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2023-11-02

歴史は繰り返す貧困実存貧困自由積極的自由

以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。

「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn

批判の内容としては、「貧困って言葉金銭的な貧困から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバ風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。

消極的自由積極的自由

歴史は繰り返すとしたのは、過去自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。

現代においては、自由消極的自由積極的自由区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。

消極的自由とは

国家権力干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命経済活動自由などが該当する。

積極的自由とは

自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護アファーマティブアクション障害のために社会参画できない者のための各種施策自由の実現の範疇に入る。

消極的自由積極的自由歴史

元来自由liberal)というのは消極的自由意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。

何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。

これは消極的自由重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動反自由主義者)」などと攻撃した。

そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるもの自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。

自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち消極的自由主義者)の言葉自由)を奪った」と表現している。

現代において

現代では消極的自由積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエク危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。

そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアンリバタリアンハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。

貧困実存貧困も同じ歴史をたどるのであろうか。

そうなった場合現在的な意味での貧困経済的貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。

余談

こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。

であれば風俗借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。

2023-08-24

anond:20230820132132

まずは積極的自由主義政府のいろんな働きかけで多数の人間自由に動けるようにする)と、消極的自由主義政府が何もしないことで自由にする。しかし、自由になれるのは強者だけ)の対立から理解したほうがいいよな。

翻っては積極的自由主義ケインズ主義となり、消極的自由主義経済新自由主義となる。

2023-07-13

自由には積極的自由消極的自由がある

積極的自由とは

弱みに付け込み他の積極的自由で得られた思想押し売りをして選ぶのは自由からという無責任自由

依存性のある物を押し売りした場合はどうだ?

消極的自由とは

基本的には思想自分の中だけで完結させる

しかし聞かれたら答え、思想を共有し今ある自由についても常に懐疑的姿勢

リベラル消極的自由だけだと言いたい

なぜなら答えを出すことに内省が伴うし、個人の中で熟成された思想のぶつかりあいから

2023-04-19

anond:20230419110600

消極的自由主義と、積極的自由主義勉強したほうが良いよ。

消極的自由主義は本当に政府が何もしないという考え。だけども、むしろ政府以外の権力者金持ち肥大して弱者をないがしろにする状況になる。

積極的自由主義政府が関与して、結果的に多くの人が自由になる状態政府以外の権力者金持ちにとっては自由が失われた状態

この2つの間でせめぎ合い続けるんだろうね。なお、経済思想で言うと消極的自由主義新自由主義積極的自由主義としてマルクス主義もあるだろうけど、ケインズ主義もそうだろう。

2023-01-05

anond:20230104195325

積極的自由を確保しようとすればするほど、消極的自由は消えていく。

……までは、リベラリズム認識した上で、容認してたと思う。

でも、「リベラリスト消極的自由を消すために怒りと共に行動し始める=抑圧者になる」ということまでは想定していなかった。 

20世紀学問ありがちな感情を無いものとして扱っていた形だよね。

ホモエコノミストならぬ、理性的で寛容さを失わないホモリベラリスト、みたいなもんが想定されてた。 

 

それは端的に間違いだったと俺は思うんだよね。

公正の定義は、難しいのではなく、不可能なんだろう。感情を扱えないから。

そもそも元祖ポストモダニズムが(応用ポストモダニズムではなく)、一回不可能と断じたことなんだ公正の定義

2023-01-04

anond:20230104180311

近代リベラリズムから消極的自由積極的自由が論じられてるよね。

選択の自由というコアな部分が消極的自由だけど、資産など諸条件の不平等のせいでうまく機能しないから、公正な再分配などにより個々人の選択の自由を拡大するのが積極的自由マイノリティ参政の促進とか。ただ、何が公正かというのが難しくて何百年も揉めてるという雑感があった。全部既得権益だと言い出す議論は、あってもいいとは思うけど、きちんとした議論にならないと思うんだよね。

2022-10-21

憲法政府を縛るだけのものではない

正確に議論しよう。

かに近代的な意味での憲法は、政府を縛る、すなわち「消極的自由」に主眼が置かれていた。

ただし、現代では「積極的自由」も人権に含まれものとして憲法規定されており(社会権)、これは政府を縛るものとは解されていない。

また、統治だけでなく、納税教育勤労の義務についても国を縛ってはいないだろう。

結論としては、

憲法構成要素の大きな一つとして、国を縛る部分がある」

が正解だ

慶應大屋センセイが昔この辺を論じている

HPが閲覧できない状態なので別のとこから

https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/20120503/p4

2022-10-16

anond:20221016142809

ナショナリズム定義がよくわからんからナショナリズムと、個人権利との対応がわけわからんことになってるぞ。

ホッブスの「万人の万人に対する戦い」と消極的自由と、積極的自由の話ぐらい踏まえてるよな。

個人自由をフルで認めると権利同士の衝突となるから共同体に一部権利を預けて衝突を回避する。共同体のことをナショナル= 国 全体 または 国家 に属するとするならそれもよかろう。

君の言う左派ののナショナルな団結と、右派ナショナリズムを前提としてその権利を認めるという話の違いはないように見えるがな。

その上で、「「縛りや邪魔がない」という自由」を指向する消極的自由主義と「「自分意志で好き勝手にできる」という自由」を指向する積極的自由主義のどちらを取るかだ。

消極的自由主義金持ちが好き勝手できるということで強者寄りで右翼とも言えるが、もはや右翼左翼なんて対立校は邪魔なだけだ。

2022-09-09

anond:20220908185524

これ去年も見た増田anond:20210505162132)じゃん。でも丸コピかと思ったら結論部分変えてんのね。変わった結論には賛成。俺も「女を男並みに自由だけど粗末に扱う」方向で行くのがいいと思う。これは去年レスした通り(anond:20210505191016)。

その上で、重箱の隅として。

フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別問題視されづらいのです。

これはまったくフェミニスト側の言い分が正しい。国や社会個人に過剰な口出しをするのは控えるべきで、可能性を狭める方向の「保護」や介入は言語道断だ。

からコロナ禍で女性自殺率が上がったと騒がれていても、なお男性の方が多く自殺しているのだから女性自殺率の上昇は国や社会として気にすべきではない(男女平等に向かっているだけ)ということになるはずなんだけど、なぜかフェミニストはこれに騒ぎ立てたんだよな。あいつらわけわからん

(男女問わない包括的自殺防止プログラムはあってよいという意見もあるかもしれないけど、著名人自殺報道に関してWHOガイドラインとやらを振りかざして表現規制しようとしてくる連中が大勢湧いてくる現状ではどう考えても過剰な自由の統制にしかならないので反対。経済好転とか、闇金の取り締まりとか、学校教員を増員して各学級に副担任を必ず配置するとか、学級を固定せず流動的にすることでスクールカーストの発生を抑止するとか、そういう間接的に自殺を減らす方向での対策を行うべきだ)

しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります

個人が何を警戒するかはそれこそ自由なので、男を警戒する女がいてもよい。もちろん、それに対してこちらが配慮する必要もないので、男は堂々と夜道を歩けばよい、というのが俺の結論

俺は夜道で前を歩くのが男か女かで対応を変えたりしない。向かっている方向が同じならそのまま後ろをついて歩くし、歩くの遅いなと思ったら追い越すし、目の前でエレベータが閉まりそうになっていたら「待ってください」と声をかけて同乗しようとする。これらはすべて前を歩くのが男なら当たり前のことなのだから、女に対しても同様の対応をするだけだ。

そこで女側の言い分を聞いて「怖がらせてしまうと申し訳ないな」などと思うのがアホらしいと思う。何を怖がるかは個人勝手だが、普通に歩いていただけで怖がられたとしても怖がられた側に一切の倫理的責任はない。「私は青いシャツを着ている人が怖いんです」という弱者がお前の街にいたら配慮するのか? バカバカしい。そんな感情は怖がる側の責任でどうにかしろ、以外の言葉がない。

なので、

私の主観的意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っている思想なので、保護よりも自由安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています

という結論には大賛成だ。俺は男女平等を強く信じている。女は男並みに扱われるべきだ。一人前の人間に対する過剰な保護は要らない。もっと自由平等社会にしていこう。

2022-09-08

男性が受ける差別とは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです

男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。

男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります

同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。

から世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています

それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています

保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。

家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。

それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴無視される差別として働いています



若者が遭遇しやす実例として、バイトサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。

男性は帰り道の安全心配されることは少ないです。

これは、男性の方が不安心配事が少なく、お節介干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます

しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります

実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。

でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分不安や恐怖に気づけなくなります

しばしば指摘される中高年男性自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分苦痛不安認識する能力社会破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。



他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます

たとえばトイレ

男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキング海釣り森林浴を想定してください)

不安羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまます

たとえば「男の人がいれば安心だね」という言葉

この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります

一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性感情最初から考慮されていない。

このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります

そうならなければまともに社会生活ができませんから

夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。

最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性区別することは本人にすら困難です。

この論法は「たとえ当事者男性差別否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。

ネットでは、男性セルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性セルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。

セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人セルフケア能力を育て直すため、社会反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。

しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています

男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。



男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。

ホルモン文化的影響による男性の特徴は色々あります

腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力共感能力の低さ、など。

しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。

統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります

そして、フェミニズム弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。

性犯罪男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズム弱者男性論は真っ向から対立しています

統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います

もっとも「社会運営するにはマクロ視点統計的差別必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。



今までも男性差別については、男性加害者として認められやす被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨セクハラ暴力事件がほとんどです。

それも由々しき問題ですが、男性差別根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。

特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います

フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別問題視されづらいのです。

女子供は弱いか保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。



この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係恋愛経済ジェンダーロール面の困難や、弱者男性存在自体不条理否定される、などの論点対立しません。

警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係恋愛関係ハードルを上げます

経済的貧しさについては、一般的貧困問題に加えて、男性公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります

男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。

弱者男性自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。



また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。

現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。

少なくとも私は、男の乳首露出NGしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人ちんちんポロリシーンやハゲネタダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。

男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性女性くらいに保護する方向と、女性男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。

細かな調整が必要問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。



あくまで私の主観的意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています

人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性ケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります

エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!



追記

母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。

男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因がありますanond:20220909191646)』

2022-08-20

anond:20220820214337

消極的自由主義夜警国家的な規制・制約の排除を重視する思想だというのはその通りだが、積極的自由主義というのはポリコレアファーマティブアクションといった行為思想帰結するような個々人が自由でいられるよう平等担保することを重視する思想だった気が

anond:20220820172909

そもそも消極的自由主義(縛りや邪魔がない)積極的自由主義自分意志で好き勝手にできる)とがあるので。

消極的自由主義だと、政府無しで権力がある金持ちが強い社会になるんだよ。失敗社会

自由主義といった場合どちらの自由主義かをまず考えないとならない。また積極的自由主義は人と人との権利の調整の重ねゆえに実現できるもの税制財政金融含めてな。

2022-07-06

表現の自由をめぐる問題についてさすがにアップデートしようぜ

元々、表現の自由といったらナチスドイツSSソ連KGBがやったみたいに国家から弾圧されるものだった。だから表現の自由一般的消極的自由に分類されてそれに基づいて立法議論がなされてきた。

でも今は状況が変わりすぎた。

今も上記のような古典的表現の自由侵害はあるし、起こりうる。でも、今の民主的と言われる国々ではこれらよりも強力な私人による表現の自由規制の方が遥かに危険性として高い。

例えばクレジットカード会社が決済を拒否すれば、インターネット上のプラットフォームは立ちいかなくなるし、GAFAを敵に回したら対抗出来る人などいないだろう(国レベルでもかなり厳しい)。

現にトランプは元アメリカ大統領大富豪という圧倒的強者だが、GAFATwitterから締め出された結果ほとんど表舞台に現れることができなくなってる。

こういう私人間での規制のやり合いが激しくなってきてる現状で国家から規制にばかり怯えて、それしか議論しないのはさすがに視野が狭すぎる。

特定強者大企業自由表現規制するのも経済活動自由だと言って認めるならそれも1つの立場だろうけど、表現の自由国家侵害するものだと盲信して国家関係しないところで特定強者大企業表現規制をおこなってること自体を認めないのは現在世界分析としてあまり稚拙すぎる。世界恐慌直後に闇雲に自由主義を盲信して何も対策をしなかった政治家経済学者の二の舞になるぞ

正直俺は表現の自由は既に消極的自由の枠を超えて積極的自由の枠にも入りつつあると思ってる。俺はこれに対してどうやって対策すればいいのか、そもそも対策するべきなのかは分からないけど戦前日本憲兵を使って取り締まるみたいな古典的表現の自由を考えるだけの時代はもう確実に終わった。

これについて、哲学でも憲法学でもなんでもいいからこの手の問題に触れてる書籍とかがあったら読んでみたいから何か知ってたら教えてほしい。

2022-07-02

anond:20220702140822

libertarianもliberalもbなのでヴにはならない

libertyは解放、とくに~から解放(消極的自由)を社会的に実現していこうという発想だ

~する自由であるfreedom(積極的自由)とは異なるし

リバタリアンと言われる学者たちは別に自由放任主義者ではない、独裁的な人間が好む個人裁量による(時に不透明な)制裁ではなく計算しつくされたルールによる規制重要性を説く人々だということからも分かるだろう

リバタリアニズム自由放任主義というのは、愚かと見做した他人を抑圧・攻撃することでコミュニティ粛清していく思想を抱えた人々による悪意的なレッテルの側面が強い

2022-05-17

anond:20220517065436

サバイバー等の自傷行為の救済(パターナリスティック人権制約)も項目に入っている以上、この自由意志というのは単に強制されないということのみならず積極的自由意志のことであるのは自明

衝突しない

お前の方が頭が悪いから謝罪案件

2022-01-25

anond:20220125162754

いわゆる自由主義者(オールリベラリスト)って今の自由主義者と対極だよね。

ハイエク「集産主義者は、自らのイメージが悪いことを気にして『積極的自由』なる概念をもって自由と言う言葉を奪った」

2021-11-09

anond:20211108173654

不快表現に接しない自由”ってすごい言葉だよね。

以前「積極的自由」と「消極的自由」の違いを説明する増田anond:20191016163058)があったけど、思い切り他者消極的自由侵害する主張っていうか。

まあ、

とか、色々と応用の余地がありそうで激ヤバですわ。

2021-11-01

anond:20211101142920

リバタリアンの祖の1人、ハイエク(本人は古典的自由主義者を名乗ってた)は、

「集産主義者(=共産主義者ファシスト・今の左派リベラル)たちが、自らのイメージが悪いことを嫌って『積極的自由』なる概念をもって『リベラル』という言葉を盗んだ」

って表現してるよね。

2021-07-28

anond:20210704211123

左翼本流はもともとマルクス主義だったが、マルクス主義崩壊した。

おバカちゃんマルクスソ連中共をみたらブチ切れするよ。連中は、ステップを省略したから。ボリシェビキが勝ったけど、ボリシェヴィキ語源は「多数派から来ているけど、「少数のエリートが多数を率いる」なんて連中が「左派本流」ではありません。だって少数派が、主流なわけ無いじゃん。歴史勉強不足だよ。

から政府機関私企業社長を制約する。結果的自由になる状態を目指す積極的自由主義はそのようにして多数の人間自由を狙う。

ジャック・マーかよ。同じことをザッカーバーグリブラでしようとしても、公聴会いじめられるぐらいで、逮捕監禁までしてない新自由主義のが、良いと思うがね。

右翼本流はもともとケインズ主義だったが、1970年代オイルショック外貨借金による輸入困難など、単純な財政税制では通じないインフレが起きた。だから消極的自由主義新自由主義に転じた。

ダウトネオコン新自由主義の差は「大かな政府」を目指すか否かだ。日本においても右翼本流は、つまり保守は、大きな政府を良しとしているから別物ですよ。

これらを踏まえて、どのような制約が、結果的自由になる状態をなせるかは考え続ける必要がある。ケインズ主義ベースで、資源確保や産業育成と産業の段階の科学振興を視野にいれることが解だと思うけどね。

ばーか。もうこの国に「確実に投資して儲かる公共投資」なんてないよ。例えば黒部ダムみたいな、明らかに入力に対して、リターンが見込める公共投資先なんてないかFIT のように「再エネ賦課金」という犠牲国民が払わないといけないじゃないか。かんたんに「資源確保」なんて言うけど、投資先が履行をするとは限らないじゃないか民族自決をたてに反故されることばっかじゃないか

2021-07-04

anond:20210704000633

権力者というのは政府機関金持ち私企業社長。そのうえで政府機関がどのような法律を決めてどのような行動をするかということ。

消極的自由主義は、政府機関の関与をなくすということだが、その下では私企業社長が強くなる。

から政府機関私企業社長を制約する。結果的自由になる状態を目指す積極的自由主義はそのようにして多数の人間自由を狙う。

そのうえで、政府機関がどのような成約をすれば結果的自由になるかということ。例えば税金法律財政政策な。

左翼本流はもともとマルクス主義だったが、マルクス主義崩壊した。

その上で経済に解を持たないから、経済明後日の方向ばかり見るようになって多数の国民貧困に落ちることとなった。

右翼本流はもともとケインズ主義だったが、1970年代オイルショック外貨借金による輸入困難など、単純な財政税制では通じないインフレが起きた。だから消極的自由主義新自由主義に転じた。

しかし、一度大規模経済危機を迎えたら永久不景気を続けるし、設備研究投資もしなくするし、儲かる前の科学も近視眼的な視点破壊して、むしろ経済衰退につながっているのが今。

これらを踏まえて、どのような制約が、結果的自由になる状態をなせるかは考え続ける必要がある。ケインズ主義ベースで、資源確保や産業育成と産業の段階の科学振興を視野にいれることが解だと思うけどね。

2021-07-03

anond:20210703222022

リベラル自由主義って、消極的自由主義(本当に政府が何もしないほうがよい)と、積極的自由主義結果的自由になるために政府が関与する)が分かれるから、それまた何も言っていないのと同じ。

消極的自由主義は、「金を持ってるやつが強い。カネがないやつは弱く、自由がない」だからな。

結果的にどんな状態が良いか。そのために何を自由放任にして、何を政府が制約するほうが良いというのを考えていかんとならん。

リベラルという考えも実態改善に役に立たない。

2021-06-08

anond:20210608102754

積極的自由を求めるものとそうでないもの基準がはっきりしてればいいんですけどね

女が得するか損するかとか

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