はてなキーワード: 大塚英志とは
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった)
http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220
それにしても、と僕は思う。
日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。
(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀)
東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。
中略
ゼロ年代のアニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志や斎藤環や東浩紀やその取り巻きはアニメ作画を完全に無視したし、作画オタクも東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブ系アニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。
本当になんでだろうね。
作画系に強い氷川竜介ですら、作画マニア的な"紹介"に留めて批評の域には持って行こうとしない節がある。「20年目のザンボット3」でも、金田伊功だけで1章割いてかなり詳細にデータやら作画の個性やら文章を連ねても結局は「金田作画、たまんねえ」で終わる内容だったりする。それはそれで悪いことでは決して無いけど。
小黒祐一郎は?小黒は編集者であって評論家ではない、しかしアニメ制作者にその辺を積極的に語らせようとはしている。
旧アニメスタイル第1号のロングインタビュー「庵野秀明のアニメスタイル」はその結集だ。
アニメと作画の密集した関係性をあそこまで徹底的に語った記事は未だかつて存在しなかったしこれからも無いと思う。間違いなく論の域に達していた。
語ったのは庵野秀明本人だが、ここまで語らせたのは小黒祐一郎の手腕によるものだろう。これが竹熊健太郎とかその辺だったら絶対に聞き出せなかったと言い切ってもいい。
それでなくとも旧アニメスタイル1号、2号はアニメと作画の関係性をがっつり語ってみようぜ!!というエネルギーに満ちあふれていた本だった(アプローチには異論反論ある人もいるだろうけど)。
これは当時作画オタが絶滅しかかってた事を危惧して・・・というよりも、「昔みたいな作画おたくもいなくなっちゃったし、そろそろここらで語ってみるか!」みたいなノリだった、という気がするんだけど・・・。
今は当時より作画オタ(というかニワカ含めて俺も作画をかじってみたいよ的な奴)が増えた状況なので、リニューアル後のアニメスタイルは作画オタ啓蒙寄りな本になっちゃったと思うな。
なんつーか。作画オタなんて下らねえ→したがって作画を論じる事も下らねえ→作画語りは作画オタだけでやってろ、その辺で「たまんね」ってホザいてろカス。
という空気は形成されつつあると思う。
関連記事
http://anond.hatelabo.jp/20120302003939
元の語源では確かに、漫画やアニメはsubcultureだったけど、
それって何十年も前の用法なんだ。
というかどんな趣味を持っててもsubculture、”社会の外れ者”ってほどの扱いではなくなったよね今って。
かつてはもっともっと、mainでない趣味を持つ人間は自動的に強烈に被差別民だったけど。
じゃあ現代に「サブカル」を自称してるのはどんな人達かって言うと、
「自らの自意識の為に社会からの疎外を必要とする人」になった。
別の言い方するなら「パンクロック」っていうか(これは”時代遅れ”って意味も兼ねてる)。
で本題、
ということだけど、
ここは君が友達に趣味を合わせる上で大事なとこだからよく思い出して欲しい。
もし後者なら、
なんか読む必要は全くない。
だけどもし前者、
友達たちが「サブカル」を自称するサブカルごっこにはまってるなら
彼等と話や趣味を合わせる上で、
つまんないオッサンのクソつまんない評論読むのは必須課題になってくる。
「サブカル」は前述の通り、人と違うことや苦しいことを敢行するの自体もアイデンティティなので
面白くない評論家の話を読み込んだり、面白くないクソ作品ばっかり見たりするのは重要な課業。
もっと詳しく紹介すれば、
昨今それなりの「サブカル者」を自負する人はアニメよりも映画を見てるよ。
現代はアニメ・漫画より映画のほうが圧倒的にクソ作品が多いので。
「とても面白かった」と言い張ったり、
クソだとわかってる邦画をわざわざ見に行っては、
「こんなにクソだった!でも見ちゃった!」って自慢しあったりする。
そんなもん絶対に「サブカル」だとは認めないし、
むしろ彼らはアニメオタクに対しては一般人以上の憎悪と蔑視を持ってる。
要するに元増田はまず
そこを自分の中で明確にすべき。
どーなの?なんか東浩紀とか大塚英志とかの評論とか読んでみたりとかさ、セカイ系が~とかそういうのは読んでみたつもりなんだけど未だに全然わかんないんだよね。
単純に疑問。なんでわざわざ漫画とかアニメなの?長澤まさみのほうがいいじゃん。吉高由里子は駄目なの?周りでそういうサブカル趣味みたいのが増えてきてさ、自分も誘われたりすることが多くなってげーむとかやってみるんだけど全然別に面白いと思わないんだよね。
アニメとかゲームとか漫画とか、サブカルである必然性って要するにあるのかなって。そういう話で行くと上で書いた評論の類も怪しいと思っちゃうんだよね。ほんとにキャラクターをデータベースに照らして消費したりしてんの??全然わかんない。
気悪くしたりされたらごめんなさい。でも単純に疑問におもうことが多かったので。むしろ楽しんでる人はその楽しみ方の作法というか何が面白いのか教えてくれたら嬉しい。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
整頓はそのうち。
腐女子関係はもうちょっとかかりそうなのでとりあえずアニメ、漫画オタク全体の話。
以下いろいろ分かったら徐々に書き足す。
『「おたく」の精神史ー一九八〇年代論ー』大塚英志 講談社 2004
『異文化とコミュニケーションーオタク国家・日本の危機ー』島田裕巳ほか 日本評論社 1991
『天使の王国ー「おたく」の倫理のためにー』浅羽通明 JICC出版局 1991
『たけくまメモ』 http://takekuma.cocolog-nifty.com/
『やおい少女の来し方行く末』 http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/Socio/lab/sotsuron/98/yamane/
ビーダーマイヤー朝
創
コミケの隆盛の話
受けが男である必要性
はてなで活躍してる3人
有村悠(ありむらゆう)98年度入会
入会当初はお茶会期待の星であったが、8年経った今ではニート・非モテ・メンヘルと3拍子揃った白色矮星と化した。人生を矯正するためにインドへ送り込む計画が有志によって進められているが、ヘタレなので逃げ回っている。一応、文才・画才両方兼ね備えた器用な人ではあるのだけど。かつては純文学と日本SFが守備範囲だったが、現在は無軌道にラノベを買い漁って読み漁り、会員に罵倒されている。まるで滝本竜彦の小説の主人公、あるいは滝本竜彦本人(ただし昔の)のようなダメ人間。
夏葉薫(なつばかおる)99年度入会
当会に数年ぶりに現れたまともなSF読み。山田正紀とかエリスンとか、SFファンとしては正統的な趣味をしているのにもかかわらず、口走る言葉がエログロばかりなのは一体どうしてなのか? セックス&バイオレンス主義を貫く一方、S─neryとか大塚英志とか白倉由美とかに対して屈折した愛情を抱き、「俺は桑島法子だ」と常日頃から公言している変態。むしろ中身より外見が桑島法子だったら良かったのに。白倉由美を大塚英志と離婚させるために大塚英志を寝取る計画を立案中。
転叫院豊(てんきょういんゆたか)98年度入会
第十七代編集長。ときどき電波でも食らったように、現代思想のあやしい用語を用いてアニメやらノベルゲームやらSFやらを語り始めるが、結構マジメな人なので訊けば丁寧に説明してくれるはず。小説では筒井康隆が好きらしく、ときに「脱走してやるぞ!」とか叫ぶ。好きな思想家は海外ではスラヴォイ・ジジェク。東浩紀のファンであるようだが、ミーハーとかサブカルとか呼ばれたくはないらしい。鬱キャラの次の時代は統合失調キャラだと信じている。
夏葉の方が有村より若いのか。意外。
ブクマに
どんどん語って文字にせよ
とあったので、↓これの続き(補足)を。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
1. <「ネクラ」「マニア」「おたく」「オタク」的な人>の定義とその変遷
こんな感じでどうでしょうか。
異論反論もあるでしょうが、まずはちょっとアイデンティティ(Identity)についてお話させてくださいな。
自分は、アイデンティティーには2つの種類があると考えています。
ひとつは「能動的アイデンティティー」。もうひとつは「受動的アイデンティティー」です。
「能動的アイデンティティー」は、自らが<何か>に属していると自発的に感じるアイデンティティーです。
アメリカに長期滞在し味噌汁が飲みたくなった時に「あ、俺も日本人なんだな」と感じる。
これが能動的アイデンティティー。
「受動的アイデンティティー」は、他人が自分に対しカテゴライズする/タグをつけることにより意識されるアイデンティティーです。
道を歩いていて「hey jap!」と侮蔑されたときに感じる「あ、自分は日本人なんだな」と感じたときのアイデンティティーです。
ここで注意しなければいけないのは、一般的には能動的アイデンティティーは<想像されたもの>でしかないということです。
ブイヨンスープを飲みたくなればフランス人なのかというわけではないし、「就職は結婚、同僚は家族みたいなもの」と口で言いつつも、
「会社人間」という自己言及がフィクショナルな物だというのを多くの人は理解できると思います。
ふぅ、ここでやっと「おたく」の話。
本来、「おたく」という言葉で表現されるような人々は「呼ばれる」ことで
受動的にアイデンティファイされてきたわけです。
こんな感じで
・「あー、君の事もっとネクラな人かと思っていたよ」(「暗い奴」という蔑視)
・「すごく詳しいね。○○マニアだね」(「詳しい人」という尊敬・排除)
・「それっておたくが読むものだよね?」(イミフなものは全部「おたく」と呼んで排除)
・外で遊ばないで家でなんかやってる人→ネクラ
・コンパとかマスが認めるカルチャーに興味がなくて、漫画とか変な本とか読んでる人→おたく
なので、「ネクラ」と言われると「そうかなぁ?」と疑問に思い、「マニア」と言われるとちょっと喜んで、
「おたく」と言われると意味がわからなくて「???」となるわけですよ。
(なぜこの「ネクラ」「マニア」「おたく」の中で「マニア」と呼ばれることだけが喜びにつながったのかと言うと、
「マニア」だけは特定ジャンルですごい人・コレクター・収集家の意味を持って使われていたからです)
んで、時は過ぎ去り例の事件後、岡田さんが「おたく」な人たちのことを「オタク」と言い換えて、流通に乗せたわけです。
(大塚英志氏などは、「おたく」から「オタク」に移行したときに宮崎勤的な「何か」が抜け落ちたと批判している)
(「おたく」から「オタク」と言い換えられたとき、マンガ・アニメ・ゲーム文化が「なぜか」中心となった)
それまでは「店頭に飾ってもらえるくらいにプラモデル作りがうまくなりたくて毎日プラ屋に通う少年」とか、
「マンガ絵が好きでファンロードに投稿する少女」とか「鉄道が大好きで教室でマイ路線の時刻表書いてる奴」とか、
「家にあるゲームをやりつくし、怪しげなソフト屋に通うマイコン少年」とかが一律「おたく」であったのに、
なぜかいつの間にか「美少女とかアニメ絵が多用されているマンガ・アニメ・ゲームを消費する人」が
「オタク」のメインであるかのような「幻想」が流通してしまったのが現在なのです。
我ながらなげぇと思うけど続き
自分史的には、ぬるとかガチとかって対立構造が存在した記憶がない。
そもそも「おたく」な人は
なわけだし、お金と環境(部屋の広さとか)と時間が許す限り(程度差はあれ)没頭するのが「普通」だったので。
マイノリティ同士だから基本互助的だし、濃い人つまり金持ちは単純にスゲェとしか思わなかった。
新参が来ても友達少ないから、むしろ逃げられないように大切に扱ったしw
(ヌル鉄とがガチ鉄なんていない。全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった。
金もつとプラ好き少年はジオラマ、マンガ絵少女は同人、鉄は全国旅行、マイコン少年は新機種と「相場」が決まっていた)
だいたい、自分たちのことを「おたく/オタク」とは思ってなかったしね。
受動的にアイデンティファイされただけだから、自分たちのことは
マンガ好き、軍事マニア(ミリタリー好き)、鉄道ファン(鉄)とか思ってた。
仲間内で受動的アイデンティティーの確認なんてもちろんやらない。
日本人が日本人に「あなたは日本人ですね」と言っても意味がないように、
ネトウヨが朝鮮系日本人のことを「チョン」と言うように、「外部」の人が「おたく/オタク」って言及してた。
一昔前は呼ばれてはじめて「ああ、おれって『おたく』って呼ばれる存在なんだなぁ」って気が付くもんだった。
仲間内で(濃淡じゃない)興味の「深い浅い」がヒエラルキー化したのって、たぶんネットの影響で「連帯」できるようになってからじゃないかなと思う。
「ぬるヲタ」とか「ガチヲタ」とかって、昔は問題になんかならなかったしね。
(まぁ、今ほど情報・作品があふれてなかったってのもあるけど)
(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)
(言及するために「発見」された?)
(周囲の雰囲気変わったなぁと思った時期は、「スレイヤーズ」「天地無用」「ときメモ」「サクラ大戦」
「エヴァ」「ブギーポップ」「ビバップ」「ハルヒ」らへん。倍倍ゲームで「オタク」が増えた印象)
自分としては、岡田さんが"Yes,we are niggers.What's wrong with that?","Black is beautiful "的な意味合いで
「オタクで何が悪いの?マンガ面白いでしょ?」って開き直ったという歴史を知らない若い子が増えたんだと理解してる。
それ自体はいい/悪いではないけど、意味もわからずファックミーTシャツを着ている人を見ちゃうような気まずさはあるよね。
を書こうと思ったけど、長すぎるから割愛。
リブロ-ABC-ビレバンに対する中野タコシェ-新宿模索舎的なカウンターを担っていたような気がする。
↓これに関して元おたくのおっさんより。
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
言いたい事はすべて
昨今のヤンキーとオタクが急接近であるとか、オタク系文化とクラブ系文化の融合だとかいう話は歴史の蓄積なき忘却のなせる錯覚なのである。
●●さん、大恥かいちゃったね。でも無知は罪じゃないよ。学習しないことと、知っていることを人に教えないことが罪なんだ。
と書かれているけど、ちょっとかいつまんで自分語り。
(名前消したのは、「歴史を知らない」ということの意味を一般化したかったから)
なもんで、人からは「ネクラ」と言われていた時期があった。
んで、ある時期からは「マニア」と言われ、例の事件後は「おたく」と言われることが多くなった。
ところが、例のエルメスな本の後は不思議と「普通の人」になってしまった。「おたく/オタク」とは誰も呼んでくれなくなったのだ。
(まぁ、自分がいわゆる「萌え」というものにまったく興味がなかったので、呼ばれるチャンスがなくなってしまったという理由もあるんだけど。)
振り返ってみると、こんなニュアンスで言われてたように思う。
・外で遊ばないで家でなんかやってる人→ネクラ
・コンパとかマスが認めるカルチャーに興味がなくて、漫画とか変な本とか読んでる人→おたく
使われ方
・「あー、君の事もっとネクラな人かと思っていたよ」
・「すごく詳しいね。○○マニアだね」
・「それっておたくが読むものだよね?」
呼ばれたことないけど、使ってるのを聞く感じだと
・「あの人オタクっぽい」
まぁ、以上の「オタ気質の呼ばれかたの歴史」を面白おかしく分析するのも可能なんだろうけど、
今日いいたいこととは別なので、「オタク」という言葉は変遷をたどった「魔法の言葉」なんだよという前提で
↓これに関して
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
みんなわかっているはずなんです、語り足りない、語られ足りないのです。私はもっともっとこのジャンルに対する言説が読みたいです。
「足りない」と知っている人はどうかバシバシ書いて、そして出来れば人の目が付くところに載せて下さい。少なくとも私は強烈に読みたいです。
まぁ、ご本人がこう書かれているのであえて毒を。
簡単に言ってしまえば、DENPA!!!を面白いと感じるのは「若さ」という
「不可避の理由」によりバカだから、しょうもないものをありがたがっているだけだと思う。
(「若さ」ってのは、「歴史」を「知れない」からこそ発生する性質。つまりバカであることを避けられない)
(「若さ」は、「生まれてからの日数が少ない」という意味ではない。「青い」と呼んでいた時代もあった)
というわけで
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TECHNORCHさんの大好きな
DENPA!!!というクラブイベント
は、<青年>が<鬼ごっこ>して「たのしー!!!超気持ちいい??!!」とか言ってるだけなんだよね。
そりゃ体動かすと楽しいし気持ちいいし、みんないると寂しくないよ。
でも、それをありがたがったり、高尚なものだと勘違いするのは止めといた方がいいよ。
DENPA!!!なんてクラブで踊ってわーわーきゃーきゃー言ってるだけのイベントなんだよ。
コスプレだとかオシャレとかガチとかぬるとかどうでも良くて、昔からあるただの"event"なんよ。
そう思っていたほうが、人生に失敗しないと思う。これは自分の体験から言えることなんだけど(タメイキ
んで、↓これ。
「はてな」周辺でよくある『動物化するポストモダン』の誤読なんだけど、
あの本って単に「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?
例えていうと、「王将は関西人のソウルフード」とか「二郎はもはや二郎という食べ物」とか
「マックまじでうまい」とか真顔で言っちゃう人が増えたねぇ、って書いてあるだけ。
いっけんかっこよく聞こえるし、「データベース」とか確かに新しい概念もあるから良書なんだけど、
「消費する側」が自己肯定に使っちゃうとアウアウだよ。
まぁ、言論な人に触ってもらえて嬉しい気持ちはわかるけど、ほどほどにねって。
以下は東氏に対して。
東氏は「保守論壇がネットを気にするから下らないと思って離れた」とかどっかで言ってたような気がするけど、
大人なんだから、発注されても「くだらない」ものはちゃんと「くだらない」と言わないと。
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その感想は「楽しすぎる!もう普通のクラブイベントなんて行けない!」なんだこの現象は、
私は回を増せば増すほどDENPA!!!という現象が面白くなってきました。
まぁ、クラブを楽しいと思えるような若い年齢の人が勘違いしちゃうのもしょうがないちゃしょうがないか。
「新しい何か」が生まれる時期には確かに「何か」がある/あったからね。
んでも、その「何か」つまり「萌芽」は、「余波」になっちゃうと、それは単に「消費の対象」でしかなくなる。
「数」が増えると「質」が変わるんだよ。「普通」になっちゃうの。
たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3
で裸になることは確かに意味はあるよ。
でも、「みんな」が実際にフェスティバル外(社会生活)ででも裸になっちゃったら、
それは単に「服を着るより裸の方が気持ちがいいから」でしょ?
んで、DENPA!!!の話に戻るけど、TECHNORCHさんらがやってることは「もはや」単に「クラブ」というありふれた場所で
「オタクっぽい」とすでに了解された格好で、「ビート」に乗せて乱痴気騒ぎしてるだけだよ。
まぁ、無理にでも意味を見出そうとすれば、いろんな解釈は可能なんだろうけどね。
(「言葉遊び」に関して、大塚英志氏とかは「シャレがマジになった」って後悔してたけどね)
(「ロフトプラスワンで鳥肌とか雨宮とかをヲチするのが楽しい」と友人に語ったところ、「変な人」と言われた。もう僕は「おたく」ではない)
ゼロ年代の想像力やPLANETSで最近になって惑星に興味を持ったけど旧サイトが見れないorいちいちURL直すのが面倒くさいという人のために。
旧惑星開発委員会は宇野常寛(善良な市民)さんが大学生のころ趣味で運営していたサイト(2002~2003年)です。
http://anond.hatelabo.jp/20071031195955
第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話第7話 第8話
第9話 第10話 第11話 第12話 第13話 番外編 ベンヤミン事件1 ベンヤミン事件2 ベンヤミン事件3
・善良な婦女子の不定期エッセイ
・月刊クロスレビュー
ガンダム 押井守 ガイナックス 宮崎駿 ジャパニメーション ジュニアノベル前編 ジュニアノベル後編 大月アニメ 角川マンガ 富野
・石原の野望
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/isihara.htm
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/saiban01.html
・亡国対談
・オタ向けアイドル小百科
ヤバいネタ満載ってんで評判の、葵せきな『生徒会の一存』読んだ。
自分で感想書く気力まで吸い取られるぐらいゲンナリ。
なんで以下は引用。
話は飛ぶけど、この10年ぐらいぼくは若い子の書くものに妙に伏せ字が多いのが気になっていた。同人誌とかファンレターの類とか「某」とか「××」といった言い回しが盛んに登場するのだ。伏せ字にされるのはまんが家の名前や企業名・商品名なのだけど彼らは固有の名詞をまるでそうしなくてはならないと思っている節さえある。
問題なのはそのタブーの「プチさ加減」で、しかも変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、このプチ・タブーを自作する側にある種の積極性を感じうるのだ。何かちまちました「禁忌」を必死でこらえているというか。
その共同体が一つの世界としてもっと閉じるために今やプチ禁忌を自作自演しているのではなかろうか。共同体って禁忌があって始めて成り立つものであり、そう考えると若い子の文章の伏せ字好きも、禁忌が存在すると信じることでプチ共同体を求めていたのか君たちは、と納得がいく。
以上、大塚英志の「プチプチプチ・・・プチ禁忌」(『戦後民主主義のリハビリテーション』)から
親会社同じところのレーベルまで伏せ字にしようとする――上に肝心のネタもヌルい――小説のどこがヤバイの?
「気がついた! どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかしら! アニキが気に入らないんだったら自分で作ればいいのよ!」
「何を」
とか
「こんちわー! コンプ編のみなさーん! 連載作家一式、いただきに来ましたー!」
ぐらいやってくれ
追記。
會川昇 浅羽通明 東浩紀 庵野秀明 石@森プロVS宝島問題 石@森プロVSマンガ夜話問題 伊集院光 エヴァ現象 大塚英志 大塚VS岡田問題 大月隆寛 大月アニメ 岡田斗司夫 落合信彦
加藤典洋 ギャルゲー 切通理作 桑島法子 呉智英 小林治 小林よしのり 小林よしのりVS宅八郎 小森まなみ 小谷野敦(つづき)
サイコ版権引き上げ騒動 齋藤環 桜井亜美 白倉由美 白倉VS桑島問題 セカイ系
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ブンガク 宮崎哲弥 宮崎駿 宮台真司 村上春樹 福田和也 藤岡信勝 安彦良和 SFである・ない論争 TVゲーム
ゲームの面白さにはいろいろあるけど、自分がもっとも重視している面白さは「動的に物語が生成される」ことではないかと思った。ゲームがどうやって動的に物語を生成してるのか、思いつくままに書いてみよう。
ここまで書いて思ったんだけど、自分が面白いと感じるのは「ゲームが動的に生成した物語」自体じゃなくて、「自分の頭の中で動的に物語が出来上がってくる過程」とか「先が決定されていない物語の登場人物になったような感覚」のような気がしてきた。