に劣る人を攻撃する」という高揚の誘惑に耐えられない。
劣悪な種のサヨクというのは未熟で幼稚なタイプの高校生ぐらいの人間性をよく体現している。
コンテンツの価値は内容にあり、その内容を作り出すには、金がかかる。
価値のあるコンテンツを自社製作したり、外注で下請けに製作させるという事は、コスト的に成立しない。
社命で従事するアマチュアや、はした金で作られるコンテンツに、訴求力は無い。
また、木戸商売である旧来のメディアビジネスの手法も、通用しない。
インターネット上での競争は、同時性だけでなく、過去に蓄積された全てのデータとの競争でもあり、クリエイターの実存以外に、本当の意味でのオリジナリティは存在し得ないのである。
コンテンツを作るのは、高価なPCでも高価なソフトウェアでもない。生身の人間であり、それらの道具を使いこなせる能力は無いよりはあったほうが良いが、それだけでコンテンツを作れるわけではないという事である。
[2010.9.24]
こんなのもあった
http://twitter.com/EmmanuelLevinas
というわけで、私は活動をやめませんし、「はてなから退会させられたからお前の負け」とか言ってるバカは何で勝ち負けを判断しているのか非常に疑問です。私は生きてるし無効化されたわけではないのに。
「斉藤のり子が実存に勝った!」「斉藤のり子の方がどうみても勝ち組」などと喜んでいる本人(とその取り巻き)は本当に頭が悪いんだなあと思うばかり。今どき勝ち組、負け組などと言っている方がアホだし、あんなバカが勝ち組なら別に負けでいいです。
私がはてなから退会させられることになったのはanigoka氏のおかげであり、斉藤のり子は全然関係ないので、私がいなくなってせいせいした人はanigoka氏に感謝してあげて下さい。
ではまた。
斉藤のり子とやらにどんだけこだわるんだこいつは。
アニゴカだろうが例の粘着増田だろうが実存を消してくれたことには感謝しておく。でも「ではまた」とは言わずに未来永劫wwwから消え去ってくれればいいのに。
http://d.hatena.ne.jp/hatayasan/20100822/p1#c1282941774
jituzonjituzon 2010/08/28 05:42 お前、私のことをウォッチして楽しんでたようだから、退会した理由を教えてあげるよ。
id:anigoka氏が私を侮辱・名誉毀損ではてな運営にコメントの削除申立をする
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16日にその旨メールがくる(一週間以内に削除または削除しない合理的な理由を書かないと一週間経った時点でサービス停止の後アカウント削除します)
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以前適用されていた合理的な理由を返信
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一週間以上経っても連絡もサービス停止もなかったのに27日夜に「すみませんが様々な事例により昔とルールが変わりました。一週間猶予の後アカウント削除しますのでログ保存やアウトポートをお願いします」とメールがくる
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なぜか、あの粘着ストーカー増田を書き、私専用の誹謗中傷wikiまで作った斉藤のり子=dropdb=webkitが「自分が追い込んだんだ、勝った!」と勘違いしてTwitterで大歓喜
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斉藤のり子は関係ないのになんだこいつ
という流れ。
はてな運営が私のアカウント削除を決めた理由は2005年にphaたちの本名をダイアリに書いてプライバシーを侵害したことがあるから。
5年前のことまで遡る運営はある意味すごいと思った。
まあ勘違いして喜んでる奴は私が生きてて活動可能なことをわかってないバカなんだろうなと思う。
そのうち正式なアナウンスがあるからそれ読め。
訊いてもいないのに威圧的&上から目線&長文&全く関係ない内容で自己弁護&罵倒を行う実存先生マジパねえっす。まあ死のうが生きてようが実存がはてなから消えてくれてよかったよ。